ふわり、と幼なじみの少女が最近変えたと自慢していたシャンプーの香りが、ごく至近距離で香る。つい昨日、鼻先に触れるか触れないかの距離で彼女が香りを嗅いでみてくれと髪を振り乱していたので、忘れるはずもない。鼻をすんと鳴らして、いやに近いな、と。かけていた眼鏡がほんの少しズレたせいでできた、裸眼の隙間へと視線を上向かせると、例え裸眼でなくとも視界がぼやけるであろう距離で、やけに真剣な顔をした幼なじみが目を眇めていた。しかし、そんなことで動揺するサンダルフォンではない。何せ幼稚園からの付き合いである。彼女の突拍子のない行動は、何も今始まったことではない。
視線を上向けるも、何も言わずに元の目線へ戻すと、サンダルフォンはタブレットPCに接続したキーボードを、指で叩く作業にあっさりと戻った。そうすると、パチパチと切れ間なく響くキーボードの音に混じって、つまんない、とぼやく声が聴こえてきて、すぐそこにあった気配が遠ざかっていく。ちらと上げた視線だけで彼女の様子を見やれば、直前まで口にしていたチルドカップのカフェオレのストローに口をつけながら、先程の一言に違わぬ、心底つまらなさそうな顔をしていた。今更そんなことで驚くはずがないだろう。心のうちでそっとため息を吐きながらキーボードを叩いていた手を止めて、サンダルフォンは自身も珈琲の入ったタンブラーを持ち上げながら、指先でずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「何か俺に言いたいことでもあるんじゃないか?」
「あ、うん。君のリップバーム、今期の新作だよね?蜂蜜みたいないい匂いしてる〜!薄付きなのに、発色もいいし」
「……知らん。俺の唇のケアがなっていないと、バイト先の先輩から貰った」
そんな唇でキスをねだるなんて片腹痛い。客に貰ったが、自分は贔屓にしているブランドがあるから使わない。貰ってくれるか。そう言って差し出してきたのは、サンダルフォンのバイト先のキャバレークラブのキャストであった。サンダルフォン自身、リップバームに対して特に頓着はないし、リップケアなどには始めから興味はない。故に、例え女性向けの色付きリップバームであろうとも、特に気にせず使っていたのだが。貰った品はどうやら幼なじみのような若い女性達の興味を集めるものだったようで。
「メーテラさんとかもプレゼントすごく貰ってるもんね〜!それもそういうのなのかな?サンダルフォンの唇食べたい位いい匂いする〜」
「一応言っておくが、ジータ……噛むなよ」
「噛まないよ!!でもルシフェルさんとか天然だから、案外舐めちゃったりとかして」
何だそれは、失礼だぞ。半目でそう言うと、彼女が慌てて首を振りながら冗談だよ、と眉を下げて笑う。いくらあの人が、プライベートの時はおいそれと放っておけない程にふわふわした可愛らしい性格をした人とは言え、まさかリップバームの甘い香りに釣られて唇に噛み付くことはないだろう。その時、サンダルフォンは、疑いもしなかった。
視線が、痛い。サンダルフォンは読んでいた本からわずかに視線を上げて、そのまま隣でじっとこちらを見つめている彼の方へと滑らせた。何が気になるのか、一定の間隔でこちらを見ていたかと思えば、先程ついに瞬きをしているのか心配になる程真剣な眼差しでこちらを見つめるようになっていた。直前までPCで持ち帰りの仕事をしていたので、上品な銀フレームの、ブルーライトカット加工を施された眼鏡をつけている。視力自体は大変よろしい彼が、眼鏡をつけているタイミングに出会すことはそうそうないので、レンズ越しのいつもと色味の違う蒼い瞳は、サンダルフォンの鼓動を容赦なく追い上げた。
「あの……ルシフェルさん、俺の顔に何かついていますか?」
ずれ落ちた眼鏡を指先で元の位置に戻しながら問えば、いや、とルシフェルが首を軽く横に振る。
「何か……甘く、いい香りがするね」
困ったように笑いながら床のラグの上からサンダルフォンの座るソファに乗り上げて、擦り寄るようにしてルシフェルが身を寄せてきた。サンダルフォンの薄い胸板に当たった彼の銀フレームがかしゃ、と小さな音を立てる。ルシフェルさん。少しだけ震えた声で彼の名前を呼べば、銀フレームとの隙間から上目にこちらを見上げた蒼い瞳が笑みの形にしなる。
どこか夜の雰囲気を湛えたその瞳を受け止めて、思わずえ、と小さな声が漏れたのも束の間、伸び上がったルシフェルが微かに出した舌先でサンダルフォンの唇をくすぐった。そのまま膝立ちになるようにしてサンダルフォンの体に覆いかぶさったルシフェルは、舌先を収めて噛み付くようにして唇を重ねてくる。呼吸の合間に角度を変えるさなかにも、常よりいたずらっぽく舌先が唇を舐めるので、ぎゅうと硬く瞑目することで羞恥に耐えた。
しばらく浅く、どこか拙ささえ感じる触れ合いをしていると、じっくりと距離を詰めるように、少しずつ唇で喰みながら更に深く重ねられて、薄く開いた歯列の間から、奥に縮こまっているサンダルフォンの舌さえも絡め取られる。鼻先が触れ合う二人の間でじわじわとずり落ちてきた眼鏡同士が、身動ぐ度にぶつかる音に、知らず興奮が煽られていった。吸われ、擽られ、舐められて。サンダルフォンが呼吸の合間に漏らす吐息も徐々に甘さを孕んでいく。このまま、この人の思うままに。じわりと涙の滲んだ視界で、白銀の睫毛の下に隠れている蒼を見つめて、高められていく期待と欲求とに体を震わせる。しかし彼の身を甘い衝動に浸す触れ合いは、最後に唇を擦り合わせて、下唇を甘噛みしながらルシフェルが離れていったことによって唐突に終わりを告げた。荒い息をつきながら、うっそりと瞳を眇めて、最後にちろりと唇を舐めながらこちらを見下ろしたルシフェルは、それはそれは満足そうに一言だけ口にする。
「うん。甘いね」
ルシフェルさん天然だから。不意にジータの言葉が蘇る。失礼だとかなんだとか口にはしたが、実際今、サンダルフォンの使うリップバームの香りに釣られて、ただ舐めるためだけに腰が砕けるほど、散々唇をいいようなされた。ここであっさり引かれては、この疼きをどうすればいいのだろうか。香りの正体が判明して満足げなルシフェルが眼鏡の位置を戻しつつ、ソファから再びラグに戻る姿を視線で追う。次いで半ば無意識にふら、と彼の背後まで這っていったサンダルフォンは、PCに視線を向けているルシフェルの背中にしなだれかかるようにして抱きついた。
「したいことだけして、放置というのは少々ナンセンスなのでは?」
真っ赤に上気したぐずぐずの顔で、蕩けそうになる頭を叱咤してそう言うと、そっと笑う気配がして、ゆっくりと振り仰ぐようにしてルシフェルがサンダルフォンの方を向いた。彼のよく手入れがされた綺麗な指先が、ずれたままだったサンダルフォンの眼鏡を外して、代わりとばかりに唇が重なる。やはり、甘いね。満足げにそう言うルシフェルがあまりにも悪戯っ子のように微笑むものだから。もしかしたら、彼の手の中で転がされただけでは?いつもは滅多に自分から誘いをかけない自分を振り返って、一瞬疑惑が頭を過ぎる。しかし、それもすぐに腰を抱きしめる腕の体温に負けて、どうでも良くなってしまった。
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