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Distraction

初出:2013/3/11

 実にあっけないものだった。ロキは小さな虫を殺めるようにためらいなく行く手を阻むものたちを排除し、碧い星の最後の望みは潰えた。この星の終わりを、そして新たな始まりを眺めるべく高い山の上に飛行艇を停めさせ、ロキは考えた。全てを手にしたあとに訪れるのはこのようなぼんやりとした空虚なのだろうか、と。
 それは勝利を予期してさえいなかったことを意味するのかもしれなかったが、ロキは考えないようにつとめた。この星は確かに空高くからは美しく見えたが、そこに住まう生き物たちはひどく矮小でそのくせ我の強い、つまらぬものに思えたので、興味がそそられないだけだ、と。だからロキは彼らを捨ておくことにした。そのつもりになれば、気まぐれに彼らを一人残らず消し去ることもできるだろうし、自分の目の前にひれ伏させることもできるだろう。ただ今は愉快な使い道が思いつかなかった。
 期待していたのはこのようなものではなく、もっと明快な、高揚感であったはずなのだが。ロキは知らずに下唇を噛んだ。そう、例えば……。そして思い出される記憶の数々がどれも思い出したくなどはない、屈辱によって塗りかえられた過去であったから、苛々と床を蹴るようにして立ち上がった。全てが金色に輝いていた日々、母の、兄の、髪の色。うつくしい都。まばゆい陽射し。その中で唯一闇を孕んで黒い、己の髪。いや、母などではなかった。兄などではなかった……
 ソー。直情型の愚かな男。今は昏睡させられて営倉の中にいる。ロキに使うつもりだったのだろう、手錠と口枷を自分自身にはめさせられて。ただしその手の届くところにはムジョルニアを置いたままだ。彼以外の人間には持ち上げられないのだからどうしようもない。
 ロキは眉をひそめた。反撃の芽は摘まなければならない。しかしどのようにして? そして自らの思いつきに気をよくした。ソーの心を奪ってしまえばいいのだ。手にした杖の青い石が鈍くあやしく発光している。
 ロキの虹彩を認識して、営倉の自動扉が開く。窓がなく電灯も消された部屋の中は暗く、床に転がされたソーの獣のような荒い息だけが聞こえた。目が慣れると、その青い瞳が激しい怒りで燃えているのも見えてきた。鎧は脱がされ、着ているものはみすぼらしいTシャツと薄っぺらなズボンだけ。
 なんだ、起きてしまったのか、つまらない。いや、どうだろう、本当は楽しんでいるのか? ロキは口を塞がれたソーが意味をなさぬ言葉を吐き、後ろ手に嵌められた手錠を外そうと無駄に足掻いているのを見て、言い知れぬ暗い悦びが湧き上がってくるのを感じた。

「ごきげんよう、兄上」

 このような姿のソーであれば、兄と呼ぶことができた。ロキの歌うような言葉に、ソーはよりいっそう激しく身悶えた。

「どんな気持ちかな、日頃見下していた私の前で無様な姿を晒すのは」

 ソーが必死に言葉を紡ごうとしているのを、にやにやと見下ろす。そうだ、自分が待っていたのはこの瞬間だ。それ以外のなにものでもない。全てを奪われた兄を高みから眺める、それだけ。
 暴れるソーを押さえつけるように足を彼の胸にのせる。ブーツの底を押し付け、床に縫い止めるようにした。強靭な肉体は全ての力を振り絞って抵抗したが、心臓のあたりに鋭い杖の切っ先が押し当てられると、すっと力が抜けたのがわかった。
 それでもこちらを睨みつける瞳の強さは変わらない。塞がれた口から獣が唸るような声が聞こえてきた。ロキは、一瞬気圧されそうになった自分をひどく忌々しく思った。

「そうだ、ソーの愛したあの女」

 ぴくりと足の下の身体が震える。愛した、とロキは言ったのだ。

「死んだよ」

 この上なくうつくしい笑顔を作って告げてやる。昔覚えた、誇り高く、花開くように麗しい、第二王子としての笑顔。ロキの楽しげな言葉にソーの瞳が大きく見開かれ、そこに浮かんでいた強いもの、力あるものは全て消え去ったように見えた。そして残るのは、空虚だけだ。同時にロキは杖を握った手に意思を込めた。元々青いソーの瞳が、さらに人工的な宝飾品のような光を帯びる。
 ロキはジェーンを殺してはいなかった。元より死すべき運命にある女のことなど、ほんとうに、どうでも、よかった。
 虚ろな表情をしたソーが、ぼんやりとこちらを見上げるのを見て、ロキは微笑んだ。常に自分よりも高いところにいた兄が、ようやくこの手のうちに落ちてきたのだ。「落ちてきた」……そのことの惨めさにまだ気が付かないロキは満足だった。彼の身体を抱き起こし、手錠を外してやりながら、耳に囁いた。それはかつて寝物語をねだったように甘えた声だった。

 「さあ兄上、私にひざまずいて」

 この青い石は、人々の中にある邪悪な欲望を増幅させるのだという。まるで自らの意思で行動してでもいるかのように思わせながら。
 営倉の中、硬いマットレスに腰掛けてロキは考えた。兄の心の中にある邪悪な欲望とはなんだろう。よく躾けられた獣のように、ソーは床に跪き、ロキの手を愛撫している。その手でもってロキはソーの髪を撫でた。やわらかな髪。戦士であるのに、いくら身体が血や泥に塗れても、彼の髪はいつも風に揺れては辺りに美しい光を振りまいた。ロキは彼のその髪がとても好きで、どうしようもなく嫌いだった。

 「ねぇ兄上、何をしてみたい?」

 戯れに尋ねてみる。ロキにはソーの心の中にある邪悪な欲望なるものが想像できなかった。それは彼の純真さを信じているためというよりは、戦いと美食にしか興味がないように見えた兄を馬鹿にしてだったが。
 ソーは答えずにロキの手の平に頭を擦り付けた。思わずくすくすと笑みが零れる。

 「こうしていると兄上はかわいいな、とてもかわいい」

 もごもごと、ソーが何か言ったようだった。先ほどの問いへの答えだろうか。それとも、かわいいと言われたことへの不平? いずれにせよロキに聞く気はなかったのだけれど。
 ソーが己にひれ伏し、眼前に大きくそびえていた壁が全て取り払われてなお、やはりロキが感じたのは淡い虚しさだった。何をしてみたい? という問いはロキ自身に返ってくることとなった。敢えてその問いに答えるならば、兄をもっと辱めたいと感じた。もっと。もっと。
 ロキは小さく舌を出し、唇を舐めた。王と認めた、認めさせられたロキの手に触れられ、うっとりとしているソーの顔は、大の男のものであるのに妙に愛らしく、扇情的にも思えた。
 ロキの長い脚が、床についたソーの両膝の間に割って入った。それはとても優雅な所作だった。布と内腿が擦れる感触に、ソーが驚いたようにロキを見上げた。その顔に微笑みかけながら、ブーツを履いたままの足で、彼の股間を押さえる。軽く力を加えるとやわらかな感触が伝わった。ソーの瞳に少しだけ恐怖の色が浮かんだ。

 「ほら兄上、両足を開いて」

 ためらいとかすかな恐怖を顔に浮かべたまま、ソーは腰をあげて体勢を変えた。後ろ手に尻をつき、膝を立てて足を開く。少しの恥じらいも感じさせない乱雑な動きはとても彼らしいとロキは思った。これから起こることをちっとも想像していないのだ。
 薄い唇に笑みを含ませながら、ロキはソーの股間にあてていた自身の足をゆるゆると上下に動かし始めた。やわらかく萎えた状態のものを、布越しに触れるか触れないかの距離で、ゆっくりと擦る。ソーが困ったように眉をひそめた。上下動を繰り返すあいだ、触れさせる部分を変えたりもする。より皮膚の感触に近い甲の部分をあてて、陰茎の形状をなぞりあげたり。少し勃ちあがりはじめたその先端に堅い靴裏の部分をぐりぐりと押し付けたり。ソーの顔がやがて赤らみ、抗議するような声がしきりに漏れ聞こえる。怒りと困惑と快感を等しく訴える声音だ。それは怒りから薄くなってゆき、最後には快感だけが残った。今はもう荒い鼻息と、時折聞こえる低く小さな呻き声だけ。ほんとうに嫌ならば後ろについた手を上げ、ロキの足首を掴めばいいのだから、ソーの抵抗は自分の矜持を満たすための形だけのものだった。それを知っていたから、ロキは終始微笑んでいた。愚かで傲慢な兄上。あなたは何も変わっていない。
 爪先で何度も何度も睾丸を押し上げては、先端までなぞりあげ、ブーツの革が粘液で濡れて光っているのをソーに見せつけた。彼は眉をひそめて顔をそむけた。ロキの背筋にぞくぞくと痺れが走った。薄い下衣の布はソーが漏らした粘液ですっかり透けて肌に張り付き、勃起しきった陰茎を露にしていた。幼いころとは随分と印象が違うとばかげたことをロキは思った。幼いころなどはるかな昔だったし、兄が性的興奮を覚えているさまなど見たことはなかったのだから、実にばかげていた。けれど、その考えは背徳感を伴っていた。

 「どうして欲しいんだ?」

 口の中に溜まった唾液を飲み下し、ロキは問いかけた。何度も唇を舐める。ひどく喉が渇いている。
 ソーは顔をそむけたまま、瞳だけをロキに向けた。そこには哀願の色があるように見えた。もっと直接的な快楽を望むような。だからロキはブーツを脱ぎ捨てた。そして素足を再び伸ばし、器用に指先を丸めてソーのズボンを引きずり下ろした。その途中でソーの陰茎が布にひっかかり、外気に曝されるときには飛び出るようにして揺れた。その衝撃でソーが顔を上げ、ロキと目が合った。じんわりと熱く潤んだ青い瞳。ロキは声をあげて笑った。楽しかった。兄のそれはとてもきれいな色をしていて、自分とは形も大きさもずいぶん異なっていた。そして濡れそぼっている。

 「はしたない」

 感じたままに口に出すと、小さな呻き声が返ってくる。そうは言っても、ロキの中に嫌悪感はなかった。ただあのソーがこのような痴態を晒していると思えば、大声で笑い出したくなるように楽しかった。
 勃起しきったものにぺたりと足裏をあててみる。ソーが身体を震わせた。冷たかったのだろうか。ロキにとって、そこは熱くてべたべたしていた。少し動かすとかすかな水音が聞こえた。

 「ソー」

 ロキのそう呼ぶ声には情欲が満ちていた。けれど彼自身はそのことに気が付いていなかった。ソーを手玉に取って弄んでいるようなつもりでいた。
 ロキは腰掛けていたマットレスから立ち上がると、ソーの目の前まで歩んで彼を見下ろした。

 「次はどうしたいんだ? 教えてくれ」

 これでは終われないだろう? もっと熱くて狭い場所で締め付けられ擦りあげられて達したいのだろう? 私が欲しいと懇願すればいい。
 ソーは、膝を付くとロキの白い右足を両手で恭しく持ち上げて口付けた。
 男と後腔を用いて性交をするのは初めてだったけれども、なぜだかロキに不安はなかった。
 何度も己の指で開いてきた場所だからかもしれない。なぜそこを指で犯そうと考えたのか、そうするときに何を想像していたのか、今では思い出したくもなかったが。
 心臓が早鐘を打っている。衣服を脱いだソーは、ロキの目前で先ほどと同じく、大人しく従順な犬のように座っている。ロキはソーの両肩に触れて、彼の膝に跨った。ソーの荒い鼻息、唸り声。準備の整った入り口を熱い亀頭に押し当てる。期待で震える身体は、しかしほんの少し先端を銜えただけで、それ以上は腰を下ろさなかった。ロキはふうふうと胸をあえがせながら、身体を支える足に力を込めた。

 「中に入りたい?」

 耳元で囁く。ロキはまだ、これが己の欲望であることを認めたくはなかった。貪淫な兄に慈悲ぶかく情けをくれてやるというつもりでいたかった。
 ソーは顔を背けた。それは拒絶だった。まだ完全には己の矜持を捨てきれてはいない高慢な態度だった。しかし同時にロキの敏感な粘膜は、彼が先走るものを溢れさせたのを感じ取っていた。小さく甘い鼻声で笑いながら思う。あなたも所詮俗物だった、と。
 ロキはゆっくり、ゆっくりと腰を下ろしていった。

 「っふ……ぅうん」

 大きなものに割り開かれる感覚に、鼻から息が漏れた。狭い器官がぎゅうぎゅうに押し広げられていく。その感覚は違和感を伴うものだったが、それ以上に今までには感じたことのない充足感をロキに与えた。熱かった。ひどく熱かった。奥まで埋め込んで、自分の内腿にソーの陰毛がこすれるのを感じた。ぜんぶはいった。思わず嬉しくなって笑おうとしたけれども、口から漏れたのは「あんっ」というみだりがましい嬌声だった。

 「すごくあつい……よ」

 ロキが背筋をぞくぞくと痺れさせながら言うと、ソーは快感に抗うように眉をひそめながら、少し寂しそうな目をした。ロキにはその意味がわからなかった。わからなかったが、腹が立った。
 苛立ちを振り払うように、奥まで銜えたまま、円を描くように腰をめぐらせる。まるで腹の内に太陽を抱えているようにあたたかかった。ロキははふはふと浅い息をした。硬く張り出したところが、自分の腹の内側、前立腺を押しつぶすように刺激するとたまらなかった。膝が震えて、後腔の筋肉が収縮した。ロキは憑かれたように気持ちのよいところにソーの膨れ上がったものを何度もぐりぐりと押し付けた。

 「ぃ、いやだ……だめ、だめぇ……っ」

 自分でそうしているくせに、どうしようもなく気持ちがよくて、首を振りながらあられもない声をあげる。その声に煽られたのか、ソーが呻き声をあげ、中のものがよりいっそう硬くなった。嬉しくなる。

 「きもち……いい……んぁっ、あにうえ、は?」

 きっとソーも快感を得ているはずだ。だってこんなにおおきくてかたい。目を閉じ、ロキは腰を上下に動かし始める。濡れた音が立つ。いっぱいに広げられたまま、内側を擦りたてられて、先ほどとは違う快感が襲ってくる。腹につくほど反り返った自分自身に触れて、それがすっかり濡れていることに、ロキは恥らうように閉じた睫毛を震わせた。
 乾いた唇を舐める。荒い吐息と水音。自分の鼻にかかった声。ひどく口寂しいような気がした。口付けたいと思った。今は口枷に隠された、自分とは似ていない厚みのある唇に。
 その欲望のおもむくまま、目を開けてソーの頭の後ろに手を回した。ソーの青い瞳が揺れる。そこに浮かんだ模造品のけばけばしさが消え、真正の宝石だけがもつ輝きが閃いたのを見たとき、ロキはしくじったと思った。そう思ったときにはもう口枷は外れていた。

 「ロキ」

 ソーの低くざらついた声が自分を呼ぶ。ロキは身体を震わせた。ソーの両手がロキの身体を支えるように腰を掴んだが、先ほどまであれほどに燃えていた身体の熱は、驚くような速度で引いていった。

 「まだ間に合う、俺と……

 それ以上言葉を継がせないために、ロキは乱暴にソーの身体から身をはがし、先ほど脱ぎ捨てた衣服を探った。その中に隠したナイフを探して。身体のうちからソー自身を引き抜くときに、かすかによぎった快感が今ではもうひどく厭わしかった。馬鹿げていた、まったく悪い冗談だった、このようなことがあってはならなかった。目の前が怒りで真っ赤に染まる。
 ソーがムジョルニアを手にするよりも一瞬早く、ロキは彼の喉にナイフを突きつけた。

 「……
 「少しでも動いたら首を切り落としてやる」

 低い声で脅した。本気だった。鋭く磨かれたナイフは、ロキが意図せずとも触れただけで彼の皮膚を切り裂くだろう。ソーは動かなかった。身じろぎ一つしなかった。微かに唇を震わせ、何かを言おうとしたようだった。しかし、言葉を発することはなく、彼は目を閉じた。それから全てを諦めたように微笑んで、自ら喉を晒した。それが自分にできる唯一の贖罪であるとでもいうように。

 「……っ!」

 馬鹿にするのもいい加減にしろ。あまりの怒りに怒鳴ることも忘れて、ロキはナイフを引いた。
 ソーのこんな表情は見たくなかった、とロキは思った。

*

 ロキは己の荒い呼吸音で目を覚ました。視界に広がるのは、高い天井と薄絹の天蓋。全身をびっしょりと濡らす汗と、頬に伝う涙に驚いた。こんな風に目覚めたのは初めてだった。なにか恐ろしい夢でも見ていたのだろうか。
 傍らで微かな物音がした。そちらに目を向けると、天蓋越しに、本を読んでいた母が顔をあげたのがわかった。

 「どうしたの、ロキ」

 フリッガが小さな声で尋ねた。ひそめた声に、それでも隣に設えられた寝台に眠る兄が身じろぎする音がした。

 「なんでもありません、母上」

 なんでもないはずはなかったけれど、自分の身に起きたことを説明するにはロキは幼すぎた。
 フリッガは微笑んだようだった。それはとても美しかった。実子であるロキが思わず息を飲んでしまったほどに。蝋燭の仄かな灯りを反射して輝く金の髪。踊る光の粒。

 「こわい夢でも見たのかしら? だいじょうぶよ、あなたが眠るまで、ここでこうしていますからね」

 その言葉に安心したロキは、はい、おやすみなさい、といい子のお返事で答えた。こわい夢なんて、ほんとうにすっかり忘れてしまった。
 それからしばらくののちに、ロキの寝台からは穏やかな寝息が聞こえてきた。
 フリッガは、彼女の息子たちが寝入ったのを確かめると、彼らの額からほつれた髪をかきあげ、そっと口付けた。二人の髪色はひとしく光を放つ豊穣の黄金であった。
 そして、燭台を掲げて、音を立てずに歩き去った。あとに残るのは漆黒の闇――
 ロキは夢を見ていた。もうずいぶんと長いこと、夢を見ていた。それは終わらない悪夢だった。
 彼が呻くたび、暗い牢の中には悲壮な響きが満ちた。
 けれど誰も彼を救うことはできなかった。それが全知全能の神が不肖の息子に与えた罰だったからだ。