その薬を製薬会社では《不滅の恋人》と名付けていた。簡単に言えば、恋愛感情を永遠に持続させる薬だ。脳が恋に落ち、神経伝達物質、ドーパミン、フェネチルアミン、オキシトシン、セロトニン……をカクテルするバーテンダーとなった時、その役を簡単にやめられなくなる誘導薬物というのが薬の正体だ。恋愛初期にお互いが《不滅の恋人》を飲めば、瞬間の強烈で甘美な興奮状態が永遠に続く。
この薬を使用しての身体への影響についてはデータがまだ出ていないが、悪影響があるのでは? と言う声が、燃え上がった二人の前で如何に無力であるかは想像に易いことだと思う。そういうわけで、付き合って一ヶ月目とか、百日目にこの薬を求めて医者に行き、処方箋を書いてもらい、そのまま指輪を買うというのが世間では流行っていた。
「またその広告を読んでいるのか?」
タブレットでニュース記事を読んでいた僕の背後から、マグカップを二つ持った兄さんが顔を出した。たまたまスクロールの最後に表示されていたものがそれだっただけなのだが、僕がずっとこれを気にしているのも事実ではあったので、「別に欲しいってわけじゃないよ」とだけ答えておく。
「ありがとう」
記事を閉じることもせずにマグカップを受け取ると、熱いコーヒーに口をつける。
「そもそも僕たちじゃ処方箋は書いてもらえないしね」
笑って答えると、ソファの隣に腰を下ろした兄さんは複雑そうな表情で目を伏せた。
こんな薬が開発されるに至っても、未だに世の中の恋愛対象に家族が含まれていないのが現実だった。僕たちにとっては腹立たしいことだが。
そういうわけで、兄弟で処方箋を書いてもらうのは無理だった。
「もしかして昨日、俺が仕事で家にいなかったのを怒っているのか?」
「え? どうしたの急に」
マグカップをローテーブルに置き、記事のザッピングを再開しようとタブレット画面をスワイプしていると、不安そうな声で兄さんが口にした。
昨日は僕の誕生日で、だけど兄さんにはどうしても外せない仕事があったから、一日遅れの今夜、ディナーの予定を入れていた。そのことについては一ヶ月前から時折謝罪されていたし、「仕事は仕方がないじゃないか」と逆に僕が慰めに回るほど兄さんは落ち込んでいた。
今朝も、明け方に徹夜勤務から帰ってきて、珍しく目が覚めただけの僕に開口一番謝罪をしていたので「いいから寝て」と苦笑したばかりだった。
正直なところ、忘れられていなければお祝いが前後しようが全く気にしていない。実際問題、兄さんの誕生日も僕は取材で地方都市を回っていたから、当日は簡単なお祝いの連絡と通話をしただけで、帰国してからきちんとお祝いをした。それなのに、自分だけが当日に祝われなかったからと怒る理由はない。
「俺を信じられなくなったのかと……」
「僕が兄さんを? まさか。流行っているから、広告でよく表示されるだけで、別に兄さんを疑ってるわけじゃないよ」
「だが、試してみたいとは思っているんだろう?」
「商売として興味深い、とは思ってるよ。ほとんど洗脳か催眠みたいなものなのに、恋ってつければ抵抗のない人が多いんだな、とか」
不安そうな顔をする兄さんにキスをすると、誤魔化すな、とでも言いたそうに眉を寄せられる。別に誤魔化してるわけじゃないんだけどな、と思いつつ「じゃあ指輪だけでも今から買いに行く?」と笑う。
「前にいらないって言ってたけど、もしそれで安心できるんだったら買ったほうがいいでしょ?」
兄さんの手に指を絡めて尋ねると、兄さんはじっと手を見下ろし、瞳を揺らして迷う表情を見せた。黙って兄さんが答えを出すのを待つ。
「……不要だ」
「そう? じゃあやっぱりなし。考えてくれてありがとう」
兄さんの変わらない答えに安心しつつ、タブレットの画面をスリープする。別に揃いの指輪がないからって愛を疑う理由にはならないのだし、と考えつつ、なんだか許して欲しそうに眉を下げている兄さんを抱きしめて、「疲れてるから悪い方に考えるんじゃない? 怒ってないし、がっかりもしていないよ」と背中を撫でた。
兄さんの答えにもしかして実はショックを受けているんじゃないか、と自分にもう一度尋ねてみたが、そういった感情はやっぱり浮かばなかった。
「第一、僕たちに《不滅の恋人》は不要だよ。——だって、生まれた時から一緒じゃないか」
まさか忘れちゃったの? と揶揄うように口にした僕に、「お前は自分が生まれた日のことは覚えてないだろ」と当たり前のことで兄さんが詰ってくるのがなんだかおかしかった。
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