天司に、睡眠の必要はない。食事さえも嗜好の範囲で、本来なら個室を与えられたところで、人の子と同じ時間に眠り、同じ時間に起きる必要はないのだ。一晩中起きている選択もできる。それどころか、あの堕天司のように数千年寝ずにいることだってできるだろう。
しかし、どうしても精神が磨耗する。眠りの要らない体に創られたというのに、休眠を摂らないと精神がすり減ってしまうというのは、大層な欠陥だと、気がついた時にはほんの少し笑ってしまった。ルシフェルに創られたとは言え、その設計のベースはルシファーによる多くの天司達と同じものである。あの天才もここまで細かな欠陥は流石に見逃してしまうのだ、と。いつかの背中が日焼けして羽を顕現させることができなかった指教の双子を思い出しながら、苦笑を浮かべたものである。そういうわけで、サンダルフォンは天司でありながら、人と同じ時間に眠り、朝日と共に起き出す。基本的には一度寝てしまえば、例え夢見が悪かろうともカーテンのない円窓に朝日が差し込むまで眠っているのだが、その中でも稀に眠りの途中で何かに呼ばれるように目を覚ます時がある。そういう時に何かの予感に駆られて部屋から出てみれば、満天の星々のささやきであったり、不寝番についた団員達の穏やかな歌声であったり、不思議と好ましい場面に遭遇するのだ。そうと気付いてから、サンダルフォンは眠りの途中で目を覚ますと、積極的にベッドから出て部屋の外へと足を向けるようにしていた。
その日も不意に目が覚めた。束の間、酩酊感に似た眠気が去っていくのを待って、むくりと起き出してみれば、窓の外はまだ薄暗く、夜明けまでまだしばらくあるといったような様相をしていた。サンダルフォンは、大きく一つ瞬きをすると、エーテルで靴を編みながら爪先を床につけて、鎧や腰布、フードつきの装束を排した軽装のまま、部屋を後にした。
しんと、生命が眠る気配が沈み込んで、静まりかえった廊下を、足音を潜めつつ抜けて、何かの予感に駆られて甲板に上がる階段を抜け、空の下にでる。鳶色の柔い毛先を乱す風に、目を細めたサンダルフォンは、ぐうるりと不寝番の姿が見当たらない甲板を見回した。魔物の気配が遠くなっていく時間帯とは言え、不寝番の姿がないのはおかしい。訝ったサンダルフォンが眉間にシワを刻みながら、甲板に人影を探していると、東側の欄干の上に危なげなく腰をかけて上空を振り仰いでいる人影を一人、ようやく見つけた。その背で淡く光っているのは白く小さな羽の一対で、考えずとも相手がわかったサンダルフォンは、不快そうな顔を隠しもせずに寄っていって、軽く跳躍するようにして欄干の上の、彼の隣に腰をかけた。
「おや、おはようございます。サンちゃん」
「その挨拶にはまだ早いが、おはようルシオ」
低い声でそう返せば、彼は少し待ってくださいね、と一度欄干を降りる。何の気なしに動きを見ていれば、欄干の下に小さなバスケットを置いていたらしく、ルシオはそこから何重にも布が巻かれた木製のボトルと同じ造りのカップをふたつ取り出した。薄暗いせいで、中身は見えないが、何かしらの液体をカップに注ぎ分けて、また元の通りにボトルを戻した彼は、カップを両手に携えて欄干の上に戻ってくる。
「サンちゃんが淹れたものには、遠く及ばないかもしれませんが」
どうぞ。差し出されたカップを受け取り、中身に落とした視線と共に鼻をすんとすすれば、慣れた香りと共に掌がじわりと温かくなる。
「……ん。悪くない」
「そうですか。今度は、サンちゃんの珈琲も飲ませてくださいね」
「一応、考えておく……ところで、キミはさっきから何を見ているんだ?朝日が昇るにはまだ少し早いと思うが」
いつもならばしっかり目を見て話すというのに、先程からルシオの蒼い瞳は、上空を振り仰ぐばかりで。それが少し面白くなくて、彼に見えない程度に、ほんの少しだけ唇を尖らせて問えば、視線だけがこちらを束の間の見下ろして、それから彼が笑み混じりで言う。
「星を、見ていました」
「星?何も見えないが」
「ええ。今は遠く彼方にいってしまいましたが、確かにこの空に、この暁時にあった星です」
少し前まで朝日と入れ替わるようにしてこの時間の空で燦然と輝いていたらしい星を眺めているのだと。彼が昔を懐かしむように、ほんの少し寂しそうに。あまり聞かない声音で話すので思わず欄干の上に投げられた彼の掌を握る。さすがに予想外だったのか、振り仰いでいたその顔を、一瞬でサンダルフォンの方へと向けたルシオは、そっと眉尻を落として困ったように微笑むと、再び空へと視線を戻した。そうして彼の横顔から視線が逸らせぬまま幾ばくかの時間が過ぎ、木製のカップから立ち昇っていた湯気がすっかり消える頃、ゆっくりと、彼の輪郭を象るようにして白い光が顔を出し始めた。
「ああ、夜明けですね」
ほんのりと、温度を上げた声でルシオが言った。ほんの少しだけこちらを見た蒼が朝日を弾いて彼の涙袋にきらきらと影を落とす。ああ、綺麗だ。ことりと音を立てたコアを胸の上からそっと抑えて、サンダルフォンはその目を眇めた。
眠りの途中で目が覚める日は、何か好ましいことが起きる気がする。
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