香春 蘇葉
2015-07-17 20:42:38
2699文字
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くもをつかむような話







 その日、家に帰ると“彼”と棲むその場所が痛い程の静寂に浸されていた。
彼が留守の時に帰ってくると、もちろん家の中では静かだったが、
これはそんな静寂ではない。
上手く言葉にはできないが、何かがこの家から抜け落ちてしまったような。
どこかそんな感じがするような静けさだった。

リビングに入っても一向に拭えないざわつきを振り払ってしまいたくて、
わざと音を立てて独り言を空気に溶かし、そして彼が生活している証明である私物を探した。
いや、厳密には“探そうとしていた”
探す前から結論は出てしまっていた。
彼はテレビを見るときに二人で選んだソファの上でその細長い体を縮めて、緑色の大きなぬいぐるみを抱きしめる。
それが、すでになかったのだ。
定位置から一切動かすことのなかったそれが。

そうとわかってしまうと、心はなお一層焦りに巻かれた。
寝室にいくと、彼の使っていた枕がない。
洗面所に行くと、自分のものとはまた別にあった整髪量が呆れるほど置いてあったのに、ひとつも残っていなかった。
彼に関する色んなものがこの家からなくなっていた。
しかし、たったひとつだけ残っていたものを見つけた。
もしかしたら彼が自分のために残して行ったのかもしれない。
そう思わなければ今のぐちゃぐちゃにかき乱された心を冷静に保ってはいられなかった。

彼が仕事でよく閉じこもっていた部屋の隅。
電気も点けずに入ったので外からの月明かりしか頼りにするものがなかったが、
それでも見間違いようがなくそれは確かに静かに佇んでいた。
白いフレームに赤の差し色。
彼の愛した美しいその姿。

「TIMEを置いていったというのか……?巻ちゃん……

するりとフレームを撫でれば冷ややかな感触を跳ね返す。
この美しい乗り物で、彼とは何度も鎬を削った。
一体彼は何を意図してこれを置いていったのだろう。
自分と一緒に暮らす前だって、彼はいつでも家を移るときにはこれを携えていたと言う。
彼の意図を捉えあぐねて眉間を寄せていると、ステムの丁度中心に折りたたまれた紙が貼り付けられているのに気がついた。
数分手を出すか否か考えてから、ようやくそろそろと手を伸ばす。
何を書かれているのかわかったものではないと考えると、知らず体が固まってしまったのだ。

どこか恐れを湛えつつ開いた紙には、極シンプルに“お別れだ”と書いてあった。

紙の真ん中に不器用に綴られた決して綺麗ではないそれを見た後の記憶はない。
気がつけば窓から差し込んだ朝日に起こされて、リビングのソファから体を起こした。
その日から、彼とは連絡を取っていない。



















 「そういや、お前のロードバイクはどこに行ったんだ?」

兄とパリで暮らし始めて数年が経ったある日、体を縮めて両手でカフェラテの入ったカップを包みながら、
ふと彼が思い出したかのように聞いてきた。
あまりにも突拍子がなかったので、聞かれた方はと言えば一分近く目を見開いて固まったままでいた。
ようやく我に帰った時には兄もまた弟の様子を不思議に思ったらしく、名前を呼ぼうと口を開いたその瞬間だった。

「裕介?」

「や、何でもないっショ兄貴」

焦ったように手を振りながらそう言った弟に、兄は何も言わなかった。
ただ困ったような笑顔を浮かべながら、細長い体を少しだけ傾けてローテーブルにカップを置いた。

「もう一度走りたいと思わないのか?」

「そりゃあちょっとくらいは……でも仕事忙しいっショ?」

「そうやって理由作るのは簡単だ。最近は仕事も落ち着いてきたし、また始めてみたらどうだ?」

俺も援助するからちょっといいの買えるぞ?と続けて笑った兄に、弟の方は答えられずにいた。
どうしても何も言わずに以前住んでいた家を出てきたことがちらついて。
そこに置いてきた自分の人生に置いて命にも等しいふたつを思い出して。
時間があったとしても、またロードを始めようとは到底思えない。
沈黙が満たし始めたリビングで、やや重たい空気を発している弟がどうしようもなくかわいそうで、
それでも何を言ってやればいいか分からない兄は、タイミングを測ったように鳴り響いたベルの音に
ぱっと顔を華やがせた。

「裕介、出てくれないか?」

……わかったっショ」

兄の頼みにトボトボと部屋を後にする弟。
どうしてだろうか、今は玄関に続く決して長くはない廊下さえも実家の廊下のように思える。
それくらい、兄が何気なく自分に投げた問いかけはある種の疲労をもたらすようなものだった。
ようやくたどり着いた玄関のドアを半ば体重をかけるようにして押し開ければ、
小さな驚きの声とやや後ろに移動するような気配がする。
その声と気配にどこか覚えがあって、どちらさま、と言いかけたところで言葉が止まる。

「おお、パリなのに日本語をしゃべるんだな巻ちゃんは」

……は、」

「それともオレが来るということを既に勘づいていたのかね?さすがはオレの巻ちゃんだ」

もっともらしく腕を組み、頷きながらドアの陰から出てきた姿は
記憶にあるものよりもかなり逞しく、日に焼け、髪がやや伸びていた。
しかし、間違えようもないその言動に、視界が一気に水気を帯び始める。

「くもをつかむような話とはよく言ったものだが、オレはいつも蜘蛛を追いかけたり追われたりしていたから余裕だったな」

「と……どぉ……

「なぁ、抱きしめてはくれないか?巻ちゃん」

甘えるような声にもう自制心なんて持っていられなかった。
堪らず体当たりするように広げられた胸に頭をぶつける。
背中をぽんぽんと宥めるように撫でられる感覚が心地よく全身に染み渡り、知らず目が細くなる。

「馬鹿……くも違いだろうが……

「まぁ、細かい話は後にして巻ちゃんがそろそろ恋しがるだろうと思って一緒に連れてきたぞ」

その言葉に釣られて彼の背側を見やれば、普通のものよりもはるかに大きなキャリーが置いてある。

「長い話でも、しないか巻ちゃん」

いつもよりも落ち着いたトーンの声音に顔を上げると、嬉しさと悲しさが綯交ぜになったような表情でこちらを見る東堂の顔。
もう何も言わずに姿を消すのはやめよう。
そう心に誓って、彼は東堂と住んでいた家よりもはるかに狭い我が家に、
大きなキャリーと共に招き入れるのだった。

本当に、雲を掴むような毎日だった。
数年後にまたイギリスにもどった時、東堂は笑いながらそう言っていた。