夜、兄さんが僕に黙って城を抜け出すのは、これで何度目のことだろう。ふと辿った兄さんのエーテルの気配が明らかに城の中にないことに気づいたのは、眠りに落ちる直前のことだった。
眠気に重くなり始めた体をなんとか起き上がらせて、寝巻きから胸許のボタンを開けやすいシャツに着替える。
本棚の裏の抜け道を通って、城の地下から森へと向かうと、片手に火を灯し、片手に念のため剣を構えて、兄さんのエーテルの続く道を進む。
「………………」
足下に赤黒いシミを見つけて、しゃがみ込む。そっと指先で触れると、それはまだ乾き切っていない獣の血のようだった。手のひらの炎を拡げて地面を見つめれば、点々と、血の跡が落ちている。
趣味の悪い童話のように目印を辿って行くと、昼間は森の手入れをさせている庭師や、警備の騎士たちが休憩に使っている小屋が目に入った。一歩近づくたびに兄さんのエーテルを強く感じながら、扉の前で火を消し、兄さん? と声をかけた。
僕が来ることはわかっていただろうに(あるいは、もしかすると本当にわからなくなっていたのかもしれないが)、声をかけた途端、ガタガタと酷い物音がした。
「開けるよ」
と、言いながら扉を押す。もちろん鍵がかかっていた。
「兄さん」
中からは怯えたように後ずさる、靴底の擦れる音がした。
頭の中で兄さんの怯えた表情を想像し、そんな顔をする必要なんてないのに、と心の中で呟く。
「クライヴ、ここを開けて」
語気を強めて、扉を二度、拳で叩いた。小屋の中で何かがひっくり返ったのか、物の落ちる音がする。
慌てすぎてどこか怪我でもしてなければいいけど、と思いつつ、きっと今夜も兄さんの腕は既にずたずたになっているのだろうなと考えていた。
「……開けてくれないのかい? それとも僕が燃やした方が早いと思ってる?」
これでも開けてくれないのであれば、そうしたって構わないと思っていた。小屋と兄さんを天秤にかけることはできないからだ。
数秒の沈黙の後、諦めたように鍵の開く音がした。
けれども兄さんは扉を開けて僕を招き入れるようなことはしない。どうしてかって、きっと怯えているから。
剣をしまいながらシャツの胸許を寛げて、浮かせた火を小さくする。ギィ、と音を立てる扉を細く開くと、隙間から身を滑り込ませるように入室し、後ろ手に鍵をかける。
鼻先をつく嫌なにおいに顔をしかめないようにしながら、部屋の隅で怯えたように膝を抱えている兄さんのそばへ向かう。
「来ないでくれ……」
持ち上げられた手をじっと見つめてから、兄さんの足下で事切れている、獣の無惨な死体に視線を移す。
僕を拒絶するように手をかかげる兄さんの汚れた手袋をそっと掴むと、びくりと体が跳ねて、それ以上後ずされもしないのに、後ずさろうと背中を壁にぶつけた。
怯える姿とは裏腹に、ギラギラと暗闇でも耀く青い瞳が僕をじっと見つめている。正確には僕ではなく、僕の肌の下を流れる血を。
「兄さん、これはただの治療なんだから気にしなくていいっていつも言ってるじゃないか」
視線を逸らしながら、口許を押さえて俯く兄さんの汚れた手を剥がし、獣の血で汚れた肌を指で拭う。唇に指が触れた瞬間、兄さんが鋭く息を飲み、震えながら僕の腕を掴もうと手を伸ばし、引っ込める。
「嫌なんだ」
「痛いのは一瞬だから、注射みたいなものだよ」
「そうじゃない、いつかお前を……」
「兄さんは僕を殺さない。そうでしょう? 子どもの頃からずっとそうだったんだから」
嫌だと言いながらも、僕に顎を掴まれた兄さんは、瞳を揺らしたままされるがままになっていた。首筋に兄さんの顔を押し付けて、優しく後頭部を撫でた。
震える唇がゆっくりと開かれて、僕の肌の上を熱い舌が這って行く。喉笛から鎖骨を舐めて、僕の肩を掴む兄さんの爪先が肌に食い込む感覚がした。痛みを堪えるために思わず笑うと、ハッとしたように手が放される。
「クライヴ」
啜り泣きながら震える背中を撫でて、後頭部をグッと押さえた。肌に鋭い牙の当たる感触にどうしても瞬間的に怖気が走るが、何も感じていないふりをする。実際問題、本当に痛みは殆どない。
「噛んで」
赦しを与えた瞬間、ぶつりと肌を突き破られる感覚がした。
溢れた血を夢中で啜っている兄さんの髪を撫でながら、熱を持ち始めた体を押し付ける。噛まれている間と後は必ずこうなるので、もしかすると兄さんはこっちの方が嫌なのか? と思ったりもしていたが、本当のところをまだ知らない。もしかすると僕の血を吸う代わりにされるがままになっている可能性もなくはないが——……、
「っ」
余計なことを考えていた僕の首筋に舌を這わせたまま、兄さんが手を下ろして服の上から熱をさすってくれている。ぴちゃぴちゃと犬が水を飲むような音を立てている兄さんの手が裾から侵入する前に、その手を強くはたき落とした。
うっとりと熱に濡れた瞳をしていた兄さんの目から光が落ちて、はっ、と理性の返ってくる顔をする。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
犬を褒めるように兄さんの頬を両手で撫でて鼻先に口付けると、手を引いて立ち上がる。床の死骸を燃やし、焦げ付かせて血を消すと、黙ったまま項垂れている兄さんの手を引いたまま、部屋を抜け出すのと同じ道順で部屋へこっそりと戻ってくる。
「服と体をどうにかしないと」
部屋の隣に作られた浴室に兄さんと向かい、俯いたまま固まっている兄さんを放置して服を脱ぐ。
「……僕に脱がして欲しいの?」
笑いながら兄さんの腹を指先で撫でると、「いや」と慌てて首を振り、のろのろと服を脱ぐ。その様子を横目にクリスタルを掴むと、浴槽にお湯を這って、兄さんの汚れた体を清めた。
終始無言で唇を結んでいる兄さんがひどく後悔しているのは明白だったが、僕は兄さんに言った通り、「あれ」はただの治療だと思っているし、苦しんでいる兄さんが可哀想で助けてあげたいと思っているだけだから、悪い感情もない。そう言う話は昔からずっとしているはずなのに、兄さんは納得がいかないらしい。
「兄さん」
寝巻きには着替えずに、裸のままベッドへ兄さんを招いた。
正直なところ、今の僕には兄さんの葛藤だの後悔だのに付き合ってあげる余裕があまりない。
「舐めて」
苦しいんだ、と胸を押さえて溢した僕に、兄さんは無言でベッドへ乗り上げる。
その表情はいつもの慈悲深い兄のような顔をしていたけれど、ほんの一瞬、これからの行為を期待して瞳が揺れたのを僕は知っている。
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