エディ
2018-01-18 22:46:39
10140文字
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花屋と漫画家 第六話「サボテン」

カライチ

 もう二度と顔を合わせられないのではないか。そんな不安と共に、カラ松はクリスマス当日を迎えた。
 擬似的なものとはいえ、同性に接吻をされたのだ。一般的に考えて気持ち悪がられるに決まっている。どうしてあんな行動に出てしまったのだろう。なぜあんな思考に至ってしまったのだろう。
 一松は、あの日以来店に顔を出していない。
 悶々と自己嫌悪に苛まれながらも、年を通して一二を争う繁忙期に手と頭を回せば、気を紛らわせるのにも苦労はしなかった。十二月二十五日。クリスマス。ようやく人の波が引いた午後八時半の夜空に、ふわり、大きく軽く、真っ白な雪が降り始めた。
「ホワイトクリスマスですね」
 ラジオのパーソナリティは、いつだかの放送での予報が当たりましたと放送作家と談笑している。
 音も無く降り落ちる白い塊をぼんやりと見上げる。冷えで今にも固まってしまいそうな指を摺り合わせると、ぴしり、と小さな痛みを感じた。目の前に手を掲げると、赤いひびがまたひとつ増えていて、カラ松は眉を寄せた。
 ……――泣いていた。
 気付けばまた、あの出来事を思い返していた。カラ松の脳裏には、一松の泣き顔がこびりついて離れずにいる。自分の考え無しな行動で、一松を泣かせてしまった。嫌がらせをしようだとか悪気があったわけでは決して無いが、あれが好意だったのかと問われればそれも違うだろう。けれど、とにもかくにもまずは謝罪をしたかった。自分を頼ってくれた一松にも、自分を信じてくれていたチョロ松にも。
 忙しさを理由にして三日間は携帯すらも放置している。一松はどうしているだろうか。恋人は居ないと言っていたが、家族と過ごしているのだろうか。それとも、ひとり、あの部屋で、……
 クリスマスの夜に連絡をしたら迷惑だろうか。いや、先延ばしにしたのだから今日こそは。商店街の質素なイルミネーションに照らされる雪を眺め、霧散していた思考とともに拳を固めれば、先程出来たばかりのアカギレがぴりりと痛んだ。
 ――――、やっぱり明日になったら。
 途端、弱気になったカラ松の耳に、クリスマスソングが流れ込んでくる。今日を終えればこの陽気なメロディと一年弱はおさらばだ。明日になれば、街の様子も、人々の心も、否が応でも変わってしまう。明日。一松に電話をしよう。きっと会ってはくれないだろうから誠心誠意謝ろう。心に誓い、カラ松は店じまいのために店内へきびすを返した。
 パーソナリティは「今年の冬は例年より降雪が多そうです」と高らかに告げていた。



「お、はようござい、ます」
「、先生……
 翌朝。早朝。カラ松が出勤し、ユニフォームであるエプロンを身につけた直後、一松は姿を現した。
 雨になることもなくアスファルトに直に降り注いでいた雪は、たった一晩でも辺りを薄らと白に染めていた。普段よりは着込んでいるものの、マスクをしっかりと装着した一松の頬は少し赤い。一松の来訪に気付いた店主は「ヤングチームで雪かきお願い」とスコップを二つ寄越した。
 開店準備を進めるスタッフを背に、会話の糸口を見つけられずに無言で雪を除けていく。たった数センチの降雪も、関東の中心地に住まう身にとっては一苦労だ。ガリガリ、と雪とアスファルトを引っ掻く音だけが響く。ハァ、と大きくこぼれ落ちたカラ松の溜息が、白いもやとなって散っていく。言わなければ。謝らなければ。そう思えば思うほど、カラ松の喉につかえが増えていく。
「ねえ、っ、」
「なぁ!、……
 冷たい空気を大きく吸い込み、意を決して言葉を発すれば、カラ松の上擦った声と一松の掠れた声が見事に重なった。やっとまともに視線を交わせ、気まずさに頬をひくりと動かす。また流れ始めた沈黙を破ったのは、一松だった。
……しばらく来れなくて、ごめん。保育士の弟が冬休み入って、飼育員してる方の弟も休み貰ったって言ってたから、実家帰ってた」
「ああ、いや、昨日までけっこう忙しかったから、むしろその方が良かったと思う」
「うん。それもあって。お疲れ」
「ありがとう」
 ガリ、ガリリ、と再び雪を掻く音だけになる。しかしものの数秒で、またしても一松が口を開く。「先週、の、」と重く落ちたその声音に、カラ松は今度こそ俯いていた顔を上げた。
「ごめんね。カラ松さんが休みだった……、あのとき、帰れとか、追い返しちゃって……ごめん。いまさら、だけ、ど、…………ごめんなさい」
 言葉を切り、呼吸すらも苦しそうに謝罪の言葉を繰り返す一松に、カラ松は喉奥が絞まるのを感じた。
 なぜ、一松が謝る。どう考えたって非があるのは自分だ。それを言葉にしたいのに、狭まった気管をこじ開けるには、大声を出す以外の方法が分からない。ジャクッと雪塊にスコップを突き立て、カラ松はなんとか白い息を零した。
……悪いのは、俺だろう」
 叫ばないように。そう意識したことが仇となり、カラ松の喉からは驚くほど低く、平坦な声が出た。誤魔化すように「すまなかった、」と早口で続ければ今度はひどく裏返り、片手でこめかみを押さえる。格好悪いったらない。また白い息を大きく吐きながら、カラ松は言葉を探す。
「と、にかく、謝らなきゃいけないのは俺の方だ。しかもこんなに日を開けてしまって。すまなかった」
「ちっ、ちがう、カラ松さんは、悪くないでしょ!」
「えぇ? な、おかしいだろ」
「だって! ……だって、カラ松さんは、僕のためにしてくれた、のに」
 ぎゅう、と、スコップの柄を握りしめ、一松は言う。やっと喋り方を思い出せたカラ松の喉は、再び呼吸をせき止められた。見開いたカラ松の瞳を一松が伺うように覗き込み、その視線はすぐに下へと落とされた。
 薄い白に覆われていたそこは、徐々に、雪が溶け始めていた。
「あの後、ひとりになって思い出した。僕たち、恋人同士だもん、……ね」
……え、」
「あっ、ちが、恋人ごっこだけど! だけ、ど、……僕が苦手だって言ったから、してくれたんでしょ。カラ松さんいつも優しいけど、あれはちょっとびっくりした、んだ、けど実際すごいドキドキしたから、……勉強になりまし、……た」
「いや勉強って……
「ていうか二十六にもなって、あんなことで動揺するとか、……泣いちゃうとか、ダサすぎだよね。ごめん、みっともないとこ、見せて」
  普通男にキスなんかされたら、動揺して当たり前だと思うが。率直に浮かんだ言葉をカラ松は飲み込んだ。たどたどしく、目尻と耳を赤くしながら問題発言を連発する目の前の存在に言葉を無くす。嫌がらせであんな行動に出たわけではないが、まさか、礼を言われるなんて。「どうして」と思わず呟いたカラ松に、赤いベレー帽が小さく揺れる。
「僕には――……カラ松さんしか、居ない、から」
「な、っ?!」
「ちゃんと恋愛してるかんじ、教えてくれたでしょ? それ、漫画にもちゃんと反映出来てる、みたいで」
「ああそういう……
「だから、カラ松さんともっと居なきゃって、もっと教えてもらわなきゃって思って。なのにあんな態度したか、ら、嫌われた、んじゃ、………………僕、めんどくさいね……ごめん、」
「いや、これ以上やめてくれ。謝らないでくれ。良心が持たない…………
 雪が溶けきったアスファルトに蹲ったカラ松は、それだけを言うのが精一杯だった。空気はこんなにも冷たいのに心臓はバクバクと高鳴り、全身に熱い血を送り続けている。一松から隠した顔は、誤魔化せないほどに赤くなっていた。
「ど、どうしたの」
「いや何でもないんだ。気にしないでくれ。えっと……それじゃあこれからも、よろしく……?」
……! ありがと、……よろしく」
 シャリ、と溶けかけた雪を踏んで、一松の柔らかい声が耳のすぐ側で聞こえた。
 狂いに狂わされた心臓の鼓動に、カラ松は意識を反らすことが出来なかった。原因なんて、ひとつしか考えられない。けれどまさか。そんな。心臓のポンプに合わせて巡る思考を遮るように「サボってんじゃないわよ!!」という店主の声が飛んできた。
 そうだ、仕事だ。
 切り替えなくては。割り切らなくては。余計な心情を挟めばそこから関係が崩れ落ちかねないことを、カラ松は十分に知っていた。一松が言うのと同じように、カラ松もまた、この関係を無にするのは惜しかった。
「戻ろうか、先生」
 店の方を指差して、カラ松は笑った。
 戻らなくては。二人の間には、契約しか存在しないのだから。弱々しく、しかし柔らかい冬の太陽は、確実に雪を溶かしていった。


  :


「今年も生きて年末年始を乗り越えたことに、乾杯!」
 げっそりと疲れ切り、しかし晴れ晴れとした表情の店主がグラスを掲げる。乾杯の音頭に続き、泡の浮いたジョッキや氷が詰まったグラス同士がぶつかり、軽快な音を立てた。くぴり、と赤茶色の炭酸水を口に含んだ一松は、右隣でビールに喉を鳴らすカラ松から正面のパート店員まで、順繰りに視線を動かした。
 “花屋が一年で一番忙しいのは母の日だ”と一松は今まで思っていた。カラ松曰く「働き始めてから三年目ぐらいまでは記憶を失うほどだった」と苦笑するほどであるから、猛烈な忙しさであることは間違いがない。しかし十二月から一月の初旬が、息つく暇も無いほどとは夢にも思わなかった。
 毎日欠かさず店に顔を出していたわけでは無いが、一松が見ていた限り、日中はお歳暮、クリスマス用のプレゼント、正月飾りなどの個人利用の鉢を常にベテランパートが作り続けていたように思える。また、来店が少ない時間には、デパートの店内ディスプレイに使用するという大量の生け花を、店主が荷台に積んでいた。
「毎年毎年飽きずに言うけどさ、やっぱりクリスマスから一日で正月仕様にウィンドウ変えるのアホかと思うんだよね」
「僕から見てもすごいなって思います……イルミネーションとかも一晩で外したり、とか、」
「元日に早朝準備していると、大手なんかのライバル店もいるんだけどな、まぁその時ばかりは仲間意識が芽生えるんだ。戦友と言っても過言じゃないだろうな」
「で、三が日明けてちょーっと出勤したら世間一般は三連休でしょ?」
「こっちは怒濤の成人式準備ってね。結局今年も、忘年会やる前に年が明けちゃったわよ」
…………お、おつかれさまです……
 一松のねぎらいの言葉に、この忙しさが無いと年末年始を感じられないと笑う唐子は、ハイボールを飲み干すと厨房におかわりの声を張る。一分も待たず、前掛けを揺らしながら新しいジョッキが運ばれた。同時に、テーブルに中皿が置かれる。そこにはこんがりと焼き目のついた皮に、てらりと光るタレが絡まり、白胡麻と小口切りの葱が散らされた手羽先が並んでいた。皿から漂う甘塩っぱい匂いに、一同の口内にじゅわりと唾液が滲みる。
「はいよ。甘辛揚げ、サービス。こないだはありがとね」
 片目を細めて笑った店主は、真冬だというのに黒い半袖シャツだ。持ち場に戻っていく背中に向かって礼を言うと、一松の目にFUJIO・ROCKのサイン色紙が真新しい花と共に飾られていた。
 ここに居る花屋のスタッフたちも、居酒屋の店主も、そして年末年始のあらゆる番組に引っ張りだこになっていたバンドメンバーたちも、皆一様に汗水を流し働いている。それに比べ、たかが配達に同行しただけの身分で、と一松は手羽先に伸ばしかけていた指を引っ込める。息苦しさを覚えながら、カーディガンのボタンをゆるく引っ張った。
「あの、そんな忙しい時期になにも手伝えなかったのに、僕……この場に居てすいませ、……っ」
 誰とも目を合わせられないまま、ぽつり、と呟いた直後、なんて発言をしてしまったのだと猛烈な後悔に襲われる。
 明るい場で、絶品の料理を楽しんでいるのに。ましてや慈悲で居ることを許されている自分が、これ以上に空気を汚してどうする。首の後ろに寒気が走り、ハク、と唇を震わせる。一松の耳から、音が消えかけた。
……まさか。居てもらわなくちゃ、困る」
 鼓膜が、真隣からの声に揺れた。
 真面目なカラ松の声音に、血の気が失せていた一松も顔を上げる。
「先生は、こっちが忙しくしている間、お客さんたちの相手をしてくれただろう」
「配達もたくさん手伝わせちゃったしな」
「一松クンが来てくれたおかげで、ちびっ子のお客さんが増えて嬉しかったわぁ」
「気付いてないでしょうけど、集客効果はとてもあるのよ。バイト代だって受け取って欲しいのに、いい加減断るの、やめてくれない?」
 口々に浴びせられた予想外の反応に、一松の頬がグンと熱くなる。「いや、そんな、」と先程とは真逆の意味でしどろもどろになった一松の肩を、カラ松ががばりと引き寄せる。
「な? だから、そんなこと言わないでくれよ」
…………ン」
 にっかりと笑ったカラ松の頬は、酒のせいかほんのりと桜色だ。またソフトドリンクに口を付けた一松に、いっそう顔を赤く染めている唐子がアルコールのグラスを押しつける。
「ま、そんな暗いこと言ってないで飲みなって。苦手?」
「えっと、少しなら」
「じゃあ、ほらほら! 次の飲みは五月末だからね。毎年母の日のすぐあとカラ松君の誕生日だから、慰労会と誕生日会いっしょにやってんのよ」
「二十四日だ。覚えていてくれよ?」
「え、僕も一緒だ。五月の、二十四日」
「あらまぁ、今年は二人分も祝えるのねぇ」
 当たり前のように言われ、一松はグラスを煽ることでニヤけそうになる表情を隠した。「その時まで連載決まらなかったら、ぜひ」とまた卑屈な発言をするも、どっちにしても祝うとあっさり一蹴された。
 「本業が忙しくなっても、顔を出すのよ」「漫画、過去作も読ませて」「連載が決まったら、もちろん読むからな」。温かい言葉と、新しいグラスがまた渡される。先日までの仕事の話に、翌週以降の案件、それに一松の漫画の話題を織り交ぜて夜は更けていった。
 底抜けに陽の空気を発する人々に囲まれ、一松もふわふわと漂うような心地で唇を潤していく。右隣からカラ松の熱を感じた。
 早く、この人たちに向けて、胸を張って自分の仕事がしたい。
 けれどその時には、この熱と離れなければならない。
 アルコールは、一松の喉をうすく焼いた。


  :


「さっっっっっむ!!!」
…………………………し、死ぬ……
「ちょっとそこで待っていてくれ、タオル取ってくるから」
 乱雑にスニーカーを脱ぎ捨てたカラ松は、大股で短い廊下を進み、パチリパチリと照明を灯していく。ひとり玄関先に残された一松は、顎に伝う滴を人差し指の背で拭い、そっと息を吐いた。吐き出した分の酸素を吸い込めば、同時に自分以外の匂いが体内に入り込んだ。
 カラ松だけの、匂いが。
 またひとつ、髪から滴が落ちたとき、カラ松が大きなバスタオルを携えて戻ってきた。
「シャワー、出しっぱなしにしてきたから、そろそろ湯になってると思う」
「あ、じゃあ僕、拭いたら帰るから、タオル、」
「馬鹿なこと言わないでくれ。ストーブ焚いておくから、先に身体温めて。君に風邪でも引かれたら店長たちに怒られるし、俺も悲しい」
「でも」
「さぁ、靴を脱いで」
 促されるまま部屋に上げられ、少し湿った衣服を脱衣所に置き去りにして、一松は熱い湯を浴びた。
 慰労会を終え店を出た直後、一同は小さな悲鳴を上げた。みぞれに近い雨粒が空から降り注ぎ、ただでさえ寒い外気に背筋が粟立った。あいにく店には余分な傘もなく、時計がてっぺんを過ぎた商店街は駅に行くまでコンビニエンスストアも無い。晴れ予報はどうしたとアルコールの回った息で空に叫ぶも意味は成さず、「各々体調に気を付け、明日は休暇」という店主の令とともに解散となった。
 しかし、困ったのは一松だ。商店街近辺に住むスタッフたちとは違い、アパートまでは電車の距離である。「ひとまず俺の家に」と言うカラ松の提案に、アルコールで鈍る思考と寒さに凍える頬を震わせて小さく頷いた。傘だけでも借りられたなら十分だと思っていた一松だが、カラ松は当然許すはずがなかった。
「呑んだ後だから、あまり長くは浴びるなよ」
「え、あ、はい」
「下着は使ってないヤツがあるが、寝間着のストックは無いから、悪いが俺ので我慢してくれ」
「うん。……うん? したぎ? ねまき? なんで?!」
「さぁ、早く温まるんだ。良い子だから」
 言いながら、一松の濡れた頭に大きな手が乗せられた。自分が弟たちにしてきたような言動を受け止め、目を見開いたまま反応もできずに固まっていると、カラ松はすぐに脱衣所を去ってしまった。
 観念し、既に湯気で満ちていた浴室に踏み込む。冷えた足元からシャワーを当てていくと、寒さで強張っていた身体が弛んでいく。同時に、安心感と困惑がむくむくと膨らんでいった。
「どこまで優しいんだよ……
 傘を借りるはずが、風呂に留まらず、宿まで。交友関係が極端に狭かった一松にとって、それが普通のことであるのか、カラ松の人柄ゆえか、契約した交際相手だからかは判断が出来なかった。
 十分に温まり先ほど使用したタオルで恐る恐る体を拭いていると、扉をノックされた。やはり歩いて帰宅すると口を開いた直後、すぐさまカラ松の衣服を渡される。「いやぁ、寒いな」と呟かれれば浴室を明け渡すしか選択肢はなくなった。

 カチリ。コチリ。
 カーペットの引かれた居間で家主を待つ。
 ベッドサイドに置かれた大量の時計が秒針を刻む。故意なのか、五分ほど差のある長針はおおむね一時前後を示していた。少しでも呼吸をすれば、一松の肺にカラ松の匂いが流れ込む。優しくて、ふわりと柔らかくて、しかし今の一松にとっては落ち着かない匂いだった。
 ――――泊まるって、なに?
 壁に掛かった皮素材の上着も、ガラステーブルに雑に積まれた雑誌も、その脇にある灰皿と吸い殻も、一松の視界には入らなかった。
 これって、相当親密な仲ではないとできない、ビッグイベントなんじゃないの。一松の脳内はその議題で占められている。風呂も、服も、借りてしまった。もうこれ以上迷惑は掛けられない。当然ベッドはシングルサイズで、成人した男二人が寝るには狭すぎる。幸い漫画を描く生活の中で、椅子の上であろうが床であろうが、布団のない場所で寝るのには慣れている。ヨッシャ。一松は拳を握った。これを言えばカラ松に迷惑はかかるまいと頷いた瞬間、カラ松が部屋に戻ってきた。
 びくんっと見えない尻尾を大きく膨らませた一松に、カラ松は「先生が入っている間に急いで片付けたが、汚くてすまない」と髪を拭きながら笑う。ギクシャクと筋肉を動かし、一松は大きく息を吸い込んだ。
「あの、やっぱり悪いから、僕帰った方が」
「俺は気にしない。明日は休みだし、朝も早くないからな」
 即却下である。それならばと一松はもういちど息を吸った。
「あ、じゃあ、えっと……僕、床で寝るのも平気なタイプだから、あの」
「湯冷めするだろう?」
 即座に、却下である。
 見るからに耳が萎れた一松に、カラ松は困ったように笑う。
「いいから、泊まるんだ。何もしないから安心してくれ」
「なにも、って、逆になにがあるの」
「ングッフ、ゲホ、ッ……何もなァアアア?!!」
「ななななに?!」
「サボテンが!!」
 突然咳き込み、続けて突然絶叫したカラ松が見詰める先を、一松も追う。
 そこには鉢植えのサボテンがあった。幾つものコブが集合し、そのひとつひとつから噴き上げるように飛び出ている白いトゲは、まるで花のような広がりを見せ、全体の丸いフォルムをさらに美しく際立たせている。
 美しい、と、一松は心の中で呟く。
 サボテンそのものの姿に。そして、トゲが多く密集する頂上部に咲いた、真っ赤な大輪の花に。
「な、なんでだ……今まで一度も咲いたことなんて無かったのに。冬、なのに」
 薄くカーテンの引かれた小さな出窓に鎮座する鉢に、カラ松がよろよろと近づいていく。サボテンが花を付けることすら知らなかった一松は素直にそれを言うと、カラ松の表情がパァと華やいだ。
 自分が花屋に務め始めてすぐに育て始めたこと。花を咲かせるには、飼育するのに手間がかかること。店のサボテンは毎年花を咲かせるのに、自分のものは蕾は付けるもののいつも枯らしていたこと。さらに最近は、忙しさにかまけ全く世話をしていなかったために、蕾の存在にも気付けずにいたのだと、興奮を抑えきれずにカラ松は話す。
「奇跡みたいだ……
「へえ……本当にすごいことなんだね。これにも、花言葉ってあるの?」
「ああ。こいつはコリファンタ属という種類だが、サボテンそのものは“偉大”だとか“燃える心”だとか情熱的なものが多いんだ。あとは……“枯れない愛”、とかな」
「良かったね。枯れない愛、サボテンに通じたんじゃない?」
「ああ……!」
 呆けた表情を隠しもせずうっとりと頷くカラ松に、一松は密やかに微笑んだ。
 カラ松が花言葉を話すときは、芝居がかった口調で、いっそう自慢げに、そして格好つけながら一松を口説く最中が多かった。けれど今のカラ松には、それが一切見られない。サボテンのトゲを愛おしそうに撫でるカラ松の横に、一松も並んだ。
「ほんと、きれい」
 触れる、一歩手前。一松のペンだこの目立つ細い指が、サボテンの花びらに沿って空気をなぞる。
 カラ松は、サボテンから視線を外した。声音同様、優しい瞳でサボテンを見詰める一松の横顔に見とれた。
 一松は、サボテンとカラ松の手を見詰めた。花を愛し、今、花に愛された男の手に、いくつもの傷があることに気が付いた。
 いつの間にか止んだ雨音は、雨雲が去ったせいか。雪になったせいか。流れ込む夜の空気は冷たいままだ。しかし、ふたつの手に包まれた花の周囲は、ほわりと暖かかった。



 カチリ。コチリ。
 アラーム機能を切られた置き時計たちが、時を刻んでいく。
 仰向けで瞳を閉じたカラ松の真横に、一松が身体を丸めて横たわっていた。
 全ての照明が消えた部屋に、呼吸と秒針だけが絶え間なく音を響かせている。サボテンの花から指を下ろし、暫くの沈黙の後「寝ようか」と言ったカラ松に従い、ろくな会話もないまま電気が落とされた。
 カラ松は、入眠するために瞼をぴったりと閉じ、深く深呼吸をしていた。そうでもしないと、脈拍が勝手に早まりかねない。閉じた瞼の裏側に、先程の一松の横顔と、花をなぞる指先が浮かぶ。
(ああ、失敗したな。まさかこんなことになるなんて。)
 瞼を伏せたまま、緩く、眉を寄せた。契約交際に応じた時も、今日こうして一松を招いたことも、なにひとつ後悔はない。カラ松には自信があった。異性愛者(ノンケ)を好きになることは、もう二度と無いという自信が。ドクリ。心臓が大きく血を送り出す。
 ああ、このまま気づかないで欲しい。
 いいや、今すぐ気づいて欲しい。
 規則正しい一松の呼吸音に、少しずつ、意識が溶けていった。



 翌朝、サボテンの花はまだ咲いていた。
 一松が目を覚ました時には既に、カラ松は鉢の側に居た。
「晴れたな」
 部屋に光が満ち、カラ松の背後は見事な冬晴れが広がっている。ふわりと笑うカラ松を、白い朝日が包んでいて、思わず目を細める。
 おはよう、というカラ松の柔らかな声に、掠れた声で返した。幾度となくしてきたその挨拶が、今朝はまったく意味の違うものに聞こえ、一松は強く瞬きをした。

「家まで送るから乗ってくれ。……って、チャリのニケツじゃ、この台詞も格好つかないな」
……だね」
 荷台に跨がると、一松の視界はカラ松の背中だけになった。息を吸えば、昨晩と同じ匂いに包まれる。
 「落ちないように掴まってくれ」と、再び告げられたお決まりの台詞に、一瞬の間の後、耐えきれずにどちらともなく笑い出す。
「ははっ、少女漫画っぽいだろぉ?」
「いやベタすぎ。それに規則違反じゃん」
「共犯者だな」
「それ、何漫画なの」
 むしょうに擽ったくて、クスクスと笑みをこぼすと「こら、揺らすな」という笑い声が返された。二人分の冬着のせいで、背から回した腕はもこもこと収まりが悪い。一松が強く抱きつけば、やがてゆっくりと車体が動き始める。
 まだ低い位置にある太陽は、無言のまま、やけに口角を上げた男たちを照らす。
 この感情を、俺は知っている。ペダルを踏み込みながら、カラ松は思った。歯車は回転を続け、ゆるく速度を上げていく。
 この感情を、僕は知らない。小さく跳ね上がる水飛沫を眺め、一松は思った。冬晴れを映し出す水たまりが、七色に輝いて見えた。

 ――――どうか、この時間が続きますように。

 二人の鼓動が、ひととき、重なった。