ルシフェルは今、これまで生きてきた中で最もどん底にいた。人より恵まれた環境で生きてきたのだろう。その自覚がある。人より順風満帆な人生を歩んできたのだろう。最近になって気がつくようになった。故にルシフェルは、これほどまでの絶望に突き落とされたことはなかった。この世の全てが、全て真っ黒に塗りつぶされてしまった気さえする。
事の始まりは昨日の午後三時。休日で家にいたルシフェルは自らの愛し子と充実した時間を過ごしていた。最近絵本を自分で読めるようになった彼を膝に乗せて、自身もまた買ってそのままにしていた本を静かに読み耽っていたのだ。本の中の話がひと段落つき、視線を上げた時、丁度いつものおやつ時だったので、ルシフェルは膝の上の幼子をそっと抱き込んで、つむじに鼻先を埋めながらサンダルフォン、と彼の名前を読んだ。
「いまいいところなんだ。あとにしてくれルシフェル」
「うん。でも、おやつの時間だよ。ベリアルから珈琲ゼリーを貰った。生クリームがたっぷりかかっているから、きっと美味しいよ。如何かな」
「ふ……ふん!そこまでいうならたべてやろう!あくまでアンタがたべてほしいといってきたからだからなルシフェル!」
特撮ヒーロー番組で、ヒーローよりも悪役が好きな子である。故に最近悪がりたい年頃である。ついでに言うと人の世話を過剰にしたがる、お兄ちゃんぶりたい時期であった。愛らしいことこの上ない。私が食べて欲しいから、持ってくるよ。そう言って腰を上げ、キッチンへと向かっていく。彼が見えなくなる直前にこっそり、肩越しにちらと振り返れば、お気に入りの絵本を丁寧にローテープルに置いて、ラグの上にちょこんと正座をしつつそわそわと小刻みに揺れながら待っている様子が見えた。ルシフェルはその姿にまたひとつ笑みを深めると、軽い足取りでキッチンの冷蔵庫に寄って行った。
さて、プラスチック製のデザートグラスに入った生クリームたっぷりの珈琲ゼリーがふたつ、それからミルクとアイスコーヒーが入ったグラスをひとつずつ持って出てきたルシフェルを見て、目に見えてぱっと顔を華やがせたサンダルフォンであったが、ゼリーとミルクを目の前に置いても一向に手をつけようとはしない。どうしたのだろう、と小首を傾げてよくよく観察していれば、ミルクのグラスとルシフェルのアイスコーヒーとを交互に見やって、時折唇を尖らせている。
「サンダルフォン、食べないのかい。君の好きな珈琲ゼリーだよ」
「おれも、ルシフェルのやつといっしょがいい」
「一緒……?珈琲のことだろうか?ならば君にはまだはや、」
「おれだって!もうねんちゅうさんだから!のめる!おれをばかにするな!!」
馬鹿にしてないよ。頭をぽんぽんと撫でてやって、小さな手に木のデザートスプーンを握らせてやりながら言うと、こちらを見る赤い目がほんの少しだけ歪んだ。
「じゃあおれがルシフェルにのませてやる!」
「案ずることはないよ。君の手を煩わせるまでもない」
「だったらおれにそれをのませろ!」
「君が飲むには早い。諦めてほしい」
ルシフェルが心を鬼にしてそう言うと、不意にサンダルフォンの顔が泣きそうに歪んだ。ひっ、と息を飲む音が何度も耳を突き、赤い瞳がみるみるうちに涙の膜に覆われていく。ああ、私はまた選択を間違えてしまった。ルシフェルが心の内で後悔をした瞬間、まるで怪獣の雄叫びのような声が響き渡る。
「ひっ、ゔあ゙あ゙あ゙〜!!ルシフェルさまのばかぁぁぁぁぁっ!!きらい!!あっちいけ!!」
「ッサンダルフォン……!」
宥めることはできた。しばらく泣いて泣き疲れて、眠ってしまって。次に目覚めた時には、ルシフェルから背中を向けて部屋の隅に縮こまるようになってしまった。そして何より、珍しく泣き叫んだサンダルフォンの口から出た言葉は、ルシフェルの心に深い傷を残したのだった。
「私は、一体どうしたらよかったのだろうか」
「あのさぁ、ルシフェル。キミ職場のこと、お悩み相談室か何かと思っちゃいないかい?」
正直、鬱陶しいんだけど。蝿の子でも散らすように手をプラプラとさせながら、言葉通り心底不快そうな顔をしてベリアルが言う。事の起こりは日曜日。その後サンダルフォンが目を合わせてくれないままであっても朝が来て、否応なしに引き裂かれる。主に職場と幼稚園によって。
この世の地獄にでもいるような顔をしているルシフェルに、ベリアルは大仰にため息をついて見せた。これ以上オフィスを陰鬱な空気に巻き込まれるのも気にくわないのと、自分が差し入れた珈琲ゼリーが絡んでいて少々後味が悪いのだ。これで仕事に影響が出ないのであれば、ルシファーだって何も言わないから放っておくのだが、現状すでに影響が出まくっている。
「キミ、見た目が抜群な割にすぐ振られるな、とは思っていたけど、子どもに対してもそれは同じだぜ?」
「……何が言いたい」
「なまじ自分が万能だから、相手の視点が見えにくいのさ。珈琲がブラックでなければならないことはないし、別段キミがサンディにあーんしてもらおうが飲み物を飲ませてもらおうがキミの沽券には何ら関わらない。キミ達が円満に過ごせるなら、それでいいんだろう」
さて、答えは出たかな?続け様にそう言ったベリアルに、ルシフェルはぱっと顔を上げた。その顔は先程より幾分か明るくなっている。もう大丈夫か。心の中でそっとため息をつくと、ベリアルは席を立とうと腰を上げた。
「ベリアル」
「何だい?ルシフェル」
「今すぐ帰ってもいいだろうか」
やっぱりコイツ嫌い。その日、断固たる意志の滲む眼差しでそう言ったルシフェルに、ベリアルは改めて強くそう思ったらしい。
*
いっぱい食べて、強く健やかに育ちなさい。常日頃からルシフェルが言っていることは、二人が喧嘩をしている時もサンダルフォンの中では変わらないらしく、出された食事をぺろりと平らげた。ナポリタンのケチャップで汚れた口元を丁寧に拭ってやってから、ルシフェルはとある準備をしにキッチンへと戻ってゆく。
そうして五分程が経った頃、ルシフェルはグラスをふたつ手に持ってキッチンから出た。足音を聞きつけてか、サンダルフォンが俯かせていた顔をわずかに上げる。束の間、彼の視線がルシフェルの手元に注がれて、そうしていくつかの呼吸の後、不意に愛らしいかんばせが明るく華やいだ。
「さて、食後の珈琲は如何かな。サンダルフォン」
ミルクが混ざって薄茶色をしたグラスを目の前に置くと、サンダルフォンが嬉しそうにぱたぱたとテーブルの下の足をバタつかせて、少し興奮気味に目を輝かせる。
「ルシフェルさま!これ、おれのですか!?」
「うん。君のために淹れたものだ。私が君に飲ませてあげよう。だから、私の分の珈琲は、君が私に飲ませてくれるだろうか」
ストローの先を向ければ、何度も何度も頷いてからサンダルフォンの小さな口が食らいつく。何度な中の液体を吸い上げたサンダルフォンは、嚥下の度にその表情を輝かせていった。ほんの少し、濃い目に淹れた珈琲に、たっぷりのミルクとガムシロップが五つ。そう、共に楽しむために珈琲がブラックでなければならないことはないのだ。サンダルフォンはきっと、ルシフェルと同じものを楽しみたかっただけ。何故飲ませようとしてくれたのかは、未だ謎のままだが。
「あまくて……おいしいですルシフェルさま!ルシフェルさまもどうぞ!」
差し出されたストローをそっと口に咥えて吸えば、いつもの珈琲の味がほんのりと甘い気がした。美味しいね、サンダルフォン。微笑みながらふわふわの頭を撫でればきゃっきゃとはしゃいだようにサンダルフォンが笑った。ああ、こんな簡単なことだったのだ。
そんなこんなで、二人は無事、仲直りと相成った。そのきっかけとなったベリアルには後日菓子折がルシフェルから贈呈されたそうな。ちなみに、最後に残った〝何故、サンダルフォンがルシフェルに飲み物を飲ませたがったのか 〟という謎だが、後日ルシフェルが直接彼に訊ねたところ。
「たべさせあいっことのませあいっこは、すきなひととしかしちゃだめなんだぞ!ふふん!そんなこともしらないのかルシフェルは!」
と、いう返答が返ってきて、ルシフェルはまた愛し子の可愛らしさによりラグの上で転がる羽目になったと言う。
・
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.