僕には、小学生の時からずっと同じクラスの女の子がいる。彼女は僕を知らない。でも、僕は彼女を知っている。いや、きっと僕は彼女のことを何も知らないのだろう。だって僕は、一度だって彼女と話したことがないのだから。彼女の名前はサンダルフォン。僕は冴えない見た目の取り立てて成績も良くない眼鏡だけが目立つ地味な男。サンダルフォンは僕の初恋で、大して面白くもない僕の世界の中で、いつだって、彼女だけが鮮やかだ。
季節は春が過ぎて徐々に夏の蒸し暑さが顔を出し始めた高校二年生の梅雨入り前。六月といえば大体の学校が衣替えをして、そして僕たちの高校も例に漏れずに。つい半年ちょっと前に脱ぎ捨てたばかりの制服を身につけた同級生達は、どこか初々しくはしゃいでいる。女子生徒達のまだ日焼けもしてない白い肌が、僕たち男子にはすごく眩しくて、彼女たちがはしゃぐたびに、覗く二の腕は、正直少し、目のやり場に困った。いくら本の虫で、あまり生身の女の子に興味がない僕でも、ほんの少し視線を上向かせて彼女達の黄色い声に耳を澄ませていた。そんな中でも、彼女達の輪に混ざらず、自分の席に座って頬杖をつきながら窓の外を眺めている彼女。僕の視線も窓から吹き込む風に誘われるようにして、はしゃぐ同級生の女の子達から、自然と、彼女の方へと移っていった。
ふわり、と彼女のチョコレート色をした癖毛が、風に巻かれて流れる。いつもは隠れている彼女の耳が後ろから見ている僕の視界にちらりと映って、その慎ましやかさにドキドキした。夏の匂いが微かにする風は、彼女の襟足をさらりと浮かせて、シャツの襟との間に真っ白なうなじを覗かせる。ごくり、と息を呑んで、視線をゆっくりおろしていくと、薄手の半袖シャツに彼女が身につけた鮮やかな色の下着が淡く透けている。ああ、なんと似合いの色なんだろうか。なんと、夏服とは苦しいものなんだろう。彼女はあの色の下着を一体どうやって選んだんだろうか。彼女の好み?それとも友達に選んでもらって?母親に買ってもらった?彼女のことを好きな僕は、もうそれを考えるだけで舞い上がってしまって、少しだけ体温が上がった頬を隠すように、新書サイズの本に顔を隠した。あの白いシャツの下には、負けないくらい白くて柔らかくて、いい匂いがする、滑らかな彼女の素肌がある。サンダルフォンが僕の彼女だったら、きっと彼女はあの普段はクールな顔を、恥ずかしげに赤らめながら、柔らかいところを晒してくれるのだろう。
「あれ?サンダルフォン、新しい下着?可愛いねぇ……どうしたの?」
「どうしたも何も、単に新調しただけだ」
「でもこの間までは絶対選ばなかったようなデザインだよねぇ……ふぅ〜ん?何かあった?」
これまた小学生から同じ学校に通う彼女の友人が、僕が不健全な妄想をしている間に教室に入ってきて、彼女の背中に触れながらそんな話をする。にまにましている友人に、彼女は呆れたような顔をして背中から手を払う動きをすると、ナンセンスだな、と初めて同じクラスになった時から全く変わらない口癖でぼやく。
「別に、普段とは違ったデザインが欲しかった。ただそれだけのことだ。変に邪推するな。ジータ」
「うんうん。そうだねぇ……よく似合ってるよ。サンダルフォン」
意味ありげな彼女の友人の様子がどこか引っかかるが、今日も僕の初恋の君は綺麗で可愛い。仮に彼女が他の男のものだったとしたら、きっと僕は悲しみに暮れてしまうだろう。もしかしたらショックで食事も喉を通らないかもしれない。なんて、考えてたことがそもそも悪かった。これはフラグだ。見事なフラグだ。
衣替え初日からわずか一日。つまり次の日。登校してきた彼女は薄手のサマーニットカーディガンを羽織っていた。別に肌寒い日だったわけじゃない。むしろ昨日より暑いくらいだ。彼女の肌が透けるシャツを目にすることができなくて、残念に思っていると、ホームルーム前に他のクラスからジータと呼ばれた彼女の友人が入ってきて、彼女のカーディガンを見ると、あれっ、と声を上げた。
「どうしたの?サンダルフォン。風邪?」
「いや、まぁ……少し、な」
どこか沸きらない彼女に、ジータがええ〜!気になる〜!と喚く。そんなジータを彼女が呆れたように見上げた。カーディガンの不自然にあまった袖口で口元を隠した彼女が、どこか気恥ずかしそうにわかった、とジータをいなした。そういえば、彼女のカーディガンは二回りほどオーバーサイズのように思える。あれ?あのカーディガン、肩もなんだかずれ落ちてるし、男ものじゃないか?
「……その、目に毒だから着ておけと……かれ、いや恋人に言われてな……」
その日、僕はどうやって家に帰ったか覚えていない。彼女の白い肌を晒す相手が僕の知らないところにいると思うと悔しくて、苦しくて。その夜、僕は爽やかな夏風の中で佇む彼女の、シャツに透ける下着の紐を思って、初めて彼女をオカズに自分を慰めた。
*
「あの……ルシフェルさん?」
頸や肩に視線を感じて、そっと肩越しに振り返ると、蒼い瞳をやや暗くした十二歳年上の恋人が佇んでいる。仕事終わりに徒歩で迎えに来てくれたルシフェルと、人通りの多い通りを避けて手をつなぎながら彼と同棲する高級マンションに帰宅。そうして靴を脱いで玄関ホールに上がったところで、にわかに視線を感じて立ち止まってみればこれである。
何か気に触ることでもしただろうか。それともまだ恋人としての営みをひとつもできやしない未成年の自分が嫌に?変な方向に思考回路が暴走して、ルシフェルを肩越しに振り返ったそのままの姿勢でぐるぐると考え込んでいると、不意にルシフェルが指先を背中に伸ばしてきて、付け根から肩甲骨のすぐ下の位置まで、背骨を辿るようにして人差し指を滑らせた。
びくっと体を跳ねさせると、今度はその綺麗な指先が、サンダルフォンの下着のゴムの中心ををぐっとひっぱり、大して苦も見せずにぱちんとホックを外す。途端に緩く落ちる胸元に、半ば混乱してしまって固まっていると、今度はルシフェルの端正なかんばせがかがみ込んできて、彼がシャツ越しに肩を撫で、肩紐を落としながら、頸にしっとりと唇を落として、はぁ、とため息をついた。
サンダルフォン、と低い声で呼ぶ声に、ひゃい!と悲鳴を噛みながら応えると、顎をそっと掬われて、ルシフェルの方を向かされて、そっと額に唇を押しつけられる。
「君の無防備な背中は、目に毒だ。私のカーディガンをあげよう。明日から着ていくといい」
ぱっと、あっさり解放されて、サンダルフォンの隣をすり抜けたルシフェルが何事もなかったかのように自室に入っていく。その背中を真っ赤な顔で呆然と見送ったサンダルフォンの口の端から情けないほど震えた返事がこぼれ出して、静かな廊下に消えた。
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