とある子どもの話をしよう。彼の名前はルシフェル。この世に生まれ落ちたその瞬間から、前の生の記憶があった。どうやら同じ世界に生まれてしまったらしい。それも、自分が儚くなくなってから、さほど時間は経っていない。そうと気がついたのは揺り籠からやっと這い出ることができるようになった頃であった。
ルシフェルに親はない。いや、厳密にはいた上に彼自身も両親の顔をよく覚えていた。しかし生まれてしばらく経った時からぱったりと姿を見せなくなり、代わりに修道服を身につけた様々な年齢帯の女性達に慈しまれ、育てられるようになった。捨てられたのか、はたまた天涯孤独の身になったのか。どちらかは知らないが、ルシフェルの家は赤子の時から、教会の隣で運営されている、孤児院であった。皮肉なことに、天司とその上位のものを信仰対象としているらしく、毎朝天司長への礼拝が日課とされている。恐らく彼女達が祈りを捧げていたのは、前天司長だったのだろうが、ルシフェルだけは、自らの記憶に今も鮮やかに残る、己の安寧へと祈りを捧げた。できれば、彼女に会いたい、とも願った。
その祈りが誰とも知れない神とやらに届いたのだろうか。とある日、ルシフェルは彼女と再会を果たしたのだ。よく晴れた日だった。礼拝堂の掃除当番であったルシフェルは、昔の己を模した石像をなんとも言えない気分で見上げながら、黙々と箒を石造りの床に滑らせていた。
「やぁ、ごきげんよう。キミはここの子どもかな」
粗方礼拝堂の床を掃き終えて、後は塵を回収して掃除を終えるだけ。そんな折に、いつ入ってきたのか、白いワンピースを身につけて、室内だと言うのに鍔の広いワンピースと揃いの帽子を目深にかぶった女性が、ルシフェルに声をかけた。どこか聞き覚えのあるその声音に、騒ぎ出す心臓を抑えながらきみは?と声をかけると、女性は眩しいものを見上げるような仕草で顔を上げると、礼拝堂の奥に静かに佇む石像を見上げる。刹那、ルシフェルの瞳に映ったのは、天井のステンドグラスから差し込む光をキラキラと弾いた、赤い瞳だった。間違いない、彼女だ。そうとわかった瞬間に、ルシフェルは箒を放り投げて駆け出していた。ぶつかるようにして彼女の下肢に抱きつくと、わずかにたたらを踏んで彼女が小さく笑う。
「キミが、ルシフェル?」
「ああ……ああ!わたしがルシフェルだ」
「とある人からキミの身元を預かるように言われている。俺と、共に来てもらっても?」
身を屈めた彼女がルシフェルの体を優しく掬い上げて、視線をそっと合わせてくれる。その肩の衣服をぎゅうと握り込みながら見つめる視界の中、あの頃と全く変わらない柔らかな巻き毛と、甘やかな赤い瞳が揺れる。一も二もなかった。ルシフェルは体に引きずられて咄嗟に出ない言葉の代わりに精一杯こくこくと頷く。
その日から、ルシフェルはグランサイファーに迎え入れられ、サンダルフォンの子どもとなった。
*
カーテンのない丸窓から見える空が、濃紺の闇に覆われた頃、蝋燭を消した部屋の中に、ちゅ、ちゅとやや濡れたリップ音が控えめに響く。ベッドで状態だけを起こした彼女の体をそっと小さな体で押さえつけるようにして触れるだけのキスを、何度も角度を変えて繰り返すと、束の間離れた彼女の唇の端から、はぁ、と熱のこもった吐息が漏れて、潤んだ赤い瞳が上目にこちらを見た。
「本当に、キミはこれが好きだな」
呆れたような、戸惑ったような声で彼女が言う。ルシフェルは束の間、きょとんとしたような顔をしてみせるど、次いで五つを数えたばかりのその身にそぐわない大人びた微笑みを浮かべて、小さく首を傾げた。
サンダルフォンには、記憶があることを告げていない。ルシフェルにそっくりな子どもがいるという情報だけを受けて、孤児院に引き取りにきた彼女に、伝える必要はない。待っていると言ったルシフェルが、その実はあの場所におらず、こうしてすぐそこにいると知ったら、せっかく一度は整理をつけた彼女の心をかき乱してしまう。それは、ルシフェルとしても望むところではない。だから、彼女の慈しむ子どもとして、側にいると決めた。そうして、いつか。彼女の隣に並んでも見劣りしないような、あの頃の自分の姿に戻れたのなら、改めて彼女に告げよう。愛しているのだと。
身を乗り出して、彼女の首に抱きつくようにして唇を重ねる。ほんの少しの欲をにじみ出させて。抑えきれない感情を束の間だけ覗かせる。今はまだその時ではない。情愛ではなく慈愛の勝る彼女の顔をそっと困ったように微笑みながら見つめて。ルシフェルは今日も、彼女の愛しい子どもを演じる。
・
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.