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ながひさありか
2018-04-09 20:51:39
2874文字
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Domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam
FGO:サリエリとアマデウス(ややサリアマ)
・獣の話/生前/捏造多数
今すぐこの場から音を立てずに去れ、と彼の中の天使が耳許で囁いていた。しかし彼のつま先は、まるで演奏直前の緊張維持を失敗したかのように、振り上げて構えた指が重力のままに不意に鍵盤を叩いて音を鳴らすかの如く、傍らの戸棚を蹴っていた。鳴りはじめた音楽は、終止線を迎えるまで止めることを叶わない。アントニオ・サリエリは、そうして気まずく顔を上げた。
蝋燭を掲げた彼の眼前には、明かりの消えたホールの真ん中で、ピアノ椅子に腰を下ろし、長い金の髪のはしが床を擦るほどうなだれた、神に愛されし男の姿があった。しかし彼の白磁の相貌からは、平素の無邪気さや快活さは失われていた。サリエリの立てた音に顔を上げた彼は、青ざめた肌に不釣り合いなほど耀く翠玉を浮かべていた。眦が微かに濡れていることに気がつき、サリエリは思わず息を飲んだ。
「えーっと、
……
僕に何か用? それとも単なる覗き趣味?」
「覗きなどするか! いや、ではなくてだな
……
」
気まずい空気を破ったのは、長い金の髪を重たそうにたくし上げて、姿勢を正した男の子どものように明るい声だった。ケタケタと笑って、まるで数旬前の姿はまぼろしだったかのように無邪気に笑っている。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。狼と神に愛されし名を有する、年下の神才。
鍵盤の蓋を閉めたアマデウスは、サリエリの動揺に気がつかないかのようなそぶりで、ピアノ椅子に両手をつくと、ぷらぷらと長い足を揺さぶって暗い天井を見上げた。
「お前の助手が『先生の姿が見えない』と慌てていたから
……
大方ここだろうと」
演奏会の後に姿を消したアマデウスに、彼の助手はほとほと困り果てていた。話を聞けば、「ここで待っていたまえ、今夜の僕は嵐の如く帰還するからね」などと言いつけられていたのだという。しかし待てど暮らせどアマデウスは姿を現さず、帰りの馬車を待たせて街中を探し回っていたらしい。
「ふぅん。それでもなんだって君が? 別にジュスマイヤーを寄越せば良かっただろ」
助手の名を出し、不思議そうな声を出すアマデウスの視線は天井から動かない。サリエリは一体何が見えるのかと自らも視線を上へ向けるが、そこには梁の模様も、天使の絵も見えなかった。もちろん星もない。ただの暗い空間があった。
彼は一体ここで何をしていたのだろう。音を鳴らす直前、彼は真っ暗なホールのピアノの前で、両手で顔を覆って何かに耐えているようだった。これが彼ではなく、ほかの音楽家であれば「そういうこともある」と気にも止めなかっただろうし、サリエリのつま先は音を立てなかったはずだ。眼前のこの男はいつでも、どんな時でも、馬鹿みたいなことを馬鹿みたいに笑って、美しいものも汚いものも隔てず、きらきらとけたたましく己の存在を輝かせながら宮廷で、街で、そしてサリエリの目の前で、音楽神に愛された姿を惜しみなく晒していた。心の機微を精密に五線譜に書き写す術を持っているくせに、人の心を読まず平気で踏みにじりながら、天使の顔で、悪魔のように笑う男だった。たしかに音楽の才能はこの時代の誰も彼に及ばず、どんなに生意気なことを口にしようとも、最後には実力で口を噤ませ、耳を傾けさせる男だった。彼は友人ではあったが、しかしサリエリにとって一番の敵にほかならなかった。
彼に惹かれる己を許せない。しかし彼に惹かれないものはどうかしている。誰も彼もが彼を愛すべきだとそう思っている。しかし彼の音楽の才に対する嫉妬の炎は常にサリエリの胸に燻ったまま存在していた。別にサリエリが特別嫉妬心が強いわけではない。音楽家は誰しもそういう側面を持つ生き物だ。
しかしアマデウスは違うのだろう。彼は、己は誰よりも才があると知っている。他者に嫉妬する必要すらないほど、優れていることを知っている。彼の神は彼自身であり、他の誰の価値観にも揺るがない。
——
そんな男が、まるで凡人のように、悩み苦しむような姿を見せていた。偶然、あるいは運命のいたずらか、他の誰でもないアントニオ・サリエリの前で。
「
……
お前はここで何を見た」
「僕の質問に対する答えになっていないぜ。
……………………
まぁ、
——
君ならいいか」
小休止。フェルマータを置くように長く息を吐いたアマデウスが、天井からサリエリへ視線を下ろす。そっと手招きする影が見えて、サリエリは蝋燭の火を揺らめかせながら彼の側へ寄った。ちらちらと揺れる炎がアマデウスの髪に暗い橙色の波を立たせるのが見えた。アマデウスの指と顔が先ほどよりもはっきり見える。アマデウスは薄く微笑みをたたえて、もっと寄れと視線で訴えた。
訝しみながら蓋の上に蝋燭を置いたサリエリは、アマデウスに視線を合わせるように膝を折る。pppからオーケストラを再開するように、小さな吐息がサリエリの耳を打った。内緒話をするように、アマデウスがサリエリの耳許に唇を寄せている。反射的に体を引きかけて、くすりと笑う声にどうにかその場で留まる。
「君、獣の話は知っているかい」
「
……
獣?」
「魔術の話さ。どう?」
「
………………
」
アマデウスの髪が頬に流れてくる感触に居心地の悪さを覚えながら、サリエリは思案する。誰にも音楽魔術の話をしたことはなかったが、どうやら彼もそうらしい。
「いつ分かった」
「最初から、というか、君ほどの音楽家が知らないとは到底思えない。ましてやウィーンの宮廷お抱え音楽家が魔術を知らないなんてありえないだろう?」
ウィーンはロンドンにおける時計塔といっても過言ではないが、音楽家は協会ではなく教会側の人間だ。神の教えを説くのに音楽は最も適した媒体で、だからこそ地位の高い音楽は魔術の知識もいくらかはある。
しかしアマデウスの語る「魔術」は、おそらくは協会側に近しいだろうとサリエリは悟った。
「僕の中には獣がいて、そいつはいつだって僕に優しい声で話しかけてくる」
自らの胸に指をついて、アマデウスが歌うように囁いた。サリエリは彼の声に導かれるように顔を後退し、揺らめく炎の中で瞼を下ろし、長い睫毛の影を落とす美しい頬を見つめた。
「こいつは僕が今にも音楽という愛を捨て、獣になることを望んでいるのさ」
「
……
おまえが音楽を捨てる? 馬鹿馬鹿しい、そんなことはありえない」
吐き捨てるようなサリエリの言葉に、くすくすとアマデウスが笑う。炎に金を震わせて笑うその姿は絵画の悪魔のようだった。人々を堕落させる快楽の象徴のような、星さえも彼の前では姿を隠すような甘やかな笑い声だった。
「っ、何がおかしい。まさか私を図ったのか?」
揶揄われたと感じたサリエリが怒声を上げる。
アマデウスは答えずに眦を下げてサリエリを見つめ返してからしばらくののち、ふぅ、とアフロディテに風を送るゼフュロスのように蝋燭の炎を吹き消した。
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Miserere/主よ、我が唇を開き給え この口は御身への賛美を歌わん
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