甲板の床を蹴って距離を詰める。視線の先では、持ち主の身の丈程もある重量級の大剣を縦に構えた黒い鎧の男が、その琥珀色の瞳を剣呑に眇めていた。鈍く光る黒い刃へと、左上段、水平に構えた刀の切っ先がにわかに届こうかという瞬間。ルシフェルは短く息をついて刀を右下へと下ろすと、体の力を瞬間抜いて、男の死角へと回り込む様に片のつま先で強く床板を蹴った。いくら力が衰えているとは言え、羽の浮力を借りられぬとは言え。人ほど程度に弱体化したルシフェルの体は、それでもその括りの中においては強者のそれであり、甲板のひと蹴りで男の琥珀色の視界から逃れる。男の横側に逃れたそのままの勢いで、ルシフェルは暗色のマントに包まれているその背と己のそれとを合わせるようにして、男の背後へと滑り込んだ。先程より瞳孔がやや細くなった琥珀色の瞳が、ルシフェルの動きに気が付いたようで、微かに瞠目しながら肩越しにこちらを振り返る。男が次の行動を起こすよりも先にひと呼吸よりもなお短い拍子で体重を腰へと乗せたルシフェルは、右下に下段で構えたままとなっていた刀を、体を右側へと回転させるその遠心力と共に、男の首筋に向けて振りかぶった。束の間、反響するように金属同士がぶつかる高い音が弾ける。
「ッ……、驚いた。寸止めするつもりではあったが、まさか防がれるとは」
「貴殿こそ、羽を失って尚その機動力、恐れ入る」
感心しきり、と言った風に口にして、今しがた防がれたばかりの刀を収めると、ルシフェルは男へと向き直りながらどこか楽しげにその瞳を眇めた。対して男は、ルシフェルの刀を防いだ腕部分の鎧の刃にそっと触れて、先ほどまでの剣呑さを一切払拭した瞳を和ませると、大剣を背負い直す。肩越しにひとつ、ルシフェルへと目礼した男は、そのまま視線をかたわらに積み上げられていた樽へと滑らせると、その上に腰をかけていた少年をじっと見つめた。
「で?俺達の手合わせを見てどうだった、グラン。用事も忘れて見入っていたのだから、所見のひとつやふたつ、欲しいものだが?」
男に声をかけられて、惚けたような顔をしていた少年がびくっと体を跳ねさせる。少年は男とルシフェルの顔へ交互に視線を向けると、バツが悪そうに頬をかきながらへらり、とどこか気の抜けた笑みを浮かべた。
「へへ……、ごめん。凄すぎて見惚れちゃってた」
「はは、そんなことだろうと思った。意地悪を言ってすまなかったな。ところで、俺とルシフェル殿、どちらに用があって来たんだ?グラン」
グランと呼ばれた少年は、上体をややかがめて目線を合わせてくる男に微かにのけぞりながら負けじと視線を合わせた。どこか、小動物とその捕食者のようだな、と傍から見ていて思う。
「ジークフリートさん近い!近いよ!!もう!!……えっと、僕ルシフェルに用事があって来たんだけど……」
グランは身を捩ってジークフリートの影から抜け出すと、樽から飛び降りてルシフェルの方へと駆けてきた。私に?と小首を傾げたルシフェルの両手を取って、やけに真剣な顔になった彼は、少し力を貸して欲しいんだ、と低い声音で言う。
「今度受けようと思っている依頼なんだけど、ルシフェルくらいにしか頼めなくて」
軽く事情を聞けば、たしかに条件に合いそうな者がルシフェルしかいない。再顕現してからこちら、サンダルフォンに心配をかけないよう、当たり障りない依頼にしか加わっていなかった。弱体化しているものの、そろそろ思い切り力を振えるような依頼に加わらなければ体が鈍ってしまう。
「特異点、詳しい話を聞こう」
しっかりと頷きながらルシフェルがそう言えば、グランの顔がパッと華やいだ。
*
「何だこれは」
差し出された衣類一式を見下ろして、サンダルフォンは眉根を寄せた。やけに光沢のある生地で誂えられている、胸元が広く開いたハイレグタイプのボディスーツと、フェイクファーで作られた丸い尻尾と長い耳。それから網タイツが揃っているところを見ると答えはひとつしかない。しかしサンダルフォンは男性体で創られた星晶獣である。女性もののバニースーツを身につけたところで、魅力的に映るとは思えない。
「それ、本気で言ってる?」
心底苦いものを飲み下したような顔をして、ジータが再度、その腕に抱えているバニースーツを差し出してくる。事情も何も聞かずに受け取ることはできない。眉間に深い皺を刻んでそう言うと、彼女はただ一言だけ、ルシフェルさん先に言ってるから、と口にする。
「……待て。俺はあのお方に何も聞いてないが?」
「ええ……?やっぱり?ほんと言葉足らずだよねあの人……」
ジータはひとつため息をつくと、今まさにサンダルフォンを向かわせようとしている依頼の概要を説明し始めた。とある島に何の変哲もない中規模程度のカジノ施設がある。これが、表事業。しかし裏を返してみれば、魔物を始めとした珍しい生き物の売買を地下で秘密裏に行っているという。魔物だけならば、別段騒ぎ立てることでもないが、問題は商品の範囲が珍しい力を持つ人間や、強制的に捕獲された星晶獣に及ぶという点にある。それが、裏事業。非人道的な生体売買を行っている明確な証拠を得て、秩序の騎空団に引き渡す。それが、今回グラン達騎空団に出された依頼の内容であった。ジータがサンダルフォンに突き出したバニースーツは、表事業の方の従業員が身につける制服で、男女共用デザインだと言う。なんとも悪趣味な話だ。大仰に腕を組みながら、内心独りごちたサンダルフォンは、深々とため息をつきながら依頼の内容は分かった、と常より幾分低い声で切り出す。
「で?それとルシフェル様と、どんな関係があると言うんだ?」
「それが……その……言いにくいんだけど」
ルシフェルさんに、商品側から内部を探ってもらってるの。ひどく言いにくそうにジータが口にした内容は、束の間サンダルフォンの思考を止めた。商品側?先程ジータが口にした内容が正しいのであれば、それは珍しい力を持つ人間枠なのかはたまた星晶獣という枠組の中でなのか。どちらでも、いい。どちらにしろ、商品として捕まってしまえば、ろくな扱いは受けないだろう。鈍い思考下でそこまで考え、たどり着いたサンダルフォンは、その顔を一気に怒りで染め上げると、ジータの手からバニースーツを引ったくって怒声を上げた。
「そういうことは早く言え!!馬鹿者!!」
かくして、サンダルフォンが表事業の従業員として潜入することが決まったのである。
と、まぁ実際潜入してみると、どうやら表裏ある割には、管理側が杜撰であるらしく、カジノフロアの、ひしめきあう人々の会話にもちらほらと生体売買の話が聞こえてくる。人の口に戸は立てられぬとは言うが、これほどまで駄々漏れているのは如何なものだろうか。シルバートレイ片手にドリンクをサーブしながら、耳だけをすませて呆れ返った。これならば、すぐにルシフェルが出される売買会場がわかるはずだ。
そう思うや否や、早速ルーレット台の辺りから、めぼしい話し声が聞こえてくる。背中に羽があったような痕跡を持つ男が出品されるそうだ、という切り出しを耳にしたサンダルフォンは、怪しまれない程度の距離で足を止めると、男達の会話に耳をすませた。会場はこのフロアのすぐ真下。今から十分後には始まるという。まずはその珍しい痕を持つ男を出品して、値段を跳ね上げるだけ跳ね上げてもらう。後に出てくる商品へのハードルを下げるためだ。そういう訳で恐らく噂の商品は、開始直後に出てくるだろう。
そこまで聞いたサンダルフォンは、胸元から懐中時計を引き摺り出すと、時刻を確認した。あとから続いた男達の会話からすれば、彼らも売買に参加するようだったので、場所と時間はまず間違いないだろう。いくら暴れてもいいから、とりあえず合図を出して会場に突入すること。それが、今回のサンダルフォンの役どころだった。
「サンダルフォン」
同じくトレイを手にバニースーツ姿で後ろを通ったジータに声をかけられる。彼女に突入時間と場所を教えると、小型の伝声機を出してどこぞへと同じ内容を伝えていた。通話を終えて振り返った彼女は、リーシャもすぐに合流するって、と眉尻を下げて頭の上につけたウサギの耳を震わせる。
「それにしても、サンダルフォン似合うねぇ」
あとでルシフェルさんにも見せたら?とジータがしたり顔で言ってくるのを、その顔面を柔い力で鷲掴みしながら押し返したサンダルフォンは、苦い顔をしながら、馬鹿を言うな、と返す。
「ルシフェル様に見られようものならば、憤死ものだが」
いや、多分目撃されないようにする方が難しいです。などと心の内で思うも、口にしようものならばこのまた顔を砕かれかねない。
「約束通り、突入後は好き勝手してもらっていいから……」
何卒、顔の骨だけは。命乞いのようにそう言うと、サンダルフォンが鼻で笑いながら、ジータの顔面から手を離す。その背後に、ドレスアップしたリーシャが小走りで駆けてくるのが見えた。サンダルフォンの手の中の懐中時計を見れば、どうやら他愛無いやり取りをしている間に随分と経っていたらしく、時計の針は売買が始まる一分前を指していた。そうして、残り三十秒、二十秒、十秒。サンダルフォンが自らの背後に光剣を出した。五秒、三秒、一秒、そして零。その瞬間、サンダルフォンが顕現させた光剣が勢いよく床を割った。辺りを土煙が舞い、床が崩落する音が断続的に響く。これは、帰った後が怖いな。そう思いながら、ジータはリーシャを伴って、サンダルフォンがゆっくりと下降さていった穴目掛けて、身を踊らせた。
*
「ちょっと待って。即答したけど、一度持って帰って、サンダルフォンに相談しなくてもいいの?」
「サンダルフォンに……?何故だろうか」
「何故って……」
「私は、自らの状態を見て、この依頼の遂行が可能であると判断した。故に、サンダルフォンの意見は必要ないように思える」
え?番なんだよね?そう聞かれて素直に頷けば、グランが今度は頭を抱えそうな勢いで項垂れる。
「僕は別の依頼でこの依頼には参加しないから助けてあげられないけど、多分ルシフェル、怒られると思うよ」
そもそも僕らがルシフェルにこんな話をしなければいいんだけどね。困ったように笑うグランを前にしてルシフェルは内心首を傾げた。怒られる?誰に?その時、ルシフェルはそう思った。そもそも弱体化しているとは言え、ルシフェルは成体の天司である。依頼に加わるか否かの判断に、自分以外からの意見などいらない。その時はそう思っていた。依頼の程度からサンダルフォンを心配させるような怪我をする可能性は限りなく零に近かったし、それならば問題ない、と思っていた。
しかし、崩落した天井から降りてきたサンダルフォンの、悪鬼羅刹のような顔を目にした瞬間、ルシフェルは自らの判断が蜂蜜ほどに甘かったのだと思い知ったのだ。加えて言えば、長らく自分ひとりの判断で空の世界を守り続けてきたルシフェルにとっては、己の判断の間違いを思い知らされるなど、サンダルフォンに関するもの以外で初めての経験であった。未知の体験に、ルシフェルのコアは状況も忘れてその脈動をにわかに速める。
ゆらり。着地の衝撃でめり込んだ地面からやおら立ち上がったサンダルフォンが、その艶やかな出で立ちに反した恐ろしい形相を上向かせた。戦場における強者特有のゆったりとした動きで場を周囲を見回したサンダルフォンは、抜け出す機会を伺っている段階だったせいで、未だ拘束されたままであったルシフェルを見つけて、また更に怒気を強くする。次いですう、と大きくひとつ息を吸ったサンダルフォンは、侵入者の排除に駆け寄ってきた多くの人間を跳ね除けんばかりの大音声でルシフェルに向かって叫んだ。
「オイ!!ルシフェル!!あとで覚えていろよ!!」
その声で我に返ってか、はたまた元々機を伺っていたのか、吠えるようなその声を皮切りとして会場内でもっとも大柄な男が、巨大な戦斧をサンダルフォン目掛けて振り下ろす。粉塵が巻き上がる中、勝利を確信した男がその無骨な顔を緩めた瞬間、粉塵を螺旋状に取り巻いて軽く飛び上がったサンダルフォンが、網タイツに包まれ脚を鞭のようにしならせて、男の側頭を容赦なく打った。構えていなかった男は戦斧に縋る間もなく、打撃に負けて壁へ吸い込まれていく。
難なく床に着地したサンダルフォンは、瓦礫の中を赤いピンヒールで低く駆け抜けると、まずは壁際で小銃を構えていた男の手元を蹴り上げた。怯んだ男の後頭部を鷲掴んだ彼は、そのまま男の体ごと持ち上げるように振りかぶると、一切の情け容赦なく壁へと顔面を打ち付ける。畜生!苦し紛れにボウガンを構えた別の男を、壁に打ち付けた男から手を離しつつ、肩越しに振り返ったサンダルフォンが、そっと笑み混じりに目を眇めた。それに呼応して、瞬時に光剣が男の頭上に顕現する。気配に気がついた男が回避行動を取ろうとするもすでに遅く、落ちてきた光剣に脚を貫かれ、瓦礫へと縫い付けられた。
好き勝手していい。その許し通りに目についた相手から次々打ち倒してゆく。とうとう対騎空艇ようの魔導砲台が持ち出されてくる事態となり、その照準を向けられたサンダルフォンは、刃を染める返り血を払うように剣を振ると、大仰に腕を組んで不遜に鼻を鳴らした。砲台を持ち出されても変わらないその態度に怯んだオーナーが、砲台の向こうから震える声で何なんだお前は!とお決まりのような台詞を言う。
「俺……?俺はそこにいるその方の、永遠の安寧だよ」
そんな大層なものではない。そう言ってサンダルフォンが広角を微かに上げた瞬間に、エーテルで煽られた空気が彼の鳶色の毛先と頭上のウサギ耳、それからスーツの燕尾を踊るように巻き上げた。
*
死者なし、取りこぼしもなし。責任者も加担していた者も全て秩序の騎空団に引き渡して、後は心配することなし。つらつらと読み上げて、ちらと視線を上げたジータは、テーブルの反対側を見つめて、何とも言えない顔をした。
「重くないの?それ」
彼女の座る席の向こう側では、何事もなかったように、いつもの柔らかな無表情でカップを傾けるルシフェルと、バニースーツのままルシフェルの膝の上で対面にしがみつくサンダルフォンの背中がある。ジータの訝しげな問いにルシフェルは至極不思議そうに首を傾けた。
「重い?彼は羽のように軽いよ」
「さっきまでこっちがないちゃうくらいの勢いで怒られてたのに、もう仲直りしたの?」
「以降は彼に言わずに依頼へ行かないと約束したからね」
「……サンダルフォン、着替えないの?」
この問いにはサンダルフォンの肩がぴくりと揺れた。その様子を目線だけで見下ろしたルシフェルが、微かに口元を緩めて、彼の癖毛を指先に絡めるようにして頭を撫ぜる。
「私が、しばらくこのままでいて欲しいとお願いしたんだ」
そろそろ部屋に戻っても?声に滲む抑えきれない好奇心と期待をしっかりと感じとったジータは、小さくため息をつくと、もうどうにでもなれとばかりにそっと掌を差し出して、どうぞ、と震える声で返した。
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