香春 蘇葉
2020-09-19 23:34:07
2746文字
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【ノイズの向こう側】

ルシサンワンライ:ノイズ/不具合

不鮮明な、夢を見る。

それは、ルシフェルが眠る度にやってくる。夢の中のルシフェルが姿を見せると、まるで子犬のように駆け寄ってきて、こちらの手を取るのだ。ただこちらを見上げる顔も、何かしらをこちらに伝えようとしている声も、雑音のような何か不快な物が邪魔をして、一度も顔として、声として認識できたことがない。夢の中の自分の心は彼のことを愛おしくて堪らないと叫び続けているのに。夢は不鮮明なままで、彼がどこの誰かさえわからないのだ。目を覚まして覚えていることといえば、研究所の立ち入り禁止区画にある中庭の長閑な景色と、二人で楽しんだ珈琲の味と香りだけ。
不鮮明な夢を見る。目を覚ました時心の内のどこかが大きく欠けてしまったような喪失感を覚えるようなそれは、始めこそ夢だと切り捨てられていたが、今やルシフェルが一日にする考え事の大半を占めていた。

「特異点、あの星晶獣は?」

「ん?……ああ、サンダルフォンだよ」

ある晴れた日の昼下がりのことだった。甲板での手入れを終えた武器類の詰まっている樽を、グランと共に艇内に運び込もうとした折、不意に視線を向けた先で団員達と話こんでいる“彼”に視線を奪われた。再顕現した時、目を開けた瞬間にそこにいた、という以外はほとんど面識はない。ただ、その凛とした立ち振る舞いや柔らかそうな鳶色の毛、それから強い意志の滲む赤い瞳から目が離せなくなって、ルシフェルは思わず、彼の名前を訊ねてしまった。以前から強く、話をしてみたい、彼の名前を知りたいと思っていたが、基本的に自室から出ることはなく、出てきたとしてもずっと食堂の片隅にあるという喫茶室にいて、なかなか声をかける機会がなかったのだ。
それを、ついに訊いてしまった。本人から聞く前に他人から聞き出すなど、フェアではないと思ったが、この瞬間を逃せば、しばらく彼の名前を知る機会など訪れない、と直感的に感じたから。サンダルフォン、と自らの声でおうむ返しのように呟くと、昔から何度となく口にしている言葉のような懐かしさと口馴染みの良さを感じる。

「見たところ、天司のようだがルシファーの被造物に彼のような個体がいた記憶はない」

「う〜ん……それはそうだろうね。本人も自分はルシファーの手による天司じゃないって言ってたし」

「では誰の手で?」

「四大天司の使徒達みたいに、誰かさんに強く願われて創られたんだろうね。詳しいこと、僕は知らないから本人から聞いてみたら?」

きっとルシフェルと話したいと思ってるだろうし。がしゃん、と体を軽く揺すって樽を抱え直しながらグランが笑う。艇内に戻りつつ聞けば、今日は午後からずっと喫茶室で珈琲を淹れているだろう、とのことで。もっと言うならば、このすぐ後から大規模な依頼に向かうから、艇内に残る団員はほとんどおらず、きっとゆっくり話をできるよ、とも言っていた。
ふむ、とルシフェルは考える。詳しく知らない、と口にしつつも、グランの言葉端からは彼のことをよく知っている風情が強くにじんでいた。それに、どこかルシフェルを批難していたようにも感じる。大半の団員が依頼に出るとは言え、ルシフェルは留守番として艇を守ってくれ、と言われていた。これはチャンスなのかもしれない。今まで姿を目で追うほどに意識していながら、話しかける機会を失していた彼と、じっくり腰を据え話すための。
ルシフェルは樽を抱え直して、グランの背中を追い、武器庫へ向かう。しかしその意識はすでに丸ごと、喫茶室に囚われていた。





「珈琲を一杯、貰えるだろうか」

カウンター席で彼の目の前に腰を下ろしながらそう言うと、綺麗な顔が分かりやすく強張って、静かな部屋にひゅ、と不自然に空気を飲む音が響いた。もしかして、自分が知らないうちに、彼にこんな態度を取られてしまうことをしてしまっただろうか。そう思い、眉を潜めていると、次の瞬間には、何事もなかったかのような態度に戻り、彼がそっとメニュー表を差し出してくる。

「お好きな物をお選びください。貴方は、珈琲がお好きだとグランから聞いています」

「私が好みそうな物を、君に選んで欲しい」

「でしたら本日はこちらのルーマシー産の……っ、」

淀みなくメニュー表の上を滑っていた彼の指は、不自然に途切れた言葉と共に固まった。メニューから視線を上げて、彼の様子を見やれば、おずおずとこちらの出方を窺っているような緩慢さとぎこちなさで、赤い瞳がこちらを向くところだった。

「俺と、貴方は初対面で……

「うん。だが私は何かを忘れてしまっているらしい。毎晩、顔も声もノイズで塗り潰された誰かと中庭で珈琲を飲む夢を見る。私は、きっとそれは君のことではないかと思っているんだ」

話したこともないのに、目線で追ってしまうなど、記憶はなくとも体が覚えているからに他ならない。例え、再構築された体であろうとも、ルシフェルは星晶獣である。些か情緒に足らないが、新たな体にデータを埋め込めば、それだけで以前のルシフェルになれるのだ。

「あの、俺」

「サンダルフォン」

「っ、なんで、どうして今呼ぶんですか……そんなのっ、ずる……っ」

見開かれたままの赤い瞳から、静か雫が落ちる。ルシフェルは半ば無意識に身を乗り出して、指先を伸ばすと、人差し指で頬の輪郭を辿り始めたそれを掬い取った。それでも足りないほどに、彼は声もなくぱたぱたとカウンターを濡らしていく。できることならば、これ以上泣かせたくはない。不思議とそう思ったルシフェルは、席を立ち、カウンターの向こう側の体を自らの方に引き寄せると、頬に、鼻梁に、額に唇を押し付けた。時折舌先で涙を舐めると、微かな塩気とともにどこか甘い、彼のエーテルを感じる。ルシフェルは獲物を味わう獣のように、どこか恍惚とした心持ちのまま、誘われるようにして、彼の唇に噛み付いた。歯列をなぞり、舌を絡めて、呼吸すら奪い去らんほどの激しさで彼を求める。そうして最後、唇と唇との間に唾液の糸を伝わせながら、名残惜しげに体を離せば、すっかり涙を忘れた赤い瞳がとろりと溶けていた。

「ルシフェル様」

愛しいものを呼ぶような、甘やかな声で彼が自分を呼ぶ。その声音を鼓膜に透かした瞬間、ルシフェルの脳裏で不意に、夢の中の“彼”がこちらに駆け寄ってくる声と重なって、向けられた笑顔が鮮明に、目の前の彼のかんばせとなった。ノイズが晴れる。夢が急激に鮮明になる。ルシフェルは震える指先で彼の細い指先に自分のそれを絡めて、今にも泣き出しそうな顔で笑った。

「サンダルフォン。君と、珈琲を共に」

その以降、不鮮明な夢を見たことはない。