少し、いいだろうか。昼下がり食堂の片隅の席で帳簿をつけていたグランの目の前に、彼は現れた。声をかけられた方はと言えば、げんなりとした表情を隠そうともせずに、はるか上にある銀糸に包まれた端正なかんばせを見上げる。
「……また?」
「サンダルフォンのことで相談したいことがあるのだが」
「いいけど、手合わせに付き合ってもらうからね。ルシフェル」
「構わない。用件は手合わせの中で済ませよう」
快諾したルシフェルに束の間物言いたげな視線を据えた後に、グランは微かに項垂れると、深々とため息をつきながら、机の上に帳簿を残して席を立った。そのまま先導するようにして歩き始めたルシフェルの斜め右後ろを、背中を追うようにしてついていく。
これまで多くの危機のさなかで、グランの背中を預かってくれたサンダルフォンに、何か報いたいと、数か月ほど前に力を合わせた苦心の末、ルシフェルの際顕現を成し遂げた。まだ力も器も不安定ということで、先の予定が決まるまでは艇に搭乗し、航行を共にしようということで、グランの騎空団には天司の団員がひとり、増えることとなったのだ。サンダルフォンと部屋を同じくして、常に共にいるというのなら、これまで接してきた以上に、会話を大切にし、意思の疎通を疎かにしないこと。それが、ルシフェルを団員として迎え入れる際に、グランが二人とした約束である。しかし、そこはコミュニケーション難民。相手の気持ちを汲み取れなかったり。はたまた大切なことを言えなかったり。そういう時には誰か話しやすい、他の団員に相談するんだよ。グランは二人に口をすっぱくして言った。
また二人の関係が拗れて、痴情のもつれに騎空団が巻き込まれては堪ったものではない。故にグランは、もしもあの二人に相談をもちかけられたら、と他の団員達にお願いをして回り、自らも積極的に相談を受ける気でいた。実際に何度も相談を受けた。受けたのだが。
始めは快く受けていたルシフェルからの相談だったが、回数を重ねるごとに、代わりに珈琲を淹れてもらう、手合わせをしてもらう、勉強を見てもらうなどといった対価をもらうようになった。ひとえにそれくらいしてもらわければ、心労が凄まじいのだ。話し始めは正しく、サンダルフォンに関する相談を事なのだが、話していくうちに、徐々に惚気話に変わっていく。十五歳の恋愛経験の乏しい少年からすれば、何ともはた迷惑な話である。そしておそらく、ルシフェルはサンダルフォンのことを他者に惚気るというその行為が、堪らなく嬉しいのだ。それがわかるから、グランも相談を受けないという選択肢を取れずに、現状に甘んじている。
甲板に二人揃って出ていくと、ルシフェルが慣れたように船頭側へと歩いて行って、距離を取る。その背を見つめながら、ずっと帳簿と睨めっこしていたせいで、凝り固まった体を伸ばす。十分な距離をとってこちらへ向き直ったルシフェルを、上目で見やったグランは、ひとつ頷いて甲板の隅へ駆け寄り、練習用の木剣を持ってくると、ルシフェルに向かって投げた。難なく受け取ったルシフェルが、今日は、と風に負けない程度の声で言う。
「どの程度の打ち合いを望んでいるのだろうか」
「う〜ん……軽く体をほぐす程度でいいや。この後依頼に出るし」
じゃあ、お願いします。そう言って一礼するや否や、グランは木剣を軽く放り上げて逆手に取り、低い姿勢でルシフェルに向かって駆け出す。そのままの勢いで下から上に切り上げるようにして木剣を繰り出すと、軽い力でその軌道を封じられた。カン、と木剣同士がぶつかる高い音が響いたと同時に、脚に力を入れて内側に肩を入れつつ木剣を押し込みながら、で?とグランは訊ねた。
「今日は一体、何のご相談?」
「私はこの通り、戦闘も問題ないほどに回復しているが」
グランが全力で押し込んだはずの木剣を下に向かって叩き伏せながら、ルシフェルが涼しい顔で語り出した。叩かれた木剣からの振動に顔をしかめながら、うん、とグランは返す。
「いくら問題ないと伝えても、サンダルフォンが納得をしてくれない」
「……それだけ?」
低く確かめるようにして重ねて問うたグランは、ぐん、と姿勢を落とすと、胴を横から木剣で叩くようにして、水平に払う。呼吸のひとつでそれに反応したルシフェルが自らの木剣を縦に構えることで胴に当たる前に防ぐと、瞬き一つ足らずの間で払い退けて、木剣を水平に突き出してきた。ぐ、と奥歯を噛み、背を逸らすことにより紙一重でそれを避けたグランは、額に冷や汗を滲ませながらルシフェルの顔を見上げる。ちくしょう。顔色ひとつ変えない彼の視線とかち合って、グランは心の内で独り言ちた。
「私の身を案じてくれることは嬉しい。一挙一動に反応してくれる、彼の姿は愛らしいが……あまり、心配をかけることは、したくない」
「……ちょっと待って」
のろけになるなら僕帰るよ。半目になって上体をもたげながらグランが言った。ルシフェルはといえば、のろけ?と心底不思議そうに首を傾げるのだから、全く手に負えない。
「それ、僕に言うよりサンダルフォン本人に言ったほうがよっぽどいいよ。一言一句同じ言葉でね」
じゃ、僕はこれで。つい今し方までグランを翻弄した木剣を手にしたまま、難しい顔をして思慮深げに俯いたルシフェルを背に、木剣を甲板の隅に戻してから、艇内に続く階段を下りる。そうして依頼までに帳簿をつけおえてしまおうと、彼が食堂に爪先を向けたその瞬間。
「ぐえっ……いきなり何……ああ、サンダルフォンか。どうしたの?」
フードを強か引っ張られて、階段裏まで連れて行かれたグランは、振り向いた先で不機嫌そうに顔をしかめる彼を見とめて、首を傾げた。どうしたの。その問いにサンダルフォンは束の間、小さく唸ったり、何度か口を開いては結局何も言わずにあぎとうたり。そんな不審な動きを見せた後に、彼はその長い睫毛を伏せがちにして、ルシフェル様と、と消え入りそうな声を喉奥から絞り出した。
「ルシフェル様と、何を話していたんだ?」
それに、キミばかりが手合わせの相手をして頂けるのはずるい、とか俺がいくら頼んでもしてくださらないのに、といった言葉が後続く。グランは深々とため息をついた。自分はあれだけ話をしろと言ったのに、彼らときたらちっとも守ってはくれないのだ。ただ相手に思っていることを話すという行為は、それほど難しいのだろうか。何も傷つけるようなことを考えているわけでもないだろうに。
「知らない。二人でちゃんと話せば?」
なっ!?と頭に血が昇ったサンダルフォンが叫ぶ。十五歳のグラン少年は、自分よりも二千年以上長く生きている天司の青年に肩をがくがく揺らされながら、今日もそっとコミュニケーション難民の二人を思って憂いのため息をついた。
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