白澤はこれまでずっと結婚しようとか結婚したいとか考えた事はなかった。彼にとって女遊びは何よりも大切であり、結婚する事によってその相手以外と遊べなくなるのは絶対に避けなくてはならなかった。
そもそも白澤は生き死にの概念の無い神であり、これからあと何年生きるかも分からないのにたった一人を嫁に迎えるなど不可能だと思っていた。相手に寿命があったらその誰かを失う辛さに耐えられないだろうし、もし寿命がなかったら一生他の誰かと遊べなくなる。結婚してから浮気をするくらいなら、いっそ結婚しない方がいい。白澤は誰かに忠告されようと軽蔑されようと、その生き方を止めようとは思わなかった。
そんな白澤に転機が訪れたのは、ある一人の鬼と出会ってからだった。その彼はたった数千年しか生きていない鬼神で、白澤からみたらまだまだ子供だ。誰にも愛想のよい白澤だが、彼とだけはそりが合わない。下らない諍いがきっかけで、顔を会わせる度に喧嘩をしていた。思いつく限りの罵詈雑言をお互いにぶつけあっていたが、不思議と無視をする事だけはしなかった。
喧嘩をする仲は相変わらずのまま、何時からか彼らは身体を重ねる仲になっていた。初めは酔った勢いか、相手に自分の優位を見せつけるためか、碌でもない経緯だった。しかし嘘が真になるようにして、何度も身体を重ねるうちに、白澤はその相手が特別になってしまった。
白澤の相手は閻魔大王の第一補佐官である鬼神鬼灯だ。ある日、彼が白澤の結婚に対する意識を変えてしまった。
いつもの様に喧嘩をして、それから身体を重ねた後に、憔悴した鬼灯が煙管を口に咥えたままぽそりと言葉を漏らした。
「家族を持つってどんなものなんでしょうね」
「そう言えばお前も家族はいないのか」
鬼灯が穏やかな瞳を横にいる白澤に向けた。
「ああ、貴方も私と同じでしたか」
その声には共感も同情も何の感情も込められていなかった。ただ事実を述べたと言うだけのようだった。
それきり会話は途切れたのだが、白澤はこの時の一言をずっと忘れられないでいた。
この日、白澤はいつも桃太郎に頼む配達を自らこなした。行く先は閻魔殿だ。目的の相手に会うためにやってきたのだが、いつもいるはずの執務室はもぬけのからだ。閻魔大王に行先を聞いて、白澤は鬼灯のいるらしい地獄の一つへと向かった。
よりによって今日、鬼灯は亡者へ拷問をしていた。いつもならまだ薄れている血の臭いが今日は一段と濃くなっている。新入りの獄卒に指導しているらしく、亡者に向かって金棒を振るうその表情は地獄の鬼にふさわしい凶悪さだ。
白澤は地獄の亡者の血肉から発せられる瘴気に顔を顰めながら鬼灯の元へ近寄っていった。鬼灯がそれに気付き、振るいかけていた金棒を空中でぴたりと止める。
「何の用ですか、白澤さん。そんな所にいたら金棒が当たりますよ」
言い終えると同時に鬼灯が亡者への呵責を再開した。白澤の身体を鋼鉄の棘が掠り、風圧で白澤の髪も白衣も嵐に遭ったように捲り上がる。逃げ惑う亡者の背骨が鬼灯の金棒一振りで叩き折られた。
「しまった、これは悪い見本です。一撃で殺さずに、出来るだけ苦痛を与える様にしてください」
顔を白くした獄卒がその光景に息を飲む。鬼灯は活活と唱えて亡者を再び生き返らせた。さっき経験したばかりの痛みで逃げようという意気すら削がれた亡者に、再び容赦ない金棒の殴打が襲いかかってくる。
どうしてこんな鬼を好きになってしまったのか、白澤は今でも自分が理解出来なかった。相手なら他にもいくらでもいるはずなのに。少なくとも、鬼灯という鬼神は白澤が今まで相手にしてきた中で白澤の好む女の性質から最も遠い。
「鬼灯」
白澤の声が自分の名前を呼んだのを聞いて、鬼灯は驚いた様に目を見開いた。
「貴方、私の名前を知っていたんですね」
血塗れの顔で振り返ると、鬼灯は白澤の元へつかつかと歩み寄った。
「それで、何の用ですか。呵責体験でもしたいのなら、新米獄卒の練習台になってもらいますけど」
着物の袖で顔を拭う鬼灯を見て、白澤はすっかり肩を落とした。
きっとこの日は長く生きている自分にとっても忘れられない日になるはずなのに、何故鬼灯はこうもいつも通りなのか。白澤の方こそ普段から使っている薬臭い白衣姿で、この日の為に何か特別な用意をしてきた訳でもない。ただ鬼灯に会うだけなのに、いつもの自分でなくなるのは不自然な気がしたからだ。しかし鬼灯の方は度が過ぎている。亡者の血や脂の染みこんだ着物に、寝不足で青白い顔をしていて、神の好む清浄さからかけ離れていた。
しかしその見慣れた鬼灯の姿こそ、白澤が心を決めた理由だった。自分の好む物からかけ離れている彼なのに、ちっとも気が変わらない。
「結婚しよう」
白澤がそう口にすると、鬼灯は眉だけをぴくりと動かした。
「エイプリルフールにはまだ早いぞ爺」
「分かってるよ。もう決めたんだ。僕、お前と家族になる。ふざけてなんかいないよ、ここに居る皆が証人だ」
周りにいた獄卒達が二人のやりとりに戸惑っていた。鬼灯と白澤が不仲だと言う事は、獄卒になって直ぐ先輩から教えられている。鬼灯に白澤の話題を出すのと命を危険に晒すのとは同義語だとさえ言われた。その為に、白澤のいきなりの鬼灯への告白をどう扱っていいのか全く分からなかった。
まず上司である鬼灯の様子を窺おうと、新米獄卒達が彼の顔をちらりと見やった。
鬼灯はそれまでに獄卒達の見た事の無い表情で、顔を真っ赤にしていた。いつも無表情の彼が、怒りの感情を堪えるように口を引き結んでいる。眉根は深い皺を刻み、目元はぴくぴくと震えていた。
獄卒達は全員がここから避難するべきだと判断していた。しかし、たった一人、白澤だけが、嬉しそうににやにやと笑っていた。
鬼灯が白澤を憎々しそうに睨み付ける。
「ずるいですよ、白澤さん。どうしてそんな事、覚えているんですか」
低く威圧感のある鬼灯の声が、この時ばかりは弱々しく震えていた。鬼灯の鉄面皮が、白澤にだけ分かるほど崩れている。
「さあね。でもあの時が初めてだった気がする。お前と僕と、いつも喧嘩している僕達がさ、一瞬だけ同じ事を考えていたよね」
白澤が鬼灯の手を取り、弾けんばかりの笑顔で獄卒達を振り返った。
「さあ、祝言だ!君たちラッキーだよ。神獣と鬼神の契りの立会人になれるんだから」
言うなり白澤は鬼灯の唇を皆の目の前で奪ってみせた。鬼灯は不意打ちに驚いて白澤から逃げる事が出来なかった。
鬼灯の腰をぐいと抱き締め、白澤は口を笑みの形に歪めた。
「これからは、鬼灯が僕の妻だ。皆、こいつに手を出したら承知しないよ」
それまでは自分が誰の物にもならないのと同時に、誰かを束縛する事も無かった白澤が、初めて誰かを自分の物にしたいと願った。結婚して初めて自分にもその権利が生まれたのだ。白澤はだから鬼灯と結婚したかったのだとやっと納得がいった。
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