ふと時計に目をやると、頂上をすでに越えていた。座り続けていた椅子から立ち上がり、背を伸ばす。ずっと縮こまらせていたささやかな筋肉がぎしぎしと音を立てているようだ。
やるべき仕事は一応終わっているのだが、本日伺うという連絡を受けたため、約束の人物を待っている。
「とはいえ、約束の時間からだいぶ過ぎているけど」
遅くとも午後十時には来るという話であったはずだ。何かあったのかもしれない。かの地では未だ様々な問題があるようだから。
テーブルの上に置いてある、冷めきったコーヒーに口をつける。これと茶菓子を持ってきたマッターホルンは申し訳なさそうに、到着が遅れるそうで、と言っていた。果たしてどれぐらい遅れるかはわからないようであったが。
「秘書も帰しちゃって、ひとりだと寝そうだ……」
非常時でない限りは、製薬会社としての就業時間を守らせるために、終業を迎えれば秘書は帰らせるようにしている。いつも通りそうしたのだが、今日は残しておくべきだったかと、少しだけ悔やんだ。
待ち人は、ロドスにとって明星のような人物である。ただの貿易会社の社長とは思えないほどの頭脳と力を併せ持つ姿は、正直ちゃんとしたロドス所属として迎え入れたいぐらいだ。
しかし、あくまでもロドスとは協力関係であるため、彼がここにいる時間はそう多くない。あちらにはあちらのやるべきことがあるからだ。そんな感じだから、彼が来るとあらゆる職員がささめく。見目もかなり良いために、噂話の格好の的である。共に歩いていれば、耐性のない職員は呆けたように彼を見つめてしまう。それほどの魅力が彼にはある。
それに、こちらが憂愁に沈んでいると表情見えなくとも、すぐに声をかけてくるという気配りのできる男だ。悩んでいることを打ち明ければ適切な解、そうでなくとも解に近づけるアドバイスをしてくれる。
出来すぎて怖ろしい。
"私"としてはじめて会ったときはそんなことを思った。いや、今でも思っている。
しかしひとつだけ、事あるごとに思わせぶりなことを言ってくるのはいただけない。
戦場を共にした際、レユニオンに対し辛勝した時の興奮さめやらぬ表情でこちらを見つめて言うのだ。
「盟友がもたらす勝利の味、この甘美たる味は、やはりたまらないな」
その時に背筋に走ったものはけして嫌なものではなかった。獰猛な獣のような目で、もっとだと欲されることの心地よさ。まるで私自身を欲されたのではないかと感じてしまい、すぐに頭を振った。
勘違いしてはいけないと、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
一人でいるとどうにもよくない思い出し方をしてしまう。
「後で怒られそうだけど、夜食でももらいに行くか……」
夜勤の職員用につまめるものが食堂には用意してある。軽くお湯で調理すべきものをそのまま食べたりした時に、誰もいないときは手を出さないようにと説教をされたことがあった。そのままでも充分美味しかったのだが。
コーヒーを飲み干したカップを持ち、部屋の外へと出ようとした。
ドアが開いた瞬間に、見覚えのある壁にさえぎられてしまったが。
「おっと……おや、遅い到着で」
「そう言ってくれるな」
視線を上へ向ければ、待ち人がようやく来たようだ。
どことなく疲れた様子を見せるシルバーアッシュは少しだけ困った笑みを浮かべた。
「ああ、皮肉に聞こえたなら悪い。そうじゃなくて、ええと、そんなに急ぎだった?」
疲れているのなら夜が明けてからでも良かったんじゃないかと続けると、シルバーアッシュは首を横に振った。
「急ぎではないが部屋から明かりが見えたからな。すでに暗かったら素直に夜が明けてからにしただろう」
「ああ、なるほど、それは申し訳ないな」
ならばさっさと寝るべきだったか、と苦笑を浮かべる。
「普段のこちらで使うゲストルームよりは狭いが、よければ私のベッドで休んでくれ。急ぎでないなら、話は起きてからにしよう」
シルバーアッシュが来るということで、おそらくクーリエかマッターホルンが部屋の準備をしているだろうが、どの部屋かを聞いていなかったなと思い出しての提案だ。相手がシルバーアッシュでなかったとしても、同じようにゲストルームを使うような人物で、同じような状態になったらそのような提案をしていただろう。そう、私にとっては他意のない提案だ。
が、しかし、シルバーアッシュは意味ありげな笑みを浮かべた。
「ほう? それは、寝所を共にするということか?」
「いや、いやいや、私はソファで寝るよ?」
どうしてそうなる、と思いつつ否定する。しかしシルバーアッシュは笑みのまま、彼自身かそれともコロンなのか、ムスクの香りが感じられるほどに顔を近づけてきた。
「私は共にで、いいのだがな?」
耳元にそう囁かれ、あの戦場の時と似た感覚が背筋を走る。一気に体感温度があがり変な汗が出てきて、すぐに距離を離した。
「ほんと、そういうこと、やめて……」
あまりにも頼りのない細い声が自分の口から出てきたことに驚く。気付けば、シルバーアッシュは愉快そうに目を細めてこちらを見つめていた。
からかわれたのか。
「い、意地が悪いぞシルバーアッシュ」
「いやなに、こちらの気も知らずに、なかなかのことを言うのでな。魅力的な誘いではあるが、ひとまず私は部屋に戻ろう」
「ああ、なんだ部屋を知っているのか」
マッターホルンが起きており、共にきたクーリエとともに先に部屋へと案内してくれたのだと言う。その後、念のため私の部屋を見に来たらしい。
明日にするという伝言を二人のどちらかに頼めば良かったものを、律儀な男である。
「では、明朝に時間を取る、ということでいいかな?」
「ああそれで頼む」
「了解。じゃあ、おやすみシルバーアッシュ」
「ああ、おやすみ盟友」
あまりにも自然な手つきで頬を手の甲で撫でられ、驚いているうちにシルバーアッシュは部屋から去って行った。
触れられた頬を自分でも再度触り、そして強く爪を立てた。覚えておきたくない、その感触。
触れる手つきもその笑みも、あまりにも優しくて、勘違いしたくなくて、泣きたくなる。
君がそれを向ける相手は"私"ではないはずだ。
そうだろう?
end.
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