集中するから返事はできないかもしれないけど兄さんはいつも通り好きにしていて、と宣言したジョシュアは、朝から延々と本とプリントした紙面とディスプレイの三つに視線を移しながらひたすら資料を読み込んでいた。クライヴも読書をするタイプだが、ジョシュアほど熱心ではないので弟のこういう姿を見るたびに凄まじい集中力だなと感服してしまう。
歴史研究を専攻しているジョシュアは、経済学部のクライヴよりも普段から資料を読み込む量が多い。集中力がありすぎるせいで放っておくと朝まで読んでいることがあるので、適宜声をかけてやる必要があった。
クライヴは時々ジョシュアのそばへよっては、空になったマグカップにコーヒーやお茶を足してやる。ジョシュアがそれに気がつくこともあれば、全く気づかずにぶつぶつと何か仮説を口にしながらキーボードを叩き、メモに走り書きをしていることもある。
クライヴはソファへ戻ると、そんなジョシュアの背を眺めながら、小さな音でさしたる興味もないドラマを流していた。
隣人に注意されるほどの爆音で見ない限りジョシュアが口を出してこないのは知っていたが、かと言って普段、二人で過ごすような音量で見るのも気が引けて、結局見ても見なくてもいいようなものばかり流してしまう。
急いでやることもなく、暇を持て余したクライヴは今のうちに走って来るか、とジョシュアの背に声をかけた。
「ジョシュア」
反応が返って来ないことに特に感情はなかった。走って来る、と要件だけを伝えて、念のためトークアプリに履歴も入れておく。振り返らないジョシュアの横を通り抜けて、クライヴはランニングへ出た。
*
お前がいるからあの子は完璧にならない。
母がひどく精神的に不安定だということには随分と前から気づいていたし、どういうわけか嫌われていることにも気づいていたが、クライヴはそれでも母親に愛されたい気持ちが捨てきれなかった。自分のせいで母親が苦しんでいるのかと思うと申し訳なくて、どうしたら母が楽になるのかと手伝いを率先して買ったこともあったが、それらは全て逆効果だった。
ヒステリックになった母親に頬を思いっきりはたかれ、呆然と尻餅をついたのを父が見咎めた。どういうつもりだと激昂する父に、母は眉と口を歪めて泣きながら父に何か訴えていたが、父の怒鳴り声で言葉は掻き消されてしまった。
父に部屋へ行くよう促されて、クライヴはのろのろとリビングから自室へと足を向けた。昼はハウスキーパーがいるが、夜は彼らも帰ってしまう。クライヴは腫れた頬を冷やすことすらできずに、暗い室内に足を踏み入れた。
先週まではジョシュアと同室だったのだが、どういうわけか母がそれをひどく嫌がって、お前たちももう一人部屋の方がいいでしょう、と突然家具と持ち物を分けられてしまっていた。
クライヴはベッドへ倒れると、自分は一体、母とジョシュアに何をしてしまったのだろう、と幾度となく考えたが、いつも答えの出ない問題ついて考えた。数年前までの母は特にジョシュアと分け隔てなく愛してくれていたのだが、いつのまにか憎まれるようになってしまっていた。
髪色のせいだろうか、とクライヴは身を起こし、姿見の前で母とは違う、父と揃いの黒髪を見つめた。けれども、これだって以前は母が「お前は父親によく似ていますね」と愛おしそうに撫でてくれたことだってあったのだ。それを考えると、父に似ていることの何が悪いのか、クライヴにはわからなかった。
事実だけを言うならば、数年前から夫婦仲は冷え切っていた。両親の不仲が、結果として自分に厄災として降りかかっているのだという事を理解するには、クライヴはまだ幼かった。
部屋の戸が静かにノックされ、クライヴは「どうぞ」と小さく声を上げた。父親だろうと思っての言葉だったが、ドアを開けたのは父ではなく、心配そうに瞳を潤ませたジョシュアだった。
「さっき、下から大きな声がしたから……」
不安そうに声を震わせるジョシュアに「ちょっと機嫌が悪かったみたいだな」と笑いながらクライヴが答えると、じわりとジョシュアの大きな瞳に涙が浮かび、ひくっ、と小さく嗚咽したの同時にぼろぼろと頬を伝って落ちて行く。泣きながら駆け寄ってきたジョシュアを抱き止めながら、おろおろと背中を撫でてやると、「う〜」と唸るような声をジョシュアが上げる。
「母上はどうして兄さんばっかり……」
クライヴに抱きつきながら悪態をつくジョシュアの声は、尻すぼみに小さくなっていた。大好きな兄に理不尽な怒りを向ける母親のことは嫌いだっだが、かと言って悪様に言うのは罪悪感があった。
「兄さん、兄さんには僕がいるからね」
眉を寄せて泣くのをどうにか我慢しようとしながら口にするジョシュアに、クライヴは眉を下げて、「ありがとう」と答えつつも、傷ついた笑みを浮かべた。
「お前がいてくれて助かってる」
ぎゅっ、と強く抱きしめてくるクライヴの手が震えていることに気づき、ジョシュアはより一層、クライヴの体を抱きしめた。
縋られていることは嬉しかったけれど、これが自分たちの母親に傷つけられて発生した感情だと思うと、その事実はどうしようもなく苦しかった。
*
「そろそろ休憩しろ」
目の前で手を振られて、ハッと顔を上げた。
「そんなに時間が経ってた?」
窓の外を見ると、随分と陽が高くなっていた。今から資料を読むから、と兄さんに伝えたのは朝の八時くらいだったはずだけれど、もしかすると昼を回ったのかもしれない。集中しすぎていたことに気づくのは、いつだってこうして兄さんに声をかけられてからだった。
「——あれ、シャワーを浴びたの?」
僕の肩に両手を置いた兄さんが、屈んできて頬にキスをする。シャンプーのいい匂いが鼻先をくすぐるのを不思議に思って尋ねると、「一応声はかけたぞ」と言いながら、僕のスマートフォンを指差す。
「走ってきたからな。それよりお前、昼も食ってないだろう。少し休んだ方がいい」
トークアプリの通知を開くと、確かに一時間ちょっと前に走ってくると連絡が入っていただき。僕が途中で休憩するのを望まれていたようだが、残念ながら今回もそうはならなかった。
「そうだね、そろそろ休憩するよ」
資料を散らかしたテーブルでは食事を取れそうにないので、椅子から立ち上がって凝り固まった体を伸ばしてからソファへ座る。
コーヒーのいい香りと焼きたてのパンのいいにおいが鼻腔をくすぐり、忘れていたはずの空腹を急に思い出した。
「買ってきてくれたの? ありがとう」
「作る気にならなかったからな」
焼きたてのクロワッサンだのサンドイッチだのをソファテーブルへ並べながら(兄さんは僕より食べるので、適当に色々買ってきたらしかった)、コーヒーを入れたマグカップを二つ兄さんが持ってくる。
兄さんは僕の隣に腰を下ろすと、モニタの電源を入れて、途中で止まっていたドラマの続きを再生し始める。随分小さな音で、食事を始めるといまいち台詞が聞き取れない。音量を上げようか悩んだが、兄さんがそもそもまともに見ている様子がないので、無音が嫌なだけかもしれないと思って気にするのをやめた。
「あとどれくらいかかりそうなんだ?」
のんびり食べている僕の隣で、恐ろしい速度で食事を終えた兄さんが食後のコーヒーを入れ直しながら声をかけてくる。
「夕食前にはやめようと思ってるよ。読み始めたら面白くて」
「そうか」
尋ねておきながらさして興味もなさそうな表情をして戻ってきた兄さんの横顔をじっと見つめていると、「……なんだよ」と居心地が悪そうに肩をすくめられる。兄さんがこう言う表情をする時は、構って欲しいサインだってことを知っていた。
どう答えようか悩んでから、食べかけのサンドイッチをパンを入れていた紙袋の上に置く。
「続きはソファでやろうか?」
「好きにしたらいいんじゃないか……?」
どうやらちょっと遠回しだったのか、兄さんには意図がうまく伝わらなかったらしい。不思議そうな顔をして首を傾げる兄さんに苦笑しつつも「じゃあそうするよ」とだけ返した。「兄さんのために言ったのに」なんて恩着せがましい意地悪を言うつもりにはならなかった。
食事を片付けると、テーブルに散らかした資料を集めて、不要なものをしまい、まだ読み終えていない資料と本をいくつかとタブレットPC、膝上テーブルを持ってソファへ戻る。
フットスツールに足を投げ出した兄さんは肘置きに肘をつき、ぼんやりした表情でドラマを眺めている。相変わらず随分とささやかな音量で、「もう少し上げてもいいのに」と何度目かわからないことを口にするが、「いや、大丈夫だ」といつもの答えが返ってくるので、それ以上は言及しない。
資料を読むのを再開すると、いつも通り兄さんが隣にいようが、何をしていようがすぐに気にならなくなってしまった。
部屋の中が暗くなってきた気がする、とふと顔を上げると、肩に重みを感じた。
眠たそうな顔でドラマを眺めている兄さんの頭がすぐそばにあって、首を巡らせると兄さんの髪が頬や鼻先に触れた。
陽の落ちかけた部屋に差し込む光が、兄さんの顔に注がれている。青い瞳が光を反射して、ちかちかと光ったような気がした。
「膝を貸そうか?」
書くのはここまでにしよう、と決めて、タブレットPCの電源を落とした。
タブレットを乗せていた膝上テーブルごと床に置いて膝を示すと、兄さんは僕にだんだん体重を預けながらも、「いやいい」と眠たそうに掠れた声で答えた。
兄さんのそう言う声が好きだ、と思うのと同時に、だんだん落ち着かない気分になってくる。
「でも眠たそうだけど」
「お前の邪魔をするつもりはない」
そう言いながら目を閉じてすっかり体重を預けてくる兄さんに、言ってることとやってることが違うんだよなあ、と苦笑が漏れた。
頭を撫でながら「素直に借りたらいいのに」と笑うと、ぱちっ、と目を開けて、むっと眉が寄せられる。
「邪魔なんてされたことないよ」
兄さんが何かを言う前に先に口にして、肩を抱き寄せる。そのまま無理やり膝の上に寝かせようとしたけれど、思いのほか強い力で抵抗されて叶わない。
「……そんなに嫌がらなくても」
「嫌がってるわけじゃない」
不服そうに唇を結んだ兄さんが、片膝を立てて肘を体にくっつけながら、顎に手を置く。
「お前の邪魔をしてしまったと反省しているだけだ」
「考えすぎだよ。嫌だったら嫌だっていくら兄さん相手でも言う」
「そうか? お前は優しいから言わなそうだが……」
疑わしそうな目を向けてくる兄さんの中で、僕が一体どんな聖人君子になっているのかはやや気になるところだったが、「いい子」だと思われていて悪い気はしない。深くはつっこまないことに決め、片肘をついたままの兄さんの頬骨にキスをする。口許が手で隠されていたからだ。
兄さんと目線を合わせると、青い瞳が期待するように揺れているのが見えた。
こう言う表情を見るたびに、同じ家に住んでるのに、僕が構わないだけでそんなにさみしいのかな、と愛されすぎていることを自惚れそうになってしまう。
だけど、この自惚れは正しいような気がしていた。
顎から手を外した兄さんが、僕の肩に手を伸ばして引き寄せてくる。
自分だってしたかったのに、まるで兄さんに応えるふりをしてキスをする。
何度か唇を触れ合わせて、兄さんの頬に手を添えた。額が触れ合うほど近くなり、鼻先が触れ合う。視線が合い、まつ毛が触れ合って、くすぐったさに思わず笑った。
言葉もなくキスを再開して、兄さんの身体を服の上から撫でる。
夕食の前に愛し合う時間が必要だった。
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