自分には関係ないと思っていたことに何故か巻き込まれる。はたまた関係ないと思っていたものが目の前に現れることなんて、長い人生の中で割とよくあることなのだろう。
「私と、結婚してくれないだろうか」
秋に入り始めた日曜日の涼しい朝。午前九時三十分。開店まで三十分。店の前で今日のおすすめをブラックボードに書きつけていたサンダルフォンは、その声の方へ肩越しに振り返ると、微かに瞠目した。眼下に写るのはしとりと柔らかそうな花弁が巻く、真紅の薔薇の花。棘が取り払われた茎には深い青のリボンが丁寧に結えつけられていた。サンダルフォンは薔薇を持つ小さな手に視線を移すとゆっくりと腕を辿り、そうしてその先でやけに緊張を滲ませて自分を見つめる、幼いかんばせに視線を据える。幼いながらも驚くほどに整っていて、きっと十人中九人は彼を天使だと称して可愛がるだろう。そういう容姿をした六、七歳ほどの子供が今、サンダルフォンの目の前にいた。直前の言葉を頭の中でそっと反芻する。聞き間違えでなければ、結婚してくれ、と言ったのだろうか。まぁ、さすがに聞き間違えだろう。聞き間違えであってくれ。何せ目の前にいる子どもにカケラも見覚えがないのだ。
「すまない。こちらに集中していてよく聞こえなかった。もう一度言ってくれるか?」
「私と、結婚してほしい」
本当に言った。聞き間違えではなかった。知らない子どもにプロポーズされるという経験。それが、彼とサンダルフォンの出会いとなった。
「サンくーん、今日も来てるよルシフェル様」
「イスラフィル……いつも思うんだが、なんだその敬称は」
「ううん……何となくそう呼びたくなっちゃわない?」
「理解しかねるな……とりあえず、ルシフェルが来ているのだろう?」
了解した。珈琲カップの水気を拭く手を止め、新しく出した布巾で手を拭うと、サンダルフォンはイスラフィルとすれ違うようにしてカウンターの外に出て、生菓子類が並べられているショーケースを食い入るように見つめている美しい少年の隣に蹲み込んだ。
「いらっしゃいませ、お客様。本日は何をお求めで?」
「……!サンダルフォン!」
声を聞くや否や、ショーケースに注がれていた蒼い視線を瞬時にサンダルフォンへ向けて、少年がぴょんと首元に抱きついてくる。それを受け止めて、抱き上げつつやおら立ち上がると、不満そうな顔が顎の下からこちらを覗き込んできた。
「む。子ども扱い、しないでほしい」
「出会い頭抱きついてくるなど、俺からしたら十分子どもだがな。ルシフェル、下校途中に寄ったんじゃないだろうな?だとすれば一度帰ってから来い」
「今日は兄が家から迎えにくる。故に少しだけここで待たせてほしい。本日のおすすめ、一杯お願いしよう」
「はいはい。承知しました、お客様。いい子だからここの席でしばらく待っていろ」
また子ども扱いだ。頬を膨らませて唸る声を背に受けながら、サンダルフォンはカウンター中へと戻っていく。毎日のことだ。もう慣れたものである。
あの日、薔薇を一本片手にサンダルフォンへプロポーズしてきたのは、彼の家の隣にある豪勢な邸宅に、昔から住んでいる一族の末弟であった。一族が引っ越してきた当初、一生関わり合いがないだろうな、と直感的に感じたサンダルフォンは、その勘のまま、たまに顔を合わせて挨拶する程度の付き合いしかやってこなかった。故にいつの間にかサンダルフォンと同い年の長男に歳の離れた弟ができたことを知らなかった。その弟が、このルシフェルである。サンダルフォンにプロポーズをした日から毎日欠かさずこのカフェに通っては、今日も返事はもらえないのだろうか、と飽きもせずに問うてくる。正直、一週間もすれば飽きるだろうと思っていたサンダルフォンにとっては予想外の事態だった。
「本日のおすすめと、フォンダンショコラです。冷めない内にどうぞ」
「……?菓子類は頼んでいなかったと思うが」
「そろそろ腹が減る時間だろう。子どもは遠慮するものではないぞ」
「また子ども扱いを……君はいつになったら返事をくれるのだろうか」
言われてサンダルフォンは、束の間動きを止めた。いつになったら?生憎と女性であろうが男性であろうが、歳の離れたパートナーを持つつもりはない。二十歳になったら。そう言えば大人になる過程でこんな遊びにも飽きてしまって、諦めてくれるだろうか。
サンダルフォンは上体をそっと屈めると、ルシフェルの髪を指先でかき分けて、そこから覗いた小さな耳に口元を寄せた。キミが大人になったらな、囁くように言えば、弾かれたように耳を抑えたルシフェルが、真っ赤な顔でこちらを振り仰ぐ。
「うう……その言葉、違えないでほしい」
「はは、覚えていたらな」
そら、食べてしまえ。ルシフェルの両肩にそっと手を置いて体の向きを戻してやれば、すねたように唇を尖らせながら、彼がフォークを手に取る。その小さな背中とまろい後頭部を見つめて、サンダルフォンは小さく苦笑した。きっとこの子は大きくなる。しかし、その頃には、きっと自分は隣にいないのだろう。それでいい。それが、普通なのだ。
ひとりで終わった気になって、以後も通い続けるルシフェルを甘やかし続けるサンダルフォンは知らない。自分の言ったことをすっかり忘れた頃に、立派に成長したルシフェルが百七本のバラを携えてカフェに現れるなどと。彼は、知らない。
・
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.