ゆい
2023-12-20 20:22:34
3642文字
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神と祝福は細部に宿る

パリで同棲する二人の話。フォロワーさんからいただいた短歌が素敵だったので書きました。


うつくしいものに触れる時、息を止める癖がある。
うつくしいものは大抵が緻密につくられていて、よく粗忽者と窘められるおれには扱いが難しい。だから、全ての関心を指先に集中させてしまうと、呼吸なんておざなりになって当然だった。それとも、自分では到底辿り着けなかった類の美しさに、飲んだ息が吐き出せないと評した方が正しいだろうか。どちらにしろ、自分が見初めた美しさに五感に加えて酸素まで奪ってもらえるのなら、それは恐らく喜ばしいことだ。おれなんて見向きもせずに燦然と君臨する価値は、冷たい分だけその正しさを一方的に安心出来たから。そうやって尊重と盲信を履き違えながら息を殺していた頃がいつ終わったのか、今となってはもう思い出せない。ある日突然、とか、気付いた時には、みたいな感じもするけれど違うかもしれない。でも、きっかけがお師さんだったことだけは分かっている。おれにかかった下らない呪いを解くのは何時だってお師さんだ。

「痒いところはありまへんかぁ」
「巫山戯るなら、櫛は回収するよ」
「んあっ、ごめんなさいちゃんとやりますぅ」

顔は見えずとも仏頂面が透ける声色に、慌てて櫛を持ち直す。肘置きは無いタイプの椅子に腰掛け、付箋だらけの舞台の台本に目を通すお師さんの髪はこんな夜更けでも星空のように輝いていた。おれは熱心にページを捲るお師さんの背後に立って、大人しく櫛を動かす。相棒の艷やかな鼈甲色の櫛はおれの手にも収まってしまう程に小さい。だけど、一度握ればしっとりと手に馴染んでどんなヘアアレンジにも応えてくれる。コーム、という呼び方を前に教えてもらったけれど何だか口に合わなくて頑固に櫛で通していたら、いつの間にかお師さんも同じように呼ぶようになってくれた。お師さんお気に入りのブラシは他にも沢山あるけれど、おれが一番好きなのは素朴で綺麗なこの櫛だ。だから、お風呂上がりに髪を整える暇も惜しんで芸術を究めるお師さんを見た時、真っ先に掴んで梳かせて欲しいと頼んだ。淡い桃色の髪は細く柔らかな癖っ毛で、肌に触れると綿毛のように擽ったい。日々のケアの賜物として輝く一房一筋をこの世の宝であれと願いながら整える時、おれの呼吸は時々止まる。いくら意識して触れたとしても、これはもう死ぬまで直らない癖だ。おれが知る中で最も尊いいきものに手を伸ばすのだから、呼吸なんて蔑ろになって然るべきだれど。

「夜遅くまでお疲れ様やね」
「あと数日で幕が上がる。疲れたなどとは言ってられないよ」

造作も無くこちらの心配を言い退けて、溜め息と一緒に絹の髪が桜のように揺れる。どんなに仕事が立て込んでいても、決して自らのことも疎かにしない正しさが好きだ。お師さんがどれだけ時間と手間を掛けて己を極限まで磨き上げてきたのか、その努力と執念を知ってはいても触れる度に指が震えた。この黄金より価値のある身が窶れて萎れて乾ききっていた頃を、おれはまだ鮮明に覚えている。生命の維持すら殆ど放棄した毛布の奥に必死で掛けた声も、手も、言葉も。そんなこともあったね、とお師さんみたいに笑い飛ばすことはまだ出来ない。かさかさの指に厚く保湿剤を塗り、誰にも見せない服の襟を何度も直して、艶の無い絡んだ髪を一つずつ解いていく。エンドロールみたいな毎日を出来るだけ丁寧に何でもないように過ごして、少しずつお師さんが息を吹き返すのを待った。長い長い深呼吸を終え、ステージに返り咲いたお師さんはもう綻びなど一つも見せず完璧に笑う。全てをお休みしていた頃の乱れは自分で一から仕立て直していたから、こうしておれがお師さんの髪を梳くことも少なくなった。どうすればここまで見違えることが出来るのだろう。翳り一つ見当たらない天使の輪っかを避けるように手を動かして、何度目かも分からない謎を思う。手の動きに合わせて揺れる髪の毛の一本まで、目を見張る程に美しい。蜘蛛の糸、の喩えはきっと不敬だと怒られるだろう。だけど、実物や物語を踏まえた上であっても、おれにはその春色が何時だって唯一の命綱だった。不遜で尊大で頂点だった時も、摩耗し自壊し底辺だった時も、羽化と変転の末に再起を果たした今ですら。
微塵の抵抗も感じさせずに滑る櫛を何度も上下させて、お師さんの輝きを増やすお手伝いをする。お師さんは一人で勝手に何度だって生まれ変わることが出来るけれど、時々はおれにも要らぬお節介を焼かせて欲しい。いつかまた喝采と賞賛が欠けてしまった時、すぐさま取り出して隙間を埋め尽くせるように祝福はいくらあっても良い筈だから。
ぱたん、と小さな音がして分厚い紙の束がお師さんの膝の上でおしまいを迎える。髪もそろそろ艶めき終わったし、明日に備えてもう寝てしまおう。梳く手を止めてそう声を掛けようと息を吸った途端、流れ星のように光が跳ねるから思わず呼吸に躓いてしまった。くるりと振り向いた菫色は凛と澄み渡り、二の句を忘れたおれを映す。うつくしいな、と思った時にはもう息を止めていた。急いでお腹に力を込め、肩まで使って新しい酸素を取り込むまでを見届けてから、お師さんは静かに右手をこちらに差し出す。

「櫛を貸したまえ。次は僕がやろう」
「おれはええよ。あと寝るだけやし」
「僕だってもう寝るばかりだったよ。ほら、交代」

こうと決めれば運命にすら譲らないおひとがおれなんかの話を聞く筈も無いので、素直に櫛と場所を渡す。椅子にはお師さんの熱がまだしっかりと残っていて、得したなと勿体無いなが入り混じった収まり悪い心地がする。おれの心中など知る由もないお師さんは、反対に存外楽しそうな表情でおれの膝に用済みの台本を置いて踊るように背後へ回る。すぐに降ってきた程良い硬さは寸分違わずおれの綻びを解き、あっという間に何でもない黒を夜空のそれに変えてしまう。お師さんの指は、この世界にうつくしいものを生み出す為にある。生まれ持った才能に驕らず、血の滲む研鑽を誇らず、茨の道でたったひとりでも滔々と理想を語るひと。このひとの手で永遠になれなかったことを、きっと死ぬまで悔やむだろう。だけど、完璧な一瞬を目指して何度でも共に高みへ手を伸ばし続ける今も、確かにおれが喉から手が出る程に望んだものだ。
一通りの確認が終わったのか、ふと櫛の感触が頭皮から離れる。代わりにつむじの上へぽんと重みが乗り、掌の形に温もりが広がっていく。これはこのひとの癖、機嫌が良い時に無意識で出る優しさの欠片。

「一人でもきちんと手入れしていたようだね」
「当然やん、適当にやったら誰かさんに怒られるもん」
「賢明な判断だと思うよ。誰かさんもきっと喜んでいることだろう」

おれの軽口にも珍しく乗るくらい浮かれた声に思わず顔が見たくなるけれど、掌の心地良さに結局動けず下を向く。何が気に入ったのか分からないが、お師さんが楽しそうならおれも嬉しい。あやすように擽るように髪の上を踊る指が温かくて夜更かしの目蓋がゆっくりと重くなってくる。こうしてお師さんに触れてもらうのはいつぶりだろう。おれはやりたいことに追われていきいきと駆け回るお師さんが好きだから、構ってもらえるのなら片手間でも空き時間でも嬉しい。だけど、そこは人間になったので今みたいにおれだけを見てくれる瞬間があればもっと手放しで嬉しいから。一秒でも長くこの贅沢を堪能したいと思いつつ、このまま微睡めたら更に贅沢だななんて不埒な夢も見てしまう。

「君には随分寂しい思いをさせたね。この仕事が片付いたら手も時間も空くから、旅行にでも行こう」
「旅行も良いけどお家でのんびりせぇへん?家事も何もやらんで映画観て本読んでごろごろするの」
「流石に怠惰が過ぎる。まぁ、どちらにせよ休暇までお互いもう一踏ん張りだ」

やけに明るい言葉が頭上で弾け、それに続いて後頭部に指とは違う圧と熱を感じた。違和感に一秒惚けて、すぐに理由へ感情が追い付く。今度は居心地に負けずに思い切り振り向き顔を上げれば、予想外に穏やかな笑みを浮かべたお師さんがすぐそこに居て、用意した声も次の呼吸も見失ってしまう。

「僕が居なくとも君が健やかで在れますように。‥ただの気休めだけど、おまじないをかけておくよ」

君、こういうの好きだろう。理知的な瞳に意地悪な光が満ちて、してやられた間抜けなおれが丸く歪んで映っている。麗しく吊り上がった唇も僅か持ち上がって柔らかく笑む頬も、腹立たしいのに美しくって堪らない。触れてもないのに自然と疎かになる息継ぎの合間、酸欠のせいか顔中が酷く熱い。多分ぎこちなく強張った頬を余興とばかりに触れてくる指先は、まだ嘘みたいに平熱なのに。おれが好きなのはのろいでもまじないでもなくて、くそったれな世界に居ても美しさを失わずに生きるお師さんだけだ。余裕綽々な顔にそう言い返したかったけれど、結局今夜も見惚れたままに息は止まって為す術も無く恋に落ちた。