パリ。かつて花の都と呼ばれた都市の名を冠する華やかな貴族の街。馥郁たる花の香が漂うその都市の表の顔とは異なる雰囲気の西部を歩きながら、ニオは周囲の光景に嫌悪感を隠せずにいた。
区画を覆うかのようにして立ち込める異臭に加えて、そこら中に転がったゴミによって足の踏み場を探す始末で、その隙間は大きな鼠が我が物顔で走り回っている。細く薄暗い路地の端には、生きているのか死んでいるのか、そもそもそれが人なのかさえわからないなにかが毛布や布にくるまって横たわっている。そんな中、大気中を舞う砂埃に目を細めながら、ハンカチで口と鼻を覆いながら進む。これが自分と同じ種族が生活する環境だとは信じたくないが、目の前に広がっている光景は紛れもない現実だった。
と、視界の端にゴミの山の中で蹲る小さな子供の姿が見え、思わず目を見開いた。咄嗟にその子供の前で腰を折り、手を伸ばそうとした瞬間だった。突如、子供が目を剥いた。子供が身に纏った薄汚れた布の下からナイフを握りしめた細い腕が現れるのを目にし、ニオは息を呑んだ。予想もしなかった行動に完全に不意を突かれた。
ここまで突如として殺意を振りかざされたことなどない。それも異様と思えるほど純粋な殺意。まるで瞬きすら忘れた人形のような感情の死んだ目に気圧され、思わず尻餅をついてしまったその瞬間だった。視界の外側から現れた足が子供の顔を真横から蹴りつけた。感情のない子供の顔がぐにゃりとひしゃげたように歪んだかと思えば、その小さな身体がゴミの転がった地面に叩きつけられ、鈍い音を立てた。
「なっ……!?」
突然のことに思考が追いつかず、転がった子供が慌ただしく起き上がって逃げていくのを見ながらもまともに言葉を紡ぐことができなかった。
と、不愉快そうな舌打ちが響いた。それに振り返ると、先を歩いていたはずの男がこちらを見下ろして立っているのが目に入った。左目を眼帯で塞いでいるが故に彼の表情が完全に読み取れるわけではないが、明らかに呆れたような表情を浮かべており、その右目は不愉快だと告げていた。
「あ、貴方……! 子供相手に……!」
と、口をついて飛び出したのはそんな言葉だった。本当なら、礼を言うべき場面だとわかってはいるが、咄嗟に口から出てしまった言葉を素直に飲み込む余裕は今のニオにはなかった。
面倒だと言いたげな舌打ちが聞こえ、こちらを見下ろす男の眼帯で塞がれていない右目をきっと睨む。が、なにかを言い放つよりも先にニオは周囲から視線を感じた。まるで街そのものに狙われているような、そんな感覚。冷たい汗が背中を伝い落ちていく。男の方も気がついているようで、周囲に視線を動かしながら不敵な笑みを浮かべていた。
「思ったより速えな」
初めて真っ当に口を利いたかと思えば、路地の奥へと視線を向ける男。その後姿の向こう側に、いくつかの人影が見えた。手にしたナイフが鈍い光を受けてぎらりと輝くのが見える。
「おいおい、どこのどいつかと思ったら懐かしい顔があるじゃねえか」
ぞろぞろとこちらへ向かって歩いてくる集団の先頭。不敵な表情を浮かべたその顔は、ここへ来る以前に目を通した資料にあった顔だった。ユーグ・ジョンパルト。派手なオレンジ色の髪に、深い緑色の目。如何にも軽薄そうな雰囲気のその人物こそが、自分達の標的だ。この人物を捕えるか殺すかすれば仕事は完了するが、そんな標的が紡いだ第一声はニオが疑問を持つに値する言葉を含んでいた。
「懐かしい顔……?」
「軍に捕まったって聞いてたんだがよ……その割にゃ随分小綺麗な格好じゃねえか、腐れ外道。前とはえれえ違いだ」
ニオが小さく溢した言葉は耳に入らなかったのだろう、ユーグ・ジョンパルトが続ける。その言葉は、自分ではなく、目の前の男へ向けられているようだ。男と面識のあるような物言いをするユーグ・ジョンパルト。実際、男はケーニヒスベルクの軍刑務所に収監されていたような人物だ。善良な市民だとは思っていなかったが、まさか標的と面識があるのだろうか?だとしたらどういう関係だ?
「……てめえは相変わらずだな。間の抜けたにやけ面がよ」
男達のやり取りは険悪な雰囲気を帯びたもので、旧知の仲というよりも犬猿の仲とでも言った方が相応しいと感じるほどだ。
「減らず口の方は相変わらずかよ……で? そっちのお嬢さんは? 女衒に売り飛ばすにしても上玉過ぎやしねえか?」
「てめえの知ったことじゃねえ」
続けて問うユーグ・ジョンパルトに、男が平坦な声で返した。その返答に、ユーグ・ジョンパルトの表情が険しいものとなったが、すぐにへらりとした笑みを浮かべて肩を竦めた。
「……ま、なんでもいいさ。お前は昔からロクな野郎じゃなかったもんな」
と、肩を竦めて言うユーグ・ジョンパルトが続ける。
「そんなロクでなしがまともな目的で貧民街なんかに来るわけがねえ。そうだろ? なあ?」
ユーグ・ジョンパルトの問いかけに、男が口の端を不敵に歪めてみせた。そしてそれは、肯定として受け取られたらしい。鋭い声が路地に響いた。
「殺っちまえっ!!」
それを合図に、ユーグ・ジョンパルトと共に現れた者達がナイフや鉄パイプを手に襲いかかってくる。微動だにしない男が迫りくる凶刃を躱すと、ナイフを握る者の腕が迫りくるのを左手で反らしつつもその手を取った男が右手の裏拳を相手の顔面に入れた。呻きながら数歩下がった相手から奪い取ったナイフを左手に大きく踏み込んだ男が右足を振り上げ、相手の顔面を蹴りつけると同時に勢いのまま上体で押し切り、蹴りつけた相手の頭を後頭部から地面に叩きつけ、その頭蓋骨ごと右足で踏み抜く。血に塗れるブーツを気に留める様子もなく軽く踏み切ると、空中で身体をぐるりと翻して右足を振り回し、鉄パイプを振り上げた後続を蹴りつけた。着地と同時に数歩下がった相手の懐に飛び込みながら男が左手でナイフをぐるりと弄んだかと思えば、順手に握り直したそれで先頭の相手の脇腹辺りを何度も突き刺しながら前進。男のナイフから逃れようと後ろへ下がっていく相手が撒き散らした血が足元のゴミを濡らすも、男が振り上げた右足が相手を蹴り飛ばす。後続を巻き込んで倒れ込んだ相手が取り落とした鉄パイプが音を立てて地面に跳ね返ったところを蹴り上げて手に取ると、勢いのまま大きく踏み込んで振り上げる。倒れた相手の頭をかち割ると、血の付いた鉄パイプをユーグ・ジョンパルト目掛けて投げつけた。
「野郎っ!」
ユーグ・ジョンパルトが毒づきながらも回転しながら飛ぶ鉄パイプをナイフで弾いた。そこへ滑り込んだ男がユーグ・ジョンパルトの胸倉を鷲掴みにしたが、足を掛けられまいと後方に下がりながら男の腕を払うユーグ・ジョンパルト。翻る刃が男へ迫るが、男が手にしているナイフを逆手に持ち直し、その刃でそれを払った。金属音とともに火花が散り、刃が弾ける。瞬く間に数度金属音が響き、男が大きく踏み込みながらユーグ・ジョンパルトのナイフを大きく弾いた。そこから間髪入れずに男が右足でユーグ・ジョンパルトを蹴りつけると、小さく呻きながら数歩下がったユーグ・ジョンパルトが歯噛みし、ナイフを振り上げて男へと再度襲いかかる。が、そのナイフが振り下ろされるよりも速く、口元を三日月のように歪めて笑んだ男が足でゴミと砂埃を舞い上げ、ユーグ・ジョンパルトが一瞬怯んだ。そこへ踏み込んだ男が手にしているナイフが弧を描く。それがユーグ・ジョンパルトの首をすり抜けたかと思えば、一瞬遅れて鮮血が吹き出した。まるで噴水のように吹き出した血がぼたぼたと足下へと散らばる。
その光景にニオは思わず息を呑んだ。ユーグ・ジョンパルトの顔がみるみる青白く変色していき、その身体がぐらりと傾く。しかし、その手が男の襟元を掴み、すんでのところで踏み留まった。
「て……めえ、かっ、りにも……昔のなか……ま…………」
吹き出す血に溺れるような決死の声色で紡ぎ出したユーグ・ジョンパルトが男にしがみつくようにして踏み止まるが、すぐに限界を迎えて膝が折れる。その右手が男の左目を覆っていた眼帯に掛かり、そのままずるずると崩れ落ちた。それを見下ろしながら、男が鼻で笑ったのが聞こえる。僅かに生き残っていたユーグ・ジョンパルトの取り巻き達がそれぞれに恐怖の表情を浮かべながらも蜘蛛の子を散らすようにして路地へと消えていく。
「仲間なんざいた覚えはねえよ」
そう吐き捨てた男が手にしていたナイフを無造作に投げ捨てた。からからと音を立てたナイフが血の海の中に転がる。わずかに首を動かし、こちらを振り返った男。その光景はまるで1枚の退廃芸術のような異常さに満ちており、見開いたニオの目に焼き付いた。
夥しい量の返り血に塗れた表情のない顔。先程までその左目を覆っていた眼帯は崩れ落ちたユーグ・ジョンパルトの右手に握られており、月のような右目と、隠されていた男の左目がこちらを見ていた。
紫色の左目。その瞳の色に目を奪われる。とても鮮やかで深い、夜のようなそれが、酷く美しく見えた。
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