香春 蘇葉
2020-11-29 07:17:06
3270文字
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【その絵】

現パロルシサン。お題で画家フォンの話。

それはまさしく、愛だった。

小学生の頃、サンダルフォンは一度だけその絵を見たことがある。街にひとつだけある大きな美術館、そこで開かれた学生達のコンクール。当時のサンダルフォンにはどれもこれもが似たような絵にしか見えず、親に手を引かれながら退屈な時間を過ごしていた。しかし壁に所狭しと並べられた絵に囲まれた回路の先、小さなホールが設けられており、そこにひとつだけ飾られた絵を目にした瞬間、サンダルフォンは幼心に時も、呼吸も、目さえも奪われて、退屈な時間は一変した。
それは天使の絵だった。崩れた煉瓦造の建物の残骸に片あぐらで腰掛けて、赤い瞳で空を見上げる天使が描かれてる。ただ一般的な天使のイメージとは違い、その身を包むのは黒を基調とした戦装束の類で、髪だって地味な色をしていた。そして天使のイメージとの最たる違いはその背から空に向かって弧を描くように伸びた双翼が鳶色だったことである。その天使を構成する色のどれもが、天使というよりは自分達人間に近かった。有り体に言えば、地味なのである。しかし不思議と人を惹きつける魅力があるらしく、ホールの中にはこれまでの順路で見たことがないほどの人だかりができていた。サンダルフォンも親に手を引かれて我に帰るまで、食い入るようにその絵を見つめていた。
大人になった今でもその絵を覚えている。当時は幼すぎてよくはわからなかったが、今ならわかる。あの絵はまさしく愛であった。
絵を描いた人間の愛が詰め込まれていた。幼い頃たった一度目にしてから鮮やかに、記憶に焼き付いているそれはサンダルフォンが画家を目指すきっかけとなった。苦しい時も、悲しい時も、悔しい時も。サンダルフォンは絵を思い出した。思い出す度に描かれていたのは決して自分ではではないというのに、不思議と大きな愛に包まれているような気分になる。これまでは記憶の中のそれを糧に頑張ることができた。
もう一度、あの絵を見たいと思い始めたのは、コンクールに出す絵に取り掛かり始めた頃だった。クロッキー帳を手に取ろうとも、キャンバスを前にしようとも、描きたいテーマもイメージさえも浮かばない。絵を描けない苦しさに喘いで、筆を置き、記憶の中のあの絵を反芻したところで、今回ばかりは何も起こらなかった。窓際でぼんやりと外を眺めるばかりの日々が続き、本気で絵を描くことを辞めようとさえ思った。
そんなある日である。気分転換に散歩に出たサンダルフォンは、何かの予感に駆られていつもの道を外れ、路地裏に入った。細い道を迷いもせず進み、そうしてたどり着いた先に一軒の喫茶店を見つける。外から見える窓の内側は薄暗く、ひと気はなかったが、ドアにかかっているオープンの札を信じて中に入った。

「いらっしゃいませ……ああ、初めてのお客さんだね」

かけられた声は、店の薄暗く、沈み込んだ雰囲気とは違い、明るく耳ざわりのいい、低い声音だった。声に誘われるように視線を向ければ、カウンターの向こうに美しい長身が佇んでいた。夜空の星を全て集めて人の形に収めれば、この人のようになるのだろう。ぼうっと見惚れながらカウンター席につけば、おや、と美しい店主が声を上げた。

「随分と美しい手をしているね」

「俺が?まさか。指が歪んで、色が残った、見苦しい手です」

「いや、美しい手だ。それほどになるまで、どれだけ筆を握ってきたのだろう。努力の果てに生み出される絵画は、どんな宝石よりも美しいものだよ」

驚いた。サンダルフォンが何故わかる、と表情だけで問えば、店主は淡い笑みを浮かべて微かに首を傾けた。

「仕事柄、人間観察は得意でね。それに、私も昔は絵を描いていた。よければ、少し話を聞いても?」

話を、と乞うた店主は大層な聞き上手だった。話そうと思っていないことも自然と口を突いて出てしまう。そうして話題が件の絵の話になった時、店主は初めてサンダルフォンの言葉を遮った。

「あれは、悲しい事件だったね」

あの絵はすでに、見ることは叶わない。コンクールの授賞式前夜に、何者かによって盗まれたのだ。当時高校生だったという絵の作者も、事件を受けて授賞式を辞退し、以後は一切絵を描かなくなったという。

……今はどこにあるんでしょうか」

「さて、案外素敵な場所で幸せに暮らしているかもしれないよ」

今まで誰からも聞いたことのないその応えに、サンダルフォンは一気に店主のことを気に入った。始めは陰鬱だと思っていた喫茶店も、一度入ってしまえばひどく落ち着く空間だとわかった。絵は相変わらず描けなかったが、サンダルフォンは毎日喫茶店に通った。相変わらず自分以外の客ひとりいない店舗でカウンターに座り、半日ほどを過ごす日々。そうしていると否応なしにサンダルフォンは店主のことが気になり始めた。そういえば、昔絵を描いていたということ以外、彼のことは何も知らない。
描けない絵のことよりも、店主のことが頭の大半を占めるようになったある日、サンダルフォンがいつも通り店へ来ると、扉にはクローズの札がかかっていた。しかし以前に一度クローズ札でも入ってきていい、という許可を貰っていたので、構わず中に入って店舗を見回す。店主の姿はどこにも見当たらなかったが、代わりにいつも予備の椅子を積まれて封じられている二階への階段が開かれているのを見つけた。好奇心と共に、近寄っていく。もしかしたら、二階は店主の生活スペースなのかもしれない。しかし少しでも話ができたら、と少しの期待を込めて足音を潜め階段を上がっていく。上りきり、ぐるりと見回せば、二階にはたった二部屋しかなかった。そのうちの一部屋の扉が薄く開いているのを見つけたサンダルフォンは、ひとつ瞬きをすると、そろそろと近づいていき、隙間からそっと中を覗きこむ。
店主の背中が見えた。壁にかけられた何かにそっと額を押し付けている。部屋は薄暗く、目を凝らさねば店主の向いている壁にかけられたものが何なのかわからなかった。
サンダルフォンはぐっと目を凝らす。凝らして、息を呑んだ。
壁にかけられていたのは絵だった。ぱっとしない色合いの天使が、瓦礫に片あぐらで腰をかけ、一心に空を見上げている。まさしく、あの絵だった。
そうと気がついた瞬間、力が抜けて、うしろに重心がよろけたサンダルフォンは、大きな音と共に尻餅をついた。店主がこちらに気が付き、静かに近づいてくる。尻餅をついたそのままの姿で動けずにいると、不意に店主が片膝をついて、サンダルフォンの頬にそっと掌で触れた。

「サンダルフォン」

そう言えば、と古い記憶を掘り起こす。あの絵画につけられた題は、自分と同じ名前ではなかっただろうか。あまりに気にいるからと両親が後からこっそり教えてくれたことを思い出す。

「ルシフェルさん、俺……

言葉を継ぐことはできなかった。店主が自分を見る目を、その蒼い瞳を。真っ直ぐに見てしまったから。誰かなんて言おうとわかる。こちらに向けられた彼の目には確かにとある感情が滲んでいた。絵を思い出す度にサンダルフォンの身を包むその感覚。
それはまさしく、愛だった。





それは純白の六枚羽をした天使の絵だった。側面の額縁に額を押し付けるようにして目を閉じる珍しい構図の天使の絵。夜空の星を全て集めて、人の形に収めればこうなるのだろうか、と思うほどに美しい。匿名でコンクールに出された絵は瞬く間にその美しさから世間を騒がせた。
そうして最優秀賞を受賞する者が不在の授与式前夜、世間を更に騒がせる出来事が起きる。いつのまにか、その六枚羽の天使の絵の隣に、一枚の絵がかけられていたのだ。枠同士をピッタリとくっつけるようにして。その絵は六枚羽の天使と相反して地味な色合いの天使を描いていた。瓦礫の上でひたすらに空を眺めている。昔を覚えている誰もが驚いた。

突如として現れたもう一枚の天使の絵は、数十年前、授与式前夜に消えた天使の絵だったのだ。