sfaddict117
2023-03-20 00:43:08
4339文字
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月が欲しい、欲しいと泣くこども

めぐゆじワンドロ様のお題【さびしがりや】をお借りしたものです。
虎の心を独占していたい伏の話。本誌212話ネタバレ有→その後捏造、全てが解決した世界線で付き合っている2人です。全年齢。

「さっむ!」
 一歩先に外へ出た虎杖が身震いする。両腕で自分の体をぎゅっと抱いて、動かずにはいられないというように忙しなく足踏みする姿。そこから予想される寒さに顔をしかめながら「だからもう一枚着とけって言ったんだよ」と俺はポケットに手を突っ込んで足を踏み出す。今日にも雪が降ると言われているだけあって、刺すような冷気で肌がひりつく。週末出張の予定が入っているが、電車は動くだろうか。
「あっ、いたいた――ちょっとそこの二人、自販機寄ってきて! 私と真希さんの分!」
 グラウンドから釘崎の声がして、虎杖が「わりー、財布置いてきたから無理!」と声を張る。
「伏黒が持ってるでしょー!!」
「そうなの?」
 何らおかしくない流れだ。それなのに送られた視線にどきりとして「持ってねえよ」と、同じく向こうに届けるつもりで出した声は意味もなく尖ってしまった。
「あっ、乙骨先輩いる。俺、シラフのリカちゃんに会ってみたいんだよね」
 いやシラフって何だよと思っている間に駆け出した背中はみるみる遠ざかって、一瞬にして先輩たちの元まで辿り着いた虎杖が笑って俺に手を振る。その顔をぼんやり眺めているとグラウンドまで半分も行かないうちに予鈴が鳴りだした。
 次の時間は持久走からの先輩達と合同の戦闘訓練だ。終わったら夕飯は皆で鍋にしようと言われていて、まるで夏の交流会前の、虎杖が死んでた時みたいな――あの頃を日常とは呼びたくないが、授業を受けてそれほどでもない任務に出向いて、飯を食って風呂に入って眠る。普通の、人間らしいルーティンをちゃんとこなせる日々が俺たちに戻って、既にひと月くらいは経っただろうか。
「なあ今から狗巻先輩と五十メートル走やるからさ、伏黒もやろ! この後の買い出し当番賭けて」
「なんで三人なんだよ。釘崎にもやらせろ」
「はあ? アンタこれから雪って日によくそんなこと言えるわね。か弱い乙女を寒空の下に放り出そうとすんじゃないわよ」
「積雪一メートル以下なんざ雪のうちに入らねえつってたろ。誰より適任じゃねえか」
 視界の端で虎杖が笑っている。狗巻先輩に何か耳打ちされて、また。別に見惚れているつもりはなかったが、釘崎から窘めるように蹴りを入れられた。
「え、伏黒何蹴られてんの……って、ああもう、チャイム鳴っちったじゃん。俺走りたかったのに」
「別に、今から走るだろ」
「ウォーミングアップしたかったの!」
 唇を尖らせて隣に戻ってくる虎杖の肩に白いものが落ちてきて、頬と鼻先を赤くした横顔が上を向く。普段目にすることのない顎から喉にかけての輪郭に今度は本当に見惚れて、何に追われることもなくそうしていられる平穏に思いを馳せた。
 ひと月ずっと、前と同じように周りに受け入れられて、笑ったり馬鹿やったりする虎杖が傍にいる。夢みたいな現実に、俺はまだ慣れない。傷が癒えても、バタついていた周囲が徐々に落ち着きを取り戻しても。
「伏黒? どうかした?」
……いや」
 俺を映す目は傷ついても絶望してもいない。終わらない悪夢のようだった日々のそれとはあまりにも違って、穏やかでやさしくて――俺には少し、眩しい。

 昨日任務終わりに五条先生と顔を合わせた時、ようやく後始末に一区切りつけられそうだと言っていた。相変わらず飄々としていたが、事が済んでからというもの碌に寝ていないことを誰もが知っている。知っているから、誰しも黙って与えられた任務をこなしていた。とはいえすぐに順応できたわけではなく、秒単位で奔走する五条先生を強引に捕まえて、何か隠してはいないかと――俺たちだけがこんなに平和でいいわけがないと、真っ向から問い質したこともある。
 何が何でも吐かせる気でいた俺の剣幕に五条先生は暫しポカンと口を開けて固まった後、失礼極まりないことに盛大に吹き出すと肩を震わせ大笑いした。仕舞いにはアイマスクまで外して涙を拭うと、五条先生は一言「いいんだよ」と――人の頭を無遠慮にかき回して、また心底可笑しそうに笑った。
 結局何一つ聞き出せやしなかったが、つまるところ相応の場所に戻ったということなのだろう。いつしか世界の命運すら握って戦っていたが、呪術師だろうと俺たちはただの高校生で、年端もいかないガキにすぎない。そんな当たり前のことを、その時ようやく思い出したのだ。
「なんかあった?」
 一ページも進んでない見開きから視線を上げると虎杖がベッドに乗り上げるところで、安いスプリングが左に軋んだ。俺はそれを合図にもっともらしく本を閉じて「いや」と小さく呟く。
「明日、何時だ」
「五時起きで群馬の――どこだっけ。なんとかって山の中。俺全然知らなかったけど、群馬ってすげえ温泉地なんだって。サクッと入れるとこあるかなあ」
「その前に起きれるかどうかだろ。俺をアテにすんじゃねえぞ」
「大丈夫、十分前に来なかったら狗巻先輩が鬼電してくれることになってるから」
「そうなったら俺まで起こされる羽目になるだろ。つうか、先輩を巻き込むな」
 心臓の辺りが苦しい。嬉しいはずなのに。虎杖がひとりじゃないと信じられたこと、この場所に居ていいと思えたこと、くだらないことで周りを頼って、甘えられること、全部。俺はいま隣で笑ってる虎杖が好きだ。それなのに。
「あ。そういや週末、出張のあと空いてる? また雪降るらしいけど、先輩達が遊び行こって」
 先のことを思い描いて虎杖が笑う。俺はまた、眩しくて目を逸らした。

 世界に、ただ二人きりだった時があった。
 言葉遊びなんかじゃない。知らないうちにこの手で犯した罪への絶望感と、洗っても洗っても拭い去れない、体の内側から湧き立つような血の匂い。正気に戻った瞬間、死ぬことしか考えられなかった俺の体を掻き抱いたただ一人――それら全てを唯一味わってきたたったひとりの存在に、俺は何もかも投げうって縋りついた。それよりももっと前から好きだったことすらその時は忘れて「……俺のせいだ」と――今まで何度もこんな思いをさせたこと、それを知らずにいたこと、全部悪かった、ごめんなと、譫言みたいに繰り返した。

……行くな」
 え、と漏らした声を堰き止めるように唇を押し当てると虎杖は目を丸くした。すぐにぎゅっと瞑ったがそれは察したからなんかじゃなく、単に眼球を掠めた髪の毛のせいにすぎない。そのことが悔しいとか気に入らないとか、そうじゃない。ひと月ずっとすぐ傍にあって、だけど必死で見ないようにしてた感情。それがもう抑えられなくなった、それだけだ。
「伏黒……?」
 さっきのはただの結果論だ。分かち合えるものがあるから虎杖を愛しているわけじゃない。ただーー言えばきっと死に物狂いで否定するだろうが、あの一件から虎杖の心はそれまでよりずっと俺に近付いた。俺が触れようとしても逃げなくなったし、思っていることを隠さなくなった。白状すれば今の関係はそこにつけ込んでいるようなもので、悪魔に魂を明け渡したことすら肯定して利用していると知れば、虎杖は俺を軽蔑するだろうか。
 それでも、俺はもう一生ひとりには戻れない。焦がれ続けた相手に全てを受け入れられる幸福と充足感を知ってしまったからーーだから、少しでも他人が入り込むと不安になる。心に穴が空いたようで、寒くて、早く埋めたい。その一心で名前を呼ぶ。
 気を引こうと必死な声に虎杖が驚いたように睫毛を揺らして、縋るように掴んだ手と交互に俺を見る。
……ふたりきりに、なりたい」
 もう、俺一人では抱えきれなかった。

 ◇

 昨日が暖かかったと思うほど、今朝は一段と冷えていた。スニーカーの底から凍りつきそうな寮の寒い廊下を一人歩いて外の集合場所へと向かう。
 もし寝坊したなら鬼電されたところで起きられる自信はなかったが、アラームの十分前にすんなり目が覚めた。先輩の手を煩わせずに済んでよかった。そのことで伏黒の気を悪くしなかったことも。
 アテにするなと言いつつ毎回必ず起こしてくれるのに、今朝は本当に起きなかった。俺が腕の中から抜け出しても眉一つ動かさずによく眠っていて、それはもう、写真ですら知らない幼い頃が思い浮かぶほどに。
 安心したのだろうか。昨日寝る前に話をした、その時点でかなり様子が違っていたから。

「ふたりきりに、なりたい」
 そう言われて、俺は素直にその方法を模索した。照れて取り乱すより先にそうしたのは伏黒があんまり切実だったからで、振り返ってみればこの時から大人びた普段とはまるで違う、子供みたいな表情をしていた。
……とま、る……?」
……あ?」
「次の日日曜でオフだし、寮だとそのうち皆帰ってくるし……。お、お泊まりデート……なんつって……
……オマエ、それ」
「も、もちろん! ……伏黒が、そのつもりならだけど……ちゃんと、意味分かって」
 言い終わる前に抱き締められて、え、泣いた? と反射的にそう思ったのはやっぱりその時の伏黒にそういう不安定さがあったからだと思う。「俺の死刑日時でも決まった?」なんて軽々しく口に出せる空気じゃなくて黙ってたけど、しばらくして「……逃げんなよ」と鼻の先をくっつけて念を押された時、耳まで赤いのを見てホッとした。
 それでも正直な話、俺は困惑していた。
 仮に常々思っていたとしても、伏黒がそういうことを口に出すなんて。甘えるみたいに俺を呼んで、頼むから言う通りにしてほしいって顔――前は平気で「殺す」とか言ったくせに。
「ってか、週末ってすぐじゃん……
 昨日はすぐに止んだものの、窓の外はまた雪がちらついている。
 決して、機嫌を取るためだけの発言じゃない。気持ちはもちろん、そうしたい欲求だってちゃんとある。
 だけど、あんな顔を見せられると迷ってしまう。本当に、あの気持ちを受け取って良かったのだろうかと。
 だってもう、俺よりよっぽど寂しがり屋だ。全ては俺が伏黒の手を取ったせいだと思うと、未来がーーこの先いつか必ず訪れる最後が怖くなるから、困る。あんな顔で呼ばれたら放っておけない。笑って置いていけなくなってしまう。
 やっぱり泊まりは無しにした方がいいかもしれない。これ以上深い関係になったら、どう考えても今よりもっと――とか何とか言ったら怒らせて、それからもっと寂しくさせてしまうだろうから、ううん、見事に八方塞がりだ。
 はあ、と息を吐くと真っ白で、夜よりほんの少し薄まっただけの闇の中に消えていく。俺はその光景にさっきまでの暗い寝室を思って、一分でも早く帰って伏黒を力一杯抱き締めたかった。