緩く編まれた長くて柔らかい銀髪。こちらを見てきらきらと輝く蒼い瞳。お人形のような容貌をしていたのに、ワンピースのような服装は好まずに、いつだって動きやすそうな姿を着ていた。“彼女”の要素はこんなにも鮮明に思い出せるのに、いつも夢の中ではその顔だけが不鮮明で、一緒に遊んでいたグランの声だけがやけに喧しく起き抜けの頭に響くだけである。どんな顔をしていたのか、なんて名前だったのか。飽きずにくる日もくる日も隣の家へ会いに行ったというのに、ひとつも思い出せないのだ。何と薄情なのだろう。いつもより少し遅く起きた日曜日の朝、サンダルフォンはもう何度目かも知れぬ夢の余韻にそっと溜息をついた。
「サンディ、そういえば帰ってくるらしいよ」
何が。キャニスターの蓋を開ける寸前で、兄の言葉についつい動きが止まった。キッチンから視線をやれば、ソファに悠々と腰をかけた兄が、ちっともこちらを振り向かないままに、お隣サン、と重ねて言う。
お隣さん?“彼女”達家族が住んでいた家だったが、一家がどこぞへ引っ越してからこちら、人が住んでいるような様子は一度も見ない。それに、売ってしまった家を再び買い戻すようなことをわざわざするだろうか。余程この街にを気に入っているのならともかく、自慢じゃないがサンダルフォンの生まれ育ったこの街は特筆すべき点がひとつもないほどに平々凡々で、取り立てて利便性に富むわけでもない。わざわざ戻ってくるような、理由がないのだ。
「あの家族が家を売って出て行くわけないじゃないか。いなくなってからもずっと、彼らの家さ。定期的にクリーニングも入ってる」
「ふぅん……やけに詳しいな?しかし何故、わざわざ俺にそのことを話したんだ?」
そう言いつつ気を取り直してキャニスターの蓋を開け、ミルにいつもの量の豆を入れる。今朝方の夢を振り払うようにしてハンドルを握り、回し始めると、どこか愉快そうに兄が肩を揺らしながら、こちらをソファの背もたれ越しに振り返った。
「おやぁ?サンディ、覚えていないのかい。随分と仲が良かったじゃないか。お隣サンの末っ子と」
「まさか。彼女の顔も思い出せないくらいだよ。大した仲ではなかったんだろう」
「かの……?ああ、なるほどなるほど……そういうことか……」
ひとりだけ、やけに納得した風情でまた元の姿勢に戻っていった兄の背中を視線で追いかけて、サンダルフォンは微かに眉間へ皺を刻んだ。何が言いたかったのだろう。家を出る時間までにもうあまり余裕がないことと、まだろくでもないことを考えているのだろう、踏んでサンダルフォンは深追いすることをやめた。兄はそういう男だ。あんな風にはぐらかされた時に食い下がったところでまともな答えを得ることができた試しがない。また気が向けば話をするだろうから、今はいい。
この時のサンダルフォンは長年の経験からあっさりと兄の話を意識の外へ放り出した。わずか数時間後にそのことを後悔するとも知らずに。
「で?いきなり呼び出して何の用件だ」
「それがさ、久しぶりに帰ってきてこっちの高校に通うみたいだから、その前にいつもの三人で集まろうと思ってさ」
「……誰のことだ?」
「いや、ルシオだよ。あれだけ一緒に遊んだでしょ」
ルシオ、と小さな声で繰り返して、サンダルフォンは眉を顰めた。呼び出されたいつものコーヒーチェーン店は日曜日ということもあって賑やかさに包まれ、聞かれたくない話をするにはなかなか都合がいい。周りの客の耳が痛くなるほどの話し声の中、サンダルフォンは束の間返答に窮した。誰のことだ、と聞こうにもグランのはしゃぎっぷりを前にすると気が引ける。かといって謎を謎のままにしておくのもひどく居心地が悪い。言葉を探しあぐねて、何度か逡巡混じりにあぎとうと、そこは幼い頃からの付き合いだからなのか、グランが全てを察したように薄情さを非難するような表情を浮かべてこちらを見た。
「まさかあれだけ仲良かったのに、忘れちゃったの…?それってすごく、あ。」
ぐ、と息を詰まらせて、サンダルフォンは襲いかかってくるであろう彼の言葉の先に構えた。しかし途中で、どこか間抜けな声と共にグランのセリフが止まる。不審に思ったサンダルフォンは、そろりと視線を上げて、グランの顔を見やった。座っている窓際のカウンター、その背後を顔だけで振り返っている彼の瞳は、昔から大切にしている宝物を目にしているような、キラキラとした温かい光を弾いている。視線の先に、何が。グランの視線をゆっくりと辿ったサンダルフォンは、その先に立っていた長身の、そのかんばせを見とめて、小さく息を飲んだ。記憶にある、“彼女”の兄達にとてもよく似ていたのだ。
「久しぶり、ルシオ!!元気してた?……ん?ルシオ?おお〜い、ルシオ〜」
「……ちゃん」
「うん?」
「サンちゃん……」
サンちゃん。にわかに夢の“彼女”が自分を呼ぶその声を思い出した。しかし目の前に立っているのは、明らかにサンダルフォンよりも体格がいい、同い年くらいの青年で。声ひとつかけられずに押し黙って、ただ彼の顔を見つめていると、不意にその綺麗なかんばせに乗った柳眉がへにょ、と下がる。ぎょっとして、背後は窓向きのテーブルで塞がれているのに咄嗟に後ずさると、追い縋るように青年の手が伸びてきて、サンダルフォンはあっという間に逞しい腕の中に閉じ込められてしまった。サンちゃん、と肩口で震える声が鼓膜を打つ。あまりのことに硬直してしまったサンダルフォンは、隣の席で相変わらずだねぇ、とのんびりと言うグランの声を聞きながら、背中に回すことも、下すこともできなくて行き場をなくしてしまった手を、ただ戦慄かせることしかできなかった。
*
こんなにさよならするのが悲しいなら、仲良くならなきゃ良かった。自分の両手を握ってほとほとと涙を流す彼を上目に見つめて、顔を歪めた。
「サンちゃん、サンちゃん……私のことは忘れていいですから……お顔も、名前も忘れてもいいですから……」
仲良くならなければよかった、なんてそんな悲しいことを言わないで。泣いている幼馴染を抱きしめることもできないか細い腕を見下ろして、震える声で言うと、鼻を啜る音が聞こえてくる。視線をあげれば、鼻水も涙も一緒くたになったぐちゃぐちゃの顔で、彼が、サンダルフォンがこちらを食い入るように見つめていた。サンちゃん、と声をかければ、溢れんばかりに見開かれた目から真珠のように大きな滴が一粒落ちた。
「サンちゃん、私の髪と、目の色だけは覚えていてください」
どんなに変わっても、それだけはきっと変わらない。覚えていなくても、また会えた時に思い出すことができるだろう。だからせめて、私を貴方の仲良しのままでいさせてください。年にそぐわぬ苦いものを湛えて、そっと眼を和ませると、つられたサンダルフォンがようやく笑った。
*
じゃあ喧嘩しないで仲良く帰るんだよ。緩い顔と声に見送られて、サンダルフォンとルシオは連れ立ってコーヒーチェーン店を出ると、帰路についた。
数歩後ろを歩く彼と歩き慣れた道を家に向かって進むが、いかんせん沈黙が、きつい。何せサンダルフォンは小さい頃の幼馴染だと言われてもぴんとこないほどに彼のことを覚えていないのだ。グランが間に入っていた時はまだ普通に話せてはいたが、二人きりになるとそうはいかない。夢に何度も出てきた“彼女”は、彼女の兄達によく似た美しい色彩をしていたし、今後ろを歩く彼もそっくりそのままの色をしているが、あの夢さえ、今となっては本当のことかどうかもわからない。
ついてくる足音を聞きながら、段々と速くなっていく鼓動の数を数える。家まであと五百メートルほど。まだついてくるのかと思ったが、そういえば家が隣だったと思い出して、げんなりする。まぁ、彼が本当に“彼女”であったら、の話ではあるのだが。もしかしたらお隣さんを通り過ぎて更にに先へ行くのかもしれない。“彼女”とは全くの別人かもしれないそんな、淡い期待を抱きつつ少し足早に家までの距離を詰める。
「サンちゃん、少し待ってください」
そうして家まであと二百メートル。いっそこのまま振り返りもせずに家まで駆け出してしまおうかと思ったところで、少し焦ったように彼が呼び止めてきた。同時に片手首を柔く握り込まれて、つんのめるようにして立ち止まり、肩越しに振り返れば、夕日の朱よりも余程鮮やかに染まる彼の白い頬が視界に飛び込んでくる。こんな人形みたいな青年でも、頬は紅潮するのか。そんな的外れな感想を抱いていると、急に彼の方へ腕を引かれて、窓際席で抱きしめられた時と同じように、あっさり腕の中へ抱きこまれる。
「貴方とお別れしてから、ずっと貴方に会うために頑張ってきたんです。サンちゃん、私の髪と瞳の色を見て。あの時から全然変わってないんですよ」
その娘はいつも夢の中で笑っていた。柔らかな長い銀髪と、キラキラと輝く蒼い瞳。目の前の青年の持つ色は夢の中で見るそれと少しも変わらぬ色をしている。
「……ルシオ?」
「はい。貴方のルシオです」
「……大きくなったな?」
「サンちゃんに相応しい相手になるために、頑張りましたからね」
相応しい?何のことだ。話が読めないとばかりに目を瞬かせたサンダルフォンを見下ろして、彼が嬉しそうに微笑む。混乱する幼馴染を他所に一度もたげた上半身を傾けた彼は、少しのいとまの後にサンダルフォンの額へ唇を押し付けた。
「あの頃は言えませんでしたが、ようやく言えます。サンちゃん、結婚を前提にお付き合いしてください」
正直、許容できる域を超えていた。顔を耳まで真っ赤にして、キスを落とされた額を押さえながら見上げたサンダルフォンは耐えがたい混乱から早く逃れようと片手を振りかぶる。今ならわかる。確かに“彼女”はサンダルフォンの初恋であった。
嬉しさを満面に湛えた彼の頬を、混乱の至りにあるサンダルフォンの平手が見事に捉えると、閑静な住宅街の端に肉と肉とがぶつかる盛大な音が響き渡った。
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