声をかけようが荒げようが、夏空の晴天のような鮮烈な蒼い瞳はこちらを向かない。まるでいつかのようだな。ロミオと話している側から無理やり連れ出されて、人気のない廊下の端で奪い尽くされるように唇を食まれたことを思い出す。
そうこうして、半ば引きずられるように歩いていると、彼の部屋の前までたどり着いていた。鍵を開けている間も、腕を掴む手の力が和らぐことはなく、寧ろ更に強くなってすらいる。束の間骨が軋んだ音がして、顔をしかめていると、軽い音と共に鍵が開いて、また彼が強い力で腕を引っ張る。ちっともこちらを向かないのに、異様な圧力を感じる背中に、道中もそして今も。口にしかけた言葉を端から固い唾と共に飲み込んでしまって、結局のところ、最初に少しだけ抗議の声をあげた以外は、何も言えてはいない。
殺風景な部屋の中で、唯一本来の役割を果たせているであろうベッドの縁まで、サンダルフォンを引っ張っていった彼は、徐にこちらの手首を掴んでいる方の手を強く前に引くと、自分よりも一回りほど小さな体を半ば放り投げるようにして、ベッドの上に引き倒した。今まで彼に手荒なことをされたことなど皆無で、まさかこれほど力ずくでいいようにされるとは思っていなかったサンダルフォンは、全く構えていなかったせいで容易に仰向けの形でベッドに転がる。連れて行かれる前の様子からして、てっきり言葉のみの罵倒を受けると思っていた。置かれている状況がいまいち飲み込めずに、目を白黒させていると、やけにゆっくりした動きで、彼がベッドへ乗り上げてくる。
定命である生物が死を覚悟した時には走馬灯、というものを見るという。一種の危機回避能力であるらしく、これまで生きてきた生の記憶を一気に流し見ることで、今置かれている生命の危機を脱する術を探すのだと。自分がその走馬灯を見るのなら、恐らく今置かれているような状況の時だな。それくらい、ぎしりとベッドの天板を軋ませて、自分を見下ろす彼の目は、ある種の肉食動物を思わせた。
視界の中でゆっくりと上半身を屈ませて、薄く開いた唇をそっと寄せてくる彼に、危機感がないわけではなかった。ただ仮にも、密やかに恋焦がれる相手から、形だけでも乞われているというこの状況に、覚えも悪く騒いでいるコアのおかげで反応が遅れただけ。食まれるようにやんわりと唇を重ねられながら、伸びてきた指先がサンダルフォンの欲を呼び覚まさんとするかのように、耳を擽った。
あ、と小さく声が出た。これまで積み重ねてきた彼との行為からくる、半ば反射的な声帯の震え。いつもならば鼓膜を甘く浸すようにして、これから与えられる快楽を、安堵を求めて理性を奪い去るそれが、今はまるで目を覚ませと言わんばかりに頭蓋の内に硬く響いた。
咄嗟に戻ってきた理性を必死に手繰り寄せて、固く瞑目していた瞼を瞬時に極限まで見開いたサンダルフォンは、投げ出していた掌を感情のままに振りかぶると、目の前の端正な顔へ、全力で叩きつけた。
ばちん、と。肉同士が情け容赦なくぶつかる乾いた音が部屋に響いて、彼が小さく息を飲む。正気に戻ったのか、どこか戸惑ったような顔をした彼が、今しがた強か打たれた頬を押さえながらゆっくりと上半身を起こした。それを追うようにして体を起こしたサンダルフォンは、呆然とした風情でのろのろとベッドの上に正座をした彼を、きろりと吊り上げたあげた赤い瞳で睨めつけると、肺から全ての空気を吐きだすかのような大きなため息をひとつ、ついた。それは安堵からか、失望からなのか、サンダルフォン自身にもよくわかっていなかった。ただその大きな吐息を聞きつけた彼の体が一度、小さく震えたのを見ると、今この場で一番そぐう行動を取れたことは確かだった。
「……確かに、キミの都合も考えずに、俺から一方的に解消を申し出たのは悪かった」
「サンちゃ、」
「だが……それでも、こんなのは……こんなのはあんまりだろう!!俺を抱けばキミとの関係を戻すとでも?絆されてキミの元に戻って来るとでも!?自分に自信があるのは結構だが、あまり俺を馬鹿にするなよ!!」
「っ!!それは違いますサンちゃん!!」
それは違うんです。彼が重ねる様にして弱々しい声で言う。今やすっかり蒼い瞳にいつもこちらを見る優しげな理性は戻っていて、見据えられた束の間、言葉を継げずにぐっと押し黙る。黙り込んだサンダルフォンを前に彼は違うんです、ともう一度こちらに言って聞かせる様にして低い声で言うと、シーツの上に放られた、自分の物よりも一回り程小さなサンダルフォンの手をそっと包み込む様にして両手で握りこんだ。
「貴方が今夜街に行くのだと聞いて、黙って見送ることができない自分に気が付きました。必死に貴方の姿を探して、どうにか止められないものかと考えて……」
そうして、実際に姿を見つけた時には、すでにサンダルフォンは艇から出る直前だった。咄嗟に思い出したのは、あの日、自分でもよくわからない衝動に駆られて、サンダルフォンをロミオの前から連れ去ったあの日の言葉で。自分以外の誰かにサンダルフォンの心の柔らかな場所を、肌を合わせることで触れられると思うと目の前が真っ赤に染まった。どうにかして、サンダルフォンの気をこちらに向けることはできないか。考えた結果無意識に取った行動が、先ほどのそれだったという。
「……やはり俺を、その程度で絆されるような簡単な奴だと思っていたといういことじゃないか……」
「それも、違います。本来なら私たちの関係は、極割り切ったもの。貴方が嫌だというのなら、私からは触れまいと思っていました。しかし、ダメなのです……あの時、自分でもわからない程に、貴方に触れたくなってしまった。貴方の気が、私に向くのならば、と。私には、どうしてあのように感じたのか……わからないのです」
いつもよりも小さく感じる彼を前にして、一緒だ、と。サンダルフォンは心の内で呟いた。自分でも理由のわからない情念に灼かれて、無意識に彼を愛していた自分と。
彼と自分は人ではない故に、自らの感情の機微に疎い。サンダルフォンだって、近頃はあの災厄を起こそうとした頃よりは余程育ってきてはいるが、自分の中の恋慕にしばらく気が付かなかった程度には、鈍感なのである。まるで以前の自分を見ているようだ。こちらを見て欲しい、愛してほしいと願うほどに、そうなるために取るべき行動の真逆を選んでしまう。そう思うとにわかに気恥ずかしくなって。サンダルフォンは握りこまれた手を落ち着かない様子でそっとすり合わせた。
サンちゃん?と何かを言ってくれと言わんばかりに、彼が捨てられた大型犬のような風情でこちらを見やる。その顔に弱いと何度言ったらわかる。いつもの二人の間に流れる空気が戻ってきたことを、無意識に感じたサンダルフォンは、そっと心の内で悪態をついた。
サンダルフォンが得たばかりの情緒を言葉にする力さえあれば、何てことはない。ここまで拗れるような話ではなかった。無理に離れようとせずとも互いに未熟な情緒を、答え合わせするかのように見せ合ってさえいれば、ここまで互いに苦しむことはなかったのだ。それがわかるからこそ、サンダルフォンはいたたまれなくなって、ほんのりと染まった頬を彼の視界から逸らすかのように明後日の方向を向いた。
「……わかった。キミが言わんとすることは、わかったから……頼むから、この手を放してくれないか?そうでないと、自分だけで早とちりしていた俺が恥ずかしすぎて、消えてしまいたくなる……」
「……?何だかよくはわかりませんが、私の気持ちはわかってもらえたということで、いいでしょうか……」
「わかった……わかったから。ルシオ、早くこの手を放してくれ」
「サンちゃん……サンダルフォン。申し訳ないのですが、それは、お断りします」
な!?と抗議の声を上げて、毛を逆立てた猫のように体に力を込めたサンダルフォンに、にこりと笑って見せて、ルシオは握りこんだ彼の手を己の方へとそっと引き寄せた。傾いだ体をやんわりと支えて、顔を傾けて、いざ彼の唇へと。その瞬間、下から無粋な手が割り込んできて、ルシオの端正な顔を容赦なく押しのけるかのようにキスを阻んだ。文句を多分に湛えて見下ろせば、真っ赤な顔ではにかむように笑う彼の顔がある。
「キミがいつか、自分の気持ちに気が付いて言葉にできるようになるまでは、こういうのはお預けだ」
いつか好きだと、言ってくれ。重ねて噛みしめる様にして言われた言葉に、ルシオはそっと目元を和ませる。掌に伝わる体温が、彼の柔らかな癖毛に、触れられることだけでも、今はうれしい。いつか、いつか貴方に告げられるようになりますね。誓いを立てる様にぽつりと呟くと、聞きつけた彼の表情がほんの少しだけ泣きそうになった。
*
「……あんなに僕を、君を攫う悪鬼のように見ていたのに、彼はそれで満足をしたのかい」
昼下がりの喫茶室の窓際。机の向こう側であいも変わらず顔一つ上げないロミオが、笑みまじりの声で言う。迷惑をかけたな。苦虫を噛み潰したような渋い顔で返すと、珈琲を淹れてくれたらいいよ、と軽い調子で彼がほんの少しだけ、視線を上向かせた。
「あの後、ローアイン達にも散々つつかれたみたいだけど、気分はどうかな」
「む……どうもこうも、あんなにも騒がしいのは生まれて始めだ」
やはり遠くから観察しているに限るな。続けてそう言えば、耐えかねたようにロミオが噴き出して、ひとしきり笑った後に目尻の涙を万年筆を持った手で拭いながら顔を上げた。実に久しぶりに、顔を上げた彼を目にしたような気がする。人気劇作家は大変なことだ。心の内で独り言ちていると、でも嫌いじゃあ、ないだろう?と彼が訊ねてくる。
「まぁ、意地になって止めようとは思わない程度には、な」
あ!サンちゃん!またロミオさんと二人でお茶をして!!私とは全然してくれないでしょう!
いつの間にやら近づいてきていたルシオが、食堂の入口から、顔を覗かせて、眦を釣り上げていた。わかった、キミにも淹れてやる。紅茶を淹れる準備をしながら、立ちあがると、まるで餌時の大型犬のようにいそいそと寄ってきた。ちょっとでも目を凝らせば、白い耳とぶんぶん振られた尻尾が見えるようだ。
いつか彼が言ってくれると誓ってくれた。サンダルフォン達の生は長い。そう焦ることもない。だからこそ、彼の情緒がそこまで追いつくのを待っていられる。こんなにも穏やかな心持ちはいつ以来だったかな。そっと心の内で苦笑して、サンダルフォンは紅茶の缶を小気味いい音とともに開けた。
.
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.