ファータ・グランデ空域、ルーマシー群島から程よく離れた小島。その島で一番大きな島にはとある習わしがあった。その島は数百年前、島々が浮力を失い次々に落ちてゆくという未曾有の災厄、以降起こった数々の危機からこの空を守った“天司長”という星晶獣の威光にあやかって、天司信仰が盛んに行われている。教会でステンドグラスからの極彩色の光を受ける、翼を持つ人の姿をした像には、方々から毎日熱心な信仰者が祈りを捧げに集まっていたし、人々は皆一人一体、小さな木彫りの天司像を持っていて、死ぬまで大切にしていた。この島で特筆すべき習わしとはこの天司像である。
天司像はこの島の人間がある年齢に達した日に教会を訪れ、手彫りされた何種類かの中から自ら選ぶことになっていた。丁寧に職人の手によって掘られ、綺麗に何色かに彩られたそれを、幼子の意思で選ぶのだ。以降はその天司像に毎日祈りを捧げ、死ぬまで懐に入れて大切にする。
天司像に着色される色には特に決まりはなかったが、ただ二色だけ、鳶色とそれに近い色と、黒だけは一切塗られることはない。それは災厄と堕天を表す色だ。故にどんなことがあっても、幼子が選ぶ天司像の中でその色の像が現れることはなかった。職人が作ることもない。存在するはずがなかったのだ。
とある子どもが島で一番大きな村に生まれた。白銀の髪に空のような真っ青の瞳を持つ子ども。まるで古い文献に記された天司長の特徴そのものを持つ子供は、成長するにつれてこの世界全てに祝福されているかのように、様々な場面で優れた才を見せた。そうして、その子どもが像を選ぶ歳まで成長した日、小さな島の大きな村では抱えきれないほどの凶事が起こることとなった。
全てに祝福されたかのような美しい子どもが選んだ像、その彩りが深い鳶色をしていたのだ。もちろん、昔からの習わしで職人が作るはずもないし、ましてや儀式の前に村の神父が全ての像を確認する。しかし像は、子どもが像を選ぶその瞬間に合わせたかのように忽然と現れて、結果として子どもはそれを選び取ったのだ。
村は騒然となった。何せ一番優秀で美しく、信仰深い少年が災厄を表す鳶色に塗られた天司像を選んだのだ。かと言って、取り上げるわけにもいかない。選び取った像は本人が望まずとも一生抱えていかなければならないのだ。ないはずのものが忽然と現れてたことと、それを選び取った子供に、人々は恐れ慄いた。しかし時月がふるごとに子どもが変わらず信心深く、美しく、優秀であることを知ると、徐々にその恐怖もなりを潜めていった。ただ一人、村の神父がを除いては。
神父は見ていた。毎日早朝に教会を訪れる子どもが、朝日に透かされたステンドグラスからの光で極彩色に輝いた天司像を見上げて、まるで旧知の相手に語りかけるかのような風情で話しているところを。彼の見上げる場所に口の聞けるような存在は見当たらない。ましてや像以外の何ものも見当たらなかった。毎日毎日そんな様子を見せられて、気が狂いそうなほどの恐怖に襲われた神父は、ついに子どもが十八を迎えた日、天司長からの信託だと偽って子どもを島から追い出すための詭弁を弄した。君がいると、いずれ早いうちにこの村は島ごと空の底に落ちるだろう、と。子どもの理解は早かった。次の日には親の説得を終えて、子どもは島を出ていくことになった。
そうして、子どもが島を出ていったあと、村は島ごと空の底に沈んだ。神父は最後まで何故こんなことになってしまったのかわからなかった。ただ空の底に落ちる間際、子どもが出発する前の晩に教会で祈りを捧げて、それから愛おしいパートナーをエスコートするかのように天司像へと片手を差し出していたその光景だけが走馬灯を押し除けて頭の中にこびりついていた。何故こんなことになってしまったのか。村ごと事情を知るものが居なくなってしまった今は、知る術もない。
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「君に、私と共に来て欲しい」
差し出された掌を天司像の肩から見下ろして、サンダルフォンはしきりに目を瞬かせた。自分があの場所にたどり着くより先に転生してしまったと聞いた時には何の冗談かと思ったが、こうして今、しっかりと記憶を持って生まれたルシフェルの成長をそばで見守ることができている。
「天司長の信託との詭弁を聞いて、さすがの貴方もここが嫌になってしまいましたか?」
「……?いや?ただ私は、私が行くところ全てで君が隣にいなければ意味がないと思っただけだ」
彼らが私を恐れると言うならば、私は大人しくこの場を去るのみだ。重ねて言うルシフェルに、その顔に浮かべた笑みを深くして、サンダルフォンはふわりと天司像の肩から舞い降りる。そうしてルシフェルが差し出した手を取ると甘えるようにその肩口に額を押し付けた。
「すでにこの島の浮力は俺がいることで成り立っているようなものです」
「うん。でも母や父までもが、私を追い出そうとしているのだから、仕方ない。それに、私が行くところに君がいないことの方がありえないのだから、君の加護を一身に受けた私が島を去ることで、浮力を失ってしまうことは、必然だ」
君を、どことも知れない私の新居に連れて帰ろう。そう続けたルシフェルが、サンダルフォンの顎をすくってたっぷりと重ねるだけのキスをする。最後に唇をすり合わせて、顔を離した二人は、同時に破顔して緩やかに肩を揺らした。
「私はこと、君が悪く言われることには耐えられないようだ。らしくなくて、すまない」
「貴方が決めたことです。俺はどこまでもお供しますよ。そうだ、俺を新居に連れ帰って下さるのなら、二人で喫茶店でもしましょうか」
島を出た後の話をゆるりとしながら、二人仲良く手を繋いで、淡く月明かりで照らされた礼拝堂を後にする。この村が島ごと落ちる前夜。生まれた瞬間から、“天司長”に祝福された子どもの話である。
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