カラ松の務める花屋「フラワーショップ・AMOUREUX(アムルー)」は、都心から駅三つ分離れた商店街にある。近所には、築年数半世紀並の木造アパートや、ブロック塀の古びた平屋、一年後に取り壊しが決まった銭湯が軒を連ねる。しかしその隣は、幼児から学生までが通う巨大一貫校の校舎がそびえ立ち、さらに歩けばまた別の学校施設やそれにともなう新興住宅地や保育施設も充実しており、大変賑わいのある商店街だ。
また、配達用の軽バンを少し走らせれば街も人も溢れる都心地だ。この土地が長いカラ松は、常連客や昔馴染みのために自転車も通りづらいほどの路地裏から、紹介から紹介を経て一等地への配達もこなしていた。
仕入れと配達を担当する店長、男気溢れる店長の奥さん、ベテランパートのマダム、そしてカラ松。
小さい店ながら固定客も多い、地域密着の花屋として栄えていた。
「おはようござ、いま……す」
交際が始まって四日目、一松は約束通り花屋を訪れた。
十二月の頭らしく、商店街の彩りは赤と白と緑に溢れていて、花屋の軒先にもポインセチアの鉢植えが多く並べられていた。ただし、不均等に。
明らかに準備中である光景に一松は今すぐ逃げたい気持ちを必死に押さえ込み、小さく挨拶を投げた。すぐにカラ松が顔を上げ、傍にあった洋蘭に負けないほど朗らかな笑みを寄越した。
カラ松の他には、揃いの青いエプロンを付け、美しい黒髪を束ねた店長の妻だけで、店のシャッターがまだ四分の一だけ開かれていなかった。「準備中じゃん……」と弱々しく肩を窄める一松に、カラ松は作業の手を止めて頭を掻いた。
「すまない。定休日と営業時間を言っていなかったかな。商店街全体の定休が火曜日だから繁忙期以外は確実に休み。日曜日も意外と客足が少なくなるから、隔週で休みだ。一応店は十時から開いてるな」
「一応ってのは?」
「仕入れが多い時とか、あと店長が出られないときは俺が市場だったり仲介の所へ行くから……そうだな、朝の六時とか、早いと五時とか」
「ぜ、ぜったいむり……すごいね…」
「漫画家さんは夜更かしなイメージがあるしな。今日も眠かったろう?」
「ふひっ、残念ながら追われる締切も無いもんで。でも五時は早すぎ」
昨日カラ松と話をつけた時点で、挨拶と、店先で絵を描くという事情説明は済ませていた。実質店を取り仕切っているというこの女性は「唐子よ。お互いいい仕事しましょうね」と強く手を握っていた。作業を止めないままはつらつと挨拶をくれた唐子に、一松も先程より大きな声で返す。
一松がこの時間に訪れたのは、もちろん理由があった。
編集担当と兄弟、そしてチョロ松の名前しかなかったアドレス帳には、花屋の固定電話、そしてカラ松の名前が追加されていた。
未だ操作方法に緊張の残るメッセージアプリを立ち上げ、一松は昨夜たっぷり頭を悩ませたのちに送信ボタンを押した。『迷惑にならない時間って、昼過ぎの方がいいの?』とそっけない吹き出し。すぐに付与される既読マークに、跳ねる心臓。やがて現れた吹き出しのなかには『面白いものが見られると思うから、八時頃に来ると良い』という文字と、やたらギラギラしたスタンプが踊っていた。
「……あの、なんか手伝った方がいい? 十時からってことは、準備でなんか面白いもの、が、あるんでしょ?」
「ああ、そうだった。おかしいな、いつもならもうこの時間に、」
カラ松が言いかけた瞬間、一松の背後で靴底がアスファルトに削られる音がした。
ズシャァッ! と走ってきた勢いを殺した音と、荒い息遣いに思わず後ろを振り向けば、一松の目に黒い学生服が飛び込んできた。
「グッモーニン! あれっ、店員が一人増えたのか?」
「モーニン、バスケットボーイ。どうしたんだ今日は、遅いじゃないか」
しまった、と表情を凍らせた少年は、大きなスポーツバッグを店先に下ろしてから狭い店内に足を踏み入れる。ほんの数十秒店内に視線を走らせると「これ!」とひとつの花を指差す。
まだ新聞紙に広げられただけで、花桶にも挿されていないそれは一つの茎に小さな花冠をたくさんつけていて、ボードには「ストック」と記されていた。
「フラワーボーイ! すまない、今日はこの花を頼めるか?」
「お安い御用さ。リボンはどうする?」
「いつもの紫、頼むぜぇ」
「オーケー、君はいつも抜群のセンスを持っているな。けれどきっと黄色より、ピンク色のほうが喜ばれると思うが、どうだ?」
手早くリボンを巻きながらも歌うように助言するカラ松と、「任せる!」と元気いっぱいに答える少年を一松は呆気にとられたまま見詰めた。
「ごめん、今日遅刻気味なんだ、また来週来るから!」
「気にするな、しっかりやれよ」
銀色の硬化を二枚渡した少年は、大事そうに一本の花を手に持つと柔らかい笑みをこぼした。再びスポーツバッグを抱え上げ、花に風が当たらない程度の速さで走り去る。
一体なんだったのだと一松が問う前に、レジに売上金を仕舞ったカラ松が言う。
「あの子は金曜の朝に来る。開店前だけどな、特別だ」
「この辺で学ランって。南高? 高校生がなんで学校前に花?」
「うーん…………先生、今日は夕方までいられるか? あの子の恋の正体がわかると思うぜ」
はぐらかすようなカラ松の物言いに、一松はマスクの中で唇を持ち上げたが「どうせ暇人ですから」とベレー帽を少しずらした。
週末目前、金曜日、決まってやってくる男の子。それは恋物語に繋がっているという。正体を探らなければなるまいと、一松は猫柄の手提げの中からクロッキー帳を取り出した。0.7ミリメートルのシャープペンシルをノックしていると、唐子が木製の椅子を手渡してくれた。
「机はないけど大丈夫?」という心配に、一松は無言でこっくり頷く。
「いらっしゃいませ。フラワーショップ・アムルーへようこそ」
やがて開店時間を迎え、カラ松の心地いい声が狭い店内に響く。出入り口付近の邪魔にならないスペースに一松は腰掛け、新しいページにストックの花を描いた。
その日最初にやってきた客は一松に少し目をくべただけで素通りしたが、次の客はまじまじと覗き込んだ後、居心地が悪そうに縮こまっていた一松に「絵が上手ね」と柔らかく言った。幼い女の子を連れた母親はさらに絶賛し、一松が花を持った猫の絵を描いて渡すと、幼女ははにかみながら「ありがとう、おにいちゃん」と言った。
「子猫ちゃん、休憩は…………本当に上手に描くんだな……」
「あんま見るな。あと子猫ちゃんはやめろ」
「はは、すまない。ところで初日の感想はどうだ」
「……ん」
「悪くないだろう? 接客も」
「そうだね」
太陽がてっぺんを通り過ぎ、徐々に気温が下がってきた頃、ブランケットを手渡しながらカラ松は誇らしげに言う。素直に礼をしながら一松は受け取り、確かにカラ松の言う通りだと独りごちた。
なるたけ人と関わるまいと生きてきたが、花屋を訪れる人々は、その目的ゆえかどこか幸せな雰囲気を纏っていた。無愛想な空気を隠せないまま黙々とペンを走らせる一松にも、やわらかい口調で接してくれる。
パラリ、とページを捲り、今日最初に描いたストックまで戻ると、一松は胸につかえていた疑問をこぼす。
「ねぇ、なんで黄色のじゃだめだったの?」
「ああ……先生、ストックの花言葉を知ってるか?」
さぁ? と首を傾げる。花の種類、色、本数、そして用途やタイミング、地域によっても意味が変わってくるという花言葉。辞書に頼ったって導くのが難しいことだけは、一松も知っていた。
「もしかして、花言葉、全部覚えてるの」と思わず絶句すれば「さすがに一部だけだ」と苦笑された。
「豪華な見た目だし香りもいいからな、花束にも重宝される。カラーバリエーションも豊富なんだ。赤、白、紫、黄、……そして彼に選ばせた桃色……。ストックそのものは”愛の絆”を意味するんだ。」
「……へえ」
「彼はいつも花のチョイスが良い。きっと見た目だけで、知識はこれっぽっちも無いんだろうが。ただし最初に選んだ黄色は”寂しい恋”。だが、桃色なら”豊かな愛”になる」
「豊かな愛の、絆」
「そう。彼の愛が実りますように、と、俺からの願いも込めた」
スゴイ、と小さく感嘆の声を漏らす。マスクに覆われた一松の表情が綻んだのを見て、カラ松も目を細めた。
「もちろん子猫ちゃんにも誰か愛しい人が出来たら、その一輪ずつに愛の言葉を詰め込んだ花束を作るぞ」
「だからっ……その呼び方、」
「ただし! それまではこいつだ」
す、と目の前にとても小振りなヒマワリを差し出された。冬なのに、と一松は目をパチクリさせる。
「”俺だけを見詰めてくれ”よ、子猫ちゃん」
膝をつき、自分より低くなった位置から、カラ松の凛々しい眉と甘い目尻が熱烈な愛を囁いた。
「うわ、」と驚き後退るも、背もたれがそれを阻む。ガタリと鳴った椅子を支えるように抱き込んだカラ松はなんてことのないように立ち上がると、また店の奥に向かって歩いていってしまった。
バクバクと早まる心臓を抑えようにも、血液は急ピッチで体内を駆け巡る。
男だろ。なんだよ。気色悪いから、急に近寄られたから、だからこんなんなってるんだ、自然な反応だ。自分のなかでそう結論付け、それでも心臓の早鐘が治まらずに一松は椅子の上で膝を抱える。
「…………あの、大丈夫……?」
ふと、落ち着いた低音が頭上に振ってきた。
「ダイジョウブデス」と頭も上げないまま一松が言えば、困惑したまま具合が悪いならちょっとは診れるけどと返される。ちらり、視線を上げれば、そこにはネイビーのピーコートを纏ったメガネ姿の男が居た。
「あと、すいません……、この花どれですか」
その男は、今朝、少年が買って行った花を持っていた。
何故、と赤く火照った顔を全て持ち上げると、店の奥からカラ松の声が飛ぶ。
「ああ、いらっしゃい」
「いらっしゃいじゃないでしょ。いつも何も買わないのにすいません」
「いいんですよ。それ、ストックっていう花です。二百円ちょいですけど、おまけしておきました」
「……どーも」
呆れたような溜息と共に、しかしことさら大事そうに桃色の花を胸に抱え、男はすぐに立ち去った。
何が起きているのかと一松は眉を寄せるが、分かることは二つだけだった。
「あの人が、今朝の花の受け取り手で、高校生の”恋の絆”の先ってこと」
正解! とカラ松は指を鳴らした。それだけじゃあ終わらないぜ、とさらに口端を上げる。
「休みに入るその前日に花を贈るなんて、少年も粋なことをするよな。会えない週末も、贈り主のことを考えずにはいられないだろう? あのイカしたメガネ君がどんな立場か知らないが、きっと彼の家で大事に生けられているはずさ」
「最近の高校生マセてんな……。値段聞いてたのって、月曜に返すため?」
「ノンノンノン、バスケットボーイは一度としてあのメガネ君からお金を受け取ってはいないと言っていた。つまりな、先生、これはあくまでも俺の想像だが、」
彼が卒業するときに、今までの花の分、ビッグサプライズがあるんじゃあないか?
「近い未来に、きっと分かるさ」と、楽しそうにカラ松は言った。
なるほど確かに、花屋にはとっておきの”生活の色”が見えるものだと、一松は頷いた。
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