しゃわしゃわと遠くの方で夏特有の虫の鳴き声が聞こえてきて、ルシフェルはそっと目を覚ました。この辺りは他の島と比べるとやや特殊な環境であるらしく、独自の進化を遂げた生物を数多く目にすることができる。七年もの間地中にいて、地上に這い出して羽化してからは、一週間程しか生きられない。その間はずっと種を残すそのためだけに鳴き続ける。ルシフェルの目を覚まさせた鳴き声の主も、その生物達の中のひとつだ。
のそりと起き出して、開け放たれた窓から吹き込む温んだ潮風に目を細めると、ルシフェルは人ひとりが眠っていたその跡を残すシーツの上を束の間見下ろして、そっと微笑みながら指で撫ぜた。日の高さと柔らかさからして、まだ朝も早い時間である。それでも彼は、とっくの昔に仕事場に出かけていったのだろう。本来ならばルシフェルも同じくらいの時間に出かけなければならないが、今日はゆっくり寝ていていいですよ、とは昨晩の彼の言。ありがたく甘えて、一時間ほど余分に眠っていたというわけだ。
ベッドから起き出したルシフェルは、庭のウッドデッキに繋がる大きな両開きの窓を開け放つと、平べったいサンダルをひっかけて庭の隅にある手押しのポンプまで、サクサクと芝を踏み、歩いていく。ポンプを押して冷えた井戸水を溜めて顔を洗えば、眠っている間に熱を持っていた顔が冷えて心地が良い。これは、人の子の中に永く愛用している者がいるのも頷ける。
バスルームの籐籠から出してきたタオルでざっと顔の水気を拭ったルシフェルは、再びベッドルームへと戻っていくと、昨晩彼が用意してくれたであろう服の一式を手早く身につけて、一通り鍵の確認をしてから家を出た。海辺に建てられた古くも綺麗な一軒家は、彼が艇を降りて喫茶店を始めることになった折に、ルシフェルがこっそり貯めていた資金で手に入れたものである。本来ならば天司にとって住居は必ずしも必要であるわけではないが、人の営みに違和感なく溶け込むとなるとそうはいかない。最初は渋々と言った体であった彼であったが、生活していくうちに、この古く美しい家は二人の宝物となっていった。
この季節は通り道の両脇に見事なひまわり畑が現れる。日の光を透かして、静かに輝くそれを見上げながら、道を進んでいると、不意に大きな花とその根本のいくつかが揺れ出して、ひまわり畑からひょっこりと少女が顔を出した。確か、喫茶店のすぐ近所に住んでいる夫婦の一人娘であっただろうか。手には小ぶりのひまわりが数本抱えられていた。麦わら帽子の下で汗ばんだ額に張り付いた細い髪を避けてやりながら、しゃがんで目線を合わせてやると、少女の瞳が輝いて、その小さな体からおはよう、お兄ちゃん、と大きな声が響く。
「ああ、おはよう。今日は一人なのだろうか」
うん。ママにないしょでおはなを取りに来たの。素直に頷く少女に、束の間考えるそぶりを見せたルシフェルは、次いでうん、と大きく頷くと、おもむろに小さな体を掬い上げて立ち上がった。
「朝とは言え、一人は好ましくない。家まで君の護衛をしよう」
ごえいってなに?と不思議そうに訊ねてくる彼女に、守るという意味だよ、と返して、それから少女の取り止めのない話に相槌を打ちながら歩いていく。そうしていると、町の一番端にある彼の喫茶店が見えてきた。店先ではホウキとダスト・パンを持った彼が掃除に勤しんでいる姿が見える。
あ、おろして!喫茶店がすぐそこ、というところまで来ると少女が叫んだ。言われた通りにそっと身をかがめて下ろしてやれば、ぴょんと跳ねるように少女が向き直って、ひまわりの一輪がルシフェルの眼前に突き出された。おすそわけ!そう言われるがままに受け取れば、少女は満足したように笑うと、ありがとう、ナイトさま!と叫びながら家の方へと駆けて行く。その背中を家に入るまで見送ったルシフェルは、さて彼に声を、と顔を上げたところで、首傾げた。さっきまで掃除をしていた、彼の姿がない。
「俺をお探しですか?」
「っ、サンダルフォン……おはよう」
「ふふ、俺の前で朝から小さなレディとデートなんて、妬けてしまいますね」
おはようございます。そう言うと、彼はルシフェルに身を寄せて、伸びがるようにして唇を軽く重ねる。すり、とかすかにすり合わせてから、離れていくその唇を名残惜しく思いながら見つめていると、ひまわりを持ったルシフェルの手に、するりと彼の細く節々が目立った指が絡んだ。
「素敵なお礼を貰いましたね。窓際に飾りましょう」
指からひまわりが離れていって、代わりとばかりに彼の手が一回りほど大きなルシフェルの手を握った。朝ごはん、できていますよ。少しだけ高さを変えた朝日が降り注ぐ中でそう言うと、サンダルフォンはルシフェルの手を引っ張るようにして歩き出した。ああ、今日も暑くなりそうだ。視界に入る彼の汗ばんだうなじに、鳶色の毛束が張り付いているのを見とめたルシフェルは、しゃわしゃわと遠くの方で鳴く虫の声を聞きながらそっと目を細めた。
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