は、は、と息を切らしながら走っている。
誰かが追ってくる。逃げないと。
泳ぎならあんな奴らに負けはしないのに!
ぐにゃりと見慣れた風景が歪んで、後ろからの圧力に取って代わる。
怒号。悲鳴。
いや、いやだ。
テューラ、逃げて、まだ帰ってきちゃだめ。
足がもつれる。
腕が、後ろから、固い手が、
――助けて!!
反射的に手を伸ばす。
目の前の空間が一点、透き通った黒に見えた。
たすけて。
必死に動かした手で掴んだそれは、温かくて
――酷く、泣きそうになった。
「
……おい」
目を開けるのと、その声が聞こえるのは同時だった。
いつものように険しい顔をした人が、そこに居た。
「ワルター、さん」
「ああ」
身体が動かない。いやな汗が全身に滲んでいる。
木陰で少し暗くなったワルターさんの顔を見つめる。
……そうだ、ここは遺跡船の、水の民の里。今のは夢だ。
故郷の村で捕まった時の夢。
「
……どうかしたのか」
「あ
……いえ、何でもないです」
我ながらぎこちない笑い方だとは思ったが、今はこれが限界だ。
ワルターさんは深い青の目でこちらを見ている。何故か動こうとしない。
「ワルターさん? あ、何かご用件が」
すい、と動かされた目線を追って、言葉が切れる。
あたしの手が、がっちりとワルターさんの袖を掴んでいた。
「わ、ご、ごめんなさい!」
慌てて離そうとする。が、離せなかった。
掴んだ形で手が固まっていて、その上震えていた。
どうしよう。震えを止めなきゃ。手の力を抜いて、その前に指を動かせば。
焦れば焦るほど、手は言う事をきかない。
「あ、の、あのすみません、大丈夫ですから!」
申し訳なさすぎて、ワルターさんの顔が見れない。
これ以上、醜態を晒したくなくて
――けれどワルターさんは、無言であたしの隣に座った。
あたしの右手がワルターさんの左袖を掴んでいるから、その手が離れないほどの距離。ついでに、いつも一緒にいてくれるミニオートマタは、その逆に静かに浮いていた。
「
…………あのう」
「何だ」
「何かご用があったんじゃ」
「
……ない」
「じゃ、じゃあお仕事は大丈夫なん
――」
「俺にも休憩時間くらいある」
「ですよね」
じゃあ。
「
……寝るから少し黙っていろ」
「はいっ」
問いをそっと呑み込む。
ワルターさんは目を閉じて後ろの幹に身を預けた。
これ以上なにか言えば怒られるだろうな。
同じように幹に身を預けて、ワルターさんを伺い見る。
不機嫌そうな顔。真っ直ぐで鋭い金の髪。
あ、睫毛、長めなんだ。
……手の震えは、いつの間にか治まっていた。
それでも手を
――縋った手を離せずにいるのは、あまりにもそれが嬉しくて、終わらせるのが勿体なくて。だから。
どうして、ここにいてくれるんですか。
「
……ありがとうございます」
返答はなかった。
それでも、ここに居てくれることが答えなのだと都合よく解釈して、ぎゅっと、袖を握りしめる。
もう一度、目を閉じる。
また夢を見ても、きっとそれは優しいものだと思いながら。
木陰でフェニモールが眠っていた。
摘んだ薬草を仕分けている最中に、微睡んでしまったようだ。
里の中なら危険はない。傍にはオートマタもいる。放っておこうと踵を返した所で、そのオートマタが微かな駆動音をたてた。
フェニモールは、眉間にしわを寄せていた。
怒ったり呆れたりはするが、今までそんな
――苦しげな表情は、見たことがない。
「
……フェニモール」
膝をついて呼んでみるが、反応はない。
いや、僅かに口が開いた。漏れ出たのは呻きだ。
夢を見ているのだろうか。何か、嫌な夢を。
「フェニモール」
もう一度、はっきりと名を呼ぶ。
「
……、」
聞こえない。
だが、状態は目に見えて悪くなっていく。汗が尋常ではない。
起こした方がいい。
眠るフェニモールの肩に手をやろうとして、
……躊躇った。
何故か、何故だろうか、分からない。
中途半端な姿勢で固まったまま、なんともらしくない思考が巡る。
ふと、フェニモールの口が動く。
『 』
「
――おい」
それは殆ど同時だった。
固まった手が動こうとした瞬間、突然フェニモールの手が勢いよく伸び
――ちょうど目の前にあった俺の腕、正確には袖を掴んだのだ。
そしてフェニモールは目を開ける。
「ワルター、さん」
目を二、三度しばたかせ、ぼんやりした口調でフェニモールは呟いた。
どこか覚束ない、まさに夢現といった風情でこちらを見ている。
「
……どうかしたのか」
迷いながら問うてみる。
「あ
……いえ、何でもないです」
明らかに何でもなくない。
袖を掴んだ手が震えていることに、気付いていないのか。
たすけて、と。
音にならなかった声は、そう言っていた。
思い当るのは一つしかない。俺が知っているのはそれだけだと、そう言ってしまえばそうなのだが。
知っている時間の、なんと短いことだろう。
「ワルターさん?」
訝しげに、何かご用件が、と続いた声は途中で止まる。
視線の先には、俺の袖を掴むフェニモールの手。
「わ、ご、ごめんなさい!」
未だ震えは止まらず、動かすこともままならない。
それでもフェニモールは手を外そうともがく。
「あ、の、あのすみません、大丈夫ですから!」
何がだ。
だから何だと言うのか。
また、ぎこちない笑みを浮かべるフェニモールの言葉を遮り、その隣に腰を下ろした。
ろくに動けもしないくせに、何が行ってください、だ。
「
…………あのう」
「何だ」
「何かご用があったんじゃ」
……。
「ない」
誤魔化すのは諦めた。
「じゃ、じゃあお仕事は大丈夫なん
――」
「俺にも休憩時間くらいある」
「ですよね」
お前は人を何だと思っている。
さっきから俺は「何だ」「何が」「何」とよく分からない疑問を持ちすぎじゃないか。
……もう知るか。
「
……寝るから少し黙っていろ」
「はいっ」
更に口を開こうとしたフェニモールを強引に黙らせる。
どこで休憩しようと同じだ。
目を閉じると、薬草の香りが風に乗って届く。
ふわりと、頬に柔らかく触れたのは、恐らくフェニモールの髪だ。
「
……ありがとうございます」
好きでやっているだけだ。
やがて小さく聞こえた声に、決して声にはしない答えを返す。
ずっと離れない手がもう一度、強く袖を握ってきた。
震えのない手に、密やかに息を吐く。
これを安堵と言うのだと、今度ばかりは知っていた。
ワルター視点難しいな!!
ピクモフにもあります
http://s.pictmalfem.net/items/detail/12605
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.