古賀峰十一郎
2018-03-27 01:13:44
1420文字
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黒猫はまた蝶の夢を見る

黒猫坂燈熾と黒猫坂よみやの話◆「モビールの蝶は飛んでいかないから、嫌いじゃないんだ、本当だよ」

 俺にとって青い蝶というのは実のところ憎むべき対象ではない、何といってもそれは俺が尊敬してやまない魔法使いの肖像だからだ。

 今でも鮮明に思い出せる、いや、そこにいくらかの美化や脚色が無いと言えば頷く自信もそうないので思い浮かぶと言うべきだろうか。何せそれは生まれてから初めての春、記憶があると言い張れる方がおかしいほどに懐かしく、しかし幼少期から繰り返し繰り返し夢に見てきたそれを俺は確かに≪思い出せる≫のだろう。
 その日、母に抱えられ祖母の屋敷へ挨拶に行った俺をもてなしたのは祖母の弟子、俺と同じ苗字を名乗る少年だ、きっと俺が何度も観て識っているより少し時間の経って大人びた顔をしていたんだろう。すっかり丸みが取れ指のほっそりとした手を、丈の少し足りない制服の袖を。顔は思い出せずともそれは思い出せる。
 母を待つ間、よみやさんにつれられたのは屋敷の庭にそびえるゴシックな温室。中央の簡素なテーブルに小さな揺り籠のベッド、傍からすればまるで生贄にも見える光景だ。彼は何かを口ごもってテーブルから離れたが、大した手間ではなかったようですぐに戻ってきた。
 どこか太宰の文学のような影と、初夏のような汗ばむ温度と、凪いだ海のような制服の青と、白い指によく映えるフリルのような花の赤色。母よりも低く、父よりも幼い声音。
「君、きっといい演者になるよ」
 俺はあの今にも零れんとする手一杯の薔薇の甘い匂いを忘れないだろう。
「これは、先輩からのささやかなプレゼントだ」
 俺はあのむせ返るような紅く蒼い蜃気楼の鮮やかさを忘れないだろう。
「特別だよ」
 俺はあの少年特有の硝子細工のように繊細で慎重な笑みを忘れないだろう。
「君を祝福しよう」
 恭しく俺の鼻先に1つ抜き取った花を寄せると、花弁はばらばらと散り緑の指に残るは枯葉のような蛹。
 ぱり、と弾ける音が1つ。それは確かに息衝いていた。目の前で羽化するモルフォは、煌めく青色の鱗粉を逆光に透かして生きていた。
 踵を返す青色を背景に、ひらりと飛びたった涼やかな蝶が父さんに貰った俺の緑色に止まる。
「歓迎するよ同胞」
 三日月のように細められた緑の瞳が夜道の猫の金色に光ったように感じた、瞬間、世界が青い爆発に包まれる、一斉に羽ばたいた群れが向かいのテーブルにふんぞり返る彼に謁見し集う。その真ん中で微笑む少年の姿はまるで妖精の王様だった。

「俺の庭へようこそ、燈熾。縁が合ったらまたおいで」

 伝う言葉もまだ持たぬ俺はただそれを眺めているだけだった。ほどなくして迎えが来て、蝶は赤い花弁に舞い戻る。俺は屋敷から慣れたサーカスのテントへ帰り……それきりだった。それきり、俺はあの人に会っていない。何度屋敷を訪ねても彼は居なかった。王の居ない蝶園は時間が止まったように記憶のままで、探せばどこかに主がいるのではないかと錯覚するほどに変わりない。だからこそ、だからこそあの一匹の青い蝶が目に付いたのだろう。何でも持っている父さんの弟子の、前髪に止まる青いモルフォ蝶。飛び立つことなくそこへ固定された肖像。彼の愛した妖精がそこにいた。俺がつかめなかったものがそこにあった。今でもあの光景をありありと思い出せるのは届かないが故の焦燥のせいだろうか。
 ああ、あの瞬間、青い蝶は、王の特別な祝福は確かに俺の手にあったのに。

 俺に、パッチワークの造花には、今日も蝶は止まらなくて。