エディ
2018-02-06 21:31:43
14188文字
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花屋と漫画家 第七話「恋、患う」

カライチ

 
 
「ボクねえ、グリルハンバーグとマルゲリータピザ! あとドリンクバー!!」
「えっと、サバ和膳。ごはん少なめ。あとドリンクバーも」
「ぼくはバジルソースのイタリアンポークステーキ。Aセットのパンで、サラダはノンオイルドレッシングで。あとドリンクバー。あ、デザート注文したいんでメニュー置いといてもらっても良いですか?」
「大丈夫ですよ。それではご注文確認させて頂きますね、……
 同じような背格好の男が三人、ドリンクコーナーに肩を寄せる。一松はコーラを。十四松はメロンジュースを。そしてトド松は「冷えって万病の元らしいよ」と言いながらローズヒップティーを煎れていた。学生の頃であれば、悪ふざけの延長で容赦なく謎のミックスドリンクを作っていたその場所から、揃ってテーブルへ戻る。以前は月に数度は家族で来ていたファミリーレストランへ、一松は双子の弟を呼び出していた。
 一月も下旬。しかし一人暮らし、社員寮暮らし、そして実家暮らしの三兄弟が正月に顔を揃えてから、ひと月も空けず集まることは珍しいものだった。しかもそれが一松からとなればさらに稀であり、兄からの連絡に二人はすぐに応じた。
 何年経っても冬の動物園は働く環境として厳しすぎると十四松が嘆き、あと少しで担当園児たちが去ってしまうから永遠に冬で居て良いとトド松が返す。何かと話題の絶えない職場環境に身を置く二人は、ひと月の間でも近況報告に時間を要した。フォークが皿を突く音を聞きながら黙々と口を動かす一松は、いつだってこの弟たちの聞き役だった。そうしてメインディッシュを腹に収め、使用済みの皿と引き換えにパフェとパンケーキとシャーベットが運ばれた。
「で、……かしこまっちゃって、どうしたの」
 ず、とカフェラテを啜ったトド松が切り出す。既にパフェの頂点を切り崩していた十四松も、「どしたのにーさん」と目の前の一松に瞳を向ける。聞き役が、話し手に回る番だ。
…………き、嫌われたくない、人が居て」
「女の子?」
「好きなコ出来たんだぁ」
「違うって!」
 まだ触りすら話していないというのに、さっそく茶化しにかかる弟たちに一松は眉を寄せる。
「第一、友達……でもない、と思う」
「なにそれ」
「言っとくけど、相手、男だからね。底無しの良いやつなの。漫画描くのに協力してもらってて、でも僕人付き合い下手でしょ? いつ、嫌われるんじゃないかって、怖くて……
「口下手のコミュ症ってのは否定できないよねえ」
「一松にーさん、そんなに人と関われたんだ」
「ねえ、失礼すぎない?」
「事実でしょ〜〜兄さんにそこまで思わせるなんて、よっぽど親密なんだね。具体的にどんなことしてもらってんのさ」
 歯に衣着せぬ発言の数々に一松はひとつ盛大な溜息を吐く。そんな兄の姿に、弟たちはこれ以上無いほどキラキラとした瞳を向ける。なにせ、この兄がこの手の話題を口にすることなど、今まで生きていて一度も無かったのだ。
 ゆっくりと息を吐き出した一松は、低く心地の良い声であらましを話し始める。
 自分の仕事に本格的な行き詰まりを感じていること。その解決策のひとつとして高校時代の先輩に手助けされたこと。紹介された相手が花屋だったこと。そして今、その花屋に一時的に身を置いていることを、探り探り話していく。契約交際のことは隠したままで。
「花屋で客の観察かぁ、いいね!」
「十四松兄さん、言い方。でも確かに効率的だよね」
「うん。成果もすごいあって……だから、あいつには感謝してて、……休日も会ってくれたり、とか」
「え。相手さんスゴイ熱心じゃん」
「ひひ、こんなゴミ人間相手によくやるよね。うちにも来てくれたし、……あ、こないだ、泊めてもらったんだよね」
「まじすか」
「まじっす」
 ふひ、と頬を緩める兄の顔をまじまじと見詰め、双子は目配せをする。
……あのさ、兄さんはどうして、その人に嫌われたくないの?」
「え、だってそりゃあ……僕、まだ漫画描いてたい、から」
「都合の良い情報採集ができるとか、良い資料になる、って、それだけ?」
「そ、れは…………、」
 途端、一松は言葉を濁す。
 なぜと問われれば明確な理由が出てこなかった。今までの経験上、何もしなければ、これといって魅力の無い自分の元に人が残るはずもなく。かといって人付き合いの得意でない自分が何かを行動しても、良い結果が待っているとは思えない。
それでも、今望むものは、ただひとつしか見つからなかった。
「どうしても、嫌われたくないんだ……。理由があるうちは、一緒に居たい、から……だから、どうすれば嫌われないで済むか教えて欲しい、んだけ、ど、……
 おずおずと、伺うように零された声音と不安げな表情に、双子はもういちど目配せをした。

「「兄さん、それは恋だよ」」

 双子の声が、ぴったりと重なった。
「僕でも分かるよ!」
「なんだかんだ、一松兄さんも隅に置けないね」
 言いながらニパリ、と十四松の目尻が下がる。むふ、とトド松の口角が上がった。
「そ、そんなわけない!!!」
 それに慌てたのは一松だ。異性との交際経験がなくとも自分にそのケが無いことは、自分が一番よく知っているのだ。持っていたグラスのなかで、ガランッと氷が崩れた。
「そんなんじゃない……よ、絶対に違う、」
「うーん。まぁ恋愛感情だって決めつけるわけじゃないけどさ」
「でも、似てるよね。かなり。にーさん初恋まだだもんねえ」
「えええ……そもそもお前らに男同士がどうとかそういうの無いわけ…………
「「えっ無い無い」」
 ニコニコとひどく楽しそうな弟たちを前に、一松は目眩すら感じた。確かに、まるで少女漫画のような経験をカラ松に出会って以来何度もしている。自分が少女側で、だ。それに心をときめかせたことも、顔を赤らめたことも、――そして今では、カラ松のことを考えない日は無いと言っても過言ではなく。さらにはこんな相談を弟たちに持ちかけるほどには、はまり込んでいた。
 嘘だろ。
 乾きつつある喉を潤すことも忘れ、ただただ言葉を無くした。
 この気持ちが、恋だなんて。
……――――そんなの、困る……
 一松は、今にも泣きそうな音をこぼした。その声と同じく、眉は歪み、瞳は不安げに揺れ、唇は小さく震えていた。思わぬ兄の反応に、頬を綻ばせていた双子も表情を消す。
「え、……なんで。どうして、兄さん」
「だ、だって、ただでさえ僕のわがままに付き合って貰ってるんだよ? 迷惑すぎでしょ。僕なんかに、こ……恋、されるとか、なんの罰ゲームだよ……
 シン、と、テーブルに沈黙が落ちた。周囲の会話や食器音がやけに響く。
 どう会話を切り出したものかと十四松が忙しなく袖口を弄り、トド松は唇をやわく噛みながらそれを見詰めた。兄の性格は良く理解しているつもりだ。自分に自信が無いことも、そのくせ人の心にはとても敏感なことも。優しい性根を持ち、それがゆえにひどく不器用な生き方をしているこの兄が、しかし今確実に変わろうとしている。口を開いたのは、トド松だった。
……ぼくはね、一松兄さんにそんな大切な人が出来たってだけで嬉しいよ。でもね、あわよくばもっと幸せになってほしいの」
……そんな資格無い、でしょ」
「十分ある。兄さんが最初に夢を叶えたから、だから僕たちは自分が好きなように生きて良いんだってわかったんだもん。ね、十四松兄さん」
「うん。そうだよ。好きなこと勉強して、好きな仕事して。いつだってにーさんはボクたちの目標だし憧れだよ! ……でも、それもプレッシャーだった、よね?」
「そんな、こと、」
 言いかけて、一松は唇を結んだ。先陣を切ったはずなのに、いつのまにか弟たちに置いてけぼりになっていたと苦しんでいたのは事実だ。夢や目標を次々と達成し充実した仕事ぶりを見せる弟たちと、軌道に乗らない漫画家生活を比べない日はなかった。
……態度、出てたかな……ごめ、…………ほんと、かっこわるい」
「違うって。見てれば分かるよ、兄弟だし」
「そうそう、だからね、兄さんが楽しく漫画描けないのは、ボクたちもつらいの」
……たのしく」
「そう。兄さんが描きたいなら、描いて欲しい。続けて欲しい。諦めないで欲しい。それを手伝ってくれる人がいるんなら、その人にも協力して欲しい」
 二人分の真剣な眼差しと声音が、一松の正面から注がれる。項垂れていた一松の背筋が、ほんの少し伸ばされた。
「で、一松兄さんが大切だと思ってる相手にも、兄さんのことを想って欲しい」
 キュ、と、トド松の唇が横に結ばれた。十四松の下がりがちな目尻も、力が籠もっている。

「ボクたちは兄さんが幸せになるのを望んでるし、それが欲張りだなんて思わない」
「兄さんも、自分が誰かを好きになって、気持ちを返されて、……それを、欲張りだなんて思わないで」

 大丈夫。兄さんがその人のことを好きだと思って、一緒に居たいって思って、逃げないで接すれば嫌われたりしないよ。
 言葉を切り、常の柔らかな笑みを戻した弟たちに、一松は瞳が湿っていくのを感じた。
……なんなの、おまえら」
「わ~~、一松にーさん泣きそう、だいじょぶ?」
「だいじょばない」
 ぐしゅ、と鼻を鳴らした一松は、それでもいびつな笑みを作る。不器用で、兄らしいその笑顔に弟たちも頬を緩める。
「うまくいくといいねぇ。休み出来たらぼくも店行っていい?」
「だぁめ。……ていうか、何度も言ってるけど恋とかじゃないからね。違うからね」
「どうだか。さっきの兄さんめっちゃ恋する乙女感すごかったよ」
「うえええ客観視したら気持ち悪っ……
 舌を出した一松は、しかしそこには腑に落ちない表情を崩さない。
「恋する乙女、ね…………まぁ僕も楽しんで……っていうか、ちゃんと漫画で食ってけるように頑張るよ」
 自分が、あの花屋店員に、恋をしている。
 心の中で唱えてみるも、疑似恋愛のさなかにいるのだから、しっくりきているのか自信が無かった。
 そのためには、やはりあの男が自分にとって必要だと、それだけは自覚した。
「っよし! 卑屈松兄さんにしては前向き! ああでもこれだけは覚えていて、」

 好かれたいんなら、自分からも好きでいなきゃ駄目だよ。
 誰かの一番になりたいなら、自分も一番にしないとダメ。それをちゃんと示さなきゃ。

 その言葉に、一松はしっかりと頷いた。
 

   :


 扉のベルが、大きな音を立てた。続いてカウンターの内側から酒焼けした声が飛ぶ。「あらぁ! ソッチの格好で来るのは久しぶりじゃない」というママの声に応えたのは、レディス仕立てのジャケットに、メンズ用の小物を揃え、パンツスーツに身を包んだチョロ松だった。
「今日はお仕事だったんだ?」
「そ。撮影の方にお偉いサン来てたからちょっとおしゃれしたの。似合うかしら」
「バッチグゥよお!」
 このバーに足を運ぶときは、ラフなシャツに元来の性を表に出した男としての顔か、がっつりと化粧を施し中性的に作り上げられた女装姿で現れることが多かった。しかし今日は、男でありながら女の空気を纏わせた、仕事用の姿がそこにあった。
 迷い無くカウンターに腰を掛ければ、低く耳馴染みのいい声が隣から渡された。
「今日は一段と素敵だな、チョロ松」
「あんたに言われるとちょっと嬉しいのが、なんだか悔しいのよね」
 ふ、と僅かに空気を震わせ、カラ松とチョロ松は視線を交わせる。しばらく振りに顔を合わせたことに自然と柔らかな笑みが漏れたが、しかし今夜カラ松に呼び出されたその理由が、なんとなく喜べる内容では無い気はしていた。その予感が当たってしまったと、カラ松の纏う空気ひとつで感じとった。
「バブエちゃん。ギムレット、頼める?」
「はぁい」
 ドライジンの透き通った液体がシェイクされ、わずかに白色に輝きながらカクテルグラスに注がれる。ライムの香りを喉奥で感じながら、カラ松の一声を待つ。――――が、突然見知らぬ声が割って入った。
「あり? お兄さん見たことある。芸能人?」
 カラ松を挟んだその向こうから、ひょっこりと男が顔を覗かせた。知らぬ声と知らぬ顔に、カクテルグラスを握るチョロ松の指が、わずかに震えた。カウンターの内側から「たまぁにカラちゅんと来るわよぉ」と新たな酒瓶をシェイカーに注いでいた。
 カラ松の前に置かれたウォッカ・ギブソンに続き、ゴトンッと重い音がしてビールジョッキが置かれた。ジョッキなんて用意していたの、と目を丸くすれば「俺の持ち込みでーす!」と心を読んだかのように男が言う。ぐびぐびと喉を鳴らした男は、いかにも美味しそうに瞳を細めてから、唇に突いた泡を舐め取った。
「俺、おそ松。アカギンにある本屋の店長してんの」
「赤塚銀座の?」
「そう。俺の腐れ縁だ。すまない、事前に言っておくべきだったか」
「別にいいわよ。おそ松クンって言ったかしら。そうね、一応業界に身を置いては居るわ」
「じゃあなんかの雑誌で見たのかなぁ。名前なんつーの?」
 ジョッキを両手で包み歯を見せて笑う初対面の男を、チョロ松は細い瞳をでじぃと見詰めた。
……チョロ松でいいわ。カラ松、あんたの親友なんでしょう?」
「ああ」
「なら仕事用を名乗るのも回りくどいし、どうせ、ワケアリな話をしに来たんでしょう?」
……ああ」
 おそ松が「生おかわり!」と明るく叫ぶのに対し、チョロ松がすかさず「居酒屋じゃねえんだぞ」と口調を崩す。黙り込んだまま無骨な指先でグラスを弄んでいたカラ松は、ウォッカ・ギブソン(”隠せない気持ち”)を煽ると、ようやく唇を解いた。

……――一松君、のこと、なんだが」
 
 まぁそうでしょうね。と、カラ松の両隣は僅かに息を吐いた。
 再び運ばれたビールジョッキにおそ松が喉を鳴らし、黙ったまま幼馴染みの言葉を待つ。チョロ松の前にも先程と同じ酒が出された。グリーンに装飾をほどこした爪でカクテルグラスをつまみ、ギムレットを口の中に流す。さぁ、“勇気を出して”。
「この間、……先生を俺の家に泊めたんだが」
「手ぇ出してんじゃねえだろうな」
「いや待ってくれまだ出してな、」
「「まだぁ?!」」
 チョロ松は目と唇をこれでもかと開き、半分ほど減った酒が波打つほどに強くカウンターへ置いた。対しておそ松は呆れたように眉を寄せ、頬杖をついた。
「やぁっぱり新しい彼氏だったんじゃん。なんで隠すの」
「ちょっとっ……まだ、ってことはカラ松あんたっ……!」
「ウェイトウェイト!! ちゃんと話すから!」
「カラちゅんモテモテぇ♡」
 他に客が居ないのをいいことに、まだ十分にアルコールが身体を巡らずともヒートアップしていく。ガタガタと忙しなく鳴るカウンターチェアにチョロ松を押し込めて、カラ松は長く溜息を吐く。
……チョロ松には、向こうから契約交際を申し込まれたことは伝えていたよな」
「そうね。ノンケには手を出さない主義で、しかも全然タイプじゃないから間違いは起こらないって、はっきり言ってたわねぇ」
「え、そんな関係だったの。まぁ確かに今までとはまったく違うタイプだなーって思ってたけど」
「その時はまだ、っ……大丈夫だったんだ。チョロ松の言うとおり真面目で……少し根が暗過ぎる気もするが、周りをよく見ているし、気の利いた子だ。でも、好みではないと言ったのも本当だったし、…………ノンケ相手に揺らぐなんて、思わなかったんだ」
 言葉を切り、アルコールで舌を熱くした。
 ぬるくなりつつあるジョッキを、ツイ、と爪で掻きながら、おそ松は横目でカラ松を見た。
「そこまでして、応援したい子だったの?」
……ああ。初めて会ったときもそう見えたし、一緒に過ごしていてさらに、そう思えた」
「トラウマ、ぶり返すとか考えなかったのかよ。お前はいつまでたっても役者だね」
 眉を寄せながら笑ったおそ松に、カラ松はカウンターに視線を落とす。突然話が見えなくなったチョロ松は、唇を尖らせながら「どういうこと」と素直に尋ねる。
「チョロ松にも話していなかったな。俺、昔は役者を目指してたんだ」
「あら」
「といっても、十代も半ばで諦めたんだがな。諦めた、というか、確かに将来の夢ではあったんだが……そうだな……
 落とされた視線はそのままにカラ松の唇がゆっくりと閉じられる。数秒、口のなかで行き場を無くした言葉が、再び開かれた隙間からおそるおそる空気を震わせた。
…………昔話になるが、聞いてくれるか」
 
 

 カラ松は、小学校時代の学級劇で準主演を担った。主役は学年でも一番人気のある男子児童で、その親友役を演じた。当時から目立ちたがり屋なところはあったものの、カラ松は主役でないことに不満は持たなかった。演劇そのものに興味が無かったからだ。その頃は、所属していたミニバスケットで一番になることが日々の目標だった。
 しかしそのたったひとつの劇が、カラ松の心を大きく動かした。
 楽しい。
 その感情だけだった。ただのクラスメイトたちを登場人物へ落とし込み、自らもキャラクターそのものになり、物語に浸る。準主演ということもあり、決して少なくはなかった台詞を暗記することも、自分なりの演技を工夫して乗せていく過程も、何もかもが楽しくて仕方が無い。そして本番、無数の瞳に見詰められながらスポットライトを浴びたことが、カラ松の人生でひとつの転機となったのだ。
 中学校へ進学し、クラブ活動が始まった。部員数は少ないものの運良く存在した演劇部に、カラ松は迷わず入部した。
 初めこそ「バスケはどーしたんだよぉ」とふてくされていたおそ松も、真剣に、そして心底楽しそうに演劇へ傾倒していくカラ松を、いつしか羨ましいと感じるようになっていた。
 高校進学後も、カラ松は演劇部に入った。近場で、学力も自分に見合い、そして演劇部があることを条件に学校を絞り、見事受験に合格した。いつまで経っても志望校を決めなかったおそ松は、双方の親の勧めで同じ学校を選択し、なんとか入学した。
 小学校のお遊戯会レベルや、ただのお遊び部活動にとどまっていた中学校時代と違い、進学した高校での演劇活動はそれなりに真剣なものだった。部員数も充実し、発声などの基礎から学び、全国への出場経験もあることから大会を始め本格的な校外活動にも活発だった。
 勉学はそこそこであるものの、あまりにのめり込む息子の姿に、カラ松の両親も心から応援をした。中学から引き続きバスケ部に所属していたおそ松も、文化部のなかでは一際遅くまで残り、早朝練習まである演劇部とほぼ同じ時間に登下校をしていた。
 家族の協力もあり、幼馴染みとの時間を減らすこともなく、クラスでもそれなりの人気を誇り、そして部活動に熱中し。まさに、充実した高校生活だった。
 そしてもうひとつ、カラ松の心を掴んで離さない存在があった。
「部長!」
 はにかみながら「台本の読み合わせ、したいです」とカラ松が言えば、人好きの良い笑顔と共に快諾された。その声は、十八歳らしく、低く落ち着いた声だった。
 入部してすぐに、カラ松はその男子生徒と交流を持つようになった。演劇に真摯に向き合い、練習にも余念が無い二学年上の先輩に、カラ松は強く惹かれた。自分は将来役者になるのだと心のどこかで甘酸っぱい夢を抱いていた時期に、本気で演劇に道を目指すその姿にひどく憧れたのだ。
 中学からの経験者ともあり、一年生としては重要な役に就いたカラ松は、主要な役を担当する先輩らと居ることも多かった。部長と時間を共にする時間も多く、人懐こいカラ松のことを彼もまた可愛がっていた。
 演技の最中は目を奪われるほどに迫力があるくせに、ひとたびその仮面を外せばにこにことあどけない笑顔を見せる。部員をまとめることも頼ることも上手く、年下のカラ松に対しても分け隔て無く接する。それは一年生という負い目を感じながらも、演劇に打ち込むカラ松をより奮い立たせた。
 全てが楽しかった。
 全てが充実していた。

 しかし青い春とは儚いもので、そして若さとは時に思いもよらぬ勢いを生むものだった。

「好きです」
 多分、俺、部長のことが好きです。
 カラ松は照れくさい顔を大きな花束で隠しながらそう告げた。大きなコンクールを成功に収めたその日、部室に残った二人を、白い蛍光灯が照らしていた。
 大抜擢の難しい役をやり遂げたカラ松に、部長はそれは豪華な花束を贈った。もちろんそれは部で購入されたもので、彼はカラ松以外の部員にも花束を手渡していた。しかし、カラ松は舞い上がっていた。大舞台を終えた興奮と、生まれて初めて贈られた花束に、カラ松は浮かれていたのだ。
…………――面白い、冗談だな」
 それはいつも部長が絶やさない、そしてカラ松が愛した声と笑顔だった。
 その時はただ、「ああ。言うタイミングを間違えた」とぼんやり思っただけだった。もっとロマンティックに、もっと空気を作って。役者なのに情けない。そう小さく後悔した。
「あ、すいません、えっと」
「なかなか迫真の演技だったぞ。何かの練習かな?」
「違、っ……あの、俺、部長のことを心から、――――っ、……
 言葉は、先を紡ぐことを許されなかった。常と変わらぬ笑顔の上に、困惑と、動揺と、そして嫌悪と見られる色が乗せられていた。ヒク、と喉奥で呼吸が堰き止められ、肺に残った最後の空気を使い、「すいません」と「お疲れ様でした」を言うのがやっとだった。
 すぐに部室を後にしたカラ松は、しかし、ただの失恋なのだと。上級生に、そして同性に恋情を抱いてしまい、それが成就しなかっただけなのだと思っていた。明日からも何一つ関係は変わらず、自分の中で、ただ憧れであり目標の存在に戻るだけだと。
「初恋は叶わない、って、よく言うしな」
 そうして片を付けた。
 太陽が沈みきり闇に落ちた町を、その日カラ松は一人で家路についた。

 翌日からだった。
 空気に、違和感を覚えた。なんてことはないただの違和感。しかし確実に昨日までのそれとは違っていた。部長だけではない。同学年の部員や、親しくしていた先輩。女生徒も、そして、男子生徒も。変わらぬ会話の中に薄い膜を一枚隔てられ、笑みを形作る口元から視線を上げれば、目が泳いでいた。
…………、あ、……
 幼きカラ松は、そこでようやく悟った。
 何も知りませんよ。知っていても気にしませんよ。大丈夫。今まで通り仲良くしましょう。そう。今まで通り。良き友人として。
 そんな声音を乗せ、必死に表情を作って、部員たちはカラ松に話しかけていた。さすが演劇部と誇れる、完璧な上辺の取り繕い。中には本当に何一つ態度が変わらない生徒もいて、それが余計に違和感を浮き彫りにする。悟るより他無かった。自分がしたことの過ちを。そして居場所を無くしてしまったことを。このまま自分が居たとしても、決して元には戻らないことを。
 カラ松は、その日のうちに退部を決めた。

 おそ松にも、両親にも、しばらくは言い出すことが出来なかった。しかし長く隠せるはずもなく、それを知ったカラ松の両親はひどく動揺し、悲しみ、そしておそ松は――――激昂した。
「どういうことだよ。お前、っ……何でやめちゃったんだよ」
「またバスケをしたくなっただけさ。兼部は禁止されているだろう?」
「理由に、なってねぇ」
「来週からはそっちに世話になるぜぇ。またツートップとして、」
「何で辞めたんだっつってんだよ!!!」
 制服の襟を掴み上げ、詰め寄った。そこで初めて、貼り付いていたカラ松の笑顔がほんの刹那消え去った。次の瞬間には取り繕われた表情に、おそ松は奥歯を噛みながらさらになじる。
「ずっとヘンな顔しやがって。オレに、言えねえことなわけ」
「別に、言うほどのことじゃない」
「っ……、の、やろ!!」
 ガヅンッ! と、骨と骨のぶつかる音がした。
 おそ松の握りしめた拳がふるりと揺らぎ、カラ松の左頬がみるみると赤く腫れていく。とうとう一切の表情を消したカラ松は、すかさずおそ松に詰め寄り脚で風を切った。振りかぶられた腕に気を取られていたおそ松は、急に食らった蹴りに対応しきれずぐらりと身体を傾ける。咄嗟に手を伸ばし、衣服を強く引いた。
 空き教室の埃にまみれた机や椅子が耳障りな音を立てる。塵の積もった床に二人で崩れ落ち、黒い学生服の数カ所が一度に汚れた。
 殴られた頬が、蹴られた腰が、床や机に打ち付けた肘や肩が、ズキズキと痛みを訴える。
 おそ松が見上げたカラ松の表情は、これ以上無いほど苦しそうに歪んでいた。

――――ごめん、俺、たぶん、……男が好き、なんだ」

 悪い、すまない、ごめんな。
 まるで嗚咽で言葉を詰まらせるように、カラ松の悲痛な謝罪はいつまでも続いた。おそ松は、一体何を謝られているのか理解が出来なかった。泣きそうに顔を歪め、はた、と何かに気付いたように身体を離した親友に、黙ったままガシリと腕を回す。
 何を言うのが正解なのか、何も分からなかった。けれど。
「俺は変わんないよ」
 様々な言葉が浮かんでは消え、結局腕の力をさらに強めただけだった。小刻みに震える身体の持ち主は声も出さず、顔も見せず、しかしその瞬間は役者ではなくなっていた。



「笑えるだろう。たったこれだけのことを、ずっと引きずっているんだ」
 飲み干したカクテルグラスは、もう水滴すら残っていていなかった。次の酒を造ることもせず、店主も背を向けたままカラ松の声を遮らなかった。
「俺は、勝ち戦しかしてこなかった。出来なかったんだ。どうしても。ノンケに手を出すことが、恐ろしくて仕方が無いんだよ」
…………そういう、こと」
「別に、俺のことを好きになって欲しかったんじゃない。そりゃあ気持ちが通じ合えたら、それ以上に嬉しいことはないが……、恋をしていた相手からあんな視線を向けられたり。ただの友人としか見ていなかった相手からも奇異の目を向けられたり、っ……
 でも、そんな顔をさせたのは、そんな気持ちを抱かせてしまったのは、まぎれもない自分だ。
 カラ松が唇を噛んだのと同時に、チョロ松が睫を伏せる。カチリ。とライターが鳴り、細い紙巻きの先に火がともる。彩られたチョロ松の唇から白い煙がのぼり、煙草にはわずかに色が移っていた。
「ま、痛いほど分かるわね。あたしみたいにどっちつかずで居ちゃえば、最初から周りもそう見てくれるけど、……男のまま、男を好きになる、ってのは……知られた瞬間、笑っちゃうほど空気が変わるもの」
「そーいうもんかね。……俺も、カラ松以外だったらすぐには受け入れらんなかったかなぁ」
「言葉の通り、お前は変わらないでいてくれたからな。演劇部からは逃げてしまったが、まともに生きてこられた。お前のおかげだ」
「ちょっ、きもちわり、やめろよ」
 ゲェとおそ松は顔を歪める。確実にそこに在る深い絆に、チョロ松は深く紫煙を吸い込んだ。肺に満たされていく煙に混じり、自分自身の高校時代がよみがえる。
「あたし……僕が、一松に助けられた日を思い出すな。あの子に言われたのよ。“無理してないですか”って」
「一松、に?」
「そう。一松はあの頃も絵を描くのに夢中だったのよね。漫研は馴染めないからって美術部来たけど、僕の絵を見て、少し僕と話して。それだけであの台詞よ。あの頃の僕って、必死に男子制服に身も心も押し込もうとしててさ」
 ――苦しくて仕方なかったわよ。
 口内に残る苦みを舌で転がし、チョロ松が笑う。
「一松の言葉でハッとしたわ。そこから卒業までに少しずつ素の自分を出していったの。仕事もこの方向に決めたのも、もちろん一松のおかげよ。今の、この仕事用の姿が、僕がなりたかった自分(あたし)なの」
…………一松は、すごいな」
「そうよ。命の恩人、って言葉がぴったりなの。僕の大事な弟って意味分かったでしょ?」
 細い瞳で微笑むチョロ松に、カラ松の喉奥が詰まる。空になったグラスを持つ手が、じとりと汗ばんだ。
「なら、なおさら、俺は最低だな。……人助けをしている自分に、酔っていただけ、だ」
 カラ松の両隣が、重い息を飲む。
「自分が挫折した姿を重ねて、救ってやりたいだなんて、傲慢なことを考えていた。俺を頼ってくれる先生に、……
「なんか、カラ松に懐いてる雰囲気あったもんね」
「そう見えたのか?」
「拾われた猫ってかんじ?」
「はは、そうだな……。賢そうなのに、初心だしすぐに取り乱すし、……無意識かは知らないが、……俺だけが必要だなんて、そんな殺し文句があるか……?」
「あらまー……あの漫画家クン、一番カラ松に刺さること言っちゃったねえ」
 ヘラ、とおそ松が砕けた笑みを見せる。
 今までカラ松と関係を持ってきた相手は、みな一様に淫奔さが浮いて見えるような男たちだった。全員を把握しているわけではないが、おそ松が見ていても、決して長続きがする雰囲気は無く、カラ松に聞けば「放っておいても、好いてくれるから」と言うだけだ。人の好みにケチをつける気は無いが、結局またフラれたと笑うだけだった。
……で、今はどうなの。その酔いとやらが覚めて、今のカラ松は漫画家クンをどう思ってるの?」
 その親友が、どうやら再び恋に落ちようとしているらしい。おそ松はカウンターに頬を付けるように、カラ松の顔を覗き込んだ。
「手ぇ出したいって思っちゃうくらい、好きになったんじゃねえの?」
「っ…………、でも、」
 見上げた先の顔は、変わらず険しいものだった。
「絶対に手を出すことはしない……ちゃんと諦めるから。でも、すまないチョロ松。分かっていたのに」
 重く、懺悔するような声音に、緩んでいたおそ松の唇が真横に結ばれた。
 一松に好かれたい、愛し合いたい、好かれるように仕向けたい。一松が相手ならば、望みはあるかも知れない。けれど異性愛者を、ましてや男女間恋愛を描くことを生業にする一松を、こちら側に引きずり込んでいいわけがない。
 カラ松の言葉に、チョロ松がまたひと筋の紫煙を吹き、カウンターに身を伏せたままのおそ松が大きく息を吸い込んだ。

……――――なぁ。なんで好きでいちゃいけねえの」

 ぶすくれたような声にカラ松も視線を下げる。声をそのままにしたように眉を寄せ、カウンターに貼り付けた頬をも膨らませた不細工な顔だ。不満を全面に出した顔と声のまま、おそ松は唇を動かす。
「カラ松が何か犯罪でもしたのかよ。や、これからするかもしれねーけど? 今はまだ恋したってだけだろ? それの何が悪ぃの。わっかんねえな」
「いや、だって先生はノンケで」
「好きでいりゃいーじゃん。んで、漫画家クンもお前のこと好きになってくれたらラッキー。な?」
「そんな簡単に、」
「簡単に考えろよ。べっつにいいじゃん諦めなくて。お前はそのままでいていいよカラ松」
 ガバリ。身体を起こしたおそ松は、いつかそうしたようにカラ松の肩を抱く。
「好きって気持ちを伝えられないのがつらいなら告白しちゃえばいい。今のままでいいなら、そのままでいろ。好きでなくなる必要なんかない。振られたら……そん時慰めてやるよ」
 いつになく真剣に、しかし最後は歯を見せて笑うおそ松に、カラ松の目が大きく見開かれる。おそ松に抱かれたままの肩を、ツン、と何かがつついた。そちらに顔を向ければ。むわりと白い煙が視界を覆った。
「黙ってりゃ、勝手に言ってくれるわね。あんたがそんな臆病な男だなんて思わなかったわよ」
 煙幕が薄まった先に、色づいた唇が片側だけあがっていた。
「そりゃああの子はコミュニケーション下手で、どうしようもない卑屈人間よ。でもね、人の好意を踏みにじるような人間じゃ決してないわ」
「それは分かってるっ……! しかし、きっとあの子はまだ自分の気持ちにすら気付いていない。なら、このまま気付かせない方が良いじゃないか。チョロ松ならその意味も分かるだろう?! 一松にとっての幸せだと俺は思って、」
 ダンッ!!
 と、カウンターが激しく鳴った。握り固められたチョロ松の拳は小刻みに震え、その唇はさらに口角を上げていた。
――――保身にばっか回ってんじゃねえぞ」
「チョロ松、……
……そりゃあ一松がコッチに転ぶとは思わなかったわ。漫画家として軌道に乗って欲しくて、やりたいことやって欲しかっただけよ。恋愛だってストレートの方が苦労もしないでしょうね。そう言いたいんでしょう?」
「そうだが、」
「僕もそう思うね。でも。あの子が、……一松が変わりかけてるんだ。一松の幸せは、あの子自身が決められるわ。カラ松。あんたも今が変わる時なんじゃないの」
…………、」
「手放したくないと思うなら、そうしなさいよ」

 良い?
 恋愛は、どこまでも自由よ。
 僕たちがそれを忘れてどうすんの。

 不敵に笑ったチョロ松は、グイ、と剥げかけていた口紅を拭った。指に移ったそれを、「チョロちゃん素敵ぃ!」と褒め称えながら店主が濡れ布巾で拭き取る。
 にまにまとした笑みをいっそう深めているおそ松と、唇を半分開いたまま固まっているカラ松を見やり、チョロ松は新しい煙草に火を灯す。
「カラ松、あんたは何で花屋になったの」
「そ、れは、……あのとき、部長から貰った花束が忘れられなかった、から」
「へえ」
「花を、貰ったのは初めてだったんだ。良い思い出ではないが、――――とても、嬉しかった」
 失恋に加え、関係の破綻までつながった苦い記憶の中で、花束を貰った喜びだけは本物だった。役者の道は自ら絶った。しかし、確実に存在していた喜楽の思い出を、無かったことにするには惜しかった。
「あたしは、花屋、向いてると思うわよ」
……、ありがとう。チョロ松」
「このまま、一松のこともあんたの花で幸せにしてやってよ。あたしじゃそれは出来ないの。泣かしたら許さない、って言葉も撤回……は、……したくないわね…………
 ……いや、実はもう一回泣かしてしまっていて。その言葉は腹の奥に押し込め、もう一度深く頭を下げたカラ松は、ようやく笑みを見せた。
 「恋患いが早く完治しますよぉに♡」とカウンターに酒が並べられる。
 肩を離そうとしないおそ松は何杯目とも知らぬビールを喉に流し込む。それに揺すられながら、カラ松もバラライカの注がれたグラスに口付けた。喉を通った柑橘の酸味が、胸をすかしていく。
 “恋は焦らず”。
 しかしアルコールでふわりと浮いた脳裏には、早く一松に会いたいという思いで満たされていった。