香春 蘇葉
2020-06-02 00:52:02
2193文字
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いつか好きだと言ってくれ。番外1

シオサン


 伸ばされた手を弾いてしまった瞬間に、しまった、と。ただそれだけが胸に去来して、そうして何かを言うことも、その場から逃げ出すことも出来ずに固まってしまった。面倒くさいやつだと、思われたくはない。ぐっと胸元で拳を握り、おずおずと視線を上向かせれば、彼も手を弾かれたそのままの姿勢できょとんとこちらを見下ろしていた。こちらを見る蒼い瞳に、怒りや失望、嫌悪の類の色はなく、ただ不思議そうに瞬いている。

……サンちゃん、私に触れられるのは、嫌でしたか?」

問われて反射的に顔を上げた。そうじゃないと言いたくても、自分自身彼の手を弾いたその理由がうまく掴めないのだから、言葉にしようもない。結果ただぱくぱくとあぎとうだけのサンダルフォンに、彼はそっとその口元に笑みを浮かべると、ゆるゆると首を横に振って、弾かれてそのまま上がったままだった手をそっと下ろした。

「嫌だと思ったわけではなさそうなので、安心しました。では、サンちゃんが触れられて大丈夫だと思えるようになるまで、不用意に触れないようにしておきますね」

彼の眉がほんの少しだけ下がって、その端正なかんばせが困ったように微笑んだ。これが体だけの関係で、彼への感情を知らないままだった今までならば、その顔でそんな情けない顔をするなと眦を吊り上げていただろう。しかし、今は違う。彼が困ったように笑う度に、自分を気遣ってその指先を引っ込める度に、サンダルフォンの胸は何か良くない感情できゅうと締め付けられるのだ。

「ルシオ、俺は……

「サンちゃんは、何も気にしなくていいんですよ」

再び洗濯籠を抱え直して、するりと横をすり抜けていくルシオの背中を、肩越しに振り返って思う。触れられるのが嫌なのではない。むしろ彼の体温は、触れられる度にサンダルフォンの肌にとろりと溶け込んで馴染むのだろう。それでも、彼の指先が自分に触れることを想像するだけで、コアがにわかに騒ぎ出す。この感情は、一体何なのだろう。すっかり見えなくなった彼の背中の残像を追うようにして向き直ったサンダルフォンは、伸ばしかけた手をそっと抱きこむと、赤い瞳に多分な憂いを滲ませて、そっとため息をついた。




「今までの接触と違って、どちらかと言えば稚拙な触れ合いだから、気恥ずかしいんじゃないかしら」

……は?」

今鏡をサンダルフォンに突き付けたら、きっとその表情の間抜けさに驚いて椅子から落ちてしまうかもしれない。そんなことを思いながら、彼の淹れた濃い目の珈琲を口にして、ロゼッタはそっとその瞳を眇めた。

「だってそうでしょう?今までは体だけの関係とは言え、心以外の全てに触ることを許してきたんじゃないかしら?それに、今更指先が触れることを何度となく彼が躊躇うものだから、その雰囲気に引きずられて、些細な触れ合いが逆に恥ずかしくなってしまったんでしょう」

そういえば、と近頃のルシオの言動を思い出して、サンダルフォンは眉間にシワを刻む。言葉にできるまでは、そう言った触れ合いはお預けする。そう口にしたのはサンダルフォンであったが、今まで散々好き勝手触れてきたにも関わらず、その宣言以降幾度となく手を伸ばしては自分に触れるのをやめるルシオの姿を見て、煮え切らないような、甘酸っぱいような不思議な気持ちになったことは数えきれない。彼なりに考えてくれていることがひどく嬉しかったのもあって、なるほど、彼女が言うように雰囲気に充てられたのかもしれない。

「いっそ、指先など下手に躊躇うよりは、体全体で寄って行った方がキミの言う気恥ずかしさからは解放されるのかもしれない、と?」

「仮説だけれどね。でも、あながち間違いじゃないと思うわ」

なるほどな。ロゼッタの言葉を反芻して、彼女が目の前の席から立った後もたった一人、食堂の隅に居座って漫ろに窓の外を眺めて頬杖をつく。そうして視界に広がる空がにわかに朱を帯びて来る頃になって、ようやく人の気配がちらほらと入り出した食堂に、サンダルフォンの待ち人が姿を現した。食堂のドアを潜るやいなや、彼はそっと嬉しそうに微笑んで寄って来ると、サンダルフォンのすぐ側に立ち止まって、友人同士の気さくな触れ合いのような真似もせずに、ただ見下ろしてこんばんは、とその瞳を柔和に細める。束の間そんな彼を睨むように振り仰いだサンダルフォンは、おもむろにちょいちょいと彼を手招きすると、その長身が身を屈める瞬間を狙って寄りかかるようにして彼の胸板へ側頭を預けた。

……サンちゃん?」

「なるほど、確かにただ触れられるよりは気恥ずかしくないな……むしろ、落ち着く」

何を思ったのか、徐に彼が鎧の類を排して身を寄せて来る。おい、余計なことをするな。低い声でそう言えばくすぐったそうな笑い声が落ちてきて、すみません、と反省の色の伺えない声音で彼が呟いた。

「久しぶりに、サンちゃんに触れられたのが、嬉しくて」

だから、他意はないんですよ。ひどく嬉しそうに彼が言うものだから、釣られて頬を彼の胸板にくっつけたまま視線だけで見上げてみれば、ルシオの顔が今まで見たことがない程にそれはそれは甘やかな笑みを湛えていたので、こみあがる気恥ずかしさに耐えかねて、サンダルフォンはぐうと小さく喉を鳴らすことしかできなかった。