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討伐対象を狩りながら次の都市へ移動するのを繰り返し、ようやくある程度まとまった金額が手に入った。その頃には慣れない土地と言葉にも少しずつ慣れていて、兄さんも僕も寄る先々の人々と、筆談なしで会話ができるようになっていた。
僕と兄さんは数ヶ月を過ごしてもこれと言った進展もなく
——と言うより、僕に一線を越える勇気が出ないだけなのだが
……——、キスや、口や手で触れる以外のことはしていない。慣れない土地でそんなことを考えている余裕はない、なんて言うのはもちろん嘘で、夜になるとやっぱり兄さんが隣にいるだけでなんとなく落ち着かない。
時々、兄さんが僕に何かを期待するような、あるいは僕を求めるような目をしているのはわかっていたが、どうしてもそれに応じることができなかった。
したくないのかと兄さんに聞かれれば「したいよ」と答えるくせに、僕の欲望のために実の兄にそんなことをさせてもいいのだろうか、とまだ迷っていた。だってどう考えても良くはないし、間違っていると言う結論になってしまうからだ。
別に愛し合っているのなら必ずセックスをしなきゃいけないなんてことはないのだし、旅の終わった後のことを考えれば、しない方が後悔が少ないようにも思う。
そもそも僕の想像では兄さんは僕としたがらないと思っていたので、まずそこが誤算だった。兄さんだって人並みに性欲くらいあるのだろうと思ってはいたけれど、僕の頭の中で考えていた兄さんと、時々したそうに迫ってくる現実の兄さんがどうしても重ならない。
兄さんに触れられると嬉しくてドキドキして興奮しすぎるせいか、頭が硬直してしまう。
兄さんはそんな僕に苛立っているような気もしたが、わずかに瞳を眇める瞬間があるだけで、それが僕への苛立ちなのかそうではないのかはわからなかった。
愛されていることを逆手に甘えているし、よくない態度だと言うことはわかっていた。
ヴァリスゼア行きの船の出る港へ向かうには、最終的に砂漠地帯を抜ける必要があった。徒歩で行くには随分と歩かなければならず、兄さんと相談して、馬を買うことにする。
この辺りではチョコボが一般的でない可能性も考えていたが、外大陸でも主な馬はチョコボだった。餌代もかかるし、港でまた彼らを売る必要も発生するが、徒歩で進むよりはずっとマシだった。
何より兄さんが時々足を引き摺っているのが気がかりだった。
砂漠越えの手前の都市で医者に一度診てもらったが、ただの疲労だろうと言われてしまう。本当になんともないんですか、と慣れない大陸語で必死に尋ねる僕に、医師は嫌な顔もせずに頷いた。そう言われば信じるより他にはなかった。
医師に「旅をしていて、故郷に帰る途中だ」と告げると、急ぎでないのなら一週間ほど休んでから続けてはどうか、と提案される。
兄さんに視線を向けると、「俺は大丈夫だが、お前に任せる」なんて言われてしまった。
「大丈夫って
……」
「まあ、ちょっとは無理をしたかもしれないな」
兄さんは左手にやや視線を落としながら口にした。兄さんはきっと、僕に魔法を使った時のことを思い出しているのだろう。
そのせいで兄さんの体がこうなってしまったのかと考えるたびに心苦しく思うし、同時にそこまで思われていたこと感情が湧き上がるのも事実だった。
医者は足のことより、隠したままの兄さんの左手のことを聞きたがったが、「手首から先がないんです」と兄さんが真顔で告げたため、それ以上の詮索は受けなかった。
結局、医者の薦めに従って、一週間程街に滞在することにした。いずれにせよ砂漠越えをしなければならなかったので確かに体を休めておきたかったし、宿屋の主人曰く今は砂嵐の多い時期だから、行くならもう少し待ったほうがいいと言われていた。
オリジンから落ちて数ヶ月が経っていたこともあり、今更焦ったところで仕方がないこともわかっていた。なにより今は討伐金で懐が潤っているから、少しくらいのんびり過ごしても問題はない。
滞在が延びたので、一週後に取りに来てもいいかとチョコボを買った店を訪ねると、店主は少しだけほっとした顔を僕たちに見せた。大事に育てた馬を、砂嵐ですぐに駄目にされるかもしれないと心配していたらしい。餌代を払うと申し出た僕たちに店主は不要だと朗らかに笑い、「一週間で落ち着くはずですよ」とにっこり笑った。
懸念が一つ減り、ほっとして宿へと戻る。砂っぽい体にため息をつきながら服をはたくが、髪の中にまで砂が入り込んでじゃりじゃりと不快な感覚がしていた。
幸いにもこの宿は部屋に風呂場が付いているのですぐに体を流すことができたが、ふと髪を洗っている途中に、同じ砂漠地帯の都市ということで、ダリミルを懐かしく思った。
「どうせならダリミルみたいに温泉があればよかったんだけど」
風呂場から出て、兄さんの装備を解くのを手伝いながら口にすれば、「こっちでも温泉の湧いているところもあるんじゃないか?」と兄さんが言う。
「どうなんだろう。この辺りが火山帯だって話も聞かないし、もし湧いているのならダリミルくらい街中で宣伝してても良さそうだけど、特に見かけなかったね」
「確かにそうだな」
「髪の砂を落とすのを手伝おうか?」
装備を解き終わった兄さんの左手を見つめる。片手の使えない不便さに兄さんも少し慣れてきたように見えたけれど、髪に入り込んだ砂を落とすのは片手では大変だろう。
浴槽がついていなかったので頭に上らなかったが、二人で入れないほど狭い風呂場でもなかったから、一緒に入ってもよかったな、と考えていると、兄さんが顔を上げて、数秒、探るような目で僕を見る。
「余計なことだった?」
「いや
……」歯切れの悪い言葉と表情の意味が読み取れず、首を傾げる。「上がったばかりなのに、また濡れてしまうんじゃないか?」
「別に構わないよ。どうせすぐに乾くしね」
そんなことを気にしている顔には見えなかったが、まあ兄さんがいいならいいか、と深くは考えなかった。
濡れたところですぐ乾くのは事実だったし、髪を洗うくらいなら袖と裾を捲ればいいだけの話だった。
——と思っていたのだが。
「兄さ
——」
後ずさろうとして背中が壁に触れ、シャツが濡れる。
驚いているうちに兄さんの濡れた手に顎を押さえられて、唇が重ねられた。
髪を洗っている途中から「本当に脱がなくていいのか?」と何度も聞いてきたのはこのためか、と兄さんの濡れた手に体を弄られながらようやく理解した。
「ちょっ、
……と待って、いきなりすぎる」
「
……風呂場でしたかったんじゃないのか?」
突然のことに混乱しつつも兄さんの肩を押して制止すると、肩を押す僕の手を見つめながら、不思議そうに兄さんが呟いた。
さっきの視線はそう言うことか、とまたも遅れて理解しながら、「そうじゃないよ」と首を振る。
「純粋に髪を洗うのが大変だろうと思って
……」
「そうか」
兄さんは僕の答えに無感動に頷くと、ぐっと体を寄せ、再び唇を重ねてくる。
濡れた兄さんの肌がシャツに触れ、毛先からぽたぽたと落ちて来る雫がさらに僕のシャツを濡らして行く。冷たく濡れた肌とは反対に、兄さんの舌が燃えるように熱い。
兄さんとキスをしていると、気持ちが良すぎて流されそうになってしまう。濡れた手で下肢に触れられて、声が上がる。
「まっ、
……ぅあ」
兄さんが首筋に噛み付くように歯を立てる真似をしながら、僕のボトムをずらす。ジョシュア、と濡れた熱い息が首筋にかかり、肉食獣が味見でもするみたいに、舌で皮膚の上を舐められる。
びくっ、と体が跳ねて、口からはしたない声が漏れた。兄さんが笑ったのが肌に触れた呼気でわかる。恥ずかしくて身じろいでいるすきに、僕に構わず、兄さんが床に膝をついていた。
「っあ!」
ぬるりと濡れた熱い舌に包まれて、思わず逃げ出しそうになった。けれども兄さんに腹を押されて、壁に体を押し付けられてしまう。
一気に喉奥まで入った感触が信じられず、口を押さえながら見下ろすと、兄さんの濡れた青い瞳と目があってしまった。心臓が痛い。
う、とか、あ、とか意味のない声が手のひらの隙間から漏れて、気持ち良さに腰をゆすってしまう。
兄さんの喉奥がきゅぅっ、と締まった。擬似的な感触に一気に体温が上がる。口の中に吐き出しそうになり、慌てて乱暴に兄さんの髪を掴んで抜こうとしたが、その手を掴まれて、兄さんは舌を這わせながらさらにぎゅっと吸い付いてくる。
「に、
……さ
……」
心臓が破裂しそうなほど音を立てていて、頭の中がガンガンした。
息が切れて、視界がくらりと揺れたような気がする。兄さんの苦しそうな息にすら興奮する。
気持ちがいい。出してしまいたい。そんなことはしたくない。
鼻息が下生えに触れている。根本まで咥えながら頭を前後させている兄さんを見下ろしながら、現実なのか僕の妄想なのかがわからなくなっていた。
壁に頭がぶつかり、痛みで正気が返ってくる。
もう一度兄さんの濡れた髪を掴んで、今度こそ後頭部を強く引く。
「でるから
……っ」
吸い付いてくる兄さんのいやらしさに最早苛立ちながら、ずるっと引き抜いた。前歯の当たる感触に我慢がもたず、そのまま顔にかけてしまう。
「ごめ
……っ」
反射で目を閉じた兄さんが、顔にかかったそれを手で拭う。
汚れた指を口許に運ぶ仕草がずいぶんゆっくりと視界に届くのを認識しながら、
——慌てて兄さんの頭の上から水をぶっかけた。
「
……お前な」
「僕が悪いの!?」
水が冷たかったのか、恨めしそうな声で、髪の隙間から僕を睨むように見上げた兄さんが文句を言う。
言いがかりに付き合わず、汚れが顔に残っていないか指で擦り、兄さんの髪を額に沿って分ける。
精悍な顔立ちの兄さんの苛立った瞳に正直結構ムラついていたが、出してしまったせいか、さっきよりは理性が残っていた。
「僕は髪を洗うのを手伝ってあげようと思っただけで
……」
言い訳ではないはずなのに、まるで言い訳のような声が出ていた。
ため息をつきながら兄さんが立ち上がり、「その気がないなら一人にしてくれ」とそっけない声をあげる。僕の肩を掴んだ兄さんに体を反転させられたかと思うと、膝で腰を突き飛ばすように押され、風呂場から追い出されてしまう。
兄さんが急にはじめたくせに、と理不尽に思いつつも、困惑していたので文句も言えずに濡れた服を脱ぎ、その辺にかけておく。
しばらく放っておけば、渇いた空気のおかげで何事もなかったかのように乾くだろう。
服が乾くほど時間が経過してから、ようやく風呂場から出てきた兄さんは珍しく不機嫌だった。原因は僕のせいだとわかっていたが、まさか風呂場でしたがるわけないじゃないか、と僕も僕で変なところに怒っていた。
兄さんとは喧嘩をした記憶がない。と言うより、喧嘩になったことがないと言うのが多分正しい。僕が一方的に癇癪を起こすのが常で(と、自覚があるのが情けない)、兄さんは冷静さを失わずに淡々と返すか、あるいは困った顔をすることが多かった。ウォールード王国で兄さんを殴った時だって、少しは言い争いになることを覚悟していたのに、全くそうはならなかった。
つまり、僕は兄さんの露骨な不機嫌さにちょっとだけ怖気付いている、のかもしれない。だけどそれと同時に、不謹慎ながら少しだけ嬉しくも思っていた。兄さんの理不尽な僕への怒りは多少腹立たしいが、以前の兄さんなら僕にそんな顔は見せなかったので、なんだか兄さんと対等になったような気がする。もしかするとそれは、僕の勝手な思い込みかもしれないのだが。
乾燥を防ぐクリームを兄さんの方へ放ると、兄さんは僅かばかり僕を無言で見つめていたが、塗ってくれとは言わなかった。
兄さんにそんな態度を取ってから、片手では時間がかかってしまうし上手く塗れないかもしれないから、そのくらいは感情に折り合いをつけて手伝ってあげればよかった、と後悔した。
「塗ってあげるよ」
雑な態度を取ったことを申し訳なく思いながらそばに寄ると、片手で蓋を開けるのに苦労していた兄さんは無言で視線を上げた。怒っているのを隠さない表情をなるべく視界に入れないようにしながら、クリームを兄さんの手から取る。
無言で手足を差し出してくる兄さんに、僕も無言で対応する。
居心地の悪い沈黙を兄さんと感じるのは初めてだった。
夜、部屋の灯りを消す頃になっても兄さんの機嫌は治らなかった。それでも兄さんはぼそりと酷く小さな声で「おやすみ」と口にし、いつもと違って自分のベッドに無言で横になった。
ここ数ヶ月、宿へ泊まれば兄さんが添い寝をしてくれる、と言うより、半ば強引にベッドに乗り上げてくるか、ベッドを繋げて隣に眠っているのが常だった。
今回は部屋の間取りの問題で、僕と兄さんのベッドは少しだけ距離が離れている。僕に背を向けるようにして眠っている兄さんの背中に「おやすみ」と声はかけたが、一緒に寝ない? とは言わなかった。
暗闇の中で目を閉じ、そばに兄さんの体温のない夜をなんだか新鮮に感じながら、明確に淋しさを感じていた。
ベッドから起き上がり、数歩足を向かわせれば兄さんがいて、声をかけるなり、ごめんと言うなりすれば、仕方のなさそうな顔をして、なにもなかったかのように僕を抱きしめてくれるだろう。
そうすべきだ、と思ったし、同時に、そうすべきではない、とも思った。
兄さんの方へ視線を向ける。
輪郭すら浮かばない闇の中で、砂漠を越えた後のことを、唐突に考えた。
砂漠を越えれば、もう、旅の終わりに近かった。港で船に乗り、風の大陸へ辿り着けばそこで僕のわがままの「夢」は終わる。兄さんは「ただの」僕の兄さんで、ナイトに戻ってしまう。それが正しいことだとわかっているのに、その日を考えるとやはり苦しかった(もっとも、国も祝福もなくなった今となっては、僕のナイトであること自体が正しくないはずなのだが
……)。
僕は今日まで、僕の願望を永遠に叶えるために旅程で嘘をついたり、地図をわざと読み違えたりと言った、帰還への遅延行為は一度も行わなかった。
彼女のいない場所で、兄さんにこんなことを要求していること自体が卑怯だとわかっていたから、それ以上、下劣な真似はしたくなかったからだ。
もちろん今回のように天災で進めなかったり、船旅が無事に終わるかはまだわからないのだから、終わりを考えて落ち込むのは逆に楽観的すぎることもわかっている。第一、帰還後はやらなければならないことが山積しているのだから、たかが恋愛感情なんかで
——と自分に言い聞かせた瞬間、ひどく胸が痛んだ
——悩んでいる暇はない。
ため息が溢れて、兄さんが身じろぐ音がする。
お互いに声を出さなかったので、気のせいだと思うことにした。
重く閉じられた窓の方へ視線を向けて、いっそ、と見えない星を見ながら考えた。
兄さんだけ船に乗せて、僕はこっちに残ってもいいのかもしれない。
あの時、オリジンの上で僕は死んだはずだった。きっと隠れ家のみんなも、僕は生きて帰ってこられないだろうと思っていたはずだ。おじさんも、「語るべきことはもうない」と言っていたのだから。
だけど兄さんは違う。五年もの歳月をあの家で過ごして、誰にとっても必要な人だ。ああ言う風に人を率いる兄さんを見るのは誇らしかったし、同時に、やっぱり僕じゃなくて兄さんにフェニックスが宿れば良かったのにと考えてしまう。
……僕だけがこっちに残るのは、なかなかいい案なんじゃないか?
やっと再会できたのにと思わなくもないけれど、僕のせいでいつまでも兄さんを縛り付けるのはやっぱり良くない。
数ヶ月前の夜、兄さんは僕に剣を持たせて首筋に当てさせるような真似をしたが、あれは僕がはっきりと言葉にしなかったからだろう。
兄さんは僕のお願い
——命令は叶えてくれる。
だから、僕の騎士をやめて、自分のために生きてねと伝えて、兄さんを船に乗せればそれで万事解決なはずだ。
僕自身の淋しさなんて、兄さんの本当の幸福を考えれば、取るに足らないことだった。天秤にかける必要性すらないのだから。
そんなことをぐるぐる考え込んでいるうちに、いつの間にか眠っていて、朝になっていた。
ベッドの上で上半身を起き上がらせたままぼんやりしていると、壁や窓がガタガタと大きな音を立てている。
「砂嵐の期間はこうなるらしい」
昨日とは打って変わって、普段と変わらない様子の兄さんが、食堂で貰ってきたのか、お茶の入った杯を僕へ渡す。まだ温かい。
砂糖とミルクのたっぷり入ったスパイシーなお茶を少しずつ飲みながら、「朝からずっと?」と時間もわからないまま尋ねる。窓を開けられない部屋の中は、灯りをつけていても薄暗い。
「ああ。外出するなら首から上をしっかり防御するようにとのことだ」
兄さんが首から上を布でぐるぐる巻くような動作をする。どこへ行く予定もなかったけれど、体験しておくのはいいかもしれない。
「まあ、怪我したくなければやめろと言われたけどな」
思考を読んだように釘を刺されて苦笑した。
「しないよ。医者の言っていた通り兄さんにはゆっくり静養してほしいし、大人しく読書でもするよ」
昨日、街で唯一書物や文献を扱っている雑貨店で二冊ほど本を買った。外大陸の大衆文化を知りたかったし、買っておけば兄さんも読むだろうと思ったからだ。
兄さんも読む? と片方を渡すと、兄さんは少しだけ目許を和らげて「そうするか」と受け取ってくれる。
「あの、兄さん」
お茶のまだ残った杯をそばあった灯りの置かれた棚に置き、本を持ってソファへ向かおうとする兄さんを引き留めた。機嫌が治ってから謝るなんて意気地がない。
「昨日は、その、誤解させたと言うか
……ごめん」
港に着くまでしか「夢」の猶予はない。
今までなんとなく逃げていた、自分の欲望と向き合う時が来ていた。
兄さんが眉を寄せて、蒸し返すなよ、とでも言いたそうな顔をする。口を開いた兄さんを手で制して、続ける。
「その、兄さんがもし嫌でないなら
……、と言うか、してもいいと思っているのなら、
……今夜、どうかな?」
兄さんの手を掴んで、グッと腕を引く。
膝をベッドについた兄さんは驚いた顔で僕を見つめながら、「何を?」と小さな声で尋ねてきた。窓の外がガタガタとうるさい。
窓の方へ視線をやって眉を顰めると、兄さんが他所見をするなとでも言いたそうに、少し焦った声で僕の名前を呼ぶ。
「兄さんを抱きたい。
……したいんだ」
視線を窓から戻し、兄さんの頬に手を伸ばした。
一度でもいいから、と本当はつけようかと思ったけれど、独りよがりすぎるなと思い直してやめておく。
それに、僕が一人でこっちに残るつもりだなんてことは、その時まで黙っておくべきことだった。
*
「俺の言葉に信用がないことなんて、わかってる。
……本当にわかってるんだ」
「
——え?」
「だけど信じてくれないか」
僕の頬を撫でながら口にする兄さんの瞳の切なさに、僕は僕の間違いをようやく自覚した。
「俺はいつだってお前を守ってやると言っていたのに、結局二度も守ってやれなかった。だから、お前が俺の言葉を信用できないのは当たり前だ。本当はずっとわかっていた。俺がいくらお前の望みを叶えたいと言っても、本心から本当にそうするつもりだったとしても、お前に取ってはその場しのぎの言葉にしか聞こえないんだろう。だが
——」
兄さん、と言葉を制止しようとする僕に、「黙って聞け」と兄さんが強い口調で言う。
こんなこと、黙って聞いていられるわけがなかった。兄さんが口にした一つ一つ全てに、身に覚えがなかったからだ。
だけど、と兄さんを見下ろしながら、結局口を閉ざした。
信じなかったことなんてないと言い聞かせて来たけれど、本当にそうだったのだろうか?
兄さんの全てを信じると言うのであれば、確かに、兄さんに愛していると伝えて、僕を受け入れてくれたあの夜に全てを素直に受け止められる筈だった。
それなのに、僕は今になっても兄さんが本当に本心から僕に抱かれてもいいと思っているのか「わからない」と考えている。
それはつまり、僕は兄さんのことを、本当は信じていなかったと言うことになるんじゃないか?
愕然として、思わず視線を風の音のうるさい窓の方へと向けてしまう。おい、と兄さんが苛立った声をあげる。
「
……お前、本当は俺がお前を心からは愛せないと思ってないか?」
「
……………………」
窓の方へ顔を向けたまま身動きはしなかったつもりだったが、兄さんからどう見えているのかは自信がなかった。
僕は、無意識にずっと兄さんを傷つけていたことをようやく自覚した。
「ごめん」
考えなしに言葉が口をついた。
僕の謝罪に、兄さんが瞳を吊り上げる。上半身を上げた兄さんが僕を反射的に殴ろうとして、止めたのがわかった。
僕は兄さんを殴ったのに、兄さんは僕に手を上げない。こんな時でさえ兄さんは僕に対して理性的だった。
拳を握り込んだ兄さんが僕の胸をドン、と叩いて、くそっ、と珍しく舌打ちをする。
「俺の手を取ったのはお前だろジョシュア。お前が、俺をナイトに望むから、お前だけがなんでもない俺がいいというから
……だから俺はここまで生きてきたのに、どうして信じてくれない? どうしたらお前は俺の言葉を信じてくれるんだ?
……どうしたって信じられないなら、お前が言った通り、愛してるなんて言われない方がずっとマシだった!」
どけ、と兄さんが僕を突き飛ばして、ベッドを降りようとする。
その手を掴んで、ごめん、ともう一度口にした。
本当は謝罪に意味がないことなんてわかっていた。だけどそれ以外に何を言えばいいのかがわからなかった。
兄さんを愛しているし、愛されていることはわかっているのに、それでも本当に「そう」なのかがやっぱりわからない。
体を繋げてしまえば僕は兄さんを疑わずに済むのか、そうでないのかもわからない。
心が伴ってなくたって、しようと思えばできる。兄さんが本心から僕を想ってくれているのか疑ってしまった今、そうじゃないなんて、言い切れない。
「
……覚悟がないなら、愛してるなんて二度と言うな」
僕の手を振り解く兄さんに、クライヴ! と声を上げてしまう。
兄さんの青い瞳が怒りに燃えている。その瞳を受け止めても、言葉を飲み込むつもりにはなれなかった。
「覚悟があるから、あったから言わなかったんじゃないか! 僕が兄さんの弟だから、あなたの弟でいたかったから、先の長くない僕が余計なことを言って兄さんを苦しませたくなかった。それにあなたがどんなに僕に優しくたって、他人みたいに
……恋人みたいに愛せるわけがない。
——そう思ってたんだ。だってそれが普通でしょ?
……確かに今更愛してると言った僕が一番卑怯で、あなたを信じないなんて酷い話だってことはわかってる。わかってるけど
……、だけど
……」
言葉を連ねるうちに、感情の制御がうまくできなくなっていた。怒りが反転して悲しみになり、僕の言葉はどんどん尻すぼみに小さく、勢いを失って行く。
兄さんの顔を見るのが怖くなって俯いた。
まるで拒絶してくれればよかったのにと言わんばかりのことばかり言ってしまった自分に後悔していたが、口から出てしまったものは取り消せない。
掴んでいた兄さんの手を離し、ごめん、ともう一度口にする。顔を片手で覆って、ため息をついた。
よくない言葉が頭の中をずっと巡っている。傷つけるとわかっていることを、わざわざ攻撃したいわけでもないのに言うべきではない。
家族だからこそ一度拗れてしまったらどうにもならないこともあると言うことを、母上の例で嫌と言うほど味わっている。
家族とは険悪になるべきではないし、傷つけあったって何もいいことはない。まして、僕は兄さんを傷つけたいわけじゃない。
兄さんに幸せになって欲しかったからずっと叶わない恋のことは言わなかったのに、どうしてあの日、間違ってしまったのだろう。
「
………………、」
言葉が口をつきそうになり、慌てて口を押さえる。脳裏に浮かんだ言葉の恐ろしさにひゅっと、息を呑むと、兄さんがハッとしたような顔をする。
ジョシュア、と兄さんが僕の名前を呼び、口を押さえていた手を無理やり引き剥がした。
「本当のことを言ってくれ」
首を振り、顔を背けた。懇願するようにもう一度僕の名前を呼ぶ兄さんから体ごと背けて、「わがまま言ってごめん、ごめんなさい」と溢した僕の声はもうとっくに震えていて、あと一言でも口にすればみっともなく中出しでしまいそうだった。
目の奥が熱くて、鼻が痛い。視界がじわりと滲み始めている。まずい。今すぐ部屋を飛び出してしまいたかったが、それには兄さんを突き飛ばさなければいけなかった。
「ジョシュア、頼むから
……」
顔を向けるのを拒絶している僕の体に手を伸ばして、兄さんが僕を抱きしめてくる。
あたたかくて広い胸に抱き寄せられると、どうしようもなく恋しくて辛かった。
兄さんに恋をしていることを一番認めたくなかったのは僕だ。
身分違いだの敵国だの、今まで散々色んな小説で叶わなかった人の物語を読んできたけれど、どれも僕に比べたら可能性があるとしか思えなかった。
僕は本当にずっと僕の恋を諦めたかったし、殺してしまいたかった。
いつかは僕じゃない誰かを一番に愛することになるんだからと何度言い聞かせても諦められなかった。
旅の間だけ、なんて嘘だ。僕を愛してくれると言うのなら、ずっと僕だけを愛してくれなくちゃ嫌だった。
「
——あなたを愛していると自覚してから、僕はずっと死ぬことばかり考えてきた」
僕を抱きしめている兄さんの体がぎくりと硬直する。
こんなことを聞かせたいわけじゃない。傷つけたくない。
だけど、苦しくてどうしようもなかった。
「だからあの日、僕はあなたの弟として死ねてよかったと心の底から思っていた。余計なことを言って兄さんを苦しまなかった。いい弟のままでいられた。
……生きて、あなたと一緒にアルテマと戦えればもっとよかったけれど、あなたに力を託すにはあの瞬間が最善だったと今も思ってる」
もし戦闘が長引けば、体に痛みを感じない代わりにそれ以外も何も感じなくなり、最悪途中で動けなくなっていただろうから。
硬直したまま僕を抱きしめている兄さんの体に恐る恐る腕を回し、弱い力で抱きしめ返した。
「
……ごめんね兄さん、いい弟でいられなくて」
「何を言って
……」
黙って聞いていた兄さんが僕の顔を覗き込もうとするが、腕に力を込めて、兄さんの胸に鼻先をくっつける。
「僕はあなたがずっと僕の兄さんでいてくれて、僕の盾でいてくれたことを本当に誇らしいと思っていた。だけど、
……」
声はとっくに震えていた。鼻を啜ってから、はあ、とため息をつく。
こんな酷いことを言うのなら、せめて冗談みたいに言うべきだった。
顔を上げると、兄さんが心配そうに僕の頬に手を伸ばしてくる。兄さんの眉を下げた表情には僕を心配する色しか見えなくて、いくら言ってくれと口にされたとは言え、愛する人を傷つける言葉は言うべきじゃないと頭の隅でもう一人の自分が叫んでいた。
親指で頬を何度も撫でられて、自分が泣いていることに気がついた。こんな子どもみたいに泣くつもりじゃなかったのに情けないな、と思いながら無理やり笑おうとして、やっぱり失敗する。
唇が震えて言葉が出てこない。だけど、兄さんは「もういい」とは言わなかった。だから言うしかなくなっていた。
「
——せめて僕が、あなたの弟じゃなかっ、
……たら、よかっ
……」
笑って言おうとして、失敗した。
胸に懐かしいほどの鋭い痛みが走り、言葉が途中で途切れてしまう。ぎゅっ、と目を瞑ると、自分でもわかるくらい涙が落ちて行く。
ひゅう、と喉から隙間風のような息が漏れて、反射的に咳き込んだ。
兄さんの手から逃れるように顔を背けて、咳をしながら胸を押す。
僕の手首を、兄さんが掴んだ。
「
……それは、俺を愛しているからそう思うのか?」
囁くような声に頷き、「だってそうじゃないか」と口にする。
弟じゃなかったらこんなに悩まなかったし、言わずに死にたいとも思わなかった。
掴まれていた手首を持ち上げられ、妙な予感に顔を上げた。
「っ、」
手の甲にキスをしながら、上目遣いに兄さんが僕を見つめる。
青い瞳に情欲の炎が見える。
場違いだ、と思うのに、兄さんのその目を見た瞬間、キスして、中に押し入りたいと言うどうしようもない欲望が脳裏にちらついた。
「小さい頃のお前は俺になんでも言ってくれたのに、大人になったら俺にわがままを言わなくなってしまったからわからなかったが
……、俺はお前が弟でよかったと思っているし、お前が俺をナイトに選んでくれたことを幸福に思っている。お前が、本当に俺を望んでいたことがわかってよかった」
肩を掴まれて、強い力でいきなりベッドに体を倒される。
突然のことに「え?」と困惑している僕にのしかかり、兄さんが唇を塞ぐ。
顔を背けて拒絶しようとする僕の顎を掴み、唇の隙間から舌を差し入れて、逃げる舌を追われる。舌先を吸われ、前歯で甘噛みされながら、舌を絡ませられる。
胸を押しても、兄さんの体はびくともしない。酸欠でだんだんと頭がくらくらしてくるのが気持ちよくて、結局、兄さんに応えるように夢中でキスをしていた。
お互いの硬くなった下肢を擦り付けるように腰を揺すられて、声が漏れてしまう。
こんな気持ちのままもつれ込んでいいのか? と思う僕と、気持ちがいいことばかり考えてしまう自分とで混乱していた。
「ジョシュア」
唇と瞳を濡らした兄さんが僕を見下ろしている。まるで僕に抱かれたがっているような目だった。
「お前は俺を抱きたいんだろう?」
「
……兄さんは、僕に抱かれてもいいと思ってるの?」
膝をずらして、兄さんの硬くなっているものをさする。びくっ、と兄さんの体が震えて、ぎゅっと眉を寄せるのが色っぽかった。
「抱かれてもいいわけじゃない」
そう口にした兄さんの声が随分と小さい。結局関係を否定するようなことを口にする兄さんに、どう言う意味だ? と眉を寄せた。
言葉を待ってみるが、兄さんは恥ずかしそうに俯いてしまうばかりで、中々口を割らない。
「僕にばかり言わせるの?」
恥ずかしがる顔が可愛くて、またキスをしたくなっていた。
兄さんが観念したようにため息を吐き、「情けないから言いたくなかったんだが」と諦めたように口を開く。
僕の腹の上に跨り直した兄さんを無言で見上げて、言葉を待った。
「俺はずっとお前のもので、お前のことだけを考えて生きてきた。お前が死んだと思っていた十三年、俺はずっと苦しかった。お前のために俺は生きていたのに、お前を守ることができなかった。ずっと死ぬことばかり考えていたが、仇を討たずには死ねなかった」
兄さんが僕の頬を愛おしそうに撫でながら、瞳を揺らしていた。言いたくない言葉を言わせているのが手に取るようにわかり、もしかすると、さっきまでの兄さんも、僕のこんな表情を見ていたのだろうか、と想像した。
「お前が生きているとわかって、それだけでもう死ねないと思った。お前は生きているだけでいいんだ。祝福があるからお前のナイトだったわけじゃない。俺はお前を守りたかった、お前のために生きていたかった。お前が病弱なまま一生ベッドで過ごすことになったとしても、何もできなくたって、それは俺には関係のないことだった。お前は俺に何を望んだっていい。
——だから、俺がいらないなら殺してくれと言った言葉に嘘はない」
兄さんが石化した左手を僕の左胸の上に置き、「お前には悪いことをしたと思ってる」と、掠れた声で口にする。
あのまま死にたかったのに、と口にしてしまったことを後悔していたし、「嘘だよ」と言ってあげたかったけれど、もう否定することはできなかった。
「俺は、お前がいないとだめなんだ。俺をずっとお前のそばで縛っていて欲しい。俺はお前を愛しているし、お前に愛されていたい。だから、
——愛しているのなら、俺が欲しいと言ってくれ」
頼むから、と懇願する兄さんの想いの全てが詰まっているであろう左手を数秒見つめて、僕は自分の胸の上に置かれているその石化した手を、上から握り込むように両手で包んだ。
「あなたは僕だけのものだ。
……他の誰のものになるのも、もう許さない」
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