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納豆
2020-01-15 18:02:14
3998文字
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一年目の真波くんと黒田くんの会話
供養です。
最後に仰ぎ見た真っ青な頂上に、万歳三唱、空を受け止めた掌は俺のものではなかった。
歓声が遠くなる。
彼を取り巻く全ての人が笑顔で駆け寄り、喝采を上げる。
おめでとう、と思ったんだ。
心から、君を讃えていた。
だから、きっと俺はちゃんと君から約束のボトルを受け取れると思ってた。
二人の始まりのボトルを、きちんとおめでとうと口にしながら笑顔で締め括り受け取るはずだった。
なのに、俺は蓋をした。
どころか、俺は鍵をした。
賞賛全てをガチガチにしまい込み、厳重にしまい込んでいた。
口元は緩まない。
力なく閉じられたまま、何をいうでもなく手の中にはボトルがあった。
君の声が遠い。
確かに言葉は聞いているのに、どうしてか君の声が遠ざかって頭に入らない。
気が付けば頭の中、必死に手を動かす俺がいる。
心にあるもの何もかも絶対に出てこないように、ぎっちりと硬く押し込んだのは間違えようもなく俺の手で驚き見開く目は大きく丸くなる。
何をしてるんだろう、と思った。
どうしてこんな、ことをしてるのかと困惑に押し流された。
俺の、確かにあった君への賞賛は、どうして、何故、今こんな、嘘だ、違う、俺はちゃんと、君を、君への感謝と祝福を、伝えて、きっとこれからも、君と。
小野田坂道、その人と、真波山岳、その人は、これからも続くはず、なのに。
ぶつんっ、と回線が打ちきれて、新しい回線に繋がれる。
ミーンミーン、耳に残る蝉の声はあの日から7日を過ぎた夕方のこと。
ここは部室、そう、あの富士山頂は遠い。
あの日も、蝉の声はうるさかった。
あぁだけど、あの日産まれた蝉はもういないね。
きっとみんな死んでしまった。
あの日の蝉はもう土くれだ。
詮無いことを考えて、ぽたぽた顎を伝う汗をそのままにした。
空は橙、否、真っ赤に燃えて網膜を焼く。
それが痛くて瞬きをした。
痛みが和らぎ、早く戻ろうと足に力を込める。
今日の外周メニューは消化した。
あとは戻ってローラーと、体幹トレーニングと、それから、えぇとなんだっけ。
与えられた練習内容を頭の中で反復する。
そこに自主トレーニングとして取り入れた別メニューも並び立てて、苦く奥歯を噛んだ。
鍵が、開いてしまう気がした。
少しでも気を抜けば、それは表に噴き出しよくないものを出してしまうような不安に襲われた。
噴き出して、それは悪い物に変わってしまいそうで、怖かった。
だから「一生懸命」だった。
俺は、ただひたすらに。
誰かの声も遠い。
あの日と一緒だ。
だから、何も聞こえない俺はひたすらに体を動かした。
止まってしまえば何かが緩んで開いてしまいそうで、とても、怖かった。
怖い、という気持ちは小さな頃に忘れてきたように勘違いしていた。
うん、そうだね、俺はまだ、怖いってことを覚えてた。
体が重い。
だけど、止まるのは嫌だ。
そうやって校内に戻って自転車を滑らせる。
トレーラーに近づき、自転車を降りた。
早足に伴ってからから短い間隔に鳴る車輪の音が一人の夕暮れに響く。
戻った先、声をかけられることもない。
周りにいる部員は何も言わずに俺がローラーに跨るのを横目にしていた。
その目が映すものが何か、考えるのも億劫で頭の中を真っ白にする。
ここのところ毎日そうだ。
次のメニューをこなして、また次のメニューをこなして、またまた次のメニューをこなして、また、また、また、また。
「真波」
疲れていたのだと気がついたのは、その声のおかげだった。
ローラー台の横ではタイマーがけたたましく音を立てていた。
鳴り響くタイマーに気がついていなかったことに、今気がついた。
どっと血の巡りが激しくなる。
耳の内側音がうるさい。
心臓や肺、筋繊維の軋み、呼吸、全ての音がうるさく疲労を叫んでいた。
目の前は何故か潤んでいて、汗で視界がぼやけていたことを知った。
手で拭えど毛穴から噴き出す汗は止まらず意味をなさない。
困ったなとぐしぐし拭う俺に、声の持ち主は溜息をついた。
よろよろ顔を向ければ思った通りの銀色がきらきらそこにある。
へらりと笑って向けた顔は、よく「できて」いただろうか。
タイマーを止め、それから降りろと俺に顎をしゃくる先輩、黒田さんに大人しく従った。
多少よろける俺に手を差し伸べたりはしない。
自転車を所定位置までふらつきながら片付けた俺に、漸く黒田さんは動き出す。
また溜息を零しながら、黒田さんはタオルを押し付けた。
「お前が帰らねぇと鍵が閉められない」
何時だと思ってる、淡々と告げられた言葉に力なく頷きタオルを受け取った。
既に制服の黒田さんの後ろ、はめられた窓枠の向こう側は真っ暗だ。
委員長に怒られちゃうな。
またあなたは遅くまでって、最近すごく怒るから。
心配そうに、泣きそうに、俺のことを怒るから。
俺の腕を掴んで、くしゃりと顔を潰して怒る顔、あれはなんだか見ていたくない。
ふと意識が逸れていく。
そうやって無言でタオルを使って顔を拭いた。
すみませんでした、ぼんやり短く謝りそれからシャワーを浴びますと素直に部室へ向かう。
いや、違う。
うん。
向かおうと、した、が正しい。
「真波」
呼ぶ声は俺を引き止めた。
緩慢に振り返る俺に、黒田さんは歩み寄る。
真っ直ぐ目を覗く切れ長な双眸に微笑む顔は、よく「できて」いただろうか。
何となしに、そういえば黒田さんと関わったのはF組レース以来初めてだなぁと思う自分がいた。
首を傾げて立ち止まる俺に、黒田さんは手を伸ばした。
それが何をするつもりのものなのか、判別付かず受け止めた先、その手は俺の目尻を拭った。
「泣いたか」
今拭ったそれは汗ですよと、笑えばよかったろうか。
首を益々傾げた俺に黒田さんは目元を歪めた。
それからばりばり髪を掻き混ぜ、睨むよう俺を見る。
ぐいと強く拭われた目元に一瞬瞑った俺の鼓膜は震わされる。
「インハイの後、ちゃんと泣いたか」
ゆるりと持ち上げた瞼、出来上がった目元は自然険しく完成する。
黒田さんは怯まない。
笑顔を作れなかった俺に、怯んだりせずただじっと人を睨むのだ。
泣いたか、なんて当たり前じゃないか。
泣いたに、決まってる。
俺は、だって彼に、負けたのだから。
負けて、悔しくて、期待に応えられなかった自分が嫌になって、期待されていたことに喜んでいた自分を自覚して、そうして全部、先輩たちの全部を俺が駄目にしたことに気が付いて、それがどうしようもなく、遣る瀬無くて。
山の頂上は、俺の場所だと思ってた。
誰にもその場所は奪われないと思ってた。
でも、それは。
瞬きの裏、眩しい黄色が俺より前に遠ざかる。
それが煩わしい俺は、張り付く黄色の栄光をかき消すよう、きつく瞼を閉じてタオルに顔を押し付けた。
何も言えなくなった俺に、黒田さんはぽんぽんと頭を撫でる。
その手の優しさが俺にはどうにも痛かった。
「誰かの前で、ちゃんと、泣けたか」
くしゃりと頭を撫でた掌の温度が伝って溶けて俺の温度に変わる。
何がどうしてこんな状況になっているのかわからない。
だけど、黒田さんはずっと優しいままだった。
あなたの望んだゼッケンを、俺は背負って走って最後負けたのに。
本当なら、黒田さんが走りたかったはずなのに。
走れず見届けることしかできなかったあの暑い日に、俺をどれだけ恨んだって仕方なかったのに。
黒田さんは、ずっと、ずっと、ずっと、優しかったのだ。
その手に涙が滲んだ。
痛くて、安らいで、苦しくて、温かくて、辛くて、落ち着いて。
こんがらがる感覚に息の仕方が下手くそに変わっていく。
どうやったって許されていいはずもないのに、この手は何もかも許してくれているような気がした。許しを望む、それこそ卑怯だとわかっていても、与えられたそれに俺は抗えない。
うっ、ひっく、うぁっあぁ。
形にもならない声を、タオルに押し付け殺してみせた。
黒田さんは、それがまるで聞こえないようにぽつりぽつりと言葉をこぼす。
それら全てが、言いようもなく体の中心、心と冠する何某かに沁みて溶けて消えていく気がした。
「いいんだよ、お前、まだ一年だろ。甘えとけ先輩に」
「たらればは、言いっこなしだ。結果は結果、受け止めとけよ」
「負けたのが悔しい、そりゃ充分な伸び代だろ。偉いもんじゃねぇか」
「なぁ、真波」
呼ばれた名前に顔をぐっとタオルに押し付けた。
黒田さんは、それを咎めない。
最後、とすっと胸元引き寄せられて熱いくらいの腕に囲われた。
伝う体温に漏れた吐息は、安堵に出来上がる。黒田さんは静かに、ただ静かに呟いた。
その声は、どこまでも穏やかだったのだ。
「来年も、自由にやれよ」
与えられた自由に、どれほどの罪があったのか、知っているはずなのに。
ぱっと離れた体にタオルから顔を持ち上げた。
黒田さんは、ひでぇツラと笑ってみせて、それから俺の額を指で弾いた。
ぴぃん、軽く伝わった衝撃に瞬きをする。網膜をきらきら抜ける銀髪は翻り、俺に背中を向けていた。
どうして、なんで、そんなこと。
はくりと唇を戦かせた俺に、肩越し振り返った黒田さんは笑うのだ。
どこまでも頼もしく、勇ましくも笑ったのだ。
「ぶっちぎってやれ。お前ならできるよ」
期待を、与えてくれた。
遠くなる背中は、俺が下して道を奪った人だった。
その人はとても優しくて、かっこよくて、そして誰よりも誇り高い。
誰かから渡された期待がこんなにも心苦しくも心地よいものだなんて知らなかった。
息を呑み、俺は深く深く頭を下げた。
「はい」
涙に暮れようとして、できなかった自分が漸く顔を出す。
かしゃんっと錠が上がる音、あの日閉じ込めた心の切れ端が少しだけ、外に出られたような気がした。
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