香春 蘇葉
2020-07-25 03:43:37
2947文字
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【覆水盆に返らず】

現パロ/大学生先輩後輩/ルシサン♀

「おい、そこの女」

思わず、肩が揺れた。何せ、あまりにもあの人と声が似ていたのだ。地を這うような低い声ではあったが、あの人の片鱗があった。黙々と文字を刻んでいたノートから顔を上げて、声がした方へ頭ごと視線を向けると、逆光の中でそれはそれは整ったかんばせがこちらを見下ろしていた。どことなく今の視界に既視感を覚えながら、忘れようもないあの人の顔と瓜二つの顔をじっと見つめて、次いでことりと首を横に倒して見せる。

「どちら様でしょうか」

……フン。見た目に似合わず中身はそこそこしっかりしているようだな。お前、ルシフェルの家は知っているな?」

名乗りもしないのか。内心毒づきながらもひとつこくりと頷くと、あの人が絶対にしないような、皮肉を多分に含んだ笑みをその口元に浮かべて、目の前の男が続けて言う。

「ルシフェルと昨日から連絡がつかん。俺は今研究で忙しいし、かといって他に人をやらせるのはアイツの身の安全を考えると、却下だ」

「つまりは、俺に何をさせたいんですか。というより、貴方は誰なんです?」

「単刀直入言う。二度は言わん。お前、ルシフェルの家に行ってちょっと様子を見て来い」

やはり、名乗る気はないらしい。とは言え、これだけ顔が似ているのならば、血縁以外の何者でもないだろう。サンダルフォンはそっと息をつくと、もう話は終えたとばかりに身を翻そうとした男の手首を握って、強い力で引き留めた。あの人とは違って、筋力はさほどないらしく、軽くたたらを踏んだ後に、燻んだ蒼が肩越しにこちらを見下ろす。まだ何か用があるのか、と言わんばかりの視線にぐっと息を飲みながら、あの、と声を絞り出すと、男は微かに目を眇めて、サンダルフォンの方へ半身を向けた。

「ルシフェル先輩の家に行くのはいい。その代わり、ひとつだけ答えてくれないか」

先の会話の中で、ひとつだけ引っかかりがあった。あのルシフェルを指して、身の危険とは一体どういうことなのだろう。
男は自分を見上げるサンダルフォンの瞳を、束の間ひどく面倒臭そうに見下ろすと、次いで何かをよくよく理解したかのように瞑目しつつサンダルフォンの手を振り払い、深々とため息をつきながら向かい側の席に座った。あまり時間がない、かいつまんで話すぞ。そう言った男の、燻んだ色の瞳が呆れたように細くなった。





一度忘れ物を届けた礼にと招待された時の道順を思い出しながら最寄り駅の改札を抜け、構内を抜けて程近い所に建っている高級マンションのエントランスまでたどり着く。そういえば、事前に出向く旨を伝えていなかったが、彼はインターホンに出てくれるだろうか。部屋番号を教えてもらった時のメッセージ画面を開いて、番号をテンキーに入れ、しばらく待つ。はい。ややあって記憶にあるものよりも少し嗄れた声がインターホンから響いた。その声音を鼓膜に透かしながら、サンダルフォンはその手に持ったコンビニの袋を持ち上げて、中身を確認すると、ひとつ大きく瞬きをする。中身はスポーツドリンクとゼリー飲料、それからパウチのおかゆと、ヨーグルト。大学を出てくる前に頭を過った予感はあながち間違いではなかったらしい。

「ルシフェル先輩、俺です。サンダルフォンです」

いつだったか、ついうっかり子供の時からの癖で自らを俺、と言ってしまってから、もうルシフェルの前では包み隠さなくなった。少し低めとは言え、女性の声でこの一人称を使う者など、彼の周囲では限られてくるだろう。案の定、あっさりと自動ドアが開いて、インターホンから入っておいで、とルシフェルの声が響いた。その声に小さく返事をしてから、エントランスホールに入り、エレベーターへと乗り込む。

……お風邪を、召されていたんですか?」

「うん。昨日は熱も高くて、朦朧としていてね。大凡、ルシファーから頼まれて来たのだろう。兄が迷惑をかけた。お茶程度しか出せないが、上がっていって欲しい」

いつもならば、こんな誘いを受けたとて、部屋には絶対に上がらないだろう。しかし、ルシフェルと過ごした数ヶ月で、彼が自分に対して何の欲も抱かないことはよくよくわかっていた。だからこそ、安心して部屋に上がれるのだが、近頃それを考える度に、どこか釈然としない、消化不良のようなものを覚えるようになっていた。今回も例外ではない。ルシフェルの手に持ってきたコンビニの袋を渡しながら、まるで男友達にでも接するような気やすさで彼が嬉しそうに笑いながら気を使わなくてもよかったのに、と口にする。いつもより乱れた髪で、しどけない身なりで、笑うのだ。意識されていないと言ってしまえば、それまでで、それはサンダルフォンが本来望んでいた態度ではあった。しかし、今はその気やすさが、何も望まない無欲さが、たまらなく嫌になる時があるのだ。

「こんなレトルトですみません。本来なら、俺が作って差し上げた方がよかったんですけど……

「君が?……確かに、君が作る料理は、私が作るものより遥かに美味しそうだ」

今度共に食事を作って、食べようか。眉尻を下げて笑うルシフェルの顔を目の当たりにして、不意に、ルシファーから聞いた話が脳裏を過ぎる。アレは昔女に悪戯されてから、女全般を信じていないぞ。自分よりも余程根深い恐怖を持っていながら、どういう気持ちで今自分に接しているのだろう。あの日、投げやりに彼へ触れた自分にどれだけの嫌悪を抱いたのだろう。なんてことはない。自分は自分が軽蔑した男たちとなんら変わりはない。相手を軽んじて、ただ押せばよいと考えただけの、頭の軽い若者だった。

……本当に、」

「サンダルフォン?」

「本当に、貴方はそう思っていますか?」

貴方を取り巻く女達のように、そう言えば満足して去っていくくらいにしか思っていませんか。続けてそういう言うと、ルシフェルが小さく息を飲む。

「兄から、聞いたのだろうか」

「全て、聞きました。その上で貴方に聞きたいことがあります」

俺は、貴方の何なんですか。重い。こんなのは自分じゃない。そもそもルシフェルだって、他の男達に嫌気がさして、噂を本当のものにしようと出したその一歩のために、適当に選んだ相手だった。しかし自分に欲を向けないその態度が好ましくて、彼の隣はいつのまにか居心地のいい場所になってしまっていた。
君の手は温かいね、と微笑んだその裏は。自分とホテルに入った夜の気持ちは。全部全部、こうすれば満足して付き纏われないと思っての行動だったのではないだろうか。彼なりの危機回避の、結果だったのではないだろうか。そう思うと、胸の奥が軋むと同時に、自分の脳天気さ加減に吐き気がした。
ルシフェルはいつまで経っても答えなかった。それが答えだ。サンダルフォンに対する、答えだった。

「ルシファーさんへは、先輩の方から伝えておいてください。今まで、すみませんでした」

するりとルシフェルの横をすり抜けて部屋を出る。もうこれっきり、彼と会うのはやめよう。そう心に決めながらも、サンダルフォンは生まれて初めて、恋心の自覚と同時に己の軽率さからの失恋を経験して、少しだけ泣いた。