明け方にふらふらの体で帰宅した《シド》は、「今度こそベッドに縛り付けてやる」と激怒したタルヤによって医務室へ引きずられて行った。それ自体は時折見る光景なので、早起きの面々に微笑ましく受け入れられ、さほど記憶に残らない出来事だった。
医務室はプライバシーの観点から隠れ家で最も音の漏れにくい構造になっており、昏睡した患者がいる場合は布や板で仕切って簡易的な個室が作れるようになっている。《シド》の——クライヴの疲弊した顔や大怪我を大っぴらに見せるのは隠れ家の士気に関わる為、今回も例に漏れずクライヴは板と布で仕切られた部屋の奥に押し込まれていた。
それが幸いし、昼過ぎにクライヴが悲鳴を上げて飛び起きるのを聞いたのは、タルヤとたまたま医務室を訪れていたガブだけだった。
「クライヴ?」
どーしたどーした、とガブがのんびりした声でタルヤと共に様子を伺えば、慌てて起き上がったものの疲弊し切っていたせいか、そのままベッドから落ちたと思しきクライヴの姿があった。
「何やってんだよ。お前働きすぎだぞ——ってどうした?」
肩を貸してクライヴを起こしつつ顔色を窺えば、きょろきょろと忙しなく視線を動かしながら真っ青な顔で部屋の中を見回している。
「ジョシュアは……」
「若様? 昨日、お抱えの調査団が何か情報を掴んだだとかで出かけて行ったでしょ。確か明日には戻ってくるんじゃないかしら」
ベッドに戻って、とタルヤがガブと一緒にクライヴの肩を掴みベッドに戻すが、「そんな場合じゃない」と抵抗される。
「ジョシュアになにかあった気がするんだ」
「あったらストラスが飛んできてる。連絡はない」
「だが」
縋るような目で見つめてくるクライヴに眉を顰めつつ、タルヤは「ない」と首を振る。クライヴの目を見つめて、ガブに「押さえといて」と告げると薬を取りにその場を離れる。
「落ち着けよ。ジョシュアなら大丈夫だってお前いつも言ってるだろ?」
「本当にストラスは飛んで来ていないか? これから来るんだったら今すぐにでも——」
「待て待て待て」
怯えたような表情でやはり立ちあがろうとするクライヴの肩をガブが必死に押していると、注射器を持ったタルヤが戻ってくる。
「いいから大人しく寝てなさい。若様は平気。これは医者の勘」
タルヤは素早くクライヴの腕に注射をすると、飲め、と言って無理やり口を開けさせ何かの薬液を流し込む。数秒抵抗していたクライヴだったが、やがてぐったりと力が抜け、ガブに体を預けながら「くそっ……」と小さく悪態をつく。
「それなに?」
「猛獣用の麻酔」
こえ〜、と内心怯えながらタルヤを見返したガブに、タルヤはしれっとした顔で答える。
「……………………」
「冗談よ。まあ、鎮静剤みたいなものね。——ともかく、いいから今日は大人しく寝てなさい」
じゃないと本当にベッドに縛りつけるから。
抵抗もできずにぐったりとしているクライヴを再びベッドに横たえさせながら、タルヤは深いため息を吐いた。何度言っても無茶を通すこの男を休ませるのはいつだって至難の業だったが、弟のこととなると殊更難しい。もう少し体力が戻っていれば飛び出して行ったに違いなかった。
「オットーにもしストラスが飛んで来たら教えるように言っておいて」
「へいへい」
*
タボールで教団から調査結果を受け取り、深夜に帰還したジョシュアは、「疲れてるところ悪いけどちょっと来てくれる?」とタルヤに声をかけられた。
不寝番の《石の剣》の面々以外は寝静まっているはずの時間帯にも関わらず働いてる様子のタルヤが心配になり「僕の薬ならまだ余裕があるから、明日でも大丈夫」と答えるが、タルヤは首を振り「クライヴが呼んでる」と声を潜めて口にした。
「兄さんが?」
釣られて声を潜めるジョシュアに頷き、タルヤは少し疲れたようにため息を吐きつつも、ジョシュアの全身をじろじろと観察する。
「所見なし。若様、出かけている間に大怪我してそれを隠してる……なんて事ないわよね?」
「え?」
突然妙なことを言い出したタルヤに、ジョシュアは首を傾げる。傍のヨーテも不思議そうな表情でタルヤを見返し、「特に報告すべきことはありませんが……」と口にした。
その様子にタルヤは盛大なため息を吐きつつ、安堵したように肩を落とした。
「ならやっぱりクライヴの思い過ごしね」
状況が掴めず困惑するジョシュアに説明をするつもりは特にないのか、タルヤは「来て」と踵を返した。
ジョシュアはヨーテと顔を見合わせてから、「君は先に休んでいてくれ」と持ち帰った報告書を一旦彼女に預けて、タルヤの背を追いかけた。
彼女に導かれ、ジョシュアが灯りの最低限に搾られた医務室の奥へと向かうと、眠っているクライヴの姿が目に入った。血の気の失せた青白い表情にギョッとすると、「ただの疲労よ。心配しないで」とタルヤはジョシュアの疑問を先回りして答え、悪いけど付き合ってあげて、と不思議なことを言う。
「——クライヴ、若様が帰ってきた」
タルヤが眠っている様子のクライヴに小さく声をかけると、ぱちりと青い瞳が開き、「ジョシュア、」と掠れた声が落ちた。ひどく不安そうな声に驚き、「ただいま」を言う間もなく、ジョシュアは「兄さん?」と呼びかける。
その声にハッとしたように、けれども体がうまく動かないのか、ずいぶんとゆっくりした動作で、タルヤに補助されながらクライヴが上半身を起こす。じっとジョシュアを見つめ返しながら手を伸ばしてくる兄の様子に、ジョシュアはただならぬものを感じてそばに寄ると、ひんやりとした指先で、まるで確かめるかのように頬を撫でられた。
「じゃあ、私はあっちにいるから。なにかあったら声をかけて」
説明もなく去っていくタルヤに返答をする余裕もなく、ジョシュアは様子のおかしいクライヴに「どうしたの?」首を傾げて、だらりと落ちているもう片方の手を握った。
「なんともないんだな……?」
青い顔で頬を撫でてくるクライヴに「え?」と首を傾げると、ほっとしたようにため息をつき、「お前が酷い怪我をするのを見た」とやはり確かめるように頬に触れる。冷たい手のひらに段々と熱が戻ってくるのを感じながら、ジョシュアは、「いやだな、僕はこの通り怪我なんてしてないよ」と微笑んだ。
「そうか。……また悪い夢か」
どんな夢を見たの、とは、ジョシュアはあえて尋ねなかった。きっと碌でもない夢であることは明白で、わざわざ口にさせて記憶に残すような真似はしたくなかったからだ。
代わりに、小さく震えるクライヴを安心させるように抱きしめて、「ただいま、兄さん」とジョシュアは兄の背を撫でた。
*
血溜まりに、幼いジョシュアが沈んでいる。ぱちぱちと炎の爆ぜる音がうるさい、月の浮かぶ夜だった。
何度も見た悪夢の——悪夢だとわかってはいた——光景に、クライヴの思考が止まる。目を瞑りこれは夢だと言い聞かせるが、夢は覚めず、ごう、と炎の燃える音が耳に響くばかりだった。
目を開ければ現実が見えるかもしれない。そう感じ、瞼を開けるが結局光景は変わらない。
化物が——自分が——喰い殺したジョシュアが、四肢を投げ出し、臓物を撒き散らしたまま事切れている。
光を失った青い瞳が、じっとクライヴを見つめていた。血に濡れた唇は薄く開かれていたが、そこから吐息すら溢れては来なかった。ジョシュアの白い肌は血で汚れ、髪は半分以上炭化していた。
クライヴは血溜まりに膝をつく。まだ暖かなジョシュアの血が肌に触れて、あ、と意味のない声が溢れる。喉が戦慄き、体が震える。
俺がやったのか。嗚咽しながら、手を見下ろした。鉤爪の手は血に汚れ、呼気を吐く口からは鉄錆臭い味がした。
全身を見ると、体は炎に包まれ、黒々と輝いていた。
クライヴはジョシュアの体をかき集め、どうして、と声を上げた。けれどもそれは到底人間の声ではなかった。涙声はただの咆哮となり、集めたはずのジョシュアの体が炎に包まれる。
叫ぶクライヴの腕の中で、炎に包まれたジョシュアの体が燃える。
そこで目が覚める。
——筈だった。
いつもであればそこで終わるはずの夢が、まだ続く。
腕の中で燃え尽きるはずのジョシュアの残骸が、輝きながら肉体を形造って行くのが見えた。
炎が広がり、長い手足が視認できるようになる。金髪の巻毛がクライヴの鼻先を擽り、長い睫毛に縁取られた青い瞳がゆっくりと開く。
『どうして泣いているの? 兄さん』
優しい声で、二十八のジョシュアがクライヴの濡れた頬を撫でる。
ジョシュアを抱える自分の体は、いつの間にか人間に戻っていた。
呆然とジョシュアを見下ろすクライヴに、ジョシュアが瞳を細めて微笑んだ。
『大丈夫。僕は兄さんに殺されたりなんかしないよ』
——ハッ、と目が覚めた。
クライヴは早鐘を打つ心臓を押さえながら、はぁ、と長く息をついた。一時期は良く見た、けれども今夜のはいつもと少しだけ内容の違う悪夢だった。
全身に嫌な汗をかいており、不快感に身じろぐと、そばで誰かが小さく声を上げたことに気がついた。
「ジョシュア」
床に膝をついたジョシュアが、ベッドに上半身を突っ伏すようにして眠っていた。
昔の感覚で脇を掴んでベッドに引きずりあげようとしたが、体重も身長もあまりに違いすぎて一度では上手くいかない。
「……ん……兄さん?」
「お前、なんでこんなところで」
と言いながら、ここが自室ではないことにクライヴはようやく気がついた。一昨日か昨日からか、最早それすら朦朧としていて定かではなかったが、タルヤに強制的にベッドに「縛り付けられた」ことをやっと思い出し、後で謝罪するだけしておこうと決める。
寝ぼけたジョシュアがあくびをしながら、中途半端に引きずり上げられた体をずりずりと引きずってベッドに乗せる。
「ん?」
そのままクライヴの体をベッドに押し倒して抱き寄せると、よしよし、と頭を撫でて寝息を立ててしまう。
「おいジョシュア……」
声をかけ腕を叩いてみるが、ジョシュアは再び寝入ってしまったのか、今度はクライヴの声にぴくりともしない。
ジョシュアの柔らかな金髪と寝息が頬をくすぐるのを感じながら、クライヴも諦めて再び瞼を下ろす。
なんとなく、この悪夢を見ることは二度とないだろうと感じていた。
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