sfaddict117
2023-02-23 22:24:32
10880文字
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魔法即ち罰とも言う(但し、彼にとっては)

女の子にチョコを渡される伏を見てしまった虎がナナミン宅に籠城する話。
※まだ付き合ってないふたり。普通に昇級してる平和な世界捏造、大人に甘やかされる虎杖君を欲していただけの自給自足につき🐺🐯あんまりいちゃいちゃしてません。何でも許せる人向けです。

 
 そう遠くない場所でそれぞれ単独での任務があった。一人で派遣されただけあって大して骨の折れるものではなく、昼過ぎにはあっさり解放された。
 伏黒の方もそろそろだろう。飯食って帰るだろうし、連絡してみるか。そう思い立ってメッセージ画面を開いた矢先、今日は一人で寄りたい場所があったことを思い出す。それでも目先のデートにどうしたって心が揺れて、本屋で待っていてもらえば、或いはいっそ目の前で買ったって、とあれこれ考えるがどれもしっくりこない。仕方ない、今回ばかりは諦めるか――

……あ」

 開きっぱなしの画面に音もなく追加された【終わった。飯食って帰るぞ】の吹き出しに頬っぺたがじわじわ熱を帯びる。
 同じこと考えてた、なんて今時少女漫画でも流行らないようなちっぽけな偶然が嬉しくて、冷たい風の吹く往来でもなんだか体がポカポカする。浮かれた俺は自分の用事も忘れて、もちろん了承の返事をしようとした。

「あ? ……ああ、そう」

 続けざまに表示された【悪い。やっぱ先帰る】に一転、何とも言えない気持ちになる。実際そっちの方が都合が良いのだけど、浮かれただけあって素直に落胆する。急な任務でも入ったのだろうか。
 了解、と返事をしようとしたらまた新たな吹き出しが――早くね? 女子かよ。いやむしろ俺が女々しすぎるのか?

【気を付けて帰れよ】
【あと無駄遣いすんじゃねえぞ】

……保護者かっつうの」

 いわゆる秒読みってやつだ。
 デートと言っておきながら俺たちは付き合っているわけでも、好きだと口にしたこともない。だけど互いにそうだって確信してる。
 膠着状態なんてお堅いものじゃない。だけど互いに核心に触れることのないまま、このまま一生続いたって不思議じゃない付かず離れずの距離感は、些細なきっかけ一つできっと――どうなる? 分からないけど、きっと今よりずっと幸せで、もっともっとあたたかいに違いない。
 ――と、この時の俺はいたって本気で、少女漫画顔負けの甘ったるい思考回路でそう思っていた。この恋がまさか残り数時間の命であるなど、当然知る由もなく。


 ◇


 結論、先に帰ってもらって大正解だった。
 二月十四日。既にバレンタイン当日、加えて平日の昼間とはいえ駅直結の商業施設は休日顔負けの賑わいを見せていた。スイーツショップの立ち並ぶフロアは言わずもがな、女子(というよりはお姉さんという感じの客層だったが)に紛れて何列も並んだ末にどうにか目的を達成し、今は帰りのバスに揺られているところだ。
 普段なら当たり前に車で送迎してもらうだけあって、電車の最寄り駅から歩いて高専に帰ろうものなら軽く三時間、いやもっとか。とにかく、結構な時間が掛かる。だからこういう時は更に最寄りの停留所までバスを使うのだ。
 バスといっても当然都営なんかじゃなく、自販機その他諸々の設備面における高専御用達の業者が運行しているそれは実質高専生専用のタクシーと化しているのだが、料金を払ってバスを降りると、なんとそこに人がいた。
 ここからだって普通に歩けばなかなかの距離がある。故に降りることはあっても乗ることはほぼ皆無のバス停に佇む後ろ姿は誰より見覚えのあるもので、一人帰路につきながら焦がれ続けていたものでもあった。

「これ、受け取ってください!」

 黒髪、色白、黒づくめ。おそらく同世代だろう。長い髪を耳の下で二つに束ねて、通学用らしいダッフルコートを身に纏った女の子。
 鈴のような声を震わせながら紙袋を差し出す姿が目に飛び込んだ瞬間、ああ、先を越されてしまったと、ぼんやりとそう思った。

「おじさん、やっぱまた駅まで!」

 慌てて振り返るも時すでに遅し、バスは無常にも走り去っていく。山道にポツンと佇むバス停だ。隠れる場所などあるはずもなく、声に気付いて男が――伏黒が振り返る。

……虎杖」

 マズいところを見られた。そういう顔なら分かる。けれども伏黒の視線は俺の顔から右手、ちょうど今そこで差し出されているのによく似たいかにもな紙袋へと下降して、そしてサッと青褪める。
 ――いや、あのさあ。
 モヤモヤ、ムカムカ。湧き上がってくる不穏な気持ちに喉を詰まらせながらどうにか声を振り絞って笑顔を作る。伏黒にじゃない。女の子の方にだ。

「邪魔してゴメンな。すぐ消えるから」

 二人の前を横切って走り出す。肩を掠めた指先に気付いていても、立ち止まるわけがなかった。


 ◇


――ってことがあってさ」

 カップに口を付けるとふわりと林檎みたいな匂いがして、体が芯から温まるのを感じた。別に寒いだなんて思ってなかったけど、ようやく感覚の戻ってきた手や足の先といい、それなりに冷えていたらしい。

……で?」
「え?」
「君、まさかそれだけと言う気じゃないでしょうね。返事は? そもそも彼、受け取ったんですか。それ」
「さあ? 知らね。つか見るわけないじゃん。俺だってさすがに空気読むって」

 ナナミンは心底嫌そうな顔をして眉間を押さえた。伊地知さんが出張帰りだと言っていた通り、なかなかお疲れの様子だ。

「失恋も何も、一切何も起こってないんですけど。彼が君の気持ちを拒絶した証拠は? というか、君の好意が彼にとって自明の理であるという前提すらまともに成立しているようには思えないのですが」
「ナナミンて家にいる時眼鏡つけねえの? 裸眼ってなんか新鮮」
「聞いてます? 君は一体、それを私に話して何をどう――……もうハッキリ言います。何しに来たんですか」
「何って、だから最初に言ったじゃん……『ナナミンお願い、今日泊めて』って」

 ーーーーーーーーー

 あの後、バス停から緩やかに続く上り坂を駆け上がって、走って走って走って。一体いつから降り出したのか、高専の敷地に辿り着く頃には汗と雨で全身ずぶ濡れになっていた。
 伏黒、傘持ってんのかな――寮まであと一分走るより先にそんなことを思いながら、何度考えてもこの後顔を合わせた時の上手い誤魔化し方が浮かばず途方に暮れていた。

「虎杖君!? 君、車は」

 声のした方を見ると伊地知さんで、エンジンをかけたままの車から慌てた様子で駆けてきた。

「あー……ちょっと寄るとこあってさ。したら降られちゃって……任務? 誰も乗ってないけど」
「私の方はこれから駅まで五条さんを迎えに――それから途中、七海さんのご自宅にも。珍しいことに本を忘れて行かれて」
「ナナミン? ……って、どこ住んでんだっけ」

 いつだったか五条先生が言ってた。忙しくて帰れないけど、ホントは都心の一等地にすげえマンション持ってるって。ナナミンだってきっとそうに違いない。あれで実家住まいなわけないし、少なくとも普段の様子や口振りからは恋人がいるようにも見えない。
 オートロック。籠城するのにこれ以上打ってつけのものはないだろう。何より上下左右に他人の目があるのが良い。武力行使に出られる心配がないから。

……伊地知さん、頼みがあんだけど」
「私にできることなら」

 滲んでいたせいで確証はない。でも、たぶん見ないでいてくれた。事の顛末も俺の気持ちも、この人は何一つ知りはしないのに。
 どうぞ、と開け放たれたドアから後部座席に乗り込んだ。ずぶ濡れで申し訳なかったけど、呪霊の体液とか血に比べたらマシだろう。なるべく端に座って、濡れた顔を拭って。俺が目的地を告げる前に、車はもう走り出していた。
 ありがとう、と呟くと伊地知さんはミラー越しに微笑んで、変わらず前を向いたままひとつ確かに頷いてくれた。

 ーーーーーーーーー

「だから、それがどうしてここに来る流れになるんです。待っていれば五条さんが戻ったでしょう」
「やだよ。多分面白がってそれなりに匿ってくれるけど、どうせこっそり……っていうか、何なら俺の目の前で伏黒に連絡するし」

 もちろん俺のスマホはとうに電源を切ってある。多分死ぬほど着信来てるし今頃めちゃくちゃ探してるけど、知ったことじゃない。
 証拠なんか一つも無くたって、伏黒のことなら分かる。分かってしまうのだ。
 こんな平和で、普通に出掛けたり飯食ったりできる余裕がある時だけじゃない。血を吐くほど傷付いた時も、絶望して死にたくなった時も。傍にいるのが苦しくて逃げたくて、まともに顔すら見れなかった時だってずっと、無理やりにでも傍に置かれてきた。

「そりゃ、お互い何も言わなかったし、聞かなかったし。俺の勝手な勘違いだったかもしれんけどさ……あんなふうに大事にされたら、普通そう思うって」

 何度独りになろうとしても当たり前みたいに呼ばれて、守られて。言葉も態度も、些細な気遣いも優しさも、本質と言えばたしかにそうなのだろうけど――幻じゃない。それらが他の誰とも違う意味合いで俺だけに与えられた瞬間が、ちゃんと、数えきれないほどあったのだ。
 それが急に、恐ろしいものでも見るみたいな目で俺を見るから。

……泣いたら追い出しますよ」
……ッ、……って……嘘ばっか……。シャワーも着替えも、お茶まで淹れてくれんのに」
「君が風邪をひいたら任務が滞るでしょう。大体、そういう時に限って面倒な事案が舞い込んで――

 自分で言っておきながら、さすがに驚いたらしい。絶妙なタイミングでダイニングに響き渡った振動音にナナミンが僅かに目を丸くする。俺の方は危うくカップごと引っ繰り返るところで、漫画みたいな有り様にいっそ笑ってしまいそうになる。何? どっかで五条先生でも見てんの? 

……切れと言わないないんですか」
「言わなかったら俺のこと売んの?」
「人聞きの悪いこと言わないでください。匿うなんて馬鹿げた真似、初めから引き受けているつもりはありませんよ」
「じゃあ、言えば。別に、俺に止める権利ないし」

 人間、こんなにも恨みがましい声が出るものなのか。震えて上擦った情けない声は繰り返す振動音にかき消されそうになりながらも、きっとナナミンまで届いている。それが良いのか悪いのか、いっぱいいっぱいの俺には分からない。迷惑掛けてる自覚はちゃんとあるけど、止められなかった。

「迷惑だからさっさと引き取れって……ちゃんと正面きって、好きなんかじゃ……き、気持ち悪いってハッキリ言えって、伏黒にそう言えばいいじゃん……

 俺っていつからこんなに卑屈だったんだろう。バレバレの嗚咽を飲み込んで、震える体を誤魔化すため盛大に鼻をすする。そうして、俺に一言「……どうなっても知りませんから」と断ってスマホを耳に押し当てるナナミンをじっと見つめた。
 七海です、と淡々と答える顔にいつもの眼鏡が無いのがやっぱり不思議だった。任務の無い空き時間をこうして他の誰かと過ごしていることも。
 頬っぺたを流れ落ちるものを感じながらぬるくなった紅茶を啜る。俯いてしまうといよいよ止まらなくなりそうで、だから視線はずっと、追い出すと言われたって前を向いたままだ。

「ええ。明日の朝送り届けますので――ご心配なく」

 ほら。素っ気ないくせして、先生よりよっぽど甘いのだ。

……いないって言ってくれればよかったのに」
「そうは見えませんけど」
……うん。ありがと」

 一晩猶予をくれてよかった。今だけはどんな謝罪も、フォローするような優しい言葉も聞きたくなかったから。
 伏黒があの子に気があるなんて思っちゃいない。ただ、俺にチョコを貰っても困るって、本能的な拒絶を見せられて平気で顔を合わせられるほど生半可な気持ちじゃなかった。それだけだ。
 腫れぼったい瞼は一晩冷やせばマシになるだろう。頭も心も寝ればいくらかスッキリして――大丈夫。辛いことくらい、いくつも乗り越えてきた。

「それ飲んだら出掛けますよ。……泊めるっていっても、ウチには水と酒とツマミしかありませんから」
「奢ってくれんの?」
「まあ、モノによっては」
「焼肉!」
「却下。君、アホみたいに食べるでしょう。想像だけで胃がもたれます」
「あ、待って。出る前にこれ一緒に食おうよ。結構いいやつ買ったんだ」

 足元に転がしていた紙袋から洒落た包装紙で飾られた箱を取り出す。中には一口サイズのチョコレートが六粒入っていて、売り場のショーケースで一目見て即決した通り、シンプルながらも美しい形はチョコであることを忘れて見入ってしまうほどだ。
 どれから食べようかと迷った末、いくつも切り出された小さな面が艶やかに明かりを反射している、まるで宝石のようなチョコレートに惹かれて指を伸ばす。しかし触れる寸前で金縛りみたいに体が強張って、どうにも――どうしても掴めない。

 ああ、やっぱりだめだ。

 綺麗と思っただけであの目を、角度によって深緑に光るあの瞳を思い出して、前を向きかけた心に一瞬で影が――影。その言葉だけでまた、馬鹿みたいに自分で自分の首を締めて苦しくなる。

 だから、気付かなかった。
 僅かにナナミンのポケットを震わせた振動音も、その中身を察して投げかけられた視線も。

――それ、頂きます」
「へ? ……あっ、ちょっ! ちょい待っ……!」
「何か問題でも?」
「あ…………ううん、なんでも…………どう? 俺の気持ち百パーセントチョコ」
「正直ちょっとくどいです。見た目はそこそこですけど、まあ、中の下ってところでしょうか。点数にすると四十点ほど」
「ぶっ」

 あんまりすぎる評価に吹き出した。いくらなんでもストレートすぎじゃない? 五千円したんだけど、コレ。

「冗談ですよ」

 言いながら二つ目を吟味しているあたり、これはマジでそこそこヒットしたらしい。
 というか、絶対食べないと思ったのに。パティシエやチョコの紹介なんかが載った紙切れまでをも真剣な眼差しで辿っているナナミンを見ているうちに俺も欲しくなって、一粒口に放り込む。

「!! うっっま! え、なんかナッツみたいな味する……! でもすげえ滑らかで、クリームっていうか、ムース? 食ってるみてえ」
「そそられない食リポをどうも。……私が今頂いたものはコニャックが効いていて、後を引くナッツやフルーツの風味が上品で美味しかったですよ」
「コニャック?」
「フランス産のブランデーの一種です」

 ふうん、とよく分からないまま返事をする。喜んで食べてくれるなら何よりだ。来年はナナミンのために選ぼうかなあと何の気無しに思えるくらいだから、案外トラウマにならず済むのかもしれない。

「ご馳走様でした」

 あっという間に箱の中身は空になった。
 口元を綺麗に拭ってナナミンが立ち上がる。そういや飯食いに行くって話だったっけ。何がいいかな。
 来客用のモニターの前で何やら佇んでいる背中を眺めながら二つ目のチョコを味わって(濃厚なキャラメルとザクザクしたナッツがこれまた旨かった)紅茶まできれいに飲み干したところで、インターホンが鳴った。

「誰?」
「宅配です。虎杖君、出てもらっていいですか?」
「いいけど」

 そこにいるのに? そう思いながら後ろを横切って、廊下へと続く扉を開ける。

「あ、そうだ。ナナミーン! 印鑑ってどこにあんの?」

 サインするにしたってボールペンとか欲しいんだけど。しかしナナミンからの返答は無く、それらしい場所を目で探っているうちに再びインターホンが鳴った。仕方なくひとまず捜索を打ち切って鍵を開ける。ったく、せっかちな業者だな。

「ハイハイ、こちら七海でー……
――虎杖」

 靴を突っ掛けた爪先立ちのまま、俺はその場で戦慄する。
 一瞬目が合っただけでどこもかしこも強張って、今すぐドアを閉めたいのに体が上手く動かない。冷たい夜の空気が瞬く間に心臓まで凍りつかせて、胸が苦しい。指先から爪先まで急に血の気を失ったようで、寒くて震え上がりそうだ。

 心が離れるとこうも変わるのか。たった半日しか経っていないのに、俺を呼ぶ声は知らない人間のように聞こえた。

「話したいことがある。だから、迎えに来た」

 触れられそうになって、咄嗟に引っ込めようとした。すると伏黒が目の色を変えて、無理やりドアをこじ開けると力づくで押し入ってくる。

「待っ……! ふ、伏……――!」

 追い返そうにも体が竦んで碌に動けず、それでも抵抗したのだろうか、気が付くと床に尻餅をついて倒れ込んでいた。
 痛みと重み、何より吐息が触れるほどの距離にある気配に心臓が不穏に波打って息が詰まる。すぐそこに伏黒がいると思うと怖くて顔が上げられない。拒絶したくせに、どうしてわざわざ近付くのか。怖い、怖い――

「っ、もう、離れ……!」
――虎杖、好きだ」

 呆然と言葉を失う俺に伏黒が同じ一言を繰り返す。すきだ、と。

……昼間のは、中学の同級生。断ったよ、オマエが好きだから。なのに――……なのにオマエは、何受け取ってんだよ」

 ひくりと息を呑んだ。背中を抱き寄せられると頬を氷みたいなものが掠めたから。そして、すぐにそれが冷え切った耳だと知る。
 一体いつから外にいたのだろう。髪もコートも冷たく濡れて、無意識に体が熱を求めているのか、苦しいほどに密着しながら頬っぺたまでくっつけてくる。

「オマエのこと全部分かった気になってた。けど今はちゃんと、それが甘えだったって分かってる。……同じじゃなくて構わない。オマエにとっては友達のままでいい。だから――
……俺、チョコなんか貰ってないよ」

「だから、傍にいてくれ」と、絞り出すような、震えた吐息と混じって消えてしまいそうな声に被せながら、俺の方も情けなく上擦って揺れていた。
 案外俺たちは似たものどうしなのかもしれない。言葉がなくても信じられるくせして勝手な思い込みひとつで途方に暮れるところも、雨だろうと走らずにはいられないところも。
 おずおずと背中に腕を回すと伏黒がすんと鼻をすすった。

……触って、いいのか」

 腕が緩んで、密着していた体が離れていく。久しぶりに見た顔は寒さのせいで耳や頬っぺたが赤くて、目も潤んでいる。その目が俺に何かを訴えかけるようにゆっくりと、真っ直ぐ近付いてくる。え、これって。

――ッ!?」

 唇が掠めた瞬間、仰け反るように身体を離した。当然伏黒は何か言いたげな顔をするが、それどころじゃない。

「つっ……!? は!? え、ちょっ……!? おっ、オマエこれ、袖んとこビッショビショなんだけど!」
……悪かったな」
「こんなん着てたら逆に風邪ひくって! うわ、手ぇつめた……ちょい貸してみ。ほら、そっちも」
……返事」
「え?」
……いや、……オマエ、貰ったんじゃなきゃ何だったんだよ。あれ」
「ああ、あれは」

 言いかけて、我に返る。忘れてた、ナナミン――しかもこれ、ちょっと湿っちゃったけど借りてる服だし。っていうかドア、すげえ音したけど大丈夫かな。
 おい、と急かす伏黒を強引に引き剥がしてリビングへと走る。

……終わったんですか」

 ナナミンは奥のソファに座って本を読んでいた。
 気を利かせてくれたのだろう。テーブルの上はカップも箱もそのままの状態で残されている。
 俺がぎこちなく頷くとナナミンは本を閉じて立ち上がった。てっきりそのまま「ならさっさと帰ってください」とでも言うと思いきや、ちょうど俺のいる扉のところ、先程見ていたモニターの前までやってくる。

「振られたにしては嬉しそうですね」
「ええっと……結局、ナナミンの言う通り全部誤解だったっていうか、その」
――ドア、壊れてたら弁償してもらいますから。そして君のことは金輪際出禁にします」
「うっ……ハイ」
「制服は明日高専に届けます。……それでは、お気を付けて」
……うん。ナナミン、ありがとう。お礼っていうか、今度俺の方が飯奢るから。……じゃあ、お邪魔しました」

 扉を開けると伏黒は元通り玄関に立っていて、俺の後ろに視線を遣ると黙って頭を下げた。

「虎杖君」

 呼び止められて振り返る。あれ、そういや眼鏡――ああ、本読んでたからか。

「お礼なら結構です」
「え? いや、でも」

 この時一体、何を思っていたのか。ちらりと扉の向こうを一瞥して、ナナミンは言った。

「確かに頂きましたから。君の気持ち」


 ◇


 マンションを出ると日が暮れていた。雨は上がっていたけどシャツにセーターで出歩くには寒く、上着が欲しいなあと思いながら歩いていく。

「って、俺車で送ってもらったから駅までの道分かんねえや。伏黒、次の角どっち? ……伏黒?」
……オマエ、さっきのどういう意味だ」
「さっきの?」

 言ってからああ、チョコの話かと得心がいって、何か上手い言い訳ができないものかと考える。しかし横からのあまりにプレッシャーに俺は早々に膝を折って「……ゴメン! あのチョコ伏黒のだったけど、ヤケになって全部食っちゃった……!」 と正直に両手を合わせる。

「この後時間ある? 買い直すから、貰ってほしいんだけど」

 間に合わせ感が凄いけど、やっぱりこれが一番だろう。幸いまだ店もやってる時間だし。しかし伏黒は「別にいい」と、あんなに気にしてたくせにあっさりとチョコの件を終わりにして、俺の腕を掴んで立ち止まる。

「それよりオマエ……あそこにいる間、七海さんと何して」
「ナナミン? あ、ゴメンちょうど電話きた――もしもし。……もしかして、マジでドア逝ってた?」

 見た感じ大丈夫そうだったけど。その時は「でも出禁は勘弁! だって伏黒のせいだし……」と、最悪泣きの手に出るつもりでいた。
 しかし、ナナミンの用件は違っていた。

『私の方から君に二点、伝え忘れたことがあります。……まあ、チョコレートのお礼とでも思ってください』
「お礼?」
『一つ、今日君が傷付いたことを、簡単に"なかったこと"にしないことです』
……うん? いや、でも……今日のはお互い様っていうか……今思えば俺もすげえ早とちりして、ナナミンの言う通り証拠もなんもなかったし……

 言わなかったし、聞かなかった。散々終わった感を出しておいて恥ずかしい限りだが、二人とも言葉が足りなかったと、それに尽きる話だ。だから今となっては俺に伏黒を責めることはできないし、その気もないのだけど。

「ってか急に何? どしたの」

 ナナミンは答えず、続ける。

『それからもう一つ――これはおまじないです。彼が本気で君を好きなら絶対に外さない、とっておきの』
……何?」

 占い迷信その他諸々、情報番組の星座占いだってほとんど見たことないし興味もないけど、つい聞いてしまった。だって、俺よりよっぽどそういうのに縁のなさそうな、バリバリ現実主義のナナミンがそこまで言うのだから。

『彼に私とのことを聞かれたら、こう答えてください』

 そうして、一言。
 待てど暮らせど後に続く言葉も補足も何もない、まさしく"おまじない"らしく告げられたその一言に拍子抜けして、思わず聞き返す。

……それだけ?」
『ええ。それでは、また』
「え、待って本当に? ってかそれ、どういう――

 だめだ、切られた。なんだったんだ、今の。

「何だよ」
「え、あ、いや、大丈夫…………えーと、何の話してたっけ」
……だから、俺のいない間に何してたんだよ」
「何って、だからシャワーと服借りて、そんで」

 ――あ。そうか、なるほど。
 その時ピンと閃いて、慌てて口を噤む。
 さすが、大人は考えることが違う。さっきの思わせぶりな言葉といい、あれで結構恋愛小説とか、あるいは意外と経験豊富だったりするのだろうか。教えてくれるわけないけど、今度聞いてみよう。
 それから、ありがとうって――心配してくれたこと。もう一回、ちゃんと。

「おい、聞いてんのか」
……ごめん、伏黒」

 すぐ謝って、後で真っ直ぐ伝えるから。
 だから、――だから、ほんのちょっとだけ。

……それは、俺とナナミンの秘密」

 言われた通りの一言を口にする。伏し目に若干の後ろめたさを匂わせる、俺流のオプションも加えて。

……は」
「なんつって! ははっ、びっくりした?」

 ポカンと目を丸くした伏黒に笑ってみせると掴まれた腕から力が抜けて、外だというのに今度はぎゅっと手を握られる。まるで、横にいるのを確かめるように。

「冗談だって。言えないようなこととか、そんなんあるわけないじゃん」
……冗談?」
「うん。チョコ一緒に食べてくれただけ」
……
「伏黒? ごめん、怒った?」
「いや、――安心した」

 そうして次の瞬間、俺は腕の中にいた。
 抱き寄せるなんてもんじゃない。ハグと言ってもまだ弱いような本物の抱擁は少し苦しくて、頬を擽る毛先とか深く息を吐く音とか、生々しい距離感がじわじわ実感させる。
 ここが普通に人通りのある道端であることはさておき、冗談でなく進展している関係性はなんだかむず痒くて落ち着かなくて、でもやっぱり嬉しい。マジでナナミンすげえ。サンキュー! と、正面から言えばきっとまた嫌そうな顔をするのだろうけど。
 明日の仏頂面に感謝しつつ、後のことを考える。答えが分かってたって関係ない。今度はちゃんと、俺が自分の力で頑張る番だ。

「ね、チョコ買いに行こうよ」
「後でな。……先に寄るとこあるから、ついて来い」
「? わかった」

 トイレでも行きたいのかな。それくらいに思っていた。
 まさかその"寄るとこ"が駅前のホテルで、チョコどころか告白もキスもすっ飛ばして押し倒されることになるなんて、この時の俺はもちろん、夢にも思っちゃいない。
 おまじないは確かに効果抜群、昼間の疑惑に不貞疑惑までもがしっかり上乗せされて、シャワーに着替えその他諸々、今回だけはスルーを決め込むつもりでいたらしい事柄も俄然アウト案件に早変わり。つまりはメーター振り切れ寸前まで、煽りに煽り立ててしまったらしい。
 果たしてナナミンは何をどこまで想定していたのか、確かめる気力も湧かないのは数時間後の俺が見事にやり返されて――淡白どころか想像の遥かに斜め上をいく嫉妬深さでしっかり懲らしめられるからなのだけど、そんなこと、やはり知る由もなく。
 俺は再びぎゅっと握られた手に満足して、先を行く伏黒の背中にふらふらついていくだけだった。