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エディ
2018-02-13 14:32:33
8770文字
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花屋と漫画家 第八話「破局」
カライチ
キンと張り詰めたような洗練された朝の空気に、どこか柔らかさを纏った陽が注いでいた。毎朝最低気温を更新している二月の半ば。しかし夜明けは幾分早まり、日中は身体の強張りが抜ける合間が増えてきた。
各々が胸の内を曝け出し、周囲の言葉を心に沁み込ませ、そして青年二人は今日も日の元を歩む。
一松が下した決断は、現状維持。少なくとも嫌われていないはずの友好的関係を崩さぬよう、自分から下手を打つまいと心に決めた。
カラ松が誓った決意は、一歩前進。人見知りであろう一松と友好的関係を、徐々に、しかし確実なものにしている今、どうにか本物の恋愛感情に昇華させたいと強く望んだ。
「
……
おはようござい、ます」
「おはよう。先生」
ラジオからは数日後に迫った冬の祭典についてメールを募り、パーソナリティのコメント共にディスコサウンドが流れていた。
バレンタイン。
一松は、出版社から出た足を止めてデパートののぼりを見ていた。いつからだろう。二月の一大イベントとしてチョコレートがばら撒かれるようになったのは。
小学生の記憶は定かではないか、周囲も年相応に色気付くようになる中学、高校時代は女子生徒たちが小さな小包装にしたチョコレートや、密閉容器に詰めた大きな焼き菓子などを持って配っていた。女子も、もちろん男子も浮かれ気分で、規制するにもキリが無いと教師陣も見て見ぬ振りをしながらちゃっかり受け取っていた気もする。
義理、とハッキリ告げられながら受け取ったものは食しただろうか。記憶は朧げだ。一松がホワイトデーに贈り返せたのはチョロ松が相手の時だけだった。
それからは、まさに無縁の行事だったのだが。
「バレンタイン
…………
」
誰にも聞こえることのない音量で呟き、誰にも見られることなく赤面する。
いやいや。あからさま過ぎるって。バレンタインにかこつけて、告白? いやいや。いやいやいや。いやぁ
……
無いわ
…………
。
一松は、弟たちに相談したその日からずっとカラ松のことを考えていた。
自分が、カラ松に恋愛感情を抱いているかもしれない。無意識下で本物の恋人同士になりたいと望んでいるのかもしれない。未知の感情はひどく苦しく、しかし不快かと問われれば肯定もし難く。
答えは一向に出ないというのに、カラ松と相思相愛になれたらと考えただけで、形容しきれないむず痒さが臍のあたりから胸の真ん中までを駆け抜ける。頬と口元が歪み、手のひらで顔を覆わないととてもではないが平静を保てない。家でひとりきりの仕事で良かったと、心底感謝した。
不思議なことに、この感情に苛まれている時ほどスルスルと手が動いた。漫画を描く。その行為に楽しさだけを感じるようになれた。
一松の原稿は、担当をはじめ社内で再び注目を集めていた。
「チョコ、は
……
本当にあからさまだよね
……
。女だったら義理とか言って渡せたのかな
………………
いや無理だな
……
」
肩を縮めながら、一松はデパートの特設会場を遠く眺めていた。
漫画の資料にせよ、花束にせよ、いつもカラ松から贈られてばかりだった。不平等はいけない。幸が重なれば同じだけ不幸を背負わないとならない、というのは昔からの持論だ。当然、他人から何かを得たのならこういう機会に便乗してでも返すしかない。
「誕生日も一緒って言ってたもんな。返すなら今だよね。食べ物
……
は、やめとくか。あとは花、花、
……
あいつに花贈るの
……
? いやいや喧嘩売ってのかって話だよなぁ?! ううう僕なんかがプレゼント贈るなんて向いてない、そもそも生きるのが向いてない
…………
っ!」
死にたくなるような気持ちを増幅させながら、一時撤退と踵を返す。
入れ替わり立ち替わり、ホームに滑り込む色とりどりの車体を見ながら一松はぐるぐると考えを巡らせる。通い慣れた花屋まで、電車に乗ればたった数駅。時間にしたって苦ではない距離。そこへ行けば、悩みの種であり、心を掴んで離さず、会いたくて堪らない存在に会うことができる。
ニセモノは、一体いつからすり替えられていたのだろうか。
「え、そうなの」
「ん? 残念そうだな先生。そう。バレンタインはそこまで繁盛しないんだ。漫画のネタにしようと思っていたのか?」
「えっと、まぁ、そんなとこ。てっきりクリスマス並みに忙しいもんかと思ってたから
……
」
「うーん。先生も日本で生きていたら分かると思うがな、やはりこの国でのバレンタインシーズンはレディたちのイベント。恋の季節とはいえ花を贈る習慣は根付かなくて」
「確かに
……
」
バレンタインは忙しいのか。多重の意味を込めて一松が訊ねると、カラ松はあっさりと否定した。女性からの贈り物が主流であるここ日本において、意中である男性に花を贈ることはあまりないのだと言うカラ松に、黙って頷く。
「売り上げという欲を抜きにしても、レディもマダムも花も贈り物の候補に入れて欲しいところだがな」
「男でも嬉しいもんなの?」
「そりゃあそうさ! 花を贈られる機会はそうそう無いからな。レディはもちろん誰から贈られても嬉しいものさ。薔薇のように見るからに愛を語る花は直球で良い。それに、クールなフラワーは男を引き立てるだろう?」
言いながら、カラ松は花桶に指を伸ばす。濃い青紫色をした四片の大ぶりな花に、まっすぐの茎と葉が印象的だ。種属的には春が最盛期だというそれは、確かに端午の節句の時期に見かけるものに似ていると、カラ松の指を見詰める。
「アイリス
……
アヤメ科の花だ。最近は冬でも切り花として楽しめる。アイリスの中じゃあ俺は白地に青の美人な種類が好きだったんだが、最近はこっちがお気に入りさ」
「へぇ、確かに格好良いね」
「だろう? 花言葉も色々あって、前向きなものが多いんだ。“吉報”だったり“信じる心”とかな」
ぱちり、小さな音を立ててハサミが茎を切る。水が滴り、形の良い爪から節の目立つ指へと滴が伝っていく。一松の瞳に、いくつもの赤い傷が写った。
「そしてこれがとっておき。“愛のメッセージ”なんていう意味もあるんだ。まさにバレンタインに贈るには相応しいだろう?」
傷だらけの指に一本の花を携えたカラ松は、横目で一松を見る。コクリと喉を鳴らした一松は、その花の名を訊ねた。カラ松の視線が、すい、と花に落ちる。
横顔がふわりと綻び、「イチハツ」と答えた。
「一松、に、名前が似ているよな。だから俺は、君にこいつを贈ろうと思っているんだが」
目も合わせず、カラ松は照れくさそうに笑った。
その表情に、その言葉に、一松は息を飲む。思わず漏れ出た呼吸音と、大きく見開かれた瞼に、カラ松が今度は正面へと向き直る。
「先生は十四日、店に来るか?」
「く、れるの、?」
「そりゃあそうさ。恋人の日に、何も贈らずにいられるものか」
「
………
っ、ぁ、
……
ぼ、ぼくもよういしておきます
……
」
楽しみにしている、と快活に笑ったカラ松の顔を、もうまともに見上げることは出来なかった。
ずるい、ずるい、ずるすぎる。
大混乱を極める脳内と心臓をどうにか落ち着けながら、一松は用事を思い出したと言ってそそくさと店を出た。定位置に椅子を出すこともせず、これといった手伝いも出来ず。しかし、これ以上店には居られないと思ったのだ。
顔が、火を噴いてもおかしくないほどに熱い。心臓が鳴り止まない。
「
…………
、名前、
……
覚えてたのかよ」
確かに、いちまつ、と言った。先生としか呼んだことがないくせに、突然、そんな。
恋人の
――
女性の扱いに慣れているカラ松の手腕にしてやられているのだと脳は理解していても、心はまったく追いつかない。嬉しさと同じぐらい、悲しみも湧き上がる。ない交ぜになって、またむず痒さだけが胸に満ちていく。
カラ松が好きだ。
駅に向かう早足の中、鼓動を早め続ける心臓の裏側で一松は叫ぶ。自分を想ってくれる。そう錯覚させてくれる。こんな感情に支配させてくれる。カラ松のことを、好きになってしまった。
彼もバレンタインに自分のことを考えてくれていた。またしても貰う立場になってしまうが、かっこうの口実が出来た。カラ松に贈る物はふたつにしよう。
一松は、既に心に決めていた。
「カラ松君いないわよ」という店長の言葉に、一松は首を振った。居て貰っては困るのだ。こっそりと聞き出したカラ松のシフトでは、今日はもう仕事を切り上げているはずで、情報通り店にその姿はなかった。
バレンタインデーは明日に迫っている。一松は既にひとつ、カラ松に宛てるプレゼントを買っていた。白地に青と金の装飾が散らされている、ほんの少しだけ値が張ったハンドクリーム。女子用のコスメがずらりと連なるデパートの一階で死にそうになりながらなんとか購入した一品だ。隣に並んでいた薔薇の香りが豊かなクリームも気になったが、カラ松の荒れた手指に常に纏ってもらうなら、無香料で質も良いこちらだろうと決めた。
明日が本番ということもあり、通りがけに見てきたデパートでは店員も客も血走った目をしていたように思える。足の早い菓子を贈るなら今晩を狙うだろう。一松もまた、もうひとつのプレゼントに日持ちがしない物を選んでいた。
「赤い薔薇を、ください」
勇気を持って店主に声を発した
――――
のは、一松の隣に現れた、くたびれたスーツの男だった。
「はい。何本にいたしましょう」
「五本束ねて頂けますか。薔薇以外は入れなくていいです」
「かしこまりました、少々お待ち下さいね。リボンの色などご希望はありますか?」
「白い包み紙に、紫のリボンを巻いてください」
五本の花を手に店の奥へと向かった店主を、一松は指を摺り合わせて見送った。赤い薔薇。カラ松が言っていた、直球に愛を伝える花。会社員と思われるこの男も、近日中に誰かに愛を伝えたいのだろうか。
埃にまみれている革靴に視線を向けていると、少し高い位置からさきほどまで店主と話してきた声が降ってきた。
「あの、すいません。注文するところでした
……
よね? 割り込んでしまったな」
「あ、いや、時間があるから、だいじょうぶです」
「有難う。ふふ、薔薇を買っているところを見られるだなんて、なんだか恥ずかしいな。こんなによれた男には似合わないだろう」
「そんな! ぼ、僕もバラを買おうと、思ってて、似合わないでしょ」
おや、と瞬きをした男は一松を見詰めた。お互いに隠せないほど浮いた雰囲気が漏れている。「お客さんごめんなさい、リボン、在庫から探してくるから」という店主の声に男は頷く。手持ち無沙汰になり、ソワリとした空気の中、頬を掻いたビジネススーツの男が「世間話と思って欲しいんだが、」と話し始めた。
「バレンタインの夜にだけ、来てくれる人がいて
……
な」
「明日ですね」
「そう。明日なんだ。少し変わった人で
……
笑ってくれて構わないが、チョコレートの代わりに毎年毎年薔薇をくれてね。去年で通算、九九九本」
ヒェ、と驚いた一松に、男はくしゃりと笑った。毎年贈られる本数は違ったものの、二月の中旬から数週間は部屋が強制的にラグジュアリーにされるんだと嬉しそうに言う。
数えてたんですねと一松が言えば、襟足を摺りながら男は続けた。
「薔薇の本数に、意味があるのは知っているか?」
「知りませんでした
……
」
「あいつが最初にくれたのが、十二
……
“恋人になってください”っていう、
……
まぁ知らなかったからな。受け取ってしまったんだ。次の年には一気に三六五本。“毎日想っています”だと」
「びっくりですね」
「驚いたさ。二年目でだぞ? 九十九本と四本に分けられて貰ったときに、何か言いたげだったからな。さすがに意味があると思って調べたんだ」
四は“死ぬまで愛する”。
九十九は“永遠の愛”。
そしてそれら全てを合わせた数は
――――
。
「生まれ変わっても、俺を愛してくれるらしい。
…………
明日も来るという保証は無いが、今年こそは、俺からも何かを返したいと思ってな」
「それで、バラを」
「なにせロマンチストな伊達男。ただのプレゼントじゃあ彼は驚きそうに無いから、安上がりだが、五本にしようと決めたのさ」
バッと一松が顔を上げた瞬間、店主が花束を携えてやってきた。恭しく受け取った男は、財布から二枚の札を抜き出し支払うと、一松に向かい直り己の唇に人差し指をあてた。
「五本は“あなたに出会えた喜び”。君は、どんなひとに贈るんだ?」
疲れを残し、少し落ちくぼんだ頬と瞳は似ても似つかないのに、男の顔にカラ松の影が見えた。
「僕、は、
……
まだ、秘密にしていたくて。でも、すごく感謝してる人で。あの人しかいないから、だから、一番似合う花を贈りたい」
「そうか。なら、たった一本でも気持ちは通じると思うぞ」
一本の赤薔薇は一目惚れ。そしてもうひとつ。
「“あなたしかいない”、って、意味もあるんですか」
「まぁ俺も独学だが
……
成功するように、祈っているよ。話を聞いてくれてありがとう」
「あ、お、お兄さんも、お幸せに」
小さく手を振った男は大事そうに花束を抱え直した。
背を向け、一松も夜の空気を小さく吸い込んだ。自分たちのやりとりを不思議そうに見ていた店主に向かって、小さく笑いながら初めての注文をした。
「赤いバラを、包んで下さい」
一本の薔薇を小さな紙袋と共に抱え、一松は通い慣れたビルへと急いでいた。
担当から一本の電話が入り、とにかく急いできてくれの一点張りだった。カラ松の所へ直接行こうと思っていたのに、こんな日に限って。電話やメールで言えないことなんて絶対に碌でもないことだとゲンナリした気分を隠せず、それでも縮めた背を小さく揺らして街を歩いた。
どうしよう。ついに出版社からも見限られるのかもしれない。そんな通告をされたら、バレンタインだ何だと浮かれている場合ではない。果たしてこの贈り物を届けることができるのだろうか。
運動不足と過度な緊張で、乗り込んだエレベーター内で汗が流れるのを感じた。ベレー帽を取り、赤い薔薇と一緒にゆるく胸に抱きしめる。
小さなベルの音とともに目的の階に辿り着く。
一松が大きく息を吐いた瞬間、「ミネット先生!!」と数カ所から声が飛んできた。
先程まで降り注いでいた太陽が、空を半分ほど覆う鉛色に隠されつつあった。
一松は、またしても小走りで街を駆けていた。
隠れたり、現れたりを繰り返す太陽光は、しかし二月半ばの気温を上げるには微力だ。頬や手のひらを切り刻むように空気は冷たく、それでも一松は汗を滲ませながら走る。
息を弾ませながら辿り着いた商店街で、段ボールを抱えたおそ松に出くわす。「あり? 漫画家クンじゃん」と声をかけられ、一松は歩調を緩めた。
「カラ松のとこ行くの?」
「は、い
……
えと、お仕事お疲れ様です」
「そっかぁ~、へへっ、楽しんでね」
赤いエプロンを揺らし、意味深なウインクを寄越したおそ松に、一松は帽子を押さえながらぺこりと頭を下げる。カラ松は、何か話したのだろうか。疑問を浮かべるよりも、会って話す方が早い。あと少し。店に行けば会えるのだ。
「
……
カラ松さんっ!」
はぁ、と大きく息を吐けば、白いもやが広がった。しゃがみ込んで鉢植えの調整をしていたカラ松は、一松の声に顔を上げ、ふわりと微笑む。
「先生。今日は午前中から来ると聞いていたから、少し心配した。遅かったな」
「あ、ごめっ
……
あの、急に呼ばれて、」
「いいんだ。大事な仕事なんだから」
立ち上がり、膝をはらったカラ松はそのままゆったりと歩き店の奥に消える。
何から話そう。何からしよう。カラ松は勤務中なのだからと考えたものの、一松が見渡しても客の影は見えなかった。ついでにいつもなら側にいる店長や他のスタッフも見られない。
話さなければならないことが山ほど出来てしまった。今日はずっと胸がざわめいて仕方ない。目眩がしそうなほど心臓が鳴る。
ドッドッドッ
腰を屈めていたカラ松が、包み紙を抱えたのが見えた。
ドクンッ
一際大きく、一松の心臓が跳ねた。
(
…………
――――
嘘だろ、っ
……
?!)
――
出版社に、プレゼントを置いてきてしまった。
喉元まで心臓が迫り上がり、先程までとは種類の違う汗がドッと流れ出す。なんてことだ。あんなに大事に抱えていたのに、浮かれて、ああ、どうしよう。ダラリ。背中に汗が伝う。
にこにこと花のように綻んだ笑みを見せるカラ松は一松の前までやってくると、形の良い唇を動かした。
「先生、約束していたこれ、受け取ってもらえるか?」
紫色のイチハツと、ところごころに白や青の差し色が入ったその花束はとても品良くまとめられ、確かに男がもらっても困ることのないほど格好良さと美しさを兼ね備えていた。
いつも受け取っていたような可憐な花々であれば、これが勘違いなのだと言い聞かせられるのに。今日に限って。契約し女扱いされている自分ではなく、男としての自分自身に贈られているように思え、一松は泣き出したい心地さえした。
「愛のメッセージ、ちゃんと添えたぜ」と誇らしげに言うカラ松が示すのは、ラッピングに添えられた便箋のことだろうか。
ああ、せめて。自分から返せる物があったなら。
しかし今はそれを持ち合わせていない。
ならば。
「
……………………
む、無理。受け取れない
……
」
視線すら合わせられずに、一松は絞り出すように言った。
目の前に居るカラ松が、ヒュ、と息を飲んだのが嫌でも伝わった。
花は聞いていたけど、手紙とか、また僕ばっかり受け取ることになるじゃん。そんなの、許されるわけがない。ブルブルと震える身体と意識をなんとか繋ぎ止めるが、文字通りカラ松に会わせる顔がなく、深く俯くことしか出来なかった。
黙り込んでしまった一松に、カラ松が困ったように息を漏らしたのが分かった。
差し出されていた花束がぱさりと下げられ、一松の視界に入り込む。
「先生、顔、上げてくれ」
「
……
ごめ、」
「謝らなくていいんだ。でも、どうして受け取ってもらえないのか、それは教えてくれないか?」
一松の肩に手のひらが添えられた。大きな熱に心臓が跳ね、見開いた視界にズイとカラ松が顔を覗かせた。
ドグンッ
心臓がまた嫌な音を立てる。
「っ、離
……
し、て、」
胸の鼓動を、悟られまいと。
一松は身体を縮ませ、声を震わせた。カラ松から逃れるように一歩後退り、結果、カラ松の手は空を切った。「先生、」と零された言葉は乾いた空気に虚しく広がるだけだ。
「先生、ごめん、俺何かしただろうか」
「違う、そんなんじゃなくて。カラ松さんが悪いんじゃなくて
……
」
「しかし」
どこか焦ったように眉を歪めるカラ松に、一松も焦燥感を募らせる。
どうして自分はカラ松にこんな表情をさせているのだろう。お礼をしたかったのに。喜んで貰いたかったのに。ああ、けれど、カラ松が握っている花のように、僕も“吉報”があるんだった。これが一番のプレゼントかもしれない。きっとカラ松なら喜んでくれるだろう。
その表情を想像して、一松はゆっくりと息を吸い込んだ。
「あの、ね、
…………
連載、決まった」
おずおずと差し伸べた言葉に、カラ松の表情がみるみると固まっていく。
…………
、アレ?
一松の首筋が粟立った瞬間、目の前の顔が少しだけ歪み、次の瞬間満面の笑みが開花した。
「やったな!!」
「っう、
……
うん!」
「これ以上無く喜ばしいことじゃないか。先生の作品が目に見える形で評価されたってことだろう?」
「うん。こないだ載った読み切りが好評だったみたいで、とんとん拍子に
……
」
「すごいなぁ。連載を目標に今までやってきたもんな。
…………
やっと、終われるな」
美しく笑うカラ松のその言葉に、今度は一松が表情を凍らせた。
「え、
……
あ、そう、じゃなくて、」
「だって、これでもう俺たちが恋人でいる必要が無いだろう?」
「そう、だよ。
……
そうなん、だ、けど」
その通りだ。分かっていた。分かっていたはずなのに。
頭が真っ白になり、一松はふらりとまた後退る。カラ松は、それに手を伸ばすこともせず、それが余計に一松を混乱させた。青紫の花を抱えたカラ松へ縋るように視線を伸ばしても、やはり美しく笑うだけだった。
「ああでももちろん、困ったらまた俺を頼って良いんだぜぇ? 今度は良き友人として、君を支えようじゃないか」
トドメを、刺された気がした。
一松の口元がいびつに崩れていく。もう契約交際は終わりなのだ。その意味を失ったのだ。
破局。
その二文字が脳内に浮かび上がり、それすら虚しいと一松は笑う。
「連載頑張るね」とだけ残し、無理矢理に作った笑顔のまま花屋を後にした。最後に見たカラ松の笑顔はやはり綺麗で、そこに清々しさを感じずにはいられなかった。
「良かった
…
本当に、良かった」
一松の去った空間に指を伸ばし、そこに残った温度を惜しむように掴む。しかしカラ松の手に触れた空気はやけに冷たく、虚無だけが胸に広がった。
それでもカラ松は、繰り返し「良かった」と呟いた。
「これ以上君と居たら、きっと、俺は
…………
」
受け取ってすらもらえなかった一松宛ての花束を握れば、メシャ、と情けない音が手元だけに響いた。
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