香春 蘇葉
2021-01-29 01:23:58
2598文字
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【午前三時の雨音】

現パロシオサン。深夜のあれやそれ。

明日は店の定休日だからと、買ったまま読めていなかった本を読み耽っていれば、はっと気がついた時には午前一時を回ろうかという頃だった。普段ならばサンダルフォンがキリのいいところまで読み進めたのを察して、構えとばかりに話かけてきたり、乗しかかるようにして抱きついてきたり、はたまたベッドに引きずりこんできたりと、眠りにつく時間があまり遅くならないように何かと手を出してきてくれる彼が、今夜はいない。
ストッパー役がいないとこんなものか。軽くため息をつきながら、ほんの少しだけ疲労と熱を訴えかけてくる瞼を軽くほぐして、本を閉じた。テレビのひとつもつけていないせいで、家電が動く音が聞こえる以外は、部屋の中はしんと静まりかえっている。夕方から降り出した雨は今もまだ降り続けているようで、雨粒が地面や草木を打つ音が、まるで雑踏のざわめきのように遠くの方から響いていた。
と、そんな静まり返った部屋に突如としてインターホンの音が高らかに響いた。こんな真夜中に誰が訪ねてくると言うのだろう。今夜は帰りが遅くなると言っていた彼だって、鍵を持っているのだから、わざわざこんな深夜にインターホンを鳴らす理由がない。だとすれば。
サンダルフォンは玄関に向かうまでにある、せせこましく壁に嵌め込まれたキッチンの水屋からフライパンを手に取ると、それを振りかぶるように構えつつじりじりと玄関への距離を詰めた。熱心なファンに家を知られたからと、元々サンダルフォンが一人で住んでいたこの小さなアパートの一室に彼が転がり込んできた。ここは彼が飛び出してきた高級マンションと比べると、お世辞にもセキュリティがいいとは言えない。それでもいいから、と言うから、互いに細心の注意を払ってこの小さな部屋で身を寄せ合って過ごしてきたのだが、ついに熱心な彼のファンに気づかれてしまったのかもしれない。やられる前に、やる。そう心に決めて、サンダルフォンはそっとドアスコープを覗いた。覗いて、そこに映った姿に目を剥き、ぶつかるようにドアを開いた。

「ルシオ……

……遅くなってすみません、サンちゃん」

頭の天辺から爪先まで、夕方から降り続いた雨にぐっしょりと濡れた姿で、帰りを待ちわびていた彼が立っていた。ゆるく編まれた温かな色味の銀髪が毛先からはたはたと雫を垂らして、足元の染みをさらに広げていく。上から下まで彼の姿を確認して、怪我の類がないことを確認したサンダルフォンは、ほっと肩を撫で下ろしながら最後に彼の顔を見上げると、小さく苦笑を浮かべた。指先を伸ばして、力ない彼の手に触れると、一瞬疲れ切ったようなその表情が淡く解ける。

「キミ、食事は」

「多少は食べましたけど、全く食べた気がしませんね」

……だろうな。風呂は温めているから、入ってこい。その間に何か用意してやる」

触れた指先で甲を撫でて、ついで握り込んだ手を引きながらそう言うと、束の間意外そうな顔をした後に、サンダルフォンの後をついていくようにしてようやく彼が部屋へと上がった。背中を押して、バスルームへ大きな体を押し込んだ後に、サンダルフォンはせせこましいキッチンへと視線を向けて、さて、と腕捲りをする。
夕飯として軽く食べるために作ったポトフの残りがある。それを温めて、冷凍室にストックしている白飯を解凍してからおにぎりを作ってやれば、サンダルフォンと同じくらいよく食べる彼の腹もひとまずは眠れる程度に落ち着くだろう。
決まってしまうと、後は早い。鍋に火を入れて、解凍した白飯をシャケのおにぎりにしているところで、頭からすっぽりとバスタオルを被ったルシオが上裸の状態で出てきた。座っていろ、と声をかけるも、一向に動こうとはせずいつまでもバスルームの扉の前にいるので、これは重症だな、と心の内で踏んで、ひとまず出来上がったおにぎりを皿の上に乗せ手を洗ってから、ばたぱたと彼へと走り寄る。頭の上からバスタオルをひったくり、ぽんぽんと長い髪の水気を取りにかかりながら、少しだけ上向いた蒼い瞳へとじっと視線を向けると、困ったように彼の柳眉が下がった。

「いつまでもここにいると風邪をひくぞ」

……何があったか、聞かないんですか?」

「その顔を見れば大体わかる。それともキミ、聞いて欲しいのか?女物の香水の匂いをさせて、どこで何をしていたんだって」

「たまには嫉妬してくれても……

「自分が参ってる時ほど人を怒らせようとするその癖、やめた方がいいぞ」

ほら、できたぞ。あらかた水気が取れたことを確認すると、サンダルフォンはバスタオル片手に彼の手を引いて、リビングルームへと向かった。ラグの上の低いテーブルの前に彼を座らせて、キッチンから温めたばかりのポトフとシャケのおにぎりを持ってくる。ほら、食べろ。彼の目の前に差し出しながらそう言うと、気落ちしていたその表情が僅かに輝度を上げた。

「で?何があった。鍵と傘はどうした」

「そういえば、全てマネージャーに預けたままでしたね……

……明日の朝きちんと謝るんだぞ」

もむもむと動く頬から米粒を掬い上げながら呆れたようにそう言うと、幾分か元気になったルシオの表情が一瞬だけ、熱を帯びたものになる。何があったかわからないが、こんな状態でもそう言う気分になるのか。いや、こんな状態だからこそ、か。たまに忘れそうになってしまうが、自分より二回り近く歳上だというのに全く、元気なものである。

「サンちゃん、明日はお休みですか」

「そうだが、今からはよしておけ」

彼があれだけ衝動的な行動に出たのなら、きっとろくでもない言葉を一緒にいた女性にでも投げつけられて、我慢ならなくなってしまったのだろう。そう言う時は素肌を合わせたその体温よりも、深い眠りに落ちた方がよほど慰めになる。
大きめに切られたブロックベーコンを、ポトフから掬い上げている彼を、テーブルの向こう側から頬杖をついて眺めながら、サンダルフォンはそっと指先を伸ばして彼の膨らんだ頬を撫でた。

「その代わり……起きたら、好きにしていい」

ちらと時計に視線をやる。もう少しで三時になるくらいだろうか。
外から聞こえてくる雨の音は未だ止む気配がない。きっと明日も一日中雨なのだろう。ならば少しくらい寝坊しても罰は当たるまい。