エディ
2018-02-25 23:41:06
11044文字
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花屋と漫画家 最終話「あなたに奇跡を贈りたい」

カライチ

「先生、いい加減にして下さいよ」
 電話越しに焦りとも呆れとも怒りともとれる担当の声を受け、一松は力無く返事をする。
 連載が決まった。喜ばしいことである。
 カラ松の協力もあり、キャラクター案からストーリーまで珍しく一松自身も納得した作品が出来た。読み切りとして掲載されたバスケット少女の物語は、SNS利用が盛んな読者層による拡散効果も相まって、ミネット松野の名とともに知名度を一気に上げた。このチャンスを逃すまいと編集も動き、長期連載の決定が下されるのは早かった。
 終わりの決まっていない、正真正銘の連載作品。それを獲得することを目的として、カラ松との契約交際を申し込んだのだ。
 契約解消は、当然だ。
「描けないって、そんな理由がありますか。描くんです。あんた、それが仕事でしょ」
 通話終了間際の声が鼓膜から離れず、緩く頭を振るが目眩が増すだけだった。
 連載が決まった。仕事が出来た。Web上ではすでに告知が済んでいて、ひと月先には紙面にも発表があるだろう。出版社には僅かながらもファンレターが届いている。割り当てられたページ数も、締め切りまでのスケジュールも決まってきた。
「描かなくちゃ、……
 間に合わない。などという選択肢は、納期厳守の世の中において、存在すら許されない。
「描かなきゃ、描かなきゃいけない、のに、描かなきゃ、描くんだ、描く、描け、描けっ…………!!」
 ぼとり。
 一松の右手からペンがこぼれ、小さく散った黒いインクがカーペットに新たなシミを作った。
「っ…………、描、けない……
 カタカタと震える指先を伸ばし、ペンを拾う。机に向かい、左手で前髪を掴みながらまた頭を振る。
 一松の脳内で、楽しい、などという感情はひとかけらも残されていなかった。


 :


 何があったの。
 雑居ビルの間でタバコを燻らせていたカラ松の耳に、馴染んだ声が飛び込んだ。視線を向ければポケットをまさぐりながらこちらに歩みを進めるおそ松の姿があった。何か良からぬことがあったのだと断定するような物言いに、カラ松は唇から白を漏らしながら嘲笑した。
「別れたよ」
「あれま。ていうか、あの後ちゃんと付き合ったんだ。まぁた随分早かったね」
「違う。彼の創作活動を支えるために、恋人になるという契約を結んでいたんだ。お前に会わせる前にな」
「何だそれ。メンドクサイことしたな」
……は。そうだな、後悔している」
 とす、と小さな音を立て、おそ松の背中がビルの外壁と触れ合う。無機質な温度に一度ゆっくりと瞬きをし、「火ぃ貸して」と言えば、無言でライターを投げられた。
「またフラれちゃったの」
「最初から終わりがあったようなものだが、拒否されたことには違いない」
「いつ?」
「先々週……、そうだ。バレンタインだった」
 肺に深く吸い込んだ煙をぐるりと巡らせながら、おそ松は胸につっかえを感じた。
 カラ松が言うに、元々その日はプレゼントを贈り合う約束をしていたらしい。偽の交際相手によくやる、と片眉を上げながら、しかしおそ松は最後に目にした一松の姿を思い浮かべていた。
 ひどく興奮した様子で、息を弾ませ、早くカラ松に会いたくて仕方が無いといった様子に、長く引き留めてちょっかいをかけたい気分が削がれたのを覚えている。先日のバーでの出来事もあり、てっきり上手くいくものだとばかり思い込んでいたのに。ろくに連絡もよこさず、夜の街で遊ぶこともせず、生気を失ったかのような表情をしている幼馴染みの様子は、人づてに聞いていたより重症なものだと、喉の奥で唸った。
「何、喧嘩でもしたの。それでフラれた?」
 テナントビルの合間から真四角に切り取られた空を見上げ、白く散らばる雲に被せるように紫煙を吐いた。スリ、と指先を紙巻であそばせながらカラ松は視線を下げる。
「花を贈ると、約束をしていたんだ。今までもいくつか贈っていたが、話の流れや急ごしらえではなく、…………彼のために花束を作りたいと思った」
「あの子、受け取らなかったの」
「ああ。それはもうキッパリと。理由すら言ってもらえなかったし、……直後に連載が決まったと報告をされた」
 嬉しいことだと頭は理解して、本心から祝福した。けれど、咄嗟に作り上げた防壁の内側で、心臓の底から血が滴り落ちる痛みを抱えた。
 潮時。引き際。タイムリミット。
 そんな言葉がカラ松の脳内を埋め尽くし、上手く会話できたのかも自信が無かった。手のなかに残ったのは、美しく着飾らせた花束と、擬似恋愛に乗っかって、本気とも遊びとも誤魔化しの効く愛を綴った紙切れのみ。
 あわよくば本気にして、受け入れてもらえたならば。
 拒絶されたなら、冗談だと笑うつもりで。
 けれど渡すことが叶わなければ愛の言葉が伝わるはずもなく。あの日カラ松は初めて花を捨てた。未練たらしく封筒を抜き取って、けれど一松を想って包んだ花を抱え続けるには、心が乱れきっていた。
「俺の想いを少しでも伝えようと目論んだらこのザマさ。真っ青な顔をして拒まれてしまった。聡い子だ。何か感じたんだろう」
……オレには、そう見えなかったけど」
「だが、これが現実だ」
「違ぇよ。オレも会ったの。バレンタインの日、商店街でさ。すごい急いでたし、嬉しそうだったし、とてもお前と離れたい顔には思えなかった。むしろ会いたくて仕方ないって態度だったね」
 ほろり、とカラ松が摘まんでいた煙草から灰がこぼれ落ちた。火を灯し続け、吸われることもなくジリジリと紙を焼いていく。ふたえ瞼を目一杯に開き、カラ松はおそ松を見詰めた。紙巻きを唇に咥えたままゆるく噛み、おそ松は空を見上げたまま溜息を吐いた。
「契約交際とやらを解消できるから、連載が決まったことをルンルンで報告しに来たって? カラ松ぅ、お前いつからそんなネガティブ思考が上手くなったの」
 息を詰め、返事もできずに固まっているカラ松へ視線を移す。感情がない交ぜになった親友の表情を見て、おそ松は眉間の皺を解いた。無駄に備えた演技力で、社交家の皮を被り続けていたカラ松が、彼の存在ひとつでここまで揺さぶられている。
 ペチンと場に不釣り合いな軽い音を立て、人差し指で親友の額を小突いた。
「言ったろ。“フラれたら”その時は慰めてやるって」
「もう、チャンスは残されていないんだが」
「おにーちゃんが一緒に考えてあげるって」
……なんだそれ。お前が兄だなんて、この世の終わりじゃないか」
 心底嫌そうに顔を歪めたカラ松を、今度は握りこぶしで突く。フ、とお互いの口端が緩み、指先からふわりふわりと白煙が上った。
 不器用な親友の恋は始まりすら不確かで、だからこそ、枯れさせるのは勿体無い。
 「お前のポエマー癖うつったかも」と呟くおそ松は、先刻より雲の減った青空を、ゆっくりと仰ぎ見た。


 :


 チョロ松は焦りを感じ始めていた。
 一松と連絡が取れない。正確に言えば、メッセージでの会話は円滑とまではいかなくともできている。しかし、会うことはおろか電話すらも応対されずに数週間が過ぎようとしていた。「締め切り迫ってて」と言われてしまえばそれを邪魔することはできず、忘れかけたころに舞い込む返信にソワリと胸をざわめかせるだけだった。
 連載が決まったのだと言っていた。それは、カラ松と一松の関係に、ひとつのピリオドが打たれたことを意味している。
 通い慣れたバーは勿論のこと、夜の街にもカラ松の姿を見なくなった。繁忙期は過ぎたはずだが、一夜限りを楽しんでいるのかと思えばその噂も耳には入らない。
 どちらもいい大人なのだから、放っておくのもひとつの手だ。
「でも、恋愛経験的にはガキも同然なのよね」
 太めのドリンキングストローを回すと、クラッシュドアイスがグラスの中でほろほろと崩れては彷徨う。僅かに薄まったエメラルドグリーンを吸い込めば、吸い口に紅が残った。
「一松がどうかは知らないけど……悪くは思っていない気がするの」
「カラちゅん、ここでネコちゃんたち口説いてるときも相当やり手だったもの。あれはノンケでも落ちると思ったわぁ」
「愛され慣れてないタイプには効いたでしょうね。ただ一松みたいな初心丸出しの子にカラ松が落ちるのは、意外だったわ」
「ほんとほんと。いいなぁ、アタシも一松ちゃんに会ってみたい」
……上手くいったら、ここにも連れてきてもらえるかもね」
 カラン、と店の扉を閉じ、夜風に肩を震わせた。塗り直したばかりの口紅に寒さが纏わり付く。駅への道を急ごうと一歩踏み出したチョロ松は、しかしセカンドバッグの中で端末の振動を感じ、ブレーキをかける。
「もしもし、……一松?」
 液晶画面に浮かび出た名前をそのまま口にすれば、小さくて消え入りそうな音声が、耳に流れた。
「っ、あ、もしもしチョロ松、……いま、だいじょうぶ?」
「平気よ。仕事順調みたいね」
「順調、か、……ひひ、僕、いつもチョロ松の期待、裏切ってばっかりだね」
 ジリ、と、ヒールの先端がアスファルトを擦った。電子端末が伝える音声は常とさほど変わりなく、しかしチョロ松は頬が強張るのを感じた。
 「今から行く」とだけ伝え、三秒の沈黙。一松の返事を待たずに、靴底と地面で一定のリズムを刻み始める。カツ、カツ、と何歩目かの音を響かせようやく一松から返答が来た。バッグに電話を放り込み、脇を締め直してから、夜道を一気に駆け抜けた。
「寒かったよね、ごめん」
「へっちゃらよ」
……化粧も髪も、崩れさせた。ごめん」
「それは素直に恥ずかしい」
 元は自らが住まっていた玄関に、少し靴底の減ったパンプスを揃える。久しぶりに目にした一松の体躯が見るからに痩せていることに、チョロ松は乱れた髪を整える振りをして、頭皮に爪を立てた。
 暖められた部屋でコートを折りたたみ、家主が言う前に床に腰を下ろす。用意しておいたのだろう。人肌程度までぬるくなったマグカップを手渡され、チョロ松は元々下がり気味の眉をさらに下げながら「ありがとう」と笑った。
 両手でマグカップを包み、膝を抱え込むように縮まった一松は、浸したままのティーバッグに息を吹きかけては揺らした。
「お仕事、長いやつを貰ったんでしょ? 上手くいってないの?」
……ん。描いても描いても気にくわないし。そもそも手が遅いったらないし。……なんか話も全然まとまんなくて」
「それはつらいね」
「ちゃんとプロとして仕事こなせてる人相手に、一ミリも達成出来てないゴミが弱音吐くの、恥ずかしすぎて笑えちゃうよねぇ……
 上手く言葉を返せずに、チョロ松はまたひとくちぬるま湯を流し込んだ。
 カラ松との行く末を、単刀直入に聞くべきだろうか。それとも空間を共にすることだけが、今の一松に必要なことだろうか。暖房器具の小さく唸る音と、秒針がやけに耳につく。塗りたてだったリップの上から唇を湿らせていると、一松がぼそりと呟いた。
「カラ松さんがね、」
 狭い空間で茶葉が揺らめき、旨みよりも渋さの増し始めたカップを見詰めながら、一松が話し始める。
「バレンタインに花束をくれようとしたの。ちゃんと、僕に渡すために、何日か前に予告までされててさ。すごく嬉しくて、……僕も何か渡したくて、プレゼント準備しちゃったりして、さ」
「ああ、」
「でも、当日、出版社に呼び出されて連載のこと言われて。舞い上がっちゃってさ。馬鹿だよね、置いてきちゃったの。気付かないままカラ松さんのとこ行っちゃって。綺麗で、格好良くて、手紙とか挟まってる花束差し出されて……
…………うん」
……、受け取れない、って、言った」
 今まで貰っていてばかりだったのに、ここぞという場面でしくじりを犯した自分を許せず、思わずそう言ってしまった。取りに戻るから、また後で。それを言うより先に連載の仕事を得たと伝えれば、あっさりと交際の解消を言い渡された。
「絶対に、愛想尽かされたんだ……
 順調に進んでいた原稿にも向き合えず、数日のあいだは想像もしなかった喪失感に苦しんだ。担当にせっつかれ、ようやくペンを握るも思うように線を引けず。ストーリーを形にしようにも、経験したことのない感情の渦にいつまでも頭を支配されてしまう。もう一度、カラ松に会えれば。そう思ったところで叶えられず、部屋に閉じこもる日々が続いた。
 そこまでを説明し、マグカップを抱えたままズルズルと項垂れた一松を、チョロ松は浅い呼吸のまま見詰めた。
 言葉足らずで、他者を思うも届かない。ああ、皮肉なことだ。一松らしい。
 チョロ松はそう結論づけるも、同時にカラ松を強く憐れんだ。
「ねえ、一松は、――――カラ松のことが好き?」
 チョロ松は、密やかに囁いた。これぐらい聞き出しておかないと、あまりにも可哀想だ。カラ松を巻き込んだきっかけは自分にある。
 立て膝に額を押しつけていた一松が、のろのろと緩慢な動きで頭を持ち上げる。現れた目尻には、少し水気が帯びていた。
……弟たちにも、同じようなこと言われた」
「この際ハッキリしとこうと思って。どう? 恋愛ごっこをしてみて、お前はカラ松のことをどう思った?」
 ぐしゃり。歪んだ一松の顔は、絶望を色濃くうつす。
「好きになっちゃったから、困ってる」
 尻すぼみに告げられた一松の本音に、チョロ松は瞼を伏せた。
 本当に、不器用な奴ら。もしここでカラ松の想いを伝えたらどうなるだろうか。信じるにせよ疑うにせよ、少しは一松の心を晴らすことが出来るだろう。けれど、子供も同然な恋愛経験値を抱えるふたりだって、立派な大人同士なのだ。
 絡まった糸を解く。その手伝いくらいなら、したって許されるだろう。
「あのさ、一松」
 秒針が前へ前へと時を刻む。チョロ松はひとつ、提案を渡した。
 どうか思うまま、望むまま、彼らにとって幸福な未来を。そう、強く願った。


 :
 

 大きく息を吸い、長く細く吐き出した。堅くこぶしを握りしめ、人差し指だけを伸ばす。腕を持ち上げ、ボタンに添える。ゆっくりと、一押し。
 ジリリリリ
 古めかしい呼び出し音が扉を隔てて鳴り、カラ松は立ち去りたい気持ちを堪え腹に力を入れた。
…………松野一松さん」
 お届け物です。
 何度も、何度も発してきた言葉を、ここまで緊張を孕ませながら発したのは初めてだった。耳の裏側で血が流れる音がうるさかった。ドグン、ドグン、と左胸から手指まで血管を打つ震動が駆けていく。カラ松の手には、一輪の花が握られていた。
「お待た、せ……
「良かった、留守かと思ったぞ」
 ドアノブが回り、ふわりと柔らかな頭髪が風に揺れた。少し上目がちに見上げる一松を見て、カラ松は張り詰めていた身体の強ばりがほどけていくのを感じた。
 店に配達の依頼が入った。ひと月ほど前から、突然店に顔を見せなくなった絵描きが配達先だった。頻度が高かっただけに、突然途絶えてしまった一松との親交を花屋のスタッフは寂しく思っていたが、カラ松に訊ねても仕事が忙しいらしいと返すだけだ。その仕事は、当然のようにカラ松に振られた。
 カラ松が店を発つ直前、眉間に強く力を入れていれば、バシンッと背中をたたかれた。「仲直りしてきなさいよ」と言いながら唐子が続けて何度も背を叩く。解決するまで帰ってこなくてもいいとまで言われ、カラ松は思わず苦笑を返した。
 喧嘩をしているわけではない。けれど、もう会わない覚悟もしていた。
 だからこうしてカラ松の声に扉を開いた一松に、胸を撫で下ろした。
「配達だよね、連絡もらってた。わざわざありがと」
「家も知っていたしな。ここ、一応サインを頼む。それにしても青い薔薇なんて、うちの店じゃ常時の扱いはない。値も張るし、君の熱烈なファンが贈ってくれたんだな。……残念ながら差出人は伏せてくれとの要望だ、俺も知らないんだ」
…………そう、なんだ」
「せっかくの花だ。日持ちさせるためのハウツーを添えておいたぜ。先生の家、花瓶はあるだろうか? 無ければ瓶でもプラスチックのカップでも代用できる。しかしきっと君はこれから沢山の花を貰うだろうから、ひとつぐらい買っておいても損はないとおもうぜ」
「カラ松さ、」
「どうだろう。先生が安定して休みを得られたら、また出掛けたりなんて出来ないだろうか。もちろん君の仕事の邪魔にならない範囲で、だ。今は忙しいんだろう? 邪魔はしないぜ。任務は遂行したからな。頃合いをみてまた連絡を入れるよ。だから今日はこのあたりで、」
……、ッ、カラ松さん!」
 青いエプロンの裾を、一松の指が握り込んだ。
 喋りながらも身体を外へと向けていたカラ松は、ぴたり、と筋肉を固まらせる。指から、視線を伸ばす。一松は受け取ったばかりの青薔薇を胸に抱え、インクで汚れた指先を必死で伸ばしていた。その瞳に、思わずカラ松も口を紡ぐ。沈黙が、痛かった。
…………花言葉、言って」
 まっすぐにカラ松を見上げる一松の瞳は、玄関扉から入り込む光で艶めいている。強い意志を持ったその目に、カラ松は息を飲んだ。
 不格好なポーズのまま、握った拳には汗をかき、カラ松は震える唇を動かした。
…………青い薔薇は、“不可能”、“存在しない”……、」
 カラ松が花を学び始めた頃、天然の青薔薇は存在しなかった。研究者による改良が重ねられ、今では青色素を持った薔薇が咲くようになったが、当時の花言葉は否定的な意味しか持っていなかった。
 しかし今、この花が持つ意味は。
…………“奇跡”」
 カラ松が切った言葉を、一松の声がすくいあげた。
 胸に抱えていた一輪の青を、カラ松の眼前に真っ直ぐと差し出す。

「カラ松さん、僕の、……恋人になってください」

 初めて出会った日と、似て非なる響きを持って言葉は紡がれた。
 薔薇を持つ指先も、弱々しく発せられた声も震えていた。しかし一松の瞳はしかとカラ松をとらえ、カラ松もまた、一松から視線を逸らすことができなかった。
 微動だにせずにいるカラ松に、一松の頬が桃色から林檎色へと変化していく。ぱく、ぱくり、と空気を食んでいた唇が、少しずつ音を紡いでいく。
「も、もちろん、僕、男だし、……傍に居させてもらえれば、迷惑、かけないから……前みたいにカラ松さんの、恋人にしてもらいたく、て、」
 ヒクリ。カラ松の眉が一度だけ戦慄く。真っ直ぐに差し出されていた花は、徐々に頭を下げていった。喉につかえている異物を押し出すように、カラ松は奥歯を噛みながら言葉を探す。
…………また、元のような恋人関係になろうと。そう言いたいのか……?」
「迷惑じゃ、なければ、……き、期限とか、また付けたほうがよければ、そうするし、」
……君は……っ、あんな関係をこれ以上続けたいと言うのか?!」
「だ、だめなの……?」
 カラ松の脳に、急速に血が集まっていく。噛み締めすぎた奥歯のせいで顎が痛んだ。グシャグシャとみっともなく髪を掻きむしってしまいたい。今すぐ一松の肩を捕らえ、揺さぶり、問いただしたい衝動に駆られた。
 分からない。
 一松の本心が、少しも分からなかった。
「っ、だ……駄目に、決まってるだろう。君のことは…………そう。嫌いではないから、だからこそ……
「嫌いじゃない、なら、気持ち悪いとか思わないなら、おねがい、……僕にはあんたしか居な、」
「そういうことを! 軽々しく言わないでくれ、っ……! 俺、は、……!!」
 握り絞めた拳が震える。必死に探した言葉も、散らかった思考の中で次々と霧散していく。
 耐えるほど、惨めに思った。自分と一松の想いは違う物だと示されているようで、泣き出したい心地だった。
「っ俺は…………ゲイだから、」
「、……え」
「だから、男である君を、そういう対象に見てしまう可能性だって、……あるんだ」
「っいい、見てくれていい、見ろよ!」
「ふざけるな!! 君はストレートじゃないか、俺とは違う。そんな覚悟無いくせ、に、っ…………?!」
 ぐわり。襟元が強く引かれ、次の瞬間カラ松の視界に陰が落ちた。
 少なかった酸素がさらに阻まれ、ふにゃりとした柔らかさのあとに小さな痛みが広がった。固い前歯が唇越しに接触し、じんわりとした痛みを広げる。それでも一松の片手はカラ松の襟元を掴んだまま離さない。限界まで見開いた視界には、これでもかというほど瞼を瞑った一松の、濃い睫毛が映り込んでいた。
 数秒か、数十秒か。触れ合うと言うにはあまりにも乱暴に。けれどそれは温かく。つたない唇がゆるい呼吸音とともに離れていく。
 お互いの顔がぼやけずに見える距離を取り、しかし一松の花は抱えた手は、カラ松の胸元に残したままだった。
 一松くん、と呼びかけた声は、先程の花のように頭を下げてしまった一松の声に阻まれる。
「ふ、ざけて、……僕みたいなゴミが、こ、んなこと、できるわけっ……な、い」
 その声は、ひどく濡れていた。胸に添えられた指が震えるせいで、包装紙がカサカサと音を立て、その手の下でカラ松の心臓が強く鼓動を響かせる。
 キスを、された。
 なぜ。どうして。彼と自分の恋情は違う所にあるはずなのに。困惑する脳内と忙しない心臓の動きのせいで、呼吸がままならない。ぎこちなく腕を持ち上げ、カラ松の左手が、花を握る一松の手のひらに重ねられた。
「いち、ま……
「全部、ぜんぶ自分のせいだって分かってるけど、でも、だって、あんたのこと本当に好きになっちゃったんだ」
……それは、」
「っあんたがそうさせたん、だ、……!!」
 理不尽を言っているのは百も承知だった。あの行為の全ては「契約」の上にあり、決して一松という個人に向けられたものではないのだと。しかし、空洞だった一松の心はもうカラ松の愛で満ちに満ちていた。
 たとえ、それが虚偽の愛だとしても。
「まだ、あんたの恋人でいたいっ…………、嘘でも、いい……から、……
 ごめん、あんたの優しさに縋って。利用して。わがまま言って、ごめん。何でもする。だから。
 ぽた、ぽたり、と小さな雫が光を反射しながら落ちていくのが見えた。俯いたままのその顔はカラ松の視界には写らないが、ぐしゅりと鼻をすする音が狭い玄関に響く。
 握った手のひらが、ふたり分の熱を上げていく。
 カラ松は、ゆるりと右手を持ち上げ、俯いて震える目の前の頭を撫でた。ふんわりとした髪を指で梳き、熱を持って真っ赤に染まった耳をじんわりと摘んだ。ヒクッと震えた一松の肩を見てから、耳の裏側から顎の付け根を、そして、濡れ切った頬を手のひらで覆い、ゆっくりと上に向けさせた。
…………一松くん、」
 いくつもの涙の筋を親指で撫でると、また流れ落ちた雫がカラ松の指を濡らした。必死に殺した声のせいで、一松の喉が不規則に震える。瞳を覗き込めば次から次へと溢れ出る涙が光を浴び、その中心にある黒い瞳が不安げに揺らめいていた。
……泣かせてしまったのは、二度目だな…………すまない」
「ゔ、……っ、ごめ、……なさ、めいわくかけないって、言ったばっか、なのに」
「いいや。泣き虫な君のことを、また可愛いと思ったところだ」
 パチリと瞬いた瞼が涙の粒を散らすと同時に、カラ松はうなじに回した手を引き寄せた。カラ松の肩口に濡れた頬を押し付けられた一松は、一瞬、呼吸を詰める。
 薔薇を潰さないよう手のひらで囲いながら、カラ松は目の前に来た耳元に、そっと囁く。
「あの日、……君に花を断られたとき、今まで生きてきた中で一番の絶望を味わったよ」
 一松の息を飲む音が聞こえた。
 ほろり、ぽたりとカラ松の肩に落ち続けるその熱が、心臓にまで沁みていくような気がした。彷徨い続けていた言葉がようやく形を成し、カラ松の喉を滑り落ちる。
「先生が新しい表情を見せる度、もっと違う顔を見たいと思った。俺の言葉にすぐ狼狽えるところが、可愛いと思ってしまった。こっちが意識しだしていると言うのに、まるで鈍感なところに苛立った」
「な、……ぇ、?」
「単純に、役に立ちたいと思った。それがきっかけだ。嘘じゃない。でも、時間が経つほどに君の特別になりたくなった。俺だけだ、と先生が言う度に、すごく、苦しかったよ」
「ま、待って、……からまつ、さ、」
「君を……抱き締めても、いいのか? 君と時間を共に過ごしたり、……贈り物をしたり…………キスを、しても、っ……
 お互いの表情が見えないのを良いことに、カラ松は眉の角度を下げた。情けない顔をしているだろう。だらしのない顔を見せているだろう。感情を隠せない声音を曝け出し、一松の制止もきかずにほろほろと言葉がこぼれてしまった。

「好きなんだ」

 真っ直ぐ、伝わるように。カラ松は一松の耳に唇を当て、愛の言葉を吹き込んだ。
「好きだよ。俺も同じだ、……君のせいで、君を好きになった。今度こそ一松くんを、きちんと愛したい」
 女性扱いではなく、一人の男として。
 まやかしではなく、確かなものとして。
 期限もない。制約もない。本物の恋人として愛したいのだと真摯に伝えていく。カラ松の肩口で、くぐもった母音がいくつもこぼれ、やがて「う、そだ、」という小さな声になった。
「嘘じゃない」
 きっぱりと言い切り、額の触れ合う位置まで身を引いた。
 本当なの、と呟き、また一粒こぼれ落ちた滴に唇を寄せた。握りあったままの一輪の花を、カラ松の左手がそっと取り上げる。
…………“奇跡”を、……“夢が叶う”ようにと、この花を選んでくれたのか」
 こくり、と一松が深く頷いた。緩いカーディガンの裾で雑に拭われた頬は、まだ赤みを残して濡れていたが、呼吸はいくぶん落ち着いていた。
「願掛けみたいなもんだったけど、……カラ松さんに、届けて欲しく、て」
「ありがとう。本当に、嬉しいよ」
「アイデアくれたのははチョロ松なんだけどね」
「そうだったのか。彼にも、色々と礼を言わなければならないな」
「うん、……でも、カラ松さんはお花とか、もらい慣れてるんだろうなって、思ってた」
「いいや、」
 たった一輪の花が、カラ松の手のひらに重みを乗せた。やはり花をもらう喜びは、不純なものが一切無い。まぎれもなく確かな喜びだけだと、カラ松は目を細めた。
……俺のことを、好きになってくれた人からもらうのは、初めてなんだ」
 はにかみながら言えば、つられたように一松の唇もむずむずと擦り合わせる。カラ松は身を屈めると、その唇のすぐ脇に触れるだけの口付けをした。
……歯止めが、効かなくなると困るからな」
「ん、ッ……
「仕事、終わったらここに戻るから、……その後で、続き、してもいいか?」
……うん、待ってる」
 開いたままの玄関扉から、ふわりと風が舞い込んだ。熱くなったふたりの頬と、青い薔薇を揺らしたその風は、いつの間にか棘を失ったかのように柔らかくなっていた。

 いま、春が、訪れようとしていた。