いつもよりも少し早く目が覚めた。見慣れた天井が目に入り、窓から差し込む朝日に緋色の目を細める。ぐっしょりと濡れたシャツに顔を顰めながら、重く感じる身体を起こした。眠っている間に溢れ落ちていたらしい涙を拭い、ベッドから抜け出す。毎晩のように見る悪夢にももう慣れてしまったが、人間の身体というのは不便なもので、脳に残っている記憶に従ってその時の感情というのは呼び起こされてしまうものらしい。寝覚めの悪さを覚えながらも、顔を洗おうと洗面台に向かった。蛇口を捻り、流れ落ちていく水を手で汲み上げて顔を洗う。冷たい水の刺すような感覚に目を細め、顔を上げる。水滴が滴り落ちる前髪の向こうに、鏡に映し出された自分の顔が目に入った。
長い黄金の髪に、燃える炎のような緋色の両眼。ラザフォード・シンクレア。今更なにも取り戻せやしない不甲斐ない男の姿がそこにある。疲れたような顔をした自分の姿を睨み、顔を拭う。手早く着替えを済ませ、コートハンガーに掛けておいた白いトレンチコートを手に取り、袖を通した。ボタンを留め、ベルトを締めると、そこに通したホルダーに白い剣を挿して部屋を出る。
『着艦許可が下りました。12番ランディングへ着艦します』
響いたアナウンス。スピーカーの方を振り返りながらも、長い廊下を歩いた。低く響いていたエンジン音が一瞬大きくなり、すぐに風船から空気が抜けるような音とともにその響きを小さくしていく。足下から伝わる僅かな慣性で、自らの乗る船が速度を落としたことがわかった。その後すぐに軽い衝撃に揺れ、船体が止まった。エンジンがゆっくりとその鼓動を止め、廊下を抜けた先にあるハッチが開く。幅の広い舷梯が伸び、到着した都市への道が伸びる。風に流されていく雲を足下に望みながらその鉄の梯を渡り、都市へ降りた。
ケーニヒスベルク。かつて王の山と呼ばれた街の名を冠した、黒い鋼のメトロポリス。かつりと音を立てて踵が叩いた鉄のパネルを渡り、ランディングのゲートを出たところで振り返る。そこには都市と同じ黒い鋼で造られた巨大な船渠が広がっており、その中には自分をここまで運んできた巨大な飛空艦が収まっている。女王から「ブラッドローズ」という名を与えられた、真紅の船体を有する大型艦だ。この艦が船渠に収まっている姿はもう見慣れたものだが、属する国でない都市の船渠に入っている光景は珍しいかも知れない。そんなことを考えながらも、前を向いて歩き始めた。
「ラザフォード猊下!」
船渠を出てすぐの幹線道路に出たところで、自身の名を呼ぶ声が聞こえて足を止める。金髪を揺らしながら振り返ると、道路脇に止められた黒いBMWの脇に背の高い男性が立っていた。
短めの明るいブロンドに青い目、顎に無精髭を生やした中年の男性は、黒いモッズコートに身を包んで敬礼する姿と、すらりとしているものの筋肉質だとわかる体格からすぐに軍人だとわかった。
「遠路遥々、ご苦労様です。メルゼブルク軍所属、ポール・ハーディ大佐であります。お迎えに上がりました」
「わざわざの出迎えに感謝します、大佐殿。ですが、猊下はやめて下さい」
敬礼を崩さぬままの姿勢でポールと名乗った彼は、思った通り軍人だったらしい。
メルゼブルク軍。このケーニヒスベルクを帝都とする帝国、メルゼブルクの国軍だ。その大佐ともあろう人間が出迎えなどに寄越されるとは、随分と手厚い歓迎を受けたものだ。彼に感謝を告げながらも、勧められるまま黒いBMWの後部座席に乗り込み、運転席に乗り込む彼に問いかける。
「それで、皇帝陛下のご容態は?」
「……正直、もってあと数日との話です」
「そうですか……」
メルゼブルク皇帝、ローレンツ・メルゼブルク。メルゼブルクという国の建国からこれまでを支えた偉大な皇帝だ。齢90を超えようかというその大老がもう長くないというのはここ数年騒がれていた話であったが、それもいよいよということらしい。
「そんな中でも陛下が貴方と会うことにしたというのは、それだけ重要な要件ということですね」
「……ええ」
こちらの用件を察してなのか、ポールが言う。彼の言う通り、自分はメルゼブルク皇帝の余命があと数日だとしても譲ることの出来ない用件でこの都市を訪れた。メルゼブルクに名を連ねる貴族家の内の1つであるルフェーヴル子爵家。この新たな世界で最大にして最悪の罪を犯したと考えられている一族。姿を消したその一族の行方を知るために。
メインストリートを走り抜けていく黒いBMWの窓の外をモダンな街並みが流れていく。洒落たカフェやショップの前を通り過ぎる中、都市の中心に聳え立つ巨大な黒い塔が近づいてきた。メルゼブルク皇帝の居城であり、大摩天楼と呼ばれる建造物だ。大摩天楼前のゲートを潜り、大摩天楼のエントランスの前で停車したBMWのドアが開かれると、ポールに感謝を告げて下車する。と、待ち受けていたスーツの女性に案内され、広いエントランスホールの奥にあるエレベーターに乗り込んだ。120階のボタンが押され、高速で上っていくエレベーターのベルが鳴り、扉が開く。到着した小さなエレベーターホールは、目の前に大きな黒い両開きのドアがあるだけの空間だった。エレベーターに乗って去っていく女性を見送ってから、そのドアを開いた。
皇帝の間。そこは広い部屋だったが、中には天蓋付きのベッドが1つ置かれているだけで、そのベッドの中からこちらを見据える老人こそ、メルゼブルク皇帝であるローレンツ・メルゼブルクだった。
「お久しぶりです。陛下」
その姿に深く礼をしてから言い、ベッドの傍らへと歩み寄る。皇帝が弱々しく上げた手に「失礼します」と告げてから、腰に携えた剣をホルダーから外してベッド脇に置かれたソファーへと腰掛けた。
「7年前の貴族会以来か……早いものだ」
枯れたような声色で言う皇帝に目を細める。大帝とさえ呼ばれた人物の姿がこうなるとは、老いとは凄まじいものだが、いずれは誰しもがこうなるのだとわかっている手前、恐ろしさは感じない。
「……すまんな。もはや思うように起き上がることも出来ん」
皇帝の言葉に「いえ……」と言い淀みながらも、本題を告げようと続けて口を開こうとするが、皇帝がそれを制すように小さく笑みを浮かべた。
「ルフェーヴルのことだろう?」
そうして皇帝が問うてきた言葉は、まさに今回の本題そのものだった。バツの悪さを覚えながらも「はい」と肯定し、皇帝の言葉を待った。
「……あれの行き先は、わからぬ。本当に、わからぬのだ」
ゆっくりと告げられた言葉から、嘘の気配はなかった。しかしそれでも、自分にはそれで済ませるわけには行かない理由がある。
「……陛下にとってメルゼブルクの貴族が皆、長きに渡り苦楽を共にした同胞であることは承知しています。ですが……」
「ああ、だからこそ……」
言いかけた言葉を遮って口を開く皇帝の言葉は変わらず弱々しかったが、それでもはっきりと響くものだった。
「……だからこそ、我が同胞が過ちを犯したのなら……それを正し、罰してやれることこそが、本当の友である資格だと、私も信じている」
皇帝が続けた言葉に返す言葉を見失う。
そうか、この老人は悔いてきたのか。ルフェーヴル子爵家の人間が忽然と姿を消してから、今の今に至るまで。苦楽を共にした同胞があの惨劇の原因であったのなら、それを止められなかったことを。それを糾弾することも、正すことも出来ないでいることを。
握る拳に力が籠もる。17年前のあの惨劇の真相がまた空振りに終わった。どれだけ調べようとも、どれだけ追いかけようとも、この手が手繰り寄せられるのはルフェーヴルの名のみだった。その一族が属するメルゼブルクの皇帝にようやく謁見できたというのに、その皇帝でさえ行方を知らないとなると、もう打つ手がない。
「……そなたの悲しみは、私に計り知れることではないだろう。力になれず、すまない」
「……いえ」
燻り続ける火種を噛み殺すような声で言い、きつく握りしめた拳を解く。そして続けた。
「とても貴重なお時間をありがとうございました。こうしてまたお会いできたこと、光栄に思います」
絞り出すようにそう言い、ソファーから立ち上がると、手にした剣を腰の後ろ側へ回して深々と礼をしてから部屋の出口へと歩いた。ドアの前で再び礼をし、ドアノブへ手をかけたところで、背後から皇帝の声が響いた。
「心を……焼き尽くすでないぞ」
響いた言葉に黙したまま、もう1度深く礼をして部屋を出た。
リベルタリア。自分達の手で滅ぼした地上を捨て、空に作り出した新たな世界。それまで続いた世界の平和は破られた。17年前の、あの事件によって。
明ける夜。燃える空。墜ちる街。群青と雲海の境界が眩く輝く天際に向けて手を伸ばした。星空を切り裂いて輝く暁を背景に、赤い炎と黒い煙を上げる白い都市が朝日を受けて輝く雲海に沈んでいく。その光景が、幼き日の記憶に焼きついた。とても幻想的で、この世のものではないようにさえ思える光景。それは、幼き日の自分に怨嗟の声を上げさせるには十分過ぎるものだった。
目を閉じればありありと思い出せる。炎に呑まれ、焼け落ちる街の中で最後に聞いた声とあの光景は、生涯忘れまいと誓った。忘れられるわけもない。だからこそ、怒りは火の手を上げ、憤怒となって燃え上がり、恩讐となって自分自身すらも焼き尽くして炭へと変える。構うものか。焼け、赫灼の煉獄よ。在りし日の思い出を焼き払え。この魂すら焚べてみせよう。たとえこの身体が焼け落ち、命すら灰となろうとも、あの悲劇を産み落とした者だけは、世界中を焼き払ってでも見つけ出して殺してやる。なにを捨ててでもとげなければならない。復讐を。
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