kokokisu
2021-07-21 23:13:24
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倫理パロ


 怜悧な声が静まり返っていた教室内に響き渡った。
「あとで職員室に来い」
 翡翠と同じ色の目が、教室に並んで座る生徒の一人をじっと見つめている。いつも無表情な彼だが、ほんの僅か咎めるように目元が険しくなっていた。その一言だけ告げると、彼は何事もなかったかのように授業を再開した。滑らかに低い声が教科書を朗読し、教室内はチョークの音が時折響く静寂に包まれた。
 叱責された生徒は弁明する余地も与えられず、がくりと項垂れた。彼の授業を妨げるつもりなどなかった。たまたま、スマホをマナーモードにし忘れていただけだ。チャットの着信音が鳴ったのは一瞬だったが、彼は聞き逃してくれなかった。
 授業中はスマホをロッカーに入れるという、時代遅れなルール。それを守れなかったことを職員室で注意されるのだろう。生徒の少年はひっそりと溜息を洩らした。他の先生だったら着信音くらい無視してくれるのに。ストライフ先生は堅物すぎる。

 カツカツとチョークが黒板を叩く音が聞こえる。教本の解説をする彼の声は鼓膜を揺らすというよりも肌に染み入るような滑らかさだった。女生徒の殆どは彼の姿に見惚れ、声に聞き入って、まるで信奉者のような態度で授業を受けている。
 教室は異様な程に静まり返っていた。高校生なのだから授業中まで騒ぐような生徒など滅多にいない。だが、彼、クラウド・ストライフの受け持つクラスは、特別に音が少なかった。授業を受ける生徒の大半が彼の声を聞き逃すまいと、息を潜めて音を殺しているからだ。彼の授業では窓越しに聞こえる鳥の囀る声さえも雑音として疎まれた。
 大学受験には関係ない授業なのに、この高校で倫理は倍率が高くて簡単には選択できない科目だった。最終的に生徒の希望進路や学科まで確かめた上で、授業を受けられる生徒が選出された。倫理の担当であるストライフ教諭は、生徒に人気がありすぎたのだ。
 細身の身体と白磁の肌に、白みがかった金色の髪。青く縁取られた翠の目と、それを覆う透き通った金色の長い睫毛。すっと一直線に通った鼻筋に続くのは、桜貝の色をした薄い唇。いつも陰のある表情を浮かべているが、それも彼の魅力の一つだった。
 誰もが目を奪われる容姿だけでなく、彼は魔性と言っても誇張ではない声を持っていた。彼の落ち着いた円やかな声に耳を傾ける時間は、生徒達にとっては紛れもなく至福のひと時だった。低すぎず高すぎず、角のない発声。時折漏れる吐息混じりの声。彼の話し方は不健全なほどに艶めかしく、生徒達は授業中だというのに耳を愛撫されている気分になった。彼の声の美しさは、女子生徒だけでなく男子生徒も認めるほどだった。
 
 授業が終わった途端に、男子生徒の元に数人のクラスメイトたちが集まってきた。
「スマホ、取り上げられないといいな」
 一人の生徒が沈痛な面持ちで声をかける。慰められた彼は眉尻を下げたまま頷いた。
「ま、平気だろ。なんだかんだストライフ先生甘いし」
 そう言いながらも彼の顔は晴れない。彼にとって気がかりなのは、教諭からの説教ではない。教育指導のため、帰りが遅れてしまうことだった。
 別の女子生徒が訝しみながら彼に話しかけてきた。
「ねえ、授業中に連絡来てたけど、君の彼女も高校生じゃなかったっけ?」
 一瞬、男子生徒が固まった。だが直ぐに不自然なほど明るい笑みを浮かべて見せた。
「困った奴だよな。ま、そんだけ熱心に愛されてるんだよ」
 高らかに笑いながら、彼は教室を去っていった。
 わざとらしい振る舞いだった。空元気という言葉がぴたりと当て嵌まる。問題のある関係であるということを、彼は隠そうとしているようだった。
 女生徒が溜息を漏らしつつもどこか浮ついた目つきで呟いた。
「ザックスには気の毒だけど。正直羨ましいんだよね。あのストライフ先生と二人きりで教育指導って」
 それを聞いて男子生徒の一人が大げさに肩を竦めた。
「説教されるだけだろ。何期待してんだよ」
「まあでも、ちょっとわかるかも。あの美人に睨まれるのちょっとぞくっとするよな」
 別の男子生徒が肩を抱き締めながら冗談めかして言った。
「なんだお前、変態かよ。いや、分からなくもないけどさ……。あの美声に罵られんのとか、正直クるっていうか」
 二人の会話を聞いて女子生徒は表情を引き攣らせた。
「あんたら……。ストライフ先生をどんな目で見てるのよ」
 ただでさえ女子生徒に人気のストライフ教諭が、男子生徒まで狂わせている。笑い飛ばしてしまいたかったが、倫理の授業中の異様な雰囲気を思うと彼らの言葉が冗談に聞こえない。生徒達は男女問わず、ストライフ教諭が目当てで倫理の授業を受けようとすると言われているくらいだった。下心なく倫理を選択したのは、ザックスくらいなのかもしれない。


 頭がのぼせる熱気に満ちた廊下とはうってかわって、職員室は肌寒く感じるほどに空調が効いていた。
 教室も同じ温度設定にしてくれたらいいのに。スーツ姿で優雅にパソコンに向かう教師たちを見てザックスはそんな感想を抱く。
 倫理の教諭は職員室の隅の方にいた。彼の元へ歩み寄るにつれて冷気が強まっていく。空調の真下に席があるからだろう。隣の席の女性教師は真夏だというのに長袖のカーディガンを羽織っていたが、彼は半袖のシャツで平然としていた。
「先生、待った?」
 片手を上げながら気楽な挨拶をする。ストライフ教諭が机の資料から顔を上げた。
……随分楽しそうだな」
 目元を険しくしたまま手近にあった椅子を引き寄せ、ザックスをそこに座らせた。
「ここに呼ばれた理由は分かってるな」
 ストライフ教諭が詰問する視線を少年に向けた。少年は僅かばかり申し訳なさそうに目を細めた。
「分かってますって。授業中にスマホを弄るな、でしょ。悪かったよ。先生の授業、邪魔するつもりじゃなかったんだ」
 素直に頭を下げつつも、ザックスはポケットの中身を気にしているようだった。見計らったかのようにバイブの音が鳴る。彼は教師の目の前であるにも関わらず、反射的にそちらへと手を伸ばそうとした。
「フェア」
 名前を呼ばれ、ザックスははっと教諭を振り向いた。その顔にはしまったと書いてある。
 着信があったら直ぐに確かめなくてはならない。これはザックスの習慣だった。そうしなければ、電話の向こうの相手が不安に思ってしまうからだ。
 ストライフ教諭は呆れ顔で腕を組んだ。
「スマホ依存症か?」
 ザックスは口を噤む。人と話している時にスマホを弄るなど失礼な行為だ。分かっているのに、着信すると身体が勝手に反応してしまう。前にチャットの返信が遅れた時、彼女は一晩ザックスを電話口から解放しなかった。
 彼女はいつでも連絡を求めて、繋がりを確かめたがる。その衝動は時と場所を選んでくれないらしかった。
 教諭は一つ溜息を吐くと、椅子の上でその長い足を組んだ。ギシ、と古びたパイプ椅子が鳴る。
「他の先生方からも相談を受けている。授業中にお前のスマホが何度も鳴っている、と。そもそも、授業中はスマホをロッカーにしまうのが決まりだ」
 ストライフ教諭の口調は優しい。彼はザックスを責めているのではなかった。むしろ、彼がルールを破ってまでそうせざるを得ない理由を気にして、心配しているようですらあった。ザックスは彼の見せた一面を意外に思った。彼は生徒と距離を詰めることを避けている印象が強かったのに。
 微かな憂いを帯びた目を伏せて、教諭は続ける。
「お前は出来過ぎなくらい評価が高いんだ。授業態度も真面目で積極的、部活も熱心に取り組んで、先輩にも後輩にも慕われているそうじゃないか。スマホの件以外は、教師も皆揃って素晴らしい生徒だと言っている」
「いやあ、それほどでも」
 殊勝さとはかけ離れた彼の態度に、教諭は小さく溜息を洩らした。
「だからこそ、俺は心配しているんだ。そのスマホの着信の相手は、フェアにとってどんな人だ。教師にこうやって注意されると分かっていても、授業中に話したい相手か」
 ストライフ教諭が色恋沙汰を口にすると不思議な気分になる。美人だが、こう言った湿っぽい肉欲的な話題とは程遠い人だと思っていたのに。
「へへ、気になる?恋人なんだ。付き合って半年くらい」
 ザックスは鼻を擦って照れ笑いを浮かべた。同級生の女子に彼女のことを尋ねられたときと似た、わざとらしいほどに陽気な態度だった。ストライフ教諭はその不自然さを見逃せなかった。
「その恋人との関係には何も問題はないのか?」
……え?」
 思いもよらぬ問いかけにザックスの笑顔が固まる。対して、ストライフ教諭は穏やかな笑みを浮かべていた。母親のようだ、とザックスは一瞬思った。
「俺はフェアが本当に真面目な生徒と知っている。さっきも、スマホの着信で授業を妨げたことを自ら謝ってくれた。そこまで気を使ってくれるようなお前が、授業中に自ら恋人に連絡を入れているとは思えない。実際、他の先生方も、授業中にお前から連絡をしている姿は見たことないと仰っていた。相手から連絡があった時だけ、返事をしているようだと」
 ザックスの表情が凍り付いていった。友人にも詮索を許さないでいたところに、この倫理の教師は踏み込もうとしていた。
「お前が学生だと知らない相手じゃないだろう。その人が同じ年でも、年下でも、年上でも。授業中にスマホを使ってはならない、というのはこの学校のルールだ。学校にいる間は連絡を控えて欲しいと、相手に伝えたことはあるか?」
……あるよ」
 暗い表情のまま、ザックスは呟いた。彼女とは既に何度かそのことに関して話し合いをしている。だが通じなかった。もう好きではないから連絡を取りたくないのだろうと泣き喚かれてしまう。
 ただ連絡を入れてくるだけならいいが、彼女は必ず返事を求めた。というよりも、自分からの返事を求めているから彼女は連絡を入れてくる。チャットに応えなければ電話がかかってくるし、次に逢った時には泣きながら責めてくる。その時は応えられなかっただけだといっても彼女を宥めることはできなかった。
 泣いている彼女を見るのは辛い。自分が彼女を守るべきなのに、逆に彼女を悲しませてしまっている。
 黙り込むザックスを見て、ストライフ教諭は重たい口を開いた。
「依存されているのか」
 堅苦しい表情で言われて、ザックスはむしろ乾いた笑いが零れてしまった。そう割り切って突き放せばいいと、彼は言うつもりなのだろうか。彼は当事者ではないから分からないのだろう。
 ストライフ教諭がいつもより更に甘く穏やかな声音で続けた。
「お前がそれに応えようとするのは優しさかもしれない。だがお前は恋人が望む通りのお前になりたいと思っているのか?」
「先生には関係ないよ」
 ザックスは耐えかねて突き放すような口調で言った。愕然とする教諭に気付いて、慌てて取り繕う。
「えっと、あのさ……。俺、彼女のことあんま傷つけたくないんだ。好きだから付き合ってるんだし。……でも今度、もう一回彼女と話してみる。授業中は連絡するの無理だから、休み時間だけにしてって。そしたら授業の邪魔にもならないだろ?」
 それで勘弁してほしい、と言わんばかりにザックスは手を合わせて首を傾げた。ストライフ教諭は一つ息を吐くと、消え入りそうな笑みを浮かべた。
「差し出がましかったな。人を不安にするのは事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の意見である。俺にはお前の幸せを定義する権利はない」
 だが、と彼は続けた。
「学生が教育を受ける権利を奪われるべきじゃない。授業中はスマホをロッカーにしまうこと。先生方の気分を害するから言ってるんじゃない。これはお前のクラスメイトのためでもある」
 先ほどまでの優しい表情は薄れていき、見慣れた冷たい双眸がザックスを射竦めていた。ザックスは思わず肩を竦めた。
「はーい」
 ザックスは席を立つと職員室を後にした。廊下に出た途端、眩暈のするような熱気に襲われる。職員室の、ストライフ先生の席の辺りは特に涼しかったので、反動で熱く感じるのかもしれない。
 熱さにまとまらない思考を働かせながら、ザックスは彼女へ送るチャットの文面を考えた。
 彼女を傷つけずに、事情を納得してもらえるようなメッセージを。これからはストライフ先生に心配されないような関係を彼女と築いていくのだ。


 授業が終わると直ぐにスマホを確かめた。メッセージが大量に届いている。さっきの休み時間中やり取りをしていたのに。画面の向こうで彼女がどれだけ荒れているか、容易く想像できてしまう。
 画面に彼女の名前が光る。メッセージを読んでいないことに気付いたらしく、彼女は電話をかけてきた。
 早く電話に出なければ。それから彼女を宥めて、授業中はチャットできないともう一度説得して。彼女が落ち着くまで、愛していると伝える。彼女以外に好きな人はいないと、証明する。
 ザックスの表情が焦りから凍り付いていった。バイブ音が鳴り止まず、同級生達もザックスを注目している。ザックスはスマホを手に急いで廊下へと向かっていった。友人たちも彼の追い詰められた表情に気付き、彼を引き留めることはできなかった。
 教室に残っていた教諭が、翠の瞳をザックスに向けている。彼はザックスの身に起きている事態を把握していた。彼をそんな状況に陥らせてしまった人間が誰かなのも。
 彼を目で追っていたら、女生徒からの質問を一部分聞き逃してしまった。教諭は短く女生徒に謝罪すると、男子生徒を追って教室を出ていった。

 
 夕方の黄色い日差しに照らされた校舎内、生徒の行き交う階段の踊り場から彼の声が聞こえた。
「だから、前みたいに連絡はもう出来なくなったんだ。先生にも注意された」
 階段を下りて彼の元へ近寄っていく。踏み入られるのは嫌がるだろうか。だが、彼に余計なアドバイスをしたのは自分だ。どうしても気になってしまう。
 他の生徒たちも、通り過ぎざまにザックスの会話に聞き耳を立てているようだった。彼は学校に知らない人はいないほどの人気者だ。その彼が、たった一人の彼女に振り回されている。複雑な表情で見送る女子生徒や、揶揄うように笑う男子生徒もいた。
 ザックスは教諭の姿に気付いたが、一度目配せをしただけでそのまま彼女と通話を続けた。人に会話を聞かれていることを気にする余裕もないらしい。
「ごめん、寂しい思いさせて。え?ああ、お前のことが好きだよ。当たり前だろ」
「分かってる。学校終わったら会いに行くから」
「週末はお前とずっと一緒にいるよ。お前が行きたがってた店、連れてくからさ」
 電話している間にザックスの目には涙が浮かんできていた。生徒も教師もいる前で情けない所を見せたくないが、意識しなくても滲んでくる。ザックスは額の汗を拭う振りをして目元を指で擦った。
 どんなに好きだと伝えても彼女には伝わらない。信じて貰えないのが辛い。付き合い始めた頃は一緒にいるだけで楽しかった。自分の愛情が薄れてしまったのだろうか。それを彼女が過敏に察しているのかもしれない。だから彼女をこんなにも不安にさせてしまっているのだろう。
 涙声になるのを堪えながらザックスは通話を終えた。深く呼吸をして気持ちを落ち着かせる。ここにいるのは自分の彼女と無関係な人ばかりだ。理性が感情を制御し始めてから、ザックスはストライフ教諭に声をかけた。
「俺の言い方が悪かったのかな。また彼女泣かせちゃった」
 ストライフ教諭は難しそうに眉間を寄せている。自分の指導こそが間違っていたと言わんばかりだった。
……お前は何も悪くない」
「慰めてくれるの?先生、優しいんだな」
「本当のことを言っただけだ。お前は彼女の要求に応える努力をしているじゃないか」
 生徒の行き交う階段を見回すと、教諭はザックスへと真摯な目を向けた。
「時間があったら、少し二人で話さないか。彼女のことでお前の力になりたい」
 ザックスは訝しみながらも頷いた。他の生徒や教師たちの往来の絶えないこの場所から離れられるのならとりあえずどこでも良い。ストライフ教諭は、人の視線を集めすぎるのだ。特に一人の生徒を構っているとなると、向けられる意識は好奇心だけでなく敵意が混じってもおかしくなかった。


 教諭がザックスを連れて行ったのは、学校の裏庭だった。コの字型に配置された校舎の、西側の実習棟。倫理の授業はこの棟の二階にある教室で行われる。その西棟と学校の敷地を囲う壁との間には、放棄された学校の備品の置かれた狭い裏庭があった。全学年の教室のある東棟とは異なり、こちらは授業のない時間は人気が少ない。少し離れたところには教師の利用する喫煙所もある。喫煙所と言っても、日よけと一脚の吸い殻入れがあるだけだが。
 ストライフ教諭はザックスを喫煙所から程離れたベンチへと連れていった。近くの巨木が影を落としているとは言え、真夏の屋外は気の遠くなるような暑さだ。外に出た途端滲み出した汗を拭いながら、ザックスはストライフ教諭へと問いかけた。  
「先生も煙草吸うの?」
 白い肌に珠の汗を浮かべて教諭は頷く。
「ああ」
「俺の前だから遠慮してる?気にしなくていいよ。親父が吸うんだ」
 教諭はちらと隣に座るザックスへと目配せした。年下ながらに自分よりも一回りは恵まれた体格をした青年。未成年の、または非喫煙者の前で吸うのは躊躇われた。受動喫煙の影響を心配しているから、というだけではない。生徒に喫煙が許されないのと同様、生徒の前では喫煙しないというのが教師側のルールだった。
 額から滲んだ汗が目に入る。ストライフ教諭はそれをシャツの袖でぐいと拭った。ザックスはその仕草を惚けた顔つきで見つめていた。教諭のようにおよそ欠点というもののない美しい造形の人も、汗を掻くのか、と。
「彼女のことだが」
 教諭がそう口にした途端、ザックスの表情は暗くなった。今こうしている間も彼女を待たせているという自覚が湧いてくる。笑顔の薄れたザックスを見て、教諭は苦々しく眉根を寄せた。
 ザックスの意識を引き戻すように、教諭は凛とした声で続けた。
「お前は彼女に対してどんな愛を抱いている?」
 その質問にザックスは疑問符を浮かべた。意味を理解しかねる。愛とは、相手を好きだということの他に何があるのだろう。それ以外の感情は、無関心か、もしくは嫌悪かのはずだ。
「どんな愛って……
 ザックスの問いを予測していたのだろう。教諭は口先だけの薄い笑みを浮かべた。
「愛の定義自体は曖昧だが、愛には六種類あると言われている。心理学の話だが……
 いつもと変わらぬ涼やかな目と、熱さに紅潮した頬に汗の筋を垂らしながら、教諭は指折り数えながら語った。
「エロス、ルダス、ストルゲ、プラグマ、マニア、アガペーだ。簡単にそれぞれ説明すると、エロスは情欲的な愛、相手の肉体を求めるもの。ルダスは駆け引きを楽しむゲームのような愛。ストルゲは友情的な愛で、プラグマは実利的な愛。求めている見返りを与えてくれるかで相手を選ぶこと。マニアは偏執的な愛。相手に強く執着して、独占欲を抱く。アガペーは自己犠牲的で、相手に尽くすタイプの恋愛だ。お前と彼女は、どれが一番当てはまると思う」
 この質問に何の意味があるのか、ザックスには分からなかった。まるで授業の延長だ。そもそも彼の講義内容と自分達の恋愛が共通点を持つなど考えた事がなかった。
 教諭はポケットを漁る仕草をして見せたが、直ぐに手を引っ込めた。彼のズボンのポケットにはきっと煙草が入っているのだろう。
 ザックスは戸惑い悩み、ストライフ教諭はそれを知ってか知らずか無言で待ち続けた。彼の姿を脳の表層で見つめて捉えながら、ザックスは彼女と自分の愛の定義を考えた。
「彼女は、マニア……なのかな。俺が友達の女のコと話すの、すごい嫌がるし。俺は多分、その、友情みたいな奴かも」
「ストルゲ?」
「そう、それ。元々彼女は中学が同じで、友達だったんだ。久しぶりに再会したら、彼女のこと良いなって思って」
 ストライフ教諭が得心したように頷いた。
「彼女を不安にさせているのは、その違いかもしれないな。ストルゲの特徴だが、パートナーに対してマニアのような独占欲を感じることが少ない。お前にその自覚はあるか?」
 ザックスは腕を組んで首を捻った。彼女に男友達がいると聞いたことはない。もしいきなり紹介されたら?彼女と友達になってくれたことが嬉しい、とは思う。だが自分が女友達を紹介した時の彼女のように、腹を立てたりすることはないだろう。
……俺って、ちゃんと彼女のこと愛してないのかな」
 自分と彼女のどちらが相手を愛しているかと言われたら、それはきっと彼女のほうだろう。あんなに熱心に求められたのは彼女が初めてだ。ザックスは彼女を不安にさせているのはそれに応えられない自分の所為だと思い始めていた。
 表情の暗くなっていく彼を、ストライフ教諭は静かな声で諭した。
「さっきも言っただろう。愛の定義は曖昧だ。どの愛が正解だとか、深いとか、そんなことは誰も決められない」
 だが、と教諭は続けた。
「愛と幸福感の関係には事実がある。愛を感じていない人よりも愛を感じている人の方が幸福感が高いとか、肉体的、感情的に最も満足できる関係性は特定の人との一対一の関係である、とかだな」
 ザックスの表情が険しくなる。彼の語る理論には、身に覚えがあったからだ。
 教諭はそれまでと変わらぬ調子で続けた。
「もう一つ、エロスは満足感や関係維持の正の予測変数になっている、というものもある。有体に言えば、パートナーに肉体的な意味で求められることに満足感を覚えるということだ」
 鑑賞するように見ていた教諭の横顔を、ザックスはもう一度まじまじと確かめた。先ほど聞こえた言葉は本当に彼の口から発せられたのだろうか。耳と目とで脳に届けられる情報のギャップがありすぎて思考が止まってしまう。
……彼女とセックスしろって言ってる?」
 自分なりに分かりやすい言葉に置き換えて、ザックスは教諭に問いかけた。教諭はそれまでに見たこともないような、含みのある表情を浮かべた。口先だけ笑っているように見えたのは、顔立ちの良すぎる教諭に対するザックスの偏見だろうか。先ほどの発言はあまり学校で教師に対して生徒が口にするべきではない言葉のような気がしたが、教諭は特に否定はしなかった。
「統計的にだが、マニアが強い人は自己肯定感が低い傾向にある。一方でエロスが高いほど自尊感情も高くなる。彼女が自己肯定感が低いからマニアの恋愛をしているのだとしたら、自尊心を高めてやればいい」
 教諭は暑さに耐えかねたように前髪を搔き上げた。それだけの仕草なのにぞくりと鳥肌が立つほどの色気を放っている。
 ザックスは顔が熱くなっていくのを抑えられなかった。夏の日差しに晒されているからというだけではない。
 アドバイスへの反応を待つように教諭がこちらを見つめている。ザックスはそれに気づくと、難しい表情で腕を組んだ。
「俺、今の彼女とはまだ一度もセックスしたことないんだ。大切にしたいから。でも、それが逆に彼女を不安にさせてたのかな」
 太腿に膝をついた教諭が、指先だけを合わせた手のひらを口元へ宛がった。学者が討論するときのような仕草だとザックスは感じた。しかしその思慮深そうな彼の口から飛び出たのは、とんでもない下世話な話題だった。
「ただの噂なら謝罪する。だが、お前は今までに何人もの女性と短い間だけ関係を持つという付き合い方をしていたと聞いた。付き合いもせずに関係だけ持った女子もいる、と。正直それは、満足感の高い恋愛とされていない。だが、お前の今の彼女との付き合い方はそれと対極にあるように聞こえる。彼女だけは特別なのか?」
 ザックスにとっては寝耳に水だった。彼の言ったことは全て事実なのだが、教諭がこれまでの自分の恋愛遍歴を知っているとは思ってもみなかった。他人にそこまでの興味がある人には見えなかったからだ。そもそも彼が生徒の猥談を記憶しているということが、ザックスにとっては驚愕に値した。
 みっともない一面を暴かれて、深く俯いたザックスの前髪から汗が滴り落ちた。暑すぎて、頭がそれで一杯になって、うじうじと一つの事に思い悩むのが難しくなってきていた。そもそもザックスは物事を深く考えるのは苦手だった。
「今までの付き合い方を反省したんだよ。前の彼女、最後は泣かせちゃったから……。その頃の俺は多分、エロスしかなかった」
「だから今の相手は愛し方を変えたのか。意識して出来るものじゃないと思うが。性的魅力を感じないのか?」
 全てを見通していると言わんばかりの涼やかな目で見つめられて、ザックスはもう耐えられなくなった。項垂れたまま、じとりとした視線をクラウド教諭へと向ける。
「察して。俺、我慢してんだよ」
 話し相手が彼じゃなかったらかっこつけたりしなかった。そもそも、彼女を抱きたいと思わない男なんていない。
 クラウド教諭は軽く俯いて小さく吐息を零すように笑った。
「なんだ。それで困っているわけじゃないのか」
「からかってる?性欲ない訳ないでしょ。俺、男子高校生だよ」
「それもそうか。なら、もう少し踏み込んだ話題に移ろう」
 まるで同世代の友人のように打ち解けた気分になり始めた頃だった。教諭がすっと目を細めて、彼の役職を感じさせる視線をザックスへと向けた。
「俺は何も彼女を抱けと言っている訳じゃない。二人ともまだ保護者の庇護下にある年齢だし、むしろ可能なら控えるべきだ。だが、セックスをしなくても幸福感を得る方法はある。キスやハグ、あとは単純な肉体の接触」
「そんなんでいいの?手繋ぐとかなら、彼女といつもやってるけど。こんな感じで」
 言いながらザックスは教諭の白い手をぐっと掴んだ。そのまま彼の手のひらの薄さを確かめるように、何度か握り締める。彼女の手はもっと柔らかかった。教諭の手は骨ばっていて、お互いに骨が当たる感触がある。
 無遠慮に手を掴まれながら、教諭は物憂げに視線を伏せた。
……触り方を変えてみるのはどうだ」
 そう言って教諭は、ザックスの手のひらの内側をつう、と指先で撫でた。小さな虫を捕まえたように擽ったくて、ザックスは思わず手を放してしまう。教諭は逃げた彼の手を追って捕まえると、彼の手の甲に自身の手のひらを重ね合わせた。そしてそのまま指を交差させ、根元の部分を優しく擦っている。普段は意識しない部分を触れられて、ザックスは神経に弱い電気を流されたように感じた。触られて初めて自覚したが、彼の指の腹が撫でている箇所は、足の付け根と同じくらい刺激に弱かった。教諭は深く絡み合わせていた指を緩めて解きながら、ザックスの手の甲を愛撫するように撫でた。彼の白い指先が皮膚から離れるまでを、ザックスは息を呑んで見守っていた。
 もうお互いの手は触れていない。それなのにザックスは胸が強く脈打って息苦しくさえ感じた。初めて女の子に性感帯を触られたときのような感覚だった。
 ザックスは暑さに気が違ってしまいそうになっていた。そんな彼を無理やり正気に戻そうとするように、ストライフ教諭は授業中と同じ冷めた顔をしている。
「性感帯というのは何も性器だけじゃない。唇や耳も人によっては感度が高くなる。指も神経が集まっているから、人によっては気持ちいいところだ」
 何かやましいことをしたはずなのに、教諭は相変わらず不愛想な表情で汗を垂らしていた。彼はそんなつもりで触ってきたわけではないのだろうか。いや、確実に意識していたはずだ。彼は恋人を喜ばせる触り方を実戦で教えたのだ。彼の考える倫理に紙一重で抵触しない方法で。
「耳や手が性感帯になるかは当事者の意識や経験、状況や環境も影響するだろう。ちなみに、女性はオーガズムが無くても性交に満足感を得られるらしい」
 ザックスは彼の甘い声に耳を愛撫されている気分だった。講義と言っていいのか、彼が吹き込んでくる情報を、まさに我が身のこととして経験していた。彼の授業が異様な人気である理由が良く分かる。果たしてあの教室の中にいる何人が倫理的なのか。生徒達は皆、この美しい教師の声に耳を嬲られたいだけだろう。
 ストライフ教諭は講義の時と同じ、穏やかな口調で続けた。
「お前が彼女を大切にしたいという想いは貴いものだ。それを恋人に望んでも叶わない人はいる。だから、彼女が望んでいることとお前が果たしたいことが両立できるように、俺は陰ながら応援している」
 彼はそう言うとベンチから立ち上がってぐいと背伸びをした。彼の顔には無邪気さすら感じさせる笑みが浮かんでいた。
「長々と引き留めてすまなかった。また教室で」
 ザックスは頭が惚けて、何も考えられなくなっていた。自分が先ほどまで彼に聞かされ教えられたのは、教室で聞く講義と同じ類のものなのだろうか。その皮を被せることが彼にとっての免罪符だったのではないだろうか。
 暑いな、と漏らしながら教諭は喫煙所へと向かっている。引き留めようとしたら、彼は何かを思い出したようにこちらを振り向いた。
「今日俺が話したことは、他の先生や生徒には内緒だぞ。二人だけの秘密の講義だ」
 教諭は人差し指を立てて薄く笑いながらポケットから煙草を取り出した。やはりずっと吸いたかったのか。煙草の香りすら生徒に嗅がせない人だ。どうやって今までこの一面を隠していたのだろう。知ってしまうと不思議だとすら思う。
 無人だった喫煙所から一筋の紫煙が立ち上り消えていく。ザックスはベンチから立ち上がって、蒸し暑い裏庭から離れていった。早く涼しい所に行って頭を冷ましたい。
 スマホにはいくつものチャットが届いている。彼女だけでなく友人からも、彼を心配するメッセージが綴られていた。ザックスはそれらの一つ一つを流し読みしながら、次の倫理の授業がいつ訪れるか、そればかりを考えていた。