香春 蘇葉
2020-10-10 23:31:46
2376文字
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【蟹、スプラッシュ】

ルシサンワンライ:びしょ濡れ/蟹

その日はバケツをひっくり返したような大雨の降る日で、もっと言うならば一週間出張に出ていたルシフェルが帰ってくる日だった。彼のことならば折りたたみ傘のひとつやふたつ持っているだろうが、こんな雨の中大きな荷物を持って帰ってくるのならば、迎えに行きたかった。しかし、昨晩、帰ってきた時に夕飯の席で食べたい物を聞くためのメッセージのやりとりと、今朝起きた時の挨拶のやりとり以外は、出発した旨も帰ってくる時間も何一つ伝えられなかったので、大人しく二人が住む家で鍋の準備をしているしかない。不用意に出たとして、道中すれ違ってしまうかもしれない可能性を考えると、出るに出られなかったのだ。長い出張を終えて帰ってくる彼を出迎えて、労ってあげたかった。
キッチンに立って無心で作業をしている内に、気がつけば外から聞こえてくる雨音が更に強くなっていた。ちらと腕時計に目を落とせば、時刻は十八時を少し回ったところである。彼はまだ帰ってこないのだろうか。残すところまだ見ぬメインの具材を別に下ごしらえして、あとは煮込むだけとなった鍋の加熱を止めて、流石に迎えに行こうと、サンダルフォンがエプロンの腰紐を解いた瞬間だった。不意に玄関の方から鍵を開けてドアを開く音が聞こえてきた。そもそもこのマンションは一階のエントランスに向かう自動ドアに番号式のロックがかかっていて、住人くらいしか入ってくることはできない。その上部屋にたどり着き、鍵まで開いて入って来るのだから、玄関から聞こえてきた音の正体は考えるべくもない。
慌てて用意していたバスタオルを数枚抱えて、ぱたぱたスリッパを鳴らしながら玄関ホールへと駆けていく。しかし玄関先で佇む長身を目にした瞬間、サンダルフォンは息を飲み、動きを止めた。

「ただいま、サンダルフォン」

そう言って嬉しそうに微笑む彼の全身は、濡れてないところを探す方が困難なほどに濡れそぼっていて、顔にかかる前髪からは、大粒の雫が滴っている。今すぐにでも風邪をひいてしまいそうなほどに全身びしょ濡れだというのに、何故か荷物とは別に肩から大きなクーラーボックスを提げて彼は誇らしげだった。その姿に卒倒しそうなほどの目眩を覚えたサンダルフォンは、バスタオルを広げてジリジリと近づいていく。バスタオルで彼の体を包み、クーラーボックスと荷物を受け取りつつ、おかえりなさい、と苦笑を浮かべると、一息分の間を置いて、彼がほっとしたように双眸を更に溶かした。





「全くもう!驚いたんですからね!!」

湯気に包まれたバスルームにぱしゃ、と湯が跳ねる音と、サンダルフォンの大きな声が反響する。胸板に何度も柔い力でぶつけってくる後頭部を見下ろしたルシフェルは、眉尻を下げて困ったようにすまない、と口にした。ルシフェルをバスルームに押し込んだ後、しばらくして俺も一緒に入りますから!と裸体を惜しげなく晒しながら入ってきたかと思えばずっとこれである。心配してくれるのは嬉しいが、ルシフェルとしては久しぶりに顔を合わせたので、怒った顔よりも笑った顔が見たかった。まぁ、怒った顔もそれはそれで愛らしいのだが。
驚かせたかったのだ。出張が終わったら彼と何か美味しいものでも、と思っていた。そしてそれは彼が驚いてくれるようなものがいい、とも。
出先で最後の仕事を終えた後、その街で一番有名な市場を見て回っていた。そんな時に見つけたのが、帰ってきたルシフェルが肩から提げていた大きなクーラーボックスの中身である。本来ならクール便で送ってもよかったが、帰ったその日に彼と共に楽しみたいと思ってしまった。
そうして現地調達したクーラーボックスを手に意気揚々と自宅の最寄り駅にたどり着いたルシフェルだったが、駅の構内を出て少し歩いたところで、バケツをひっくり返したような雨が降られてしまった。咄嗟に折りたたみ傘を出そうとしたが、そこでこの出張唯一の忘れ物に気がつく。いつもならば通勤鞄に入れている折りたたみ傘を、出張用の鞄に移し替えることを忘れていたのだ。結果十五分ほどの帰路を大雨と共に歩きながら、自宅マンションにたどり着いた結果、サンダルフォンの青い顔に出迎えられた、というわけである。ちなみに出先を出発する連絡と、駅に着く時間を彼に教えなかったのは、ひとえに家に着くまでクーラーボックスを見られたくなかったからであった。駅に着く時間を教えてしまえば、彼は必ず迎えにきてしまう。

「サンダルフォン、私が悪かった。許してくれないだろうか」

すっかり温まった指を彼の指の又に絡めて、後ろから抱き込むようにすり、と肩へ頬を寄せれば、さっきまでの威勢が一気に払拭されて、サンダルフォンの体が動揺したように揺れた。

「君と美味しいものを食べて、肌を合わせて眠りたい一心だった。故に私が濡れて帰った時の、君の心を慮ることができなかったんだ」

こっちを向いて欲しい。重ねてそう言うと、俯いた顔がほんの少しこちらに傾いて、濡れた前髪の隙間から赤い瞳がちらとこちらを見た。

……心配したんですからね」

「うん。君が食べたいと言っていた蟹を一緒に食べて、仲直りをしよう」

「一杯は、やりすぎだと思いますけど……でも、嬉しいです」

ありがとうございます、とサンダルフォンが体を捻って、ルシフェルの唇に触れるだけのキスをした。束の間惚けたルシフェルを前に、サンダルフォンは上気した裸体を湯から上げると、肩越しに見下ろしながら小さく笑う。

「そろそろ上がりましょうか」

蟹、楽しみですね。ざぱ、と湯が揺れる音を耳にして、一足先に出ていこうとするサンダルフォンの裸体を目で追いかけたルシフェルは、蕩けるように甘やかな微笑を浮かべると、恋人を追って自らも湯船から腰を上げた。