sfaddict117
2023-06-11 00:23:08
12785文字
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初めて出逢う夢を見ている

7/30イベントにて頒布予定の新刊本文サンプルです。
記憶無し、まだ西中の虎でもない頃の13歳になっちゃった(?)🐯と過ごす🐺が情緒めちゃくちゃになる話です。
※本誌221話までのネタバレ、多大なる捏造を含みます。
※宿…は🐯の中に完全に封印され、自我もなければ🐯と代わることもない状態になっている設定です。
※成人向けですがR18シーンは元の🐯と🐺のみです。サンプル掲載部分のみ伏→虎のフェラ描写があります。

プロローグ


「だから、ダメなんだって」
 深夜二時かそこらの、もうだいぶいい時間だった。 
 未練がましく数え続けていた連敗記録も二桁を超えるといい加減慣れが生じるらしい。
 何やら説教めいた話の中身は無視してその音だけを追いながら、元よりそう意気込んではいなかった心が大して傷付いていないのを確かめてドアノブに手を掛けた、そんな覚えがある。
「何回言っても変わんねえよ。俺は伏黒のこと、そういう風には見れない」
 今日、いや今日もか。虎杖に好きだと言った。結果は見事、玉砕。答えを噛み締める間もなく説教が説得へと移り変わるのを声音で感じ取りながら、早く終われとそればかり思っていた。
「伏黒なら他にいくらでもいい子見つかるって。なんなら合コンとか付き合うから。な?」
 清々しいほど何とも思っていない、虎杖はきっとそんな顔をしていたはずだ。何も言わない俺を見限ったのかそれともとうに諦めているのか「そんじゃあまた明日な、おやすみ」と欠伸混じりに手を振るのをわざと視界に入れないままドアを閉めた途端、込み上げてきた苦い思いにふらついて俺はずるずるとその場に座り込んだ。
 クソ、何が「他にいくらでも」だ。ふざけやがって。
 今更、ショックも何もない。ただ、夕方から立て続けに三件の任務を片付けて疲れきっていた心と身体に沁みた、それだけのはずなのに。自己暗示の効果とはこうも虚しいものなのか、大して傷付かないわけのない胸はどことは言い表せない奥の辺りがズキズキと痛んだ。それを無理やり、性懲りも無く隣からの物音に縋ってやり過ごして、気付けば次の朝――それはもう最悪な目覚めだった。
 これが二週、いや三週間前の話だ。
 心に形が無いのは本当に厄介で、真っ向から拒まれ砕かれたはずの俺の心は時間の経過と翌日からも何一つ変わることなく重ねられた日常を経て見事元通り。俺の、そして虎杖の意思に関わらず揺るぎなく修復された。
 そうして迎えた今日、三月二十日。虎杖の誕生日。
 俺は朝から単独で一日掛かりの任務が入っていて、虎杖の方は午後から。だから必然的に出掛ける前に声を掛けることになって――別に、誕生日だからじゃない。俺が先に出る時はいつもそうする。逆は一度もないが――いつものように二回、間を置いてさらに二回、ドアを叩いた。
「もう伏黒、朝っぱらから何……? 俺まだ寝てんだけど」
 気を利かせた台詞は一つも頭になかった。何度目だろうと、今日が何の日だろうと変わらず、何より先に伝えたいことがあった。たとえそれが、今日も今日とて全く意味を成さなくても。
「好きだ」
 眠たげに伏せられた目がはっきりと覚醒するのが分かった。しかし虎杖は顔を上げない。
……オマエが何回断っても、俺のためだの何だの勝手なこと言っても変わんねえ」
 どこがとか、理由とか。守りたいとか大事だとか、どんな感情も誰より強く当てはまるのに、他のどんな気持ちにも代えられない。もうずっと前から、言葉や尺度じゃ収まらないくらい、俺は、オマエのことが。
「好きだ。虎杖、俺と」
「ごめん」
 遮って、虎杖が顔を上げる。
――もう、はっきり言うけどさ。俺、伏黒のこと」
「俺は、オマエが生きてて嬉しい」
 心底うんざりしてる、そう言いたげな顔がぴたりと固まって、真っ直ぐに俺を映す。
「好きだ。……このままずっと、俺の隣で生きてほしい」
 溢れるまま口にした次の瞬間、頭の中が真っ白になった。虎杖の目から一筋、流れ落ちるものがあったから。
……っ、いや……。だから、その話は」
 感情のまっさらになってしまったこの顔で、これからどう釘を刺すというのか。こうしている間も虎杖は言葉を詰まらせて、俺の心を挫くような酷いことなど言えるはずがない。
 こんなの、もう答えだろう。
 本当は今すぐ抱き締めたかった。隠すように目元を隠す手を掴んで、暴れたって殴られたって構わない。でも、こんな時でも俺は意地が悪くて、どうしても虎杖の口から言わせたかった。後からどんなことがあっても撤回なんかできないように、言わせたかったし、聞きたかった。
 やがてポケットの中が震えだした。電話は伊地知さんからで、追加でもう一件任務が入ったから巻きで出発したい、つまり今すぐ来いとのことだった。
 ふざけんな死ね。いや、伊地知さんじゃなくて。けど、マジでどんだけ働かせりゃ気が済むんだ。先の戦いでますます人手が減ったのは分かるし、昇級もした。でも、そうは言ったって高校生に頼りすぎだろ。口振りからそう楽な任務でないことも伺い知れて、ますます気が重くなる。
「朝っぱらから大変だな。ドンマイ」
……まあ、帰りがけにもう一件よりマシだけどな……っておい、虎杖おまっ、ドア閉めんな!」
 咄嗟に足を挟むと虎杖は「げっ」と素の声を上げた。慌てて力を緩めたようだが直撃は免れず、酷い音に続いて冗談みたいな痛みが走った――はずだが、構っている余裕はない。
「何しらばっくれようとしてんだ。あ? 気を付けてじゃねえよ馬鹿。返事しろ、さっきの」
「だ、だって……! 伊地知さん待ってんじゃん、行かねえと」
「だから今すぐ言えっつってんだ。開けろ。そんでさっさと――……さっさと、言えばいいだろ。はっきり」
 ええ、と弱気な声を前にじわじわと、体の奥の奥から高揚していくのを感じていた。何でもないように投げかけたい「早くしろ」のたった一言すら不気味に上擦ってしまいそうなほど――聞きたい。言ってほしい。苦しいくらい早鐘を打つ心臓の鼓動に息が詰まって、思わず胸を押さえそうになる。
……っ、ほらまた、呼んでんじゃん。行けって……あ、後でちゃんと……その。帰って、きたら」
……変わんだろうな」
「へっ」
「いつも即答するだろ。……そういうことだって、思っていいんだな」
「いっ!? いや別に、変わるとかじゃ」
 虎杖が言い切らないうちに俺は走り出した。三度目の着信を疎ましく思いながら、ふらつくような、地に足のつかない感覚はひどく頼りないのに少しも悪い気はしない。ほとんど確信していながら、それでも期待と不安とが入り混じる気持ちの奥でさっきの戸惑った表情――俺のこの心がどれほど虎杖を追い詰めていたかなど知る由もなく、あの涙を反芻しながら地面を蹴った。
 信じてた、などと豪語するほど自惚れてはいない。ただ、初めてこの気持ちを明かした時「……ごめんな」と、その時僅かに震わせた空気と、逃げるように伏せられた目。全身全霊でそれに懸けていたのだ。今日まで、ずっと。
 友情の延長、下手したら同情か最悪ただの罪滅ぼしのつもりかもしれない。それでもいいと、この時は思った。俺の気持ちが今日、虎杖の中で何かを変えたなら。
 嬉しくて、浮かれていた。
 俺たちに“後で”など約束されていない、そんな当たり前のことすら、遠く忘れてしまうほど。





「詳しいことは何も分からない」
 その時の心臓が凍り付くような感覚にはいやに覚えがあった。
 混乱した頭でもあっさりとその正体に辿り着いたから案外冷静だったのかもしれない。同じように宣告されたあの時、まだ昼間だったのに酷く薄暗かった病室の無機質な匂いと、ベッドの前でいつまでも立ち尽くしていた無力な自分。あの時とよく似た絶望感があった。寝たきりどころか、皮肉にも本物以上に傷の無い状態で、虎杖はそこにいるのに。
……また先生? にしては若いけど」
 立てば俺より七、八センチは低いだろうか。大人しくパイプ椅子に座っている虎杖は朝と同じパーカー姿で、しかし今までとは何もかもが違っていた。
 全体的に一回りかそこら細く感じる首や脚。テンションの高い時よりもう一段階キーの高い、芯の部分がまだ変わりきっていない声は見た目に適っているからかたった一言で耳に馴染んで早々に違和感を確信へと塗り変えてしまった。けれども、それ以上に――今より幼い顔にはっきりと在る、虎杖を虎杖たらしめる証。これで別人と言う方が無理のある話だ。
「ピッチピチの中学一年生だって。もちろん、今日からめでたく十三歳のね。色々調べた結果、記憶に知識諸々、ここにいるのは二〇一六年を生きる虎杖悠仁でまず間違いない。……いやあ、まるっと三年分若返っちゃったっていうのならまだ話が単純なんだけどさ。そうと見せかけて、肉体の方はあくまで外見だけ、呪力の質も術式も今の悠仁そのまんま。こんな中途半端なトリップ、下手なSF映画でも見たことないよ」
 傷はない。でも、宿儺はいる――なのに、虎杖は、いない。
「まあ今のところ他に異常は無いし、様子見るしかないね。……ってことで僕、これから出張だから。後は頼んだよ、恵」
……その時の状況は? 何も分からないって、コイツがやりあった呪詛師の術式に決まってるでしょう」
 確か詐欺同然の悪徳商売で儲けているとかいう、いかにもな類の呪詛師だ。そいつの調査及び確保が今日の虎杖の任務だったと記憶している。戦闘になったとして虎杖が敗けるとは思えないし、そいつの術式の影響なら――
 縋るように黙っても、五条先生は何も言わない。
 今、二十一時だ。虎杖が呪詛師と相対した時刻を仮に俺が連絡を受けた二時間前ジャストとしたところで、並の術師がこのレベルの術式を数時間単位で持続できるわけがない。
 目の前の事実に膝から崩れ落ちそうだった。そもそも術式が原因なら、この状況下で解かされていないはずがないのだ。
「もちろん呪詛師の男は拘束してるよ。奴の商売はまさしく三年分の若返りを謳ったインチキ施術で、反転術式もどきのソレは持続して数十分がいいところ。そんなものもうとっくに解かせてる……っていうか、そもそも悠仁相手に使ってないって話だし。……本当に、男はただの三下だよ。肉体ならまだしも、他人の精神にここまで介入する術式、万が一にバグって発動したとしても持続できるわけがない。現に男は檻の中でピンピンしてるしね」
……この状況で『後は頼んだよ』って、正気の沙汰じゃないでしょう。このことが上に知れたら? それに、これからもし虎杖の内側で、何かあったら」
「出来る限りの検証は済んでる。宿儺は悠仁の中にいるけど、いるだけだよ。ちゃんと元のまま、綺麗に封印されてる。もしもそこんとこまで巻き戻ってたら、恵の言う通り出張どころじゃなかったけどさ。ホント、運が良かったよ。まさしくご都合展開っていうか――
「だから、これからその『もしも』が起こったらどうすんだって言ってんだよ!」
 しん、と静かになってから虎杖が俺を見ていることに気付いた。そしてすぐ後悔した。見なければよかったと。
 混乱も焦燥もない、いやに大人びた無表情は俺の知る虎杖のものではなかった。痛々しい傷痕も、血の滲むガーゼも、きまり悪げな笑顔もそこに透けて見える痛みも、コイツには何も無い。初めて出会った時ですら、こんな顔――そうだ、あの時も病院だった。だけどあの時とは全然違う。まるで別人のように冷めた表情で、全てを知っている俺を見ている。
 嫌だ、と本能が訴えている気がした。
 先月だか虎杖は任務で結構な大怪我をして、出血多量で一時生死の境を彷徨った。その時を思えばこんなこと、何でもない。使われた形跡の無い奥の手術台も、血の匂いも消毒液の匂いもしないこの空間も、黙って佇んでいるだけの家入さんも――虎杖が生きているより大事なことなんか何も無いと、心からそう思うのに。
 俺を知らない虎杖がそこにいる。それが酷く不自然で、どうしようもなく足がふらついて、気持ちが悪い。
 やがて虎杖がゆっくりと五条先生の方に向き直った。
――先生、いつ帰ってくんの?」
「うん? ああ、これから出張でさ。予定では明後日までだけど、明日の夜には戻れると思うよ」
「じゃあ俺、ここで待ってる」
 五条先生が瞬きしたのが分かった。それを虎杖も察したのか「ここで待ってるよ」と淡々と繰り返す。
「それかその、出張? 俺もついてく」
「そいつは無理な相談だよ、悠仁。そりゃあ僕といたら世界一安全だけど、外は誰が見てるか分かんないからね。それこそ何かあった時、対応するのも隠蔽するのにも限界がある」
……分かってますよ」
 虎杖より俺に向けられた言葉を苦々しく咀嚼して、飲み込む。納得したわけでは到底なかったが。
 冷静になれ。明日には五条先生が戻る。万が一が起きても、その場凌ぎくらい俺にだってできる。あれから強くなったはずだろ、そのために。
……巻きで帰らなかったらぶん殴りますから。あと明日の俺の任務、ちゃんと誰かに引き継いでくださいよ」
「オッケーオッケー。……ってなわけで悠仁、また明日。悠仁にはちょこっと不便な思いさせるけど、僕がいない間は恵がちゃあんと面倒見てくれるから大丈夫。いい子にはお土産買ってくるからね」
 虎杖本人とはいえ、無関係の子供だ。念には念を、極力刺激しないようにとの意図があってのことだと理解はしていたが――巻きで帰れっつってんだろ。ヘラヘラしやがって。感情は遠く追いつかず、イラついて仕方がなかった。大体「また明日」って、それまで戻らないのがまるで前提のように言いやがる。五条先生じゃない。虎杖が。
――ううん。俺、ここで待ってる」
「え? 悠仁?」
「先生戻ってくるまでここにいる。だから、その人の世話にはなんねえ」
 その人、と一瞬だけこちらに視線を寄越して、虎杖はすぐ五条先生へと向き直る。 
「俺、目立ったらダメなんだろ? なら移動しない方がいいじゃん。別に逃げようとか思ってねえし、心配なら鍵掛けてけば」
「あーあー、ほらもう、恵が嫌なこと言うから。……大丈夫だよ、悠仁。危ないことも怖いことも、何も起こんないから。それにこう見えて恵は悠仁のこと」
 頭を撫でようとしたのだろう、五条先生が虎杖に手を伸ばした。それが、ぱしりと音を立てて振り払われる。
 虎杖はきっぱりと言い切った。
「俺、その人に面倒見られんのやだ」
……悠仁?」
 ――コイツ、こんな顔するんだな。他人事のようにそう思うしかなかった。俺が怒鳴った時より余程響いて聞こえるのはやはり声質のせいだろうか。響くし、よく通る。痛いくらいに。
「だって、すげえ迷惑そう」
 吐き捨てた幼い声に心臓の奥まで凍りつかせて、俺はそこに立ち尽くした。



 布団を剥いでごそごそやっている音で目が覚めた。部屋はまだ暗く、時間を見てうんざりする。クソ、あと一時間は寝れたじゃねえか。
「あ、伏黒起きた。おはよ」
……何してんだよ」
「や、目ぇ覚めちゃったから。走ってこようと思って」
 薄手のパーカーの下に短パンを履いて、まさしく準備万端といった感じで言ってのける虎杖の顔には隈一つなかった。昨日は朝から丸一日外に出ていて、布団に入ったのは日付が変わる頃だったというのに。体力無限かよ、コイツ。
「なんか目ぇ冴えちゃってさ。だってすげえもん見ちゃったし。……昨日のアレ、伏黒はいつできるようになったの? 式神ってやつ俺も出せる? なあ伏黒、伏黒ってば」
「うるせえ話し掛けんな。俺はまだ寝る」
「伏黒と五条先生でも全然違う感じだし、呪術師って色々なんだな。俺ってどんな技使えんの? つか使える? 先生からは殴って倒せとしか言われてねえんだけど」
 そうして、古いベッドが軋んだ瞬間――、眠気が吹き飛んで消えた。
 いて、と間抜けな声を上げて虎杖がよろめく。俺が突き飛ばした薄っぺらい体は簡単にぐらついて、危うくベッドから転げ落ちるところだった。
 何が「俺も」だ。こんなんで戦えるわけねえだろ。と、思っても口に出しはしない。言って痛い目を見るのは俺の方だ。
……つうか走ってくるって、ついてかねえといけねえやつだろ」
「ゆっくりでいいよ。待ってるから」
「嫌に決まってんだろ。寝ろ」
 ええ、と不満げな声を無視して頭から布団を被った。


「連れてくって、何ふざけたこと言ってんですか」
 年中人手不足の業界だ。虎杖の監視を理由に一級呪術師がいつまでも高専に篭っていられるわけもなく、事態から三日が過ぎた後は信頼の置ける補助監督に虎杖の面倒を頼んで任務に出るようになった。
 そして、あっという間に二週間が経った。
「あくまで同行するだけ、戦闘は無し……なーんて言っても聞かないだろうから、雑魚限定で悠仁にも戦わせるよ。もちろん術式の使用は禁止、呪力も最低限しか出力できないよう予め硝子に仕組ませる。基本的な説明は僕の方からするから、恵も色々かい摘んで教えてあげて」
 何を言ったところで聞き入れられないと分かっていた。むしろ「案外殴った弾みとかであっさり戻るかもしれないしね」なんて冗談とも言えない話に期待している自分に嫌気が差していたが、もう、なりふり構っていられなかった。
 二週間だ。拘束されたままの男には肉体的、精神的な疲弊は見られるものの呪力量に変化はない。にもかかわらず半月以上持続する術式効果――と、思われるもの。
「色々限界でしょ。対応してくしかないよ」
……分かってますよ」
 びゅう、と風の吹く音がした。四月に入って競うように咲きだした桜は早くも満開の時期を過ぎていて、もう二、三日もすれば葉桜になるところだった。
 見たいと言っていたのに。花見がしたいだの、何だの。
「じゃあ僕悠仁のとこ行くから、また後で。あ、心配なら見ててもいいけど。……恵?」
……いえ」
 何も、と言えるような顔はしていなかっただろう。本当はまだ迷っていた。迷ったところで譲る気などなかったが。
 俺に虎杖を守りきれるだろうか――その答えが、これまで見てきた地獄でも。


 体を起こすと虎杖が振り返った。「着替える」と呟くとぱっと表情を明るくして、懲りずにベッドに寄り掛かってくる。
「いいの?」
「聞くな。行きたくなくなる」
「やった、伏黒サンキュー! あ、戻ったら飯作ろうか? いつもの簡単なやつだけど。あと洗濯と掃除も」
「昨日も言ったろ。そういうのやめろ」
「でも俺居候だし、奢ってもらうばっかだし」
「財布も持ってねえ奴に金出させるかよ」
「惜しかったんだよなあ、ちょうど家着いて鞄放り投げたとこでさ。まあどうせ小銭しか入ってなかったんだけど……五条先生が言ってたけど、呪術師ってめちゃめちゃ給料いいんだろ? 俺も早く貰いてえ~」
「バイトみたいに言うな」
 だって、と口を尖らせる子供に、今度は我慢ならなかった。
「死ぬんだよ。俺もオマエも、強い術師だろうと命の保証はどこにもない。無惨に殺られて、死体も残らねえことだってザラにある。オマエが首を突っ込もうとしてんのはそういう[世界|こと]だ。暇潰し程度の気持ちなら誰が何と言おうと連れてかねえ」
 説教じみた言葉を垂れながら、もう――ほら見ろと自嘲して、虎杖から目を逸らす。
 祖父と暮らしていたことしか知らない。俺と会うまで呪霊を見たこともなかったはずなのに、どうしてこんな顔をするのだろう。「うん。分かってるよ」と、頷く幼い顔が見慣れたものに重なって、どうにかなってしまいそうだった。

 外に出る頃にはすっかり日が昇っていた。隣を走る息遣いは高専の周りを二周しても大して乱れはせず、まだ当分この調子で走り続けるだろう。コイツより先にバテない自信は正直微妙なところだった。
「あ、今日月曜じゃん。伏黒コンビニ行こ、ジャンプ買って!」
……オマエ、奢られたくねえつってたの誰だよ」
「お願い、今週だけ! 先週伊地知さんに買ってもらってさ、今めちゃくちゃいいとこなんだよ。多分もう決着するから」
「つうか、よく三年先の漫画なんか読もうって気になるな。ネタバレどころの話じゃねえだろ」
「いやもう別物って思って読んでるし……俺が好きだったやつ終わってたのはショックだったけど。なあ頼むよ、来週からは自分で買うから」
「給料日は月末だ」
「ウソっ!? そんなあ、俺ずっと金無いじゃん……
 横顔だけでもコロコロと表情を変えているのが分かった。弾んでいる分声の幼さが際立つが気にはならない。元より大した違和感もなかったが、こうやって言葉を交わすたび、虎杖そのものだと思わされてばかりだ。
 きっちり三周走り終えたところで通りの方に進路を変えた。すると虎杖があんまり分かりやすく喜ぶから、俺は残りの体力を無視して強引にスピードを上げた。
「なんか伏黒顔赤くない? 大丈夫?」
「黙れ。それ以上言ったら買わねえ」
「なんで!?」
 もう一段階速度を上げて虎杖を振り切る。息を切らしながら、走る以上に必死の思いで真顔を取り繕った。
 クソ、きつい。心臓に悪いんだよ、本当に――まるで、いつも通りのように傍にいるから。


 俺には頼らないと宣言した後、五条先生と家入さんに説得されて渋々俺の後についてきた虎杖だが、隣の部屋――つまり虎杖の自室に鍵が掛かっていないことに気付くと、今度はそこに篭ると言い出して聞かなかった。
「ここ、俺の部屋なんだろ。さっきも言ったけど、別に逃げも隠れもしねえし。監視しなきゃ気が済まねえっつうなら、一晩中ドアの前にでも居れば」
 釘崎なら間違いなく手か足が出ただろう。冷ややかに言ってのけながら虎杖は俺の方を見向きもしない。だが俺は、腹が立つどころじゃなかった。
――悪かった」
 近付いて、虎杖の腕を掴んだ。振り払われてもよかった。今、言わなきゃ終わる。その一心で振り絞った。
「俺は、元の――……今朝までここにいた虎杖のことが、大事だ。だから少しでもアイツに危険が及ぶような真似はしたくなかった。……けど、巻き込まれてんのはオマエの方なのに、厄介だって思ったこと、謝る。ごめん」
 知りもしない他人に頼るしかない居心地の悪さ。呪力だの術式だの、自分のことをまるで物のように語られ、扱われる不気味な感覚。俺はそのどちらも、実体験として知っているのに。
……うん。いいよ」
 部屋のドアを閉めた時にはぐったりと疲れ切っていた。しかしその一方で、何とも言えないむず痒さも同時に感じていた。
 許されてホッとしたのも、警戒を解いたかと思えば一気に距離を詰めてきたこともそうだが(何を隠そう、コイツ真っ先にベッドに座りやがった)、子供とはいえ虎杖が俺の部屋にいる。しかも泊まっていくのだ。
「ここ、どう考えても一人部屋だけど。客用布団とかあんの?」
「あるわけねえだろ、んなもん」
「さすがに先輩を床に寝かすのは悪いって。一緒にベッド使ってよ。俺、結構寝相悪いけど」
「オマエが床に決まってんだろ。さっさと布団持ってこい」
「ちぇー」
 それからというもの、虎杖は必ず俺より早く起きて「おはよう」とカーテンを開ける。急に差し込んでくる眩しさと、今日もまた虎杖のいない一日が始まる、その事実に気が滅入って、なのに弾んだ声に呼ばれるのが決して嫌ではない自分に、また――そんな堂々巡りを今日で十九日続けている。いつか数えられなくなることを恐れながら。


「伏黒!」
 後ろから声がして振り返った。虎杖は俺の五十メートルほど後ろにいて、立ち止まって汗を拭いている。
「コンビニ! 通り過ぎてんだけど!」
……おう」
 朝のランニングにしては相当な距離を走っただろう。しかも後半は普通に走っていた。さすがに息が上がって、一度立ち止まるとすぐには動けなかった。俺も汗を拭いて、落ち着いてから来た道を引き返す。
「びっくりした、呼んでも全然気付かねえんだもん。考え事? 今日の任務?」
……オマエ、五条先生のとこ行かねえのか」
「先生?」
「当分高専で仕事するっつってたろ」
 宿儺の器、虎杖悠仁の消失。これは何も大袈裟な言い回しではない。宿儺に打ち勝ったのは、器たる素質を有していたのはあくまでも去年俺が出会った虎杖で、今ここにいる虎杖ではない。封印の方に影響が及んでいないのは現時点だけの話であって、家入さんはあれからほぼ不眠不休で調査を続けている。伊地知さんや新田さんにも通常業務に割り増しで負担を掛けていて、そんな多方面への影響を考えれば俺の感情など取るに足らないことでしかないのだが――それでも、嫉妬をするなと言う方が無理な話だ。元の虎杖に対する以上に“大人”で“先生”だとしても。コイツが俺より五条先生を選んだあの時のことは立派なトラウマと化していて、既に三回夢に見ている。もちろん、酷い悪夢だ。
 呪力の何たるかを知らされて「先生すげえ!」と無邪気に目を輝かせては「え、もう終わり? そんなあ、もっと稽古つけてほしいのに……先生次いつ時間あんの? 明日は?」とストレートに残念がって、傍から見ているだけで気が気じゃなかった。マジのガキだからか元の虎杖に輪をかけて素直で(「恵が中学生の頃なんて返事もしなかったのに」と五条先生に揶揄われて返す言葉もなかった)、信頼や好意が明け透けな言動には未だに処理が追い付かない。一方で、「明日から悠仁も任務行くからね」と聞かされた時の「え、マジで!? やった! ……でも中学生働かせんのってアウトじゃね?」と首を傾げてみせた顔も間合いも俺の知る虎杖そのもので。不意を打って現れる面影にいちいち馬鹿みたいに動揺しては、やっぱり違うと思い直す。違うと分かっていながら、どうしようもなく惹かれてしまう。だって、本人なのだから。
「いや、別に行かねえけど。だって伏黒のとこで面倒見てもらえって話だし……えっこれ、俺もしかして出てけって言われてる?」
 ほら。清々しいほど直球で、なのに馬鹿正直なだけじゃないから、困る。
 多分、虎杖自身に焦りは無い。この状況に順応して、ごく前向きに過ごしている。実際手掛かりも方法も何も無いのだから無理もない。そもそも虎杖としては揺るぎなく自分なのだ。だからこそ、余計に参る。
 好きだと口にするようになってから、虎杖はますます俺から遠ざかった。俺といる間中気を張って、移動中だろうが食事中だろうが隙一つ見せない。部屋になんか絶対来なかった。それが、コイツは俺と同じ部屋で平気で寝るのだ。
 いつしかこの距離に慣れてしまうことが、俺は怖い。怖いのに、無防備に近寄ってくるコイツを拒めない。だって、好きなんだ。嬉しいに決まっている。今なら、俺は虎杖に触れられる。
「考えてみりゃ三月から世話になってんだよな。あんま実感ねえけど……伏黒、もしかして俺がいるせいで寝られてなかったりする? なら、やっぱ五条先生に相談するけど」
「いや。別に、そんなことねえ」
「ホント? よかった、俺伏黒といんの楽しいからさ」
 こんな言葉を聞くたびに、胸を掴まれる思いがする。俺といて楽しいって、それ、元のオマエが聞いたらどう思う?
「え、なんでそこ黙んの……? おーい、伏黒?」
「っ! オマエ、近えよ!」
 覗き込んできた顔を思わず乱暴に押し退ける。何か喚いているが構っていられない。何度も言うが、免疫が無いのだ。
 虎杖に財布を押し付け、先にコンビニを出て元来た道を走り出すとまた後ろで喚き声がする。うるせえな。往来で騒ぐんじゃねえ。
 落ち着く間もなく足音とビニールの擦れる音が近付いて、すぐ傍で留まる。そこで俺は、唐突に気が付いた。
 ああ、そうか――。コイツには、俺への負い目が何も無いのだ。俺たちが出会った経緯も、それぞれの下した決断とそのせいでもたらされた凄惨な事実も、犠牲も、言いようのないわだかまりも。今の俺と虎杖の間には、何もかも存在しない。その事実がもたらす意味に、俺は今ここで気が付いてしまった。

(中略)

R18部分サンプル

……っ、ン」
 重ねれば重ねるほど離れがたくなっていく唇の感触を追いながら、パーカーの裾から素肌に触れる。腹に背中にと手のひらを這わせるとそれだけで溢れそうなほど欲情して、追い立てられるようにスウェットへと指を掛けると「どうしよう」と、不安げに目を揺らすのにまたぐっときて、頭を押さえていた左手も使って下着ごと一気に脱がせてベッドの下に捨てた。すぐまた覆い被さると濡れたままの唇は何か言おうとしたが、聞いてやる余裕は無い。無理やり舌を捩じ込んで、既に痛いほど張り詰めた腹の下を裸のそこに擦り付ける。
 汚れるとか何とか言いたいのだろう。胸を叩いて、押し当てたそばから虎杖は身を捩る。でも、そうしながらあっという間に硬くして、触れるとまるで待ちわびていたように俺の手を濡らしていく。
「ふ、ふしぐろ、も」
「いい。触んな」
「は……? なに、それ、どういう、っ」
 喉が渇いて仕方がない。飲み込んだそばから唾液が溢れて、まるで獣だ。引き締まった腹筋に指を這わせながら背中を丸めて、臍の下へと顔を近付けて口を開ける。
 今だって狂いそうなほど興奮しているのだ。触れられなんかしたらもう、おかしくなる。
「ッ! ま――ッ!!」
 背中から喉まで反らせるのを眺めながら先端を舐めて吸って、穴を抉るように刺激してやると上向いた性器がびくびく波打って濡れて、さらに硬くなっていく。
……っ、ふ、……っ! ッ、ぅ」
 おざなりに舌を這わせながらローションのボトルを傾けて、濡らした指を後ろに充てがうと虎杖は一瞬身体を固くしたが、止めは入らない。前の性器が溢れるほど濡れて張り詰めていくのにつれ、後ろは奥へ奥へと指を飲み込んでいく。慣れたな、とどこか感慨深いような思いで俺はその光景を見つめる。
 本番と言ってしまえば酷く安っぽいが、実際、今日がそうだった。
 不在だった分を取り戻すように朝から晩まで任務に出る虎杖を捕まえては、僅かな合間にこうして、触れられることを覚えさせた。今でこそ黙って耐えているが、最初はかなり抵抗したものだ。
「い、いやそんなん自分でやるに決まってんだろ! は!? なんでだよって、オマエこそなんでだよ! どこ使うと思って……っ、いやもう、そんな顔しても無理なもんは無理だから……!」とか何とか言って聞かなかったが、譲らなかった。つか譲るわけねえだろ。無理って、しかもそれが恥ずかしいからって、恥ずかしいとこ見るためにやるんだろうが。あまり煽るとやめると言い出しかねないから黙っていたが――本当に、半分はそれが目的で、残りの半分はただただ、俺の我儘だ。
 今日まで気が気じゃなかった。触れるたびに苦しいほど愛しくて、なのに胸の奥は不穏にざわめいて、本当は無理にでも挿れたくてたまらなかった。だって明日は、次はないかもしれない。だけど実際、慣らすだけでも簡単なことではなくて、虎杖に苦痛があっていいわけもなくて、触れている間も、寄り添って眠るだけの日々もずっと、ずっと触りたくて、欲しくて仕方なかった。早く、早く俺のものにしたい、言葉より涙よりもっと、確かなものが欲しい、と。

「っ、……う」
 ぽたりと汗が落ちて虎杖の腹を濡らした。パーカー、クソ暑いだろ。そう思ってからどれくらい経っただろうか。その時愕然とした温度差が、今も同じように俺たちの間に存在していた。
 二本根元まで飲み込んでもまだ少し余裕があった。なのに蓋を開ければ半分も入らず、決して痛いと言わずに耐えている虎杖を前に俺はだんだん後ろめたくなって、今。

(後略)