香春 蘇葉
2020-10-20 00:53:35
2599文字
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【かおりまとい】

シオサン。香水の話

気がついたのはふとした瞬間だった。

「ん?ルシオ……キミ、何かつけているか?」

「え?……ああ、はい。香り付けに少々。よく気がつきましたね、サンちゃん」

いつもは誰も気づかないのですが。続けてそう言うと、ルシオは嬉しそうに双眸を崩した。見上げたその顔があんまりにも嬉しそうなので、サンダルフォンはバツが悪そうに視線を僅かに逸らして、小さく鼻を鳴らす。きっかけは些細なことだった。すれ違った折に少し大きく息を吸っただけ。ただそれだけのことで、ほんの僅かな間だったと言うのに鼻腔を擽った香りはサンダルフォンの心をいたく惹きつけた。華やかで甘い香りだというのに、全くしつこくなくて去り際にふわっと溶ける。団員の中でも香水やコロンなどで香りを纏わせている者はいるし、時折その香りはサンダルフォンの心を僅かに踊らせる時はあるけれど、今この時サンダルフォンが知ってしまった彼の香りは、それらとは全く違った様相をしていた。深く染み入るように心が落ち着くのだ。らしくもなく側にいてずっとこの香りを感じでいたいとも思う。己の中に生まれた未知の感情にサンダルフォンは戸惑った。人が己の香りにこだわる姿を見て、何故そこまでこだわるのか理解できなかったが、なるほど、きっとこういうことなのだろう。好ましい香りを感じ取ってしまうと、自我あるものは安らいでしまう。今までサンダルフォンにとって、それは珈琲の香りたったひとつだけだっただけで、彼の香りに気がついてしまった瞬間に、サンダルフォンの世界にもうひとつだけ好きな香りが増えたのだ。

「ふふ、なかなか気に入って頂けたようで。よろしければ少し分けましょうか?」

「いや……それではキミの分が……

「そもそもこれは、私が自分で調香したものなので、市場には同じものがありません。しかし裏を返せば、私は好きなだけこの香りを作ることができるということ」

さ、遠慮せずにどうぞ。いつの間に出したのか、どさくさ紛れに取られた掌の上に白銀の小瓶が現れる。丁寧に握らされたので、ここで断るのも、と思ったサンダルフォンは、戸惑いながら小さく礼を口にして受け取ることにした。
その晩、早速香水を垂らした紙を枕の下に入れて眠りにつこうとしたサンダルフォンだったが、不意にとある違和感を感じて、閉じかけていた目蓋を押し上げた。違うのだ、香りが。好ましいと思っていた時のほどの眠りに落ちてしまいそうな心の落ち着きはなかった。意識を凝らして鼻を鳴らしてみてもそれは変わらない。結局サンダルフォンは一晩中、自分の知らない新たな香りに包まれたベッドに横たわるしかなかった。

「それはそうだろう。香水だぞ」

夜が明けて、依頼に向かう準備のため、にわかに騒がしくなった艇内。その一角の喫茶室に朝一番の珈琲を求めて姿を現した男は、サンダルフォンから事情を聞いて開口一番こう言った。赤い髪を常に美しく撫でつけ、身のこなしも身にまとう衣服も洗練され品のある、いわゆる伊達男と呼ばれる部類の人間、パーシヴァルである。一晩の考え事を一刀両断されたサンダルフォンは、彼の言う意図が取れずに眉間に深い皺を刻んだ。それに気がついたパーシヴァルは、ああ、そもそもそこからか、とつい今し方気がついた風情で呟くと、サンダルフォンの淹れた珈琲を一口飲み下してこう切り出した。

「香水というものは、香水そのものも強い香りがするものだが、実際につけた者の体臭、体温、つけた場所によって大きく左右されるほどに繊細だ」

貴族や王族にはわざわざ自らに合わせて調香させ、新たに香水を作る者もいるくらいである。それが、同じ香水をつけたところで同じ匂いにはならないという証左でもある。一通り説明したところで、パーシヴァルは最後の一口を飲み干すと、カウンター席を立った。そんな時間か、と時計をちらと確認していると、喫茶室のドアに手をかけたパーシヴァルが、そういえば、と肩越しにサンダルフォンを振り返る。

「貴君が気にするような香りとは、一体どのようなものなんだ?」

そこでサンダルフォンは返事に窮す。最近恋人となったとは言え団内で知っている者は団長くらいしかいない。ルシオの名前を出せばきっと深く追及されるだろう。
苦々しい顔で黙り込んだサンダルフォンを前に、何かしらを察したのかパーシヴァルが口の端を吊り上げてどこかしたり顔でまぁ、いい、と扉を潜る。と、彼とすれ違いざまに喫茶室へ入って来る者がいた。ああ、いらっしゃい。そう言いかけたところで、サンダルフォンは束の間固まる。

「おはようございます、サンちゃん。私にも一杯、珈琲を……サンちゃん?」

件の話の中心人物に訝しげに呼ばれてサンダルフォンははっと我に返る。照れ隠しに大きな咳払いをしたサンダルフォンは、そわそわと落ち着きのない足取りでカウンターの外に出ると、指先でルシオを手招きをした。そうして小首を傾げながら彼が目の前へ来た時に、意を決してその体に抱きつく。戸惑うルシオをよそに胸板へ顔を埋めてすぅ、と息を吸えばあの好ましい香りが鼻腔をくすぐり、肺をいっぱいに満たした。とろんとした顔で顔を上げれば、こちらを見下ろしたルシオの不思議そうな視線と目が合う。

「サンちゃん、そんなに気に入ったんですか?」

「ん……これ、好きだ」

すっかり気の抜けた口ぶりでそう言って再び胸板に顔を埋めるサンダルフォンのつむじにルシオの苦情が落ちる。ああ、この香りを何とかして再現できないだろうか。すっかり香りに蕩かされた頭でぽつりと思う。
実はこの状況、大変恥ずかしいのだが、自分の好きな香りを堪能するサンダルフォンがそのことに気がついて顔を真っ赤にするまで、まだしばらくかかりそうである。





「前はそんなものちゅけてなかっただろう」

サハル、と彼女が言う。呆れたようなその顔に苦笑で返せば、彼女の顔があからさまに険しくなった。

「主に創られたうつくちいわたちの香りが一番です、とかぬかちてたくせに」

「ええまぁ……それは、今も変わりませんが」

より強い香りの方が、記憶に残りやすいでしょう。満足げに頷きながらそう言ったルシオの顔を見て、彼女の顔が更に歪む。

「しちゅこい雄は嫌われるぞ……

「さて。それだけ、必死だということですよ」