エディ
2017-12-09 20:01:49
10058文字
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花屋と漫画家 第四話「お届けものです」

カライチ



「ち、近い近い近っ……ち、か、……っはなれろばか!」
「いやぁ、だって、寒いんだろう先生」
「僕は着込んでるし、寒いのはお前の方じゃっ……お、おいこら、ガキが見てるっ!」
「お兄ちゃんたちおしくらまんじゅう……? ぼくもいれて
「よしきた少年!」

 太陽は徐々に真上に昇りつつあるが、吐いた息が直後に白むほどの極寒だった。小さなくしゃみと身震いをした一松を見て、その隣で作業をしていたカラ松は、あろうことか椅子の背もたれごと抱擁をした。大のおとなふたりがギュウギュウとじゃれ合う様子を見て、先ほどまでしゃがみ込んで鉢植えを覗いていた少年がそこへ近寄る。
 腰丈ほどのこどもが一松の身体に触れ、その小さな体温もいっしょにカラ松が包む。「わ、わ、」と慌てるのは一松だけで、毛糸で織られたコートをもふもふと擦り寄せるこどもは、頬をリンゴのように染めながらふにゃりと笑う。
「あったかいね」
「あったかいなぁ」
「ちょ、も、そこで喋るなっ……ね、君も、離、」
 一松がすべてを言い終わる間際に、唐子と話し込んでいた男性が柔らかな声で名を呼んだ。
「イチ、」
 迷惑をかけてはいけないよ、と続けられた声に、腰元にあった体温はパッと一松から手離れ、呟くような謝罪をした。
 そういうつもりではと取り繕う前に、こどもはニット帽の毛糸玉を揺らしながら、ローズグレーのロングコートを着た男性の元へ小さく駆けた。男の手元には少し大きい紙袋がふたつ下げられ、片方から細い木枝の集合が見られた。あれはなんだろうと一松が目を細めると、ようやく背中側の体温が離れていった。
「やぁ旦那様、洋館のお庭はいかがですか」
「秋薔薇の季節も終わってしまったからね、文字通り花がなくなってしまって、見た目は少し寂しい……が、良い季節になった」
「小さい子がいると、準備なんかも一段と楽しいでしょうね」
 カラ松の言葉に、男は目尻の皺を深めた。そうして幸せそうにこどものニット帽と柔らかな髪を撫でてから、ふわりと小さな身体を抱き上げた。
「イチ、お花屋さんに材料を分けていただいたよ。そろそろ屋敷に帰ろうか」
「なにを作るんですか、だんなさま」
「もうすぐ時期だからね、今年はクリスマスリースを作ろう」
「リース……!」
 声こそ控えめだが、大きく開かれた瞳はきらきらと輝き、それを見て男の表情も一段と綻んだ。
 あまりにも理想な親子像を前に、目を奪われ固まる一松の手の甲を二度ノック呼び戻す。一松が胸に抱えたままのスケッチブックを、こどもがジィと見つめていた。
 男はふんわりと笑い、カラ松は「先生」とだけ言って片眉を上げた。沈黙の十数秒ののち、視線をあちらこちらへ飛ばし続けた一松はゆっくりと右手を持ち上げる。
…………すごぉい……!」
 ものの数分で描き上げられた猫のサンタクロースのイラストは、こどもの小さな手にしっかりと収まった。終始笑顔だった男も深く感謝の言葉を一松に渡し、「今度は屋敷にも来てくれ」と紙袋を携えた手で握手を求めてから優雅に去って行った。
……なんだったの今の、このご時世に旦那様とか、……
「あれ、先生は知らないのか? こっちとは反対側になるけど、ほら、西口を出て坂を上がった先に洋館があるだろう。そこの主人だぞ」
「え、あの?! し、知らなかった……塀越しでしか見たことないけど、えっ……めっちゃ綺麗な庭の……洋館……、入ってみたかった、んだ、」
「招待されたじゃないか。よかったな先生」
 ベレー帽の上からカラ松の大きな手が乗せられた。くしゃ、と髪を撫でられる感触に一松の心臓も同じ音を立てる。カラ松に触れられるたび、これまで経験したことのない妙な心拍を打つ。身体はその変換に慣れることなく、一松はずっと戸惑い続けていた。
 触らないでと言葉にはせず腕を払う。怒りもせず、かといって悲しい様子も見せずにカラ松の手はすんなりと離れていった。
 なにひとつ慣れることがないまま、表現しきれない感情が心にずっと積もっていく。
 店内に流れるFMラジオから、慣れ親しんだクリスマスソングをBGMに「今年はホワイトクリスマスになるかもしれません!」とパーソナリティの明るい声が響いていた。


 :


 時計の針は正午を大きく回っていた。
 分厚い雲が一面を埋め尽くした空は、圧迫感すら覚えるほどに低く見えた。都心の一等地にある出版社から出た一松の足取りは、常より少しばかり軽く、曇天も極寒も気にならないほどだった。
 リテイクと駄目出しばかりだったミーティングは、初めてと言っても過言ではないほどすんなりと進んだ。一回も溜息を挟まれることなく「いいですね、これでいってみましょうか」と言われたのだ。一松はマスクの下でむずむずと唇を蠢かしていた。
 出版社を出たそのままの足で商店街に向かう。電車の中吊り広告も冬を喜ぶものばかりだった。町も人も、そして一松の心もわずかに浮かれている。カラ松に会ったらなんと言って報告をしようかと、頭の中はそればかりになっていた。

「配達、手伝ってくれるか?」
 昼の挨拶を投げる前に、カラ松が少し上がった息をそのままに言った。いつものエプロンの上から青いウィンドブレーカーを羽織った姿に、一松は二回瞬きをした。
「あ、別に店にいても構わないぞ。ただ、今日は閉店まで帰れないと思うから……
「配達とか、するんだ」
「年末で店長も大忙しさ。手伝うっていっても、もう大体積んだから、まあドライブだと思って。どうだ?」
 断る理由もないと、一松はカラ松の運転する助手席に乗り込んだ。座席の後ろには、大きな花束や花かご、何かのセレモニーでしか見たことのないようなスタンドもあった。カラフルな花々の中央に乗せられたボードを見て、一松は目を丸くした。
「ふっ、FUJIO・ROCK……?! 嘘、なんで?!」
「おお先生知ってるのか。この間、青メッシュの子と紫髪の子には直接会ったんだが、いやぁ……芸能人ってのは本当に格好いいな。雰囲気がすごい」
「か、架羅くんに壱くん?! え、まじかよ……僕、ライブは行ったことないけどよく聴くんだ……この花どうしたの、 チョロ松繋がり……?」
「ああ、いや、もうすぐ着くから分かると思う」
 チェーンのファミリーレストランやファストフード店、個人経営の居酒屋など、商店街からさほど離れていない飲食店街に停車する。目の前には落ち着いたモダンテイストの、しかし温かみがあり足を踏み入れやすい外観の店があった。
 その店が出来て間もないことは、もうすでに複数並んだスタンド花のおかげですぐに理解ができた。
 芸能人が経営する店なのだろうかと一松は助手席から首を伸ばしたが、そのボードには特に見知った名前は無い。首を傾げていると、ふいに横引きの入り口戸が開き、腰巻きのエプロンを揺らしながら自分たちより幾分年上の男が出てきた。すでに車を降りていたカラ松は、一礼してから男に駆け寄る。
「こんにちは、フラワーショップアムルーです。先日お電話したお花、お届けに上がりました」
「あ、もしかして、あのバンド野郎たちの?」
「ええ、皆さん是非こちらの開店祝いにと」
「っは……ツケばっかしてたクソガキたちがねぇ……
 片方の瞳を細めながら、男は捻りハチマキをした頭を掻く。しかし喜色を隠せず、その口元は微笑していた。「表にゃ出せねえから、中入れてもらえる?」という注文に、シートを倒した後部座席から花を運ぶカラ松に、一松も手を貸す。
 照明も明るい店内は仕込み中の様々な食材の匂いで満ちていた。
 カラ松が花を整えている間に、カウンターに寄りかかりながら男が話す。メンバーがまだ学生の身でバンド活動をしていた頃、打ち上げや会合に頻繁に使われていた居酒屋があり、年の近かった彼らと店員は親交を深めたのだという。デビュー後も、そして華々しく芸能生活を謳歌するようになってからも、こうして店員とバンドマンたちの交流は続いていた。
「あいつらには相当出遅れたけどね、俺もやっと独り立ちできたってわけ」
 照れくさそうに話した店主は、去り際に「口に合うかは保証できないけど、得意なのは手羽先の甘辛揚げだから、是非」と猫スタンプの押された割引券を二人に握らせた。堅い雰囲気の中に不器用な笑顔を乗せて、控えめに手を振る姿が一松の目の裏に残った。
 花屋という場所に身を置いてから、こうして誰かの誘いを受ける出来事が毎日のように起こる。これまでの一松の生活では有り得なかったことだ。
……おいしそうだったな、……
「そうだな、今度行ってみようか。運がよければバンドの人たちもいるかもしれない」
「それもそうだけど、……その理由がなくても、あの店でご飯、してみたい」
…………ふ、そうか。うん、いいな、うちの店でも忘年会があると思うから、あの店を候補に入れよう。先生も是非来てくれ」
 アクセルをゆっくりと踏み込み、スピードを上げながらカラ松は言う。一松は視線だけを横にして聞きながら、「あんたと二人きりでもいいんだけど」と言いかけて、やめた。



 ほどなくして到着したそこは、一松の土地勘がまるでない場所だった。辺りを見渡しても、看板すらまともに出ていないようなツルリと滑らかな光沢を誇る入り口や、華奢な金文字に漆黒の看板だけが下げられた上等な佇まいの店だけだ。
 ただならぬ街の雰囲気に縮こまる一松に、カラ松がサイドブレーキを引きながら苦笑する。
「そんなに固くならないでくれ。といってもまぁ、ホストクラブなんて来る機会、無いもんな」
「ほ、ホストクラブ?!」
「花屋とは切っても切れない関係だぞ、知らなかったか、先生」
「知るわけない…………
 客からホストへの貢ぎ物のひとつとしては無論のことだが、店の立地からその手の注文は滅多に入らないとカラ松は言う。店主との古い付き合いから贔屓にしてもらっているのだと続く説明では、店内を飾るものにも、そして客へ振る舞う飲食物にも花をふんだんに使用するらしい。
 バラはもちろんのこと、蘭や百合など、一目見て高価な花ばかりを積み台から下ろしていく。最後に小ぶりなガーベラを一輪下ろしたカラ松の後ろを辿り、一松は背の高い建物を見上げた。
 金を持っている人間たちの道楽は分からないと口の中で呟いていると、裏手からひょっこりと青年が顔を出した。
「ドモ。ご苦労さんです」
「ああ、いつも出迎えてくれてありがとう。今日もいい品が入ってるぞ」
「あざす」
 髪を後ろに撫でつけ、かろうじて首元にネクタイを引っ掛けている青年は、顔こそ整っているものの愛や夢を売るにはどことなく荒っぽい雰囲気を出していた。サンダル履きの足を摺りながら、重さのありそうな花々をビルの中へ運んでいく。
 入荷数を目視し、代金を紙面で確認し合う。そして次の注文や必要な備品などの話へと続いていく。もう手伝うものも無い一松は、車に戻るでもなく自分より若く見える推定ホストの青年を何の気なしに見つめていた。
 カラ松とはまた別の方向で、あの青年も女性を扱うスペシャリストなのだろう。女心を深く理解し、さらに己へと陶酔させるプロフェッショナル。軽くでいいから話を聞いてみたいとまで思考が流れ着き、一松は小さく息を飲んだ。
 …………自分から、人に話し掛けたいと思うなんて。
 首のうしろを擦り、意味もなくひとつ後退る。己の心情の変化に、身体の全てがそわり、そわりと浮くのを感じた。
 やがて一通り商談を終えたらしいカラ松が、ふ、とそれまでの空気を緩めた。
「ところでボーイ、どうだった? 今度こそ意中のフラワーに、うちの花を渡せたんだろうな」
……、えと、
……おや? ……っふ、また君の部屋行きか」
 カラ松の眉尻が下がり、それを目にした青年は、立っていた耳がへたり込むようにしょんもりと小さくなった。最後に運ぼうと思っていたのか、その手の中にはまだガーベラが一輪握られている。
「すまない、良いんだ、君の選んだ花が君だけに愛でられることは決して不幸だとは思っていない。……でもな、君が誰かに贈りたいと願った花なんだ」
 どうか、その誰かも、花で喜ばせてくれないか。
 カラ松の言葉に、青年が口を開く。しかし空気が音をなす前に、それまで半分閉じていた裏手口が金属音とともに開け放たれる。
「どうした? 遅いじゃないか、何かトラブルでも?」
「っ、オーナー……
 青年よりもぴっちりと髪を固め、身の崩れも一切見られない男が顔を出す。
 ダンディ、の言葉をその存在すべてで表現したような佇まいに、一松はもちろんカラ松も姿勢を正した。しかし先ほどまでフランクな雰囲気でいた青年までもが、なぜか呼吸すらつらそうに俯いている。
「おや。今日は店長殿ではないんだな。君にお目にかかるのは初めてか。いつも世話になっている」
「準備中にお時間を頂きすみません。花は全ておろしましたので、お暇しますね」
「ああ、今日も良い品をありがとう。次も頼んだぞ」
 色の薄いサングラスの奥で、目尻に小さな皺をたたえながら男がにっこりと笑う。その視線がするりと青年にうつる。ヒクンッ、と揺れたその肩を男の黒手袋が包んだ。
「さぁ、今宵も素敵な夜にしよう。レディたちにとびきりの夢を見せ、あらん限りの愛を渡そう。その為の準備を怠ってはならない。手伝ってくれるな?」
……はい、オーナー」
 スルスルと降ろされた黒皮の手が青年の腰元に添えられた瞬間、グンッ、と強い力で細腰が引き寄せらた。そのまま重厚な扉が閉ざされていく。
 鉄扉の隙間から最後に見えたのは、揺れるオレンジ色の花びらだった。



 無言の車内、一松は揺れる脳のなかでガーベラの行方を考えていた。
 カラ松の口ぶりから、おそらくあの青年には思い人がいるのだろう。それは自分の客なのか、それともあの世界とは離れた人物か。いずれにせよ、一輪の花には特別な感情を乗せているに違いない。
 けれどそれをカラ松に尋ねるのは気が引けて、一松は両の人差し指を摺り合わせながら、もうひとつ喉につかえていた言葉を出す。 
「花って、こういうトコにも出てくるんだね……全然意識してなかった……
 カラ松はまっすぐに前を向いたまま、左手だけでハンドルを切り小さく笑う。
「愛の告白や、母の日なんかの年中行事、手土産なんかはイメージが湧きやすいけどな。店はもちろん、式場を担当することもある」
「そっか、結婚式とか……行ったことないけど」
「ふふ、そうさぁ。祝い事だとさっきみたいな開店祝いのスタンドやカゴはよく作る。園や学校への行事だったり……あとは演劇役者への差し入れなんかも仕事のひとつだな」
「へえ……
「文字通り、その場に花を添えるんだ。でも主役は花じゃない。俺たち、そしてフラワーたちは、あくまでも贈り主とその相手の“幸せ”に彩りを与えるだけなんだ」
 俺がした仕事が回り回って誰かの幸福に繋がることが、何より嬉しい。独り言のようにこぼしたカラ松の横顔を一松はじぃと見つめた。
 誰かのために。そんなことを考えて、絵を描いたことはあっただろうか。自分が描いた漫画を誰かに見せたいだとか思ったことは無い。それを読んで、誰かが楽しんでくれるだとか、心を動かしてくれるだとか。紙の向こう側のことを考えたことなんて一度も無いと、横顔を見つめ続ける。
 青から黄、そして赤へと変化した信号機により、車がスピードを緩めた。カラ松の指がレバーを上げて右へのウィンカーを出す。
「先生が描く絵も、人に幸せを与えているよなぁ」
「、は?」
「先生から絵をもらったお客さんたちが嫌な顔をしているのを見たことがない。花を腕に抱えたときのように、みんな頬が綻ぶんだ」
「や、あれは、……物珍しいだけでしょ……
「そんなことはない。きっとあの絵たちが、漫画になって、本になって、読んだ人たちはきっと一様にあんな表情をするんだろうな。先生の漫画、俺も読んでみたい」
 顔半分を見つめていただけのはずなのに、いつの間にか一松の瞳は真正面からカラ松の細めた瞳に捕らえられていた。
 クシャリ、と、また心臓が妙な脈を打つ。
 カラ松との奇妙な契約関係、そして花屋に椅子を置いてまだ半月ほどだが、一松の生活のなかに膨大な刺激が加わったのは言うまでも無い。籠もりがちだった一松を、きっかけはともあれ、こうして外の世界に触れさせてくれたのはカラ松だ。それがだんだんと絵に現れていることを、一松も自覚していた。
 「あんたのおかげなんだ」「ありがとう」「今日担当に褒められたよ」「新しい漫画が描けそう」「――それが完成したら、読んでほしい」
 話そうとして、しかし最初のことばがうまく見つからなかった。見つめ合ったまま一松がはくはくと空気を食べていると、ふいを視線を逸らされグンとシートに重力を食らった。
 右折した車は、ほんの少しスピードを速めたように思えた。



 「最後の配達先だ」と言いながらカラ松が停車した場所は、今日の出発地点である商店街だった。一松はアーケードを見上げてから、もう店に戻るのだろうかと後部座席を振り返るが、やはりまだ花がいくつも残っていた。それらをふたつの台車に乗せ、商店街を歩く。ガラガラと音を立てながら進めども、やはりそこは見慣れた風景だ。
「おそ松、頼まれていたスタンド持ってきたぞ」
 ピタリと台車を止めた先は、一松もよく知る一軒の書店だった。
 自動ドアに向かってカラ松が声を張ると「ハイハイハーイ」とやけに軽快な返事が頭上から降ってきた。見上げれば、赤い眼鏡の男が窓から身を乗り出し手を振っている。
「わっすれてた。サイン会のだっけ」
「お前またサボっていたのか」
「失礼だなぁ、ちゃーんと在庫整理してるんですう」
「どうだか。スタンド、組み立てていいか?」
「ちょい待ち、今行く」
 あまりに親しげなやりとりに一松が目をくべると、カラ松は片目を瞑り「腐れ縁なんだ」と言った。
「お待た! うーーーんいい匂い、俺、この花の匂い好きなんだよねえ」
「いい加減コチョウランの名前ぐらい覚えたらどうだ」
「コード覚えるだけで頭のキャパ埋まってるんで」
「馬鹿」
「アホ」
 ポンポンと悪口を投げ合いながら、しかし何の指示も出すことなくスタンド花を組み立てていく。
 おそ松、と呼ばれた赤いエプロンの書店員は、一松も見知った相手だった。しかし、資料の取り寄せや備品の買い足しで接客されていただけで、ただの客である自分を覚えているはずもないと、一松はマスクの位置を引き上げた。
 案の定おそ松は「新入りクン、その花こっち!」と一松を手招く。
「ああ、彼はスタッフじゃないんだ。すまない先生、ここに置いてもらえるか」
「先生? きみ、先生なの? なんの?」
「ぁ、……や、その」
 上背をヒョイと屈め、眼鏡越しに一松をのぞき込む。おそ松の興味津々なその瞳に、一松は途端に固まってしまった。花かごを抱えたまま肩を強張らせる様子に、首を傾げながらさらに深くのぞき込む。
「んん? どしたの」
「せんせ、っていうか、そんな……んじゃなく、て、」
「あ、分かっちゃった!!」
 パチンッ! と指を鳴らし、おそ松はきらりと目を輝かせる。
「カラ松お前趣味変えたね、新しい彼氏くン゛ッッ?!!」
 グギッと鈍い音ともに、おそ松の大声は遮られた。苦しい死ぬと呻く首元は、カラ松の腕が背後からがっちりと戒めていた。
 あわあわと焦る一松に「花、そこに下ろしていいぞ」言ったカラ松は、そのままズルズルと店の奥へとおそ松を引き摺る。取り残された一松は呆然としたまま、マスクの上から唇に触れる。
 彼氏、と言いかけられた気がする。どうしてバレてしまったのだろうと緩く唇に爪を立てる。
 腕から下ろされたばかりの黄色い百合の花が、一松の足元で揺れた。

「おっまえ馬鹿か?! いきなり頸動脈狙うなこのクソゴリラ!!」
「すまんな、ちょっと勢いで」
 咽喉元を解放されたおそ松は、咳き込みながらジトリと睨みつけるも、その犯人は飄々としている。
 これといって動揺も見られないカラ松に、今度はおそ松が腕を回す。
「勢いで殺されちゃ敵わないんですけどぉ。…………なに、本気?」
 先ほどまで張り上げていた声を、ひそり、と耳元だけに落とす。その視線は、店先でぼんやりと立ち尽くす一松に向けられ、つられてカラ松も視線を上げる。

 小中高と同じ学校に通い、住む土地も近く、家業も似通っていたふたりは、いわゆる幼馴染だった。
 可愛くてエッチでちょっとやそっとじゃ手に入らなくて。そんな「女の子」がおそ松は大好きで、猥談から始まり真剣な恋の話までカラ松とすることはごくふつうの日常だった。
 しかし身体とともに心が成長するにつれ、カラ松はひどく苦しい顔をするようになった。四六時中共に居たおそ松がそれを見逃すはずもなく、殴り合いの喧嘩寸前まで発展し、ようやくその心を聞き出すことが出来た。
――――ごめん、俺、たぶん、……男が好き、なんだ」
 悪い、すまない、ごめんな。
 まるで嗚咽で言葉を詰まらせるように、カラ松の悲痛な謝罪はいつまでも続いた。何を謝られているのかも分からないまま、泣きそうに顔を歪めた親友に、無言で腕を回した。
 その日までも、そして今日までも、なにひとつ変わらず友情は続いている。
 おそ松は、社交家の皮をうまく被り続けるこの幼馴染みを、ずっと見ていた。

「彼は知り合いの漫画家さん、それだけだ」
「いいじゃん隠すなよ。お前せっかく恋人作っても、すーぐ捨てられちゃってさぁ、あの子すごい真面目そうじゃんか」
「違うって言ってるだろう」
「お前おそ松様舐めるなよ? 空気で分かっちゃうんだよね」
「いいから触れるな。俺が……ゲイだっていうことも、言わないでくれ。頼む、おそ松」
珍し……相手ノンケ? つか、もしかしてカムアウトしてない?」
 眉を寄せ、「別にそういう対象で見ているわけじゃない」と、まるで言い訳のように続けようとした言葉は飲み込む。人懐こい瞳をぱちくりと瞬かせるおそ松に悪気がないこと、そして発言の半分が的を射ていることにカラ松は細く息を吐いた。
 一松が今、カラ松の言葉や行動にになんの嫌悪も抱かないのは、ごっこ遊びと割り切っているからだ。そしてそれ以上に、お互いがストレートであるという安心が大前提であるに違いない。だから、今ここで同性愛者と知られるわけにはいかなかった。
「好きなことが、……やりたいことが明確にあるのに、それを諦めるのはとても苦しい。咲きかけの蕾を目の前で散らしてしまうなんて、もったいないじゃないか」
 わずかに低さを増した声音に、おそ松はそれ以上の詮索をやめた。最後に腕の力を強め、「落ち着いたら話聞かせてよ」と耳打ちしてから腕を離す。
 ゆるりと微笑んだカラ松は一度頷くと、白い息を吐きながら佇む一松の方へ大股で歩いて行った。おそ松の知らない“咲きかけの蕾”と話すカラ松の横顔は、今まで見たことがないものに思えた。


 
 歩いても数分とかからない距離を、配達車で移動する。あたりはすっかりと暗闇に飲まれ、ふたつのライトが道を照らしていた。半日ほど背を預け続けた助手席がとても心地いいものに思えて、一松は小さく息をつく。
「今日は有難うな。結局たくさん手伝わせてしまった」
……べつに。色んな人に会うの、嫌じゃないなって思ってきてる、から、大丈夫」
「そうか。ふふ、よかった」
「うん。だから…………ありがとね」
 ふくよかな音をこぼした一松に、チラリ、と一瞬だけ視線が交わる。「どういたしまして」とカラ松が返し、またエンジン音が響く。
 エアコンの効かない車内で左胸だけ温度を上げていくように思えて、一松は冷えた手を小さく握る。

 家まで送ろうというカラ松を「まだ片付け残ってるんでしょ」と断り、一松は徒歩で帰路についていた。そこでようやく、昼間出版社に行ったことを思い出す。担当と話した内容を結局伝えそびれてしまった。
 カラ松はまだ店に残っているだろう。さっきは見つからなかった言葉が、今なら話せる気がする。
 引き返そうとして、しかし二、三歩進んだところで再び立ち止まる。
「明日、話せばいっか」
 闇に溶けるような小ささで、そう呟いた。
 「また明日」が出来ることが当たり前になったことに、くしゃくしゃと音を立て続けていた一松の心臓が、ふわり、別の音を立てた気がした。