kokokisu
2020-07-19 10:30:03
10150文字
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【ザックラ】The color of the sky 10


 雨にけぶり視界が霞む。クラウドは瞼で弾ける水の感触で目を覚ました。手のひらが細かい石だらけの地面に触れている。ここがどこなのか、横たわって曇った空を見ているだけでは分からなかった。
 指を動かしてみた。久しぶりに筋肉に電流が走る。長い間麻痺していた身体は、脳からの信号をまだ巧く受け取れずにいた。
 全身の反応が酷く鈍い。足先も動かしたが、硬いブーツが足の形をぴたりと模ったかのように強張っている。クラウドは立ち上がらずに、首だけを動かして周りを見回した。
 そこは、殺戮の現場だった。数えきれないほどの神羅兵が、息絶えて横たわっている。脚や腕がねじ曲がっているもの。首が千切れて身体だけになっているもの。人の形も成さぬほど、燃やし尽されて消し炭になったもの。胴体から真っ二つに分かれて、腹を自身で足蹴にしているもの。
 無慈悲、という言葉が相応しい地獄だった。ソルジャーの彼が奮迅し、神羅兵が食い下がった結果だ。
 たった二人の逃亡者、実質一人の兵士を捕まえる為に、神羅軍は軍隊を投入した。彼らの重装備も、人間相手に準備したものとは思えなかった。マシンガンにランチャーなど、かつてウータイと戦争していたときの武器をそのまま流用している。ウータイ軍を壊滅させた男、いや、彼らにとってはモンスターが相手なので、その兵装は妥当と考えられた。
 ミッドガルを臨む小高い丘、二人の目的地までは目と鼻の先でのことだった。目前に迫った希望と、守るべきものの存在が、彼を鬼に変えた。それだけの数の敵を相手に、彼は最後まで互角の戦いを繰り広げた。
 クラウドは身体をうつ伏せに返すと、辺りに散らばった遺体に一瞥もくれず、崖の方へと這って行った。そこに行かなければならない、ということしか分からない。
 数年ぶりに身体の制御を取り戻した。だが彼の精神は未だにライフストリームと自身の肉体の間を彷徨っている。直前の記憶さえも失われていて、自分が一人で地面に倒れている理由も、血の惨劇の理由も分からない。それでもクラウドは、彼が、ザックスが傍に居ないことを受け入れ難く感じていた。
 クラウドは本能的な直観に従い、身体を芋虫のように這わせて丘を登って行った。そこに何があるかも知らず。強烈な光に、虫が惹きつけられるようにして。
 降り注いだ雨は固い地面を流れ、そこかしこに血の混じった水溜まりを作っている。地表を薄く覆う土が濡れて滑り、クラウドは何度も泥の中に顔を突っ伏した。それに何も感じずに、クラウドはただ一か所を目指して身体を引き摺っていった。
 丘を登るにつれてだんだんと神羅兵の遺体の数は減っていく。地面の傾斜が緩くなり、先を見通せるようになる。切り落としたような絶壁の先には、ミッドガルの都市の明かりが見えた。
 天に向かって突き出した隆起の切っ先に、彼はいた。他の神羅兵とは異なる兵装をしていて、傍らには巨大な剣、バスターソードが彼と一緒に横たわっている。そして、彼の下の地面には、彼の身体よりも大きく拡がる巨大な血だまり。
 クラウドは、自由に動かない四肢を前に出し、彼の元へ這って近付いていった。足が上がらない。自分の動きが鈍い。あまりのもどかしさに、心臓ばかりが脈を速くする。立ち上がり、駆け寄って、彼を抱き起こしたい。彼は大事な人だ。なのに、手足はちっとも従わない。
 見下ろした彼は、身体中に銃を撃ち込まれて穴が空いていた。端正な顔立ちが、頭から流れた血で赤く染まっている。目を見開いたまま、雨を総身に受け入れて、瀕死の彼が仰向けに転がっていた。
 彼の傍まで身体を引き摺り寄せると、クラウドは血濡れの顔を覗き込むように上体を起こした。
「ザックス」
 クラウドが、名前を呼んだ。ザックスはそれに驚いたが、その些細な反応を返すことにさえ全身に激痛が走った。顔を顰めて、血混じりの息を吐き出す。
 自分はもう長くはない。が、クラウドを生かすことができた。上出来、いや、それ以上だ。彼が、自分の全てなのだから。
 こちらを見下ろすペールグリーンの瞳が、不安げに見開かれて揺れた。雨に濡れた金髪が如何にも寂しげで、道に迷った子供のようだ。ザックスは苦痛に歪めていた顔に笑みを浮かべた。もう運命を受け入れていたはずなのに。彼にそんな顔をされると、星に還りたくなくなる。
 残った命を使い果たすようにして、ザックスは声を絞り出した。
「俺のぶんまで―――
「あんたのぶん?」
 クラウドがザックスの言葉を反復し、小首を傾げた。幼ささえ感じる仕草だった。
「そうだ、おまえが―――
「おまえが?」
 一つも聞き漏らさないように、クラウドは真摯な瞳をザックスに向けていた。
 ザックスの力強い手が、金色の頭部を掴んで引き寄せた。血まみれの、穴だらけの胸に彼を押し付ける。
「生きる」
 弱くなっていく心臓の鼓動が、クラウドの耳には聞こえていた。彼は星に還ろうとしている。その目前に迫っている事実は、クラウドを泣きたくなるほど悲しくさせた。
「おまえが―――、俺の生きた証」
 クラウドのうなじを押さえていたザックスの手が、力なく地面に落ちる。クラウドはゆっくりと顔を上げた。ザックスの身体から溢れ出した血が、クラウドの金髪に、白い頬に、べたりと付着している。血まみれの顔を底知れぬ悲しみに彩り、クラウドはザックスをじいと見つめていた。彼がここにいる今を、一秒たりとも見逃したくなかった。
 ザックスは最後の力を振り絞ると、右手に掴んで離さなかった大剣をクラウドへと差し出した。
 誰よりも尊敬するソルジャーから受け継いだもの。彼の命と一緒に、自分が誇りを引き継いだ。他の誰かに渡していいものではない。クラウドだから、託せる。戦い抜いて、生き延びた彼には、この剣と共に背負われていた想いの全てが相応しかった。
「俺の誇りや夢、全部やる」
 クラウドがザックスの手からバスターソードを受け取った。不慣れな手つきで柄を握り締めたのを確かめると、ザックスは半ば押し付けるようにして、剣を彼へと突き飛ばした。
 今は分からなくても良い。だが、受け取れないとは言わせない。これは自分の命だ。
 使い込まれた剣の柄は、手のひらに馴染んで重い。人一人を抱えているような存在感がある。クラウドは託されたものを決して取り落とさないよう、渾身の力で握り締めた。
「俺が、おまえの生きた証」
 言葉の意味を噛み締めるように呟く。彼は、ザックスに剣を託された理由をまだ呑み込めていなかった。
 ザックスは、強い人だ。自分なんかよりもずっと。太陽のように輝いていて、いつも眩しく感じていた。直視するのも、気後れした。弱い自分を何も惜しまず守ってくれた。彼は誰よりも生きるべき人だった。
 そんな彼が、自分を生きた証と呼んだ。彼と自分とでは、とてもじゃないが生の重みが釣り合わない。自分では絶対に彼の代わりにはなれない。なのに、どうして。
 ザックスは最後まで笑っていた。笑顔のままで眠るように目を閉じる。そうして、彼は静かに息を引き取った。
 彼の表情は穏やかで、何の不安も後悔も抱いていなかった。彼はクラウドのことを信じていた。
 クラウドなら大丈夫。彼は強い。彼が、自分の分まで生きてくれる。

 雨が降り頻る。クラウドは、ザックスが再び目を開ける時を待っていた。もう一度だけ、と、彼の瞳に宿る空の色を求めた。だって、許されないことだ。彼の太陽のような笑顔が、永遠に失われるなど。
 少しずつ、千切れていた心が繋がり始めていた。失ったと思った記憶は、常にそこにあった。ただ触れる方法が分からなくなっていただけで。
 ザックスの死に立ち会い、クラウドは目が覚めたように自らを取り戻していった。ずっと破ろうとしていた分厚い殻に大きな亀裂が走る。目を眩ますような光が差し込む。
 真っ先に蘇ったのは、胸が痛くなるほどに優しい彼の笑顔だった。
……トモダチ、だろ?』
 その瞬間、クラウドは今までにあった出来事の全てを悟った。

 狼の咆哮が丘の上に轟いた。
 大切な人を失った狼が、総身で悲しみを叫んでいる。他の何も心に入り込む余地がない。クラウドは、ザックスの死にただただ打ちひしがれていた。
 彼と過ごした記憶が今になってクラウドに追いついてくる。濁流が堰を壊して流れ込み、何もかも呑み込むかのように。
 受け止めきれない。受け入れられない。彼がいなくなってやっと自分を取り戻すなど。
 彼から向けられる熱い視線、穏やかで力強い声、優しく肌を触る手つき。全てに、途方もない愛情が込められていた。全部、知っていた。分かっていた。それを彼に返す方法がなくて、自分はただ暗闇の中で藻掻いていた。
 クラウドは悲痛な嗚咽を漏らしながら、彼の名前を呼んだ。
「ザックス……!」
 まだ彼に何も与えていない。何も伝えていない。何も、何も、何も!ただの一度でさえも、愛していると言えなかった。抱き締め返すこともできなかった。彼は、あれほど愛してくれたのに!
 土砂降りの雨と同じだけの涙を流した。彼の名前を、何度も何度も呼んだ。声も涙も枯れるまで、クラウドは悲しみを食らい尽した。

 雨を降らせていた分厚い雲に切れ目が入る。そこから差し込む光がクラウドの顔を照らした。隙間から見える空は、目に染みるほどに青かった。
 泣き尽して、もう何も残っていない。クラウドの中身は空っぽになった。感情は涙になり、雨と一緒に全て洗い流されてしまった。
 彼がもういないという事実が存在する。認めたくないが、受け入れられないが、彼が二度と目を覚まさないことだけは分かっていた。
 クラウドが悲痛な面持ちでザックスの頬を撫でた。間に合わなくてごめん、と呟く。
 自分ではとても力にはなれなかっただろう。でもこの先へと二人で向かえないのならせめて、彼と共に戦って、この場で一緒に尽きたかった。弱い自分にはそれすらも許してもらえなかったが。
 手のひらを彼の頬から左耳へと滑らせる。ザックスが常に身に着けていた、銀色のピアス。クラウドはそれを丁寧に外すと、細い銀の針で自身の右耳を貫いた。一瞬走る鋭い痛みと、鈍く残る熱。彼をこの身に刻み付けるには、不十分なくらいだった。
 自分という存在こそが、彼が遺してくれたもの。これから与えられる未来でさえ、自分だけのものではないと感じる。クラウドは意味を噛み締めるように、彼の顔を目に焼き付けた。
「ありがとう。忘れない」
 尽きない悲しみを抱えたまま、剣を掴んで立ち上がる。クラウドは目を瞑り、ザックスへと祈りを捧げた。
「おやすみ」


 巨大なバスターソードを引き摺りながら、クラウドはミッドガルへと歩き出した。二人で目指した、神羅の街。ザックスはこの場所に希望を抱いていた。
 トラックの荷台で聞いた彼の言葉が頭に蘇る。
 ミッドガルで、俺はなんでも屋をやる。違う。俺たちは、なんでも屋をやる。ソルジャーにしかない知識や経験を利用して、危険なこと、面倒なこと、報酬次第でなんでもやるのだ。
 そうして金を溜めて、適当に住む場所を探す。毎晩、腹いっぱい食べて、力尽きるまで愛し合って、柔らかいベッドで眠る。神羅兵に見つかったら、蹴散らしながら別の街に逃げて、そこでまたなんでも屋をやればいい。二人でいられれば、どこに住むかは関係ないだろ。一緒に居ることが幸せなんだから。
 枯れ果てたはずの涙を幾筋も頬に這わせながら、クラウドは気が付くと声を漏らして笑っていた。ザックスが意識のない彼に聞かせた、夢のような逃亡生活の計画の記憶だった。なんて無鉄砲で、無茶苦茶なんだろうと思う。けれど。
「あんたなら、本当にその夢を叶えてくれそうだ」
 生きて、生きて、彼の生きた証を残す。だからどうか、これからも見守ってほしい。命を繋げてくれたことを、決して無意味にはしないから。
 引き摺っていたバスターソードを、クラウドは軽々と肩に背負い直した。覚束なかった足取りも、ソルジャーのように堂々としたものになっていく。まるで、誰かが彼の身体に宿ったかのように。
 クラウドはその魔晄の瞳で真っ直ぐに鋼鉄の街を見据えた。ザックスに託された全てが、太陽よりも確かにクラウドを導いていた。

































 叩きつけるように降る雨で、先を見通せず、とにかく視界が悪かった。
 黒いボディに描かれた神羅の赤いエンブレム。滝のように滑り落ちる雨に洗われ、微かな光を反射し鈍く輝いている。文明の支配が届かない荒野に浮かぶ鋼鉄は、何者も寄せ付けない威容を感じさせた。雨空に黒く浮かぶのは、神羅でも汚い仕事を請け負う、タークスの操るヘリだった。
 空を低く滑空して、黒いヘリはミッドガルへと向かっていた。サーチライトで街道を照らし、そこに人影がないことに落胆と安堵の感情を抱きながら。
 彼らが捜しているのは、神羅の研究施設から逃げ出した二人の実験体だった。
 一人は、元ソルジャー・クラスファーストのザックス・フェア。彼は宝条の実験で体内にジェノバ細胞を埋め込まれ、強い拒絶反応から五年もの間眠りについていた。だが彼はジェノバの支配から逃れ、自我を取り戻してしまう。追っ手を振り切り、彼は大陸を横断する逃走劇を繰り広げていた。神羅の支配から逃れる為に。
 もう一人の実験体は、元神羅軍の一般兵、クラウド・ストライフ。彼はジェノバ細胞を埋め込んだ身体を魔晄漬けにされ、宝条の仮設を実証する為の道具にされた。その実験が失敗したと分かるや否や、施設で放棄されていた哀れな青年だ。
 目を覚ましたザックスは、クラウドを連れて実験施設である神羅屋敷を出て行った。故郷であるゴンガガ村を去り、バノーラ村で元ソルジャーであるジェネシスとの決着をつけて、それでも彼は歩みを止めなかった。何かに急かされているように、病人を引き摺って旅を続けた。
 もしかしたら、一般兵の方は不運だったかもしれない。彼はわざわざ死へ向かう旅に連れ出されてしまったのだから。意識のない彼は果たして、命を懸けた自由を求めていたのだろうか。
 ザックスはミッドガルに向かっている。ミッドガル七番街のスラムには、彼の大切な人がいるからだ。
 選りにも選って神羅の支配が隅々まで行き渡っている街を目的地にしなくとも良いのに。神羅軍は彼らを捕まえてタークスを出し抜こうと躍起になっている。ミッドガルの周囲は、蟻一匹通さない厳戒態勢だ。いくらソルジャーとはいえ、その包囲を掻い潜るのは不可能だろう。
 タークスの任務は彼らの捕獲だ。だがタークスの主任であるツォンには、その前に果たさなければならないことがあった。私情を任務に持ち込まない彼だが、一人の女性の願いに理念が揺るがされている。彼女はザックスの大切な人であり、ツォンにとっても重要な意味を持つ女性だった。
 ヘリの座席に置いたケースに、所在を確かめるように手を乗せる。封の張り巡らされたそれには彼女の手紙が詰め込まれていた。
 彼女から手紙を託されていた。他に届ける宛てがないのだ、と言われて。ザックスが意識を失っていると彼女には伝えず、彼に手紙を渡すこともできずに、五年もの月日が経過した。これはザックスが受け取らなくてはならないものだった。
「不良郵便屋さん、もうすぐミッドガルだぞ、と」
 ヘリを操縦している部下のレノが呟いた。言外に、彼らを見つけるまでのタイムリミットが迫っていると告げていた。


 壊滅した神羅軍が、雨に濡れた大地に無数の遺体を積み上げている。現場に到達したツォンは、まるで戦争があったかのような有様に眉根を顰めた。先走って壊滅した神羅軍に同情などしたくもないが、無能な上司に従い無為に命を散らしたものには憐れみを覚えた。
 自分達の到着を待っていれば、死なずに済んだ者がどれほどいただろう。
 ソルジャーとはいえ、ここまでの戦闘能力のあるものはそうそういない。惨状を見て直ぐに思い当たったのは、伝説のソルジャーであるセフィロスだ。正気を失い、ニブルヘイムの住人を惨殺して村を焼き払ったセフィロス。この光景だけ見たなら、ソルジャーが暴走してまた悲劇が生まれたのかと思う者もいるだろう。
 だが、ザックスは彼とは違う。
 ツォンはザックスの人となりを知っていた。彼は無意味に人を殺す男ではない。追い立てられ、必要に駆られたのだ。ツォンはこの状況を生み出した者への苛立ちを覚えた。
「なんつー有様だよ……。あ、俺らに突っかかってきてた小隊長か、こいつ」
 一人の遺体のヘルメットを外して、レノがドッグタグを確認した。プレートに刻まれた情報を読み上げる。タークスに手柄を奪われまいと息巻いていた愚かな男の名前だった。
 惨事の元凶は既に消え失せていたようだ。しけった炭が燃えるように、怒りがツォンの胸中で燻っていく。
「本部に連絡をいれろ。私達だけではとても処理しきれない」
 ツォンはレノに指示を出すと、遺体を避けて歩きながら丘を登っていった。
 倒れ伏した神羅兵が銃口を向けている先に、ミッドガルを望む突端がある。ヘリから現場を確認したとき、その場所に彼がいるのが見えていた。

 雨に濡れた小高い丘の上に、彼の身体は横たわっていた。ツォンは革靴が泥にまみれるのも構わず、彼の元へと歩み寄っていった。
 身体中に無数の銃痕があり、肉体を流れる殆どの血を地面に垂れ流している。それ以外に彼を殺す方法が神羅軍にはなかったのだろう。少しでも近付いたら、彼にしか扱えない巨大な剣で叩き切られている。
 一人で戦い力尽きた彼は、まるで眠るように穏やかな顔をしていた。神羅軍の愚かさに憤りを覚えていた自分が馬鹿らしくなるほどに。彼の安らかな死に顔を見てしまうと、神羅が彼を捉えるために一個中隊を使ったなど、一般人は信じないだろう。
ツォンは一つ、様々な感情を織り交ぜた息を吐いた。
 彼はソルジャーで、自分はタークスだった。社内では若い方だったが、比重の大きな任務をよく任されていた。彼は、部署こそ違えど同僚のようなものだ。一緒に仕事をしたこともある。任務を終え、無事にミッドガルに戻ってこれたことを労い合ったことも。しっくりくる言い方で形容するなら、彼は戦友だった。
 部下や同僚の死に立ち会うことなど日常茶飯事で、割り切れないままそれでも感覚は麻痺し始めていた。だから、別れには慣れている。慣れたつもりだった。それなら、身を針で脊椎まで貫かれるようなこの痛みはなんだろう。
 任務のターゲットに特別な感情を抱かないようにはしているが、彼相手では流石に難しかった。捕獲できたら生死を問わない、と言われたにも関わらず、任務の成功よりも彼の命を優先してしまいそうになるほどには。
 ツォンは、何も考えずにその場で膝を折った。
 黒で仕立てたスーツが汚れることも厭わずに。
 彼に、彼女から託された手紙を読ませたかった。それで彼の運命が変わったかもしれない、などとは考えていない。それどころか、手紙を読ませた後は、使令通りに捕獲するつもりですらいた。
 ただ、彼に知って欲しかったのだ。彼が生きていることを切望するものがいると。
 ツォンが目を閉じて、短い黙祷を捧げた。彼の亡骸は、せめてこちらで埋葬したい。本部に引き渡したら、機密情報そのものとして、彼の身体は資料のように扱われてしまう。
 閉じていた目を開き、痛ましい状態になった彼を眺める。ツォンが違和感に気付いたのは、その直後だった。
 銃弾を浴びて穴だらけになった彼の胸が、微かに膨んでしぼんでいる。まるで、生きた人間が眠りながら呼吸をしているかのように。喘息のように小さな音を立てて、彼は酸素を肺に取り込んでいた。
 ツォンは暫く呆然としてしまった。自分が都合良く事実を捻じ曲げようとしているのでは、とすら考えた。数えきれないほどの人間の死に立ち会い、人はどのような状態に陥ったら命を失うかを知っているツォンにとって、異常としかいいようのない事態だった。
 逞しい首に走る頸動脈に指を添えた。それから彼の心臓に耳をあてがう。
 ツォンの涼やかな横顔には、変色した血がこびり付いていた。雨でも流されずに、彼の衣服に滲み込んでいたものだった。顔を汚したまま、瞳を少しも動かすことなく、ツォンは思考を働かせた。
 ザックスが生きている。ツォンは、彼の生存を喜ぶよりも先に、これからの自分が取るべき行動を考えた。
 捕獲して神羅に連れ帰ったとして、宝条や治安維持部門のハイデッカーに見つかれば何をされるか分からない。なら、彼は現場から消えたことにしてしまった方が良いだろう。この有様を見たら、納得せざるを得ないはずだ。タークスも神羅軍も、ソルジャーの捕獲任務に失敗した。それだけの話である。
 そもそもタークスはプレジデント直属の独立組織だ。ハイデッカーは自分の下に置いておきたいようだが。タークスは神羅軍と違い、彼の命令がなによりも優先されるということはなかった。当然、化学部門の宝条を慮る理由もない。
 ツォンのザックスを生かしたいと言うのは、殆ど本能的な欲求だった。宝条の行う実験に対して懐疑的だったというのもある。だがなによりも、既に尽きたと思っていた友の命がまだそこにあるという現実に、ツォンは身体と思考を突き動かされていた。
 地面に溜まった水を跳ねさせながらレノがこちらへと駆け寄ってくる。彼はまだ、逃亡者が生きているとは知らなかった。だから、常に身綺麗にしている上司が顔を血で汚していることに、酷く面食らっていた。
「主任、本部と通信できました。17:40頃に先遣隊が到着するそうだぞ、と。……そいつらと一緒に宝条も来るみたいで」
 レノの報告にツォンの顔が強張った。本部に応援を呼ぶにはまだ早かったようだ。宝条の手に渡してしまえば、彼の未来は潰えてしまう。
 宝条は五年前から続く今回の事件の元凶と言っても良い。彼の好奇心は人の尊厳を踏み躙ることを厭わない。ザックスの亡骸ですら、彼にとっては玩具なのだろう。ましてや彼がまだ生きていると知ったら。
 ツォンは宝条に捕らえられた彼が実験に使い果たされ、身も心も利用し尽される未来が見えた。下らない実験の為に、彼は五年も昏睡していたのだ。それがまた繰り返されるなど、とても許されることではない。
 ザックスのこれからの処遇について考えていると、ツォンの頭にもう一人の逃走者のことが過ぎった。彼も宝条に見つかってしまっては、どんな扱いを受けるかわからない。ザックスが命懸けで守ろうとした彼を放置しては置けなかった。
「レノ、もう一人のターゲットは見つかったか」
 上司に声を掛けられ、レノは渋い顔で首を振る。
「この辺りには転がってなかったぞ、と。金髪に魔晄の目だろ。金髪がそもそもいなかった」
 ツォンがザックスの思考行動を脳内でトレースする。友人であるクラウドを神羅屋敷から助け出したかったのは分かる。だが、魔晄中毒で動けなくなっている彼を、敢えてミッドガルに連れていくだろうか。双方にとっての危険が大きすぎる。
「最後に二人揃った姿を目撃されたのはバノーラ村だったか。彼だけ途中で逃がしたのか……?ともかく、ザックスをここから運び出すぞ。こいつはまだ息がある」
 レノは驚愕して目を見開いた。ザックスの重傷は遠目からみても明らかだった。ヘリで見つけた時点で、彼を捕獲するのではなく、遺体を回収する任務に切り替わったのだと思っていたのだが。
「この情報はまだ誰にも共有するな」
 鋭い目をした上司の下した予想外の命令に、レノは思わず苦笑を漏らした。仕事中に感情を露わにする姿を見るのは初めてだった。
「なんて言い訳するんです?」
……言い訳など必要ない。現場の有様をそのまま報告しろ。神羅の治安維持部門の中隊が壊滅、だけでいい。生存者はいなかったんだろう?」
 ツォンはレノに念押しした。ザックスと交戦した神羅兵は、全滅したと認識している。もし生き残りがいたとしたら、また別の対処が必要になるからだ。
 レノは得意げに笑った。
「人数確認ならできてますよ。タグも揃ってます」
「ザックスをヘリに運び込む。痕跡の処理は任せた」
「りょーかい、っと」
 レノは嬉しそうに真似事の敬礼をして見せた。どんなに汚い仕事も感情を殺して完璧にこなす上司が、私情を隠さずに部下を使っている。詳らかに自分へ指示を下す姿は、信頼の証としか思えず、ただただ嬉しかった。彼の人間味が垣間見えた気がした。
 黒のスーツや革靴が汚れることも厭わずに、ツォンが彼を肩に担ぐ。彼の身体はまだ温かく感じた。運命に抗おうと、最後まで戦っていたのだと思い知り、胸に込み上げるものがあった。