祭子
2023-04-27 13:19:35
27208文字
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■SANCTUARY Ⅲ■

∠[ν]-εγλ0010/10
エアリスはルーファウスのおかげで思い出不信を克服しました。次は新しい思い出づくりに勤しみます。
※Privatter掲載テキスト(20230423初出)

■SANCTUARY Ⅲ■
∠[ν]-εγλ0010/10
TWILIGHT ON THE FIRST DAY


 くん、とエアリスは鼻先をひくつかせた。
 寄道はしなかった。ステーション通りから中心地区をひた走る。
 花香る小道、その少し先に赤い鉄柵が見えた。ひしゃげたそれに乗り上げながら、クアッドバイクが減速を始めている。ハンドル操作を邪魔しないよう、彼女は視覚と、そして嗅覚であたりをうかがった。かつて、伍番街スラムのにおいは複雑だった。それが今はどうだろう。
 小さなエアリスには嫌いな建物があった。下水処理施設だ。
 上部プレートのためのそれが、どうしてだか下層のプラントエリアにあることが、彼女には不思議でならなかった。風向きの悪い日は、街中にまで臭気が充満するものだから、たまったものではない。咽せ、そのたびにエアリスは鼻を押さえた。大人たちはというと、幼女の正直な仕種をかわいらしいと笑い、そして諭した。六番街のプレート崩落以降、伍番街はまだ換気のいいセクターなのだと。
 小さなエアリスは学んだ。街が機械油や板金、洗濯と炊事。生活のにおいにあふれているとき、代わりにほかの街がとんでもないことになっているのだと。何となく申訳のない気持ちになりながらも、それでもやはり『いいにおいの日』が巡ってくると、彼女は心かろやかになるのだった。
 それ以上にエアリスを魅せたのは、近所の人々たちだ。気まぐれな風へ、上層に住める人々へ、そして神羅へと悪態をつきながらも、スラムで生き抜くことのできる強健さだった。
 クアッドバイクがひときわ大きく唸った。エアリスはわれに返る。
「到着だ」
 ちょうどルーファウスが上体を起こしたところで、彼女は伸びをした。今度は鼻腔いっぱいに息を吸った。夫の体臭と排気以外に、大人のエアリスは何も嗅ぎ取ることができなかった。
 乗物を停めるとき、ルーファウスは――タークスも――ゲインズブールの家付近にある空地を使う。違うかな、とエアリスは何とも言えない気持ちになる。
 目の前にあるのは瓦礫の山だ。だから、空地だった、が正しい。
 孤児院からほど近いところにあるのだから、当時、子供たちの遊び場になることは必然だった。小さなエアリスも走りまわっては、よく転んだ。いつもは女丈夫な母親が、このときばかりは血相を変えた。
 孤児への――しかも大変ないわくつきなのだという自覚を、エアリスはかかえていたので――エルミナの献身を、彼女はとても喜んだ。同時に身勝手さを恥じてもいた。他者が他者のためにおろおろしているというのに。まして原因はエアリス当人だ。それを嬉しく思うなんて、と。
 消毒は沁みた。けれど、それ以上に痛くてがまんできなかったのは、彼女の胸のほうだった。
「かわいかったなあ、わたし」
 ルーファウスの胸にもたれる。もうシートベルトはいらないというのに、逞しい片腕が彼女の腰骨に巻きついた。エアリスは声もなく笑った。
「誰が、かわいらしいだと」
「神羅から逃げてきた、小さな、小さな、エアリスちゃん」
 小さなエアリスは、あぐねてもいた。
 心配をかけまいと患部を隠せば、母親がこっぴどく叱る。そのあと決まって、エルミナはさびしそうな顔をした。つられてエアリスも苦しくなった。
 せめてしとやかにと心がけたところで、遊びに夢中になれば忘れてしまう。エアリスがたびたび汚れて帰宅するものだから、さすがにエルミナも呆れたらしい。
「あんたにやらせると、泥をちゃんと流さないだろ。よくお聞きよ。スラムのばい菌はね、私よりうんと怖いんだからね」
 だとか。
「何でこんなに鈍くさいかね、この子は。手伝いは朝と晩でいいから。昼のうちは目一杯遊んで、もっと足腰を鍛えておいで」
 だとか。
 小言交じりに、それでも母親が手当をするのだと譲らなかった。
 胸より、消毒が痛むようになってからは、エアリスは逃げた。するとエルミナが怒る。二人の追いかけっこが始まる。だからエアリスが怪我をするたび、ゲインズブール家のリビングから明るい笑声は絶えなかった。
 こんな風にして、母子のあいだから遠慮という邪魔者がいなくなったのは、いつのころだったか。
 エアリスは首を捻ってみるものの、あのとき、というはっきりとした起点は、どこにも見つからなかった。素晴らしい日、最悪の日、何もない日。彼女のいとおしむ人とすごした日々のどこかへと、紛れてしまったのだろう。
 エアリスの笑み顔がさらに深まる。誰かと誰かの関係もまた同じだと、彼女は思った。
「どうした」
 耳のなかに、ルーファウスのバリトンがしのびこむ。
 『誰か』の胸に、エアリスは頬を擦りよせた。硬いのに弾力がある。そして、ルーファウスはいつも心地のいい心音をしているのだった。
「ここに来るたびにね、思うの。わたしの大切な場所、全部ぐちゃぐちゃ」
「ぐちゃぐちゃだな」
「でもね、思い出って、ちゃんと残るね」
「ああ、思い出か。半分セトラの生傷が絶えなかったという空地は、そうだ、確かここだったな」
 エアリスは目を丸くした。『半分セトラの大冒険』のなかでも当人ですら、話したっけ、と忘れていたエピソードだった。身体を起こせば、睫毛のふれそうなところにルーファウスの――悪童のような――口元がある。
「お前は昔からのろくさい。エルミナの呆れる気持ちが、よく分かる」
 余計なことを言うくちびるには、エアリスは遠慮なく噛みつくことにしている。けれど、今はしない。伍番街の初めてのキスは、家のなかですると彼女は決めていた。
 代わりにエアリスは彼の肩口を頭突く。
「反射神経は、そう悪くないというのにな。どう活かしたものか」
 ふむ、とルーファウスが思案顔をしている。彼の頭のなかでは、エアリスのトレーニングメニューが練り直されているに違いない。手加減して、と睨もうとするそばから、彼女の頬はゆるんでいく一方だった。
 三つもの素晴らしいことが、今、彼女の目の前で重なったからだ。
 一つ目は、ルーファウスの記憶力だ。
 たとえ彼が憎体な口を利くのだとしても、エアリスはかまわなかった。それはルーファウスが彼女の長い冒険譚の、些細な挿話まで覚えているということだからだ。
「あなたったら、そうやって減らず口ばっかり、叩くから。ルーファウスのこと止めるの、上手になったよね、わたし」
「手と足と、ああ、そうだった。お前は頭まで使うのだったな。私と違い、物理的にだ」
 ルーファウスの表情が変わる。ふふん、と鼻を鳴らしそうな顔は、彼女をからかうときのサインだ。
「タークスには前蹴りが利くのだったか。お前の足技を食らったあいつは、相当悔しかったらしいな。得物を、わざわざ短銃から体術に変えたくらいだと聞いている」
「そうだったの。だって、あれってあの人が。ううん、わたしのせいなら、どうしよう」
「気にするな、今更だ。勇敢だったぞ。なあ、小さなエアリスちゃん」
 エアリスはわずかに赤くなる。
 ルーファウスの言う「あいつ」は、当時の新人タークスだった。
 九歳のエアリスにとって、神羅の黒服は人さらいだ。しかも子供の誘拐など、スラムですら嫌悪される重罪だった。そんな犯罪者がエアリスのまわりにうろついていると知れ渡れば、いったいどのような悪評が立つだろう。エルミナのことを思うと、彼女は気がふさいだ。
 けれど伍番街は、『半分セトラ』の子供が初めて人らしくすごせる生活圏だった。手放す気にはなれなかったのだ。
 エアリスは本当に果敢だった。
 ゲインズブールの家へと続く桟橋、その陰から動かないタークスを手招いて、そしてすねを蹴る。力いっぱいだ。誰だって痛い思いはしたくないのだから、エアリスが危険な子供だと教えることにしたのだ。そうして相手がうずくまっているあいだに、家のなかへと逃げたのだった。
 そのあと、調査課内で「古代種は足ぐせが悪い」という情報を、どうやら共有していたらしい。エアリスの手招きが利いたのは、結局あの一度きりだった。だから九歳のエアリスは、すぐに次の手を考えなければならなかった。
「腹が痛むふりをしておびきよせるというのは、いささか卑怯だとは思うがな」
 おかしくてたまらないといった風に、ルーファウスが口端を吊り上げた。
「まんまと引っかかるあいつも、あいつだが」
「あれ。女優エアリスちゃんの、渾身の演技にころっとだまされちゃうの、あの人じゃないでしょ。ルードじゃなかったっけ」
「違う。あいつだ。ルードはもう少しあとだ。そのころルードは、まだ学生だったからな」
 へえ、とエアリスは思わず感心する。ルーファウスは、今となっては出会うより以前の妻に、当人よりも詳しい夫だった。ただし。
「なあ、エアリス。あとどれほどの暗器を隠している。いい大人をだまくらかす小芝居もだ。丸腰のときに役に立つかもしれない。私にご教授願えないだろうか、頼む、エアリス」
 調子づくと止まらないのが、玉に瑕なのだ。
 えい、とエアリスは座ったまま、いきおいよく背伸びをする。シャープな顎下に、ヘッドバットがきれいに決まった。
「いきなり演習とはな。座学はないのか」
「本当、懲りない人」
 ぶつくさ言うルーファウスの顎を、エアリスはさすった。
 二つ目は、エアリスの『夫の思い出不信克服』作戦が、功を奏しつつあることだ。
 あのピクニックの日から、ルーファウスの口癖といえば、「お前の話はすべてを聞く」だった。神羅の総帥として、そして、ただの男の性として。エアリスの人生を、こまごまとしたかけらごと受け止めるという、彼の意志表示だった。
 勿論、最初は戸惑いがまさった。エアリスの記憶が、話し手と聞き手という相関を経て、今度はルーファウスの記憶にまで残ることになる。そうやってルーファウスのなかへとエアリスを置いて去ることを、彼女は心苦しくも思っていた。
 なぜなら、エアリスは知っていたからだ。
 彼が――父親とのあいだに深刻な――思い出不信をかかえていたことを。
 思い出に傷つけられて、そうして心の柔いところへと隠してしまった、少年時代のルーファウスのことを。
 父親への暗晦な心情に、妻の喪失まで重なるようなことになれば、ルーファウスの思い出不信は悪化するのかもしれない。彼女にとって、それは看過できないことだった。
 伏せかけた睫毛を、エアリスは上げた。口元にはおのずと微笑が浮かぶ。
 それが近ごろのルーファウスは、様子が変わりつつある。
 アルバムを開かなくても、彼女がねだらなくても。ルーファウスから「あのときの親父ときたら」と、口にすることが増えてきたのだ。『神羅社長の大冒険』を話し、『半分セトラの大冒険』を聞くこと。そうしてたくさんの過去にふれることで、ルーファウスは察しつつあるのかもしれない。「思い出は、人を苦しめ、人を縛りつけるもの」が間違いであると。
 エアリスがそれに気づいたように。
 ヒーリンの暮らしのなかで、彼もまた、自縄自縛からとき放たれようとしているのだろう。
 ルーファウスが自由になっていくさまを見ていると、エアリスは嬉しくてたまらなくなるのだった。
 そして三つ目は、二つ目があるからこそ生まれた喜びだ。
 このまま思い出に慣れ続ければ、父親への確執が父子の過去へとかたちを変える日も、そう遠くはない。同じようにして。ルーファウスなら、妻の喪失もきっと過去にできる。
 だからエアリスは、彼にねだられるまま、彼女の記憶を語る。ルーファウスにエアリスが生きた証をゆだねる。
 気が咎めるどころか、エアリスにとってそれはすでに幸福の一部になっていた。
「不思議」
 この星に、エアリスのかけらを持つ人が、また増えた。母親や知己ではない、まさかの『夫』だ。
「いいのかな、こんなにいいことばっかり、起こって。逃げてばっかりいたのにね、わたし」
 うっとりと、エアリスは心のなかで呟く。
 あのとき、この街で、ルーファウスの手を取ったのは。
 思い出から逃げたかったからだ。
 あのとき、IDをほしがったのは、ルーファウスの配偶者になったのは。
 記憶を怖がって、記録に逃げたからだ。
「人生って、本当に不思議。最後まで、わけ、分からないね」
 この星に残す最後のかけらが、『幸せな女』になるとは。エアリスが思い出を恐れることは、もうないだろう
 そして三つ目の喜びが、一つ目のそれへとつながる。
 互いの思い出を共有しながら、互いの思い出不信を克服し、そうして互いの思い出となることに遠慮をしない。
 三つの素晴らしいことが、この特別な場所で、一つの輪になった。ぐるぐると作用しあっている。彼女の感慨は計り知れないほどに、深い。
「そうだよ、ここだよ」
 ルーファウスを振り仰ぐ。と、エアリスはにこりと笑った。
「お転婆娘の話を聞いていると、傷痕が残らなかったことが不思議なくらいだな」
 ルーファウスがゴーグルをはずした。エアリスも彼に倣う。ワントーン濃くなった夕日が、鉄くずに反射散乱している。二人で目をしかめた。
「お母さんのおかげ」
「エルミナめ。二つや三つ、いや、いくらでもあってよかったのだがな」
「お母さん、ありがとう。手当、容赦なかったけど、感謝してます。わたしの夫、噛む気満々みたいだから」
「噛むだろう、それは。たかが石くれや鉄くずが、お前に痕を残していいわけがない」
「やきもち焼き」
「お前も大変だな。独占欲のかたまりのような男に、目をつけられた」
「あら、怖い、怖い」
 ルーファウスが大仰に両腕を広げている。彼の芝居がかった調子に、エアリスもあわせる。
「わたしも、噛んじゃおうかな、これ」
 エアリスは彼の左の脇腹を突ついた。まだ新しい銃創がある。彼女が次になぞったのは、左肩の付根だ。一六年前の熱傷だった。そうして胸のあちらこちらへと指先をすべらせて、最後に右の二の腕をつまんだ。すべての傷痕の理由を、エアリスは知っている。
「妻の歯形なんて、首輪でつながれるより怖いよね。浮気防止に、ばっちりかも」
「いいぞ。噛め」
「冗談だよ。あなた、それこそ人前で服、脱げなくなっちゃうから。また怪我したら、どうするの。お医者様だけじゃないよ、タークスまで吃驚しちゃう」
「面白いな。見せつけてやろう。是非ともがぶりとやってくれ、エアリス」
「二度と怪我しないって誓うなら、前向きに検討します」
 ルーファウスは、ふむ、と考えこんだ。
「真に受けないで」
 エアリスは傷痕をくすぐりながら、笑う。
「あなたの傷はね、全部、あなたが勝ち残った証拠だよ」
 ルーファウスは目を見開いた。眸が乾いてしまいそうだと、エアリスが心配するころになって、彼がようやくまばたきを思いだした。何も言わないくちびるが、柔らかに綻んでいく。
「一つだって、消さないってば」
 それに、と彼女は思う。傷痕は、文字通り『痕』だ。ルーファウスへと目に見えるものを残すことに、エアリスはやはりためらいを覚える。『かたちのあるもの』を諦めたものの、だからといって嘆いてばかりいるのは、彼女の性分ではない。
 そして。
 エアリスとって、『かたちのないもの』こそ、一条の瑞光だった。
「ね、ルーファウス。どうせなら、新しいやつ、つくろう」
 思い出。記憶。かたちを持たない、大切なもの。
「いっぱい、だよ」
 二人で分かちあう思い出は、何も過去のできごとにかぎらない。
 だって、とエアリスは微笑む。あれほど待ちわびた結婚式が、すでに数時間前のできごとだった。二人の未来は過去になって、二人の思い出へと新しく加わったばかりなのだ。
 こんな風にして、ルーファウスとエアリスがこれから重ねるだろう日々、それらすべてを思い出に変えていくことができる。
「何だ。傷のないところに噛みつきたいのか。いいぞ。やれ」
 ルーファウスがくせのない前髪をゆらして、うんうんと頷いている。鷹揚なのか、奔放なのか。どうにも自由な人に、エアリスはいとおしむ眼差を向けた。
「いいぞ、じゃないよ、もう。つくるのはね、思い出だよ」
 三つの素晴らしいことが、巡り巡って、エアリスへともたらした素晴らしいアイデアだった。
 もしも、ある日突然に、『続・半分セトラの大冒険が』幕を閉じるのだとしても。
 きっと、二人の別離が、ルーファウスに心痛の思い出として残るのだとしても。
 ルーファウスが悲哀に囚われないですむように。
 たくさんの楽しい思い出のなかに、悲しみの一つや二つ、簡単に紛れてしまうように。
 エアリスはルーファウスと、最後のひとときまで、思い出をつくり続けるのだ。見えない、聞こえない、話せない。セトラの思念体に科せられた無力。そんなものに、負けない、とエアリスは気合を入れる。この制約のなかで考えつくすべての経験を、彼女はルーファウスに提供するつもりでいる。
「ほら、ここだってそう。ぐちゃぐちゃになったらなったで、新しい思い出、できたもの」
 二人は申しあわせたように、眼前の瓦礫を見上げる。
「空き地だったんだよ、ここ。謎の洞窟になるなんて、まさか想像もしなかったから」
 ほんの数年前まで円形だったところは――ライフストリームのうねりに巻き上げられた――大量の鋼材の吹き溜まりになっている。くずれた岩盤と混ざり、苔生していて、さながら小山だった。
 斜面にはいくつもの洞ができている。その奥は入り組んだ道や、ところどころが開けた場所になっているのだ。抜小路とはいえ、落盤の恐れは否めない。タークス主任が事前調査を読み上げながら、目つきで。秘書がたたみかけるように、「くれぐれもなかで遊ばないでくださいね」と。きっちり念を押されたルーファウスは、今のところ大人しく従っている。
「一つの場所で、違う景色、二つも見られるんだよ。思い出も二倍、できるね」
「二倍か、なるほど」
 小山を見渡してから、ルーファウスは空洞まで徐行した。車体がすっぽりと収まったところでエンジンを止める。雨風とモンスターの悪戯を防ぐには、ちょうどいい場所だった。
「ほら。ついでに、神羅さんちのカーポート、できたし」
「カーポートの対価にしては、さすがに破格だろう。都市、丸ごと一つだぞ」
「あら。お金持ちの代表でも、目玉、飛びでちゃいますか」
「私は金持ちで、その上、趣味もいい。ギルをはたくなら、もう少しましなエクステリアにしたいものだな」
 半ば呆れながらも、ルーファウスは彼女の冗談口へと調子をあわせる。ね、とエアリスは人差指を立てて見せた。
「終わっちゃったことは、どうしようもないでしょ。便利なものはね、便利に使うの」
「メテオショックだぞ」
「それだって、もう、終わったことだよ」
 そうだな、と彼が睫毛を半分伏せた。
「お前の考え方は、悪くない」
 ややしばらくしてから、ルーファウスは微笑した。
「だが、エアリス。仮にも神羅家のカーポートだぞ。これでは私の妻が転んでしまう」
 言いながら、ルーファウスは瓦礫の勾配を下る。整備していない駐車場だ。足場は悪い。
「あなたの妻のこと、甘く見ないで」
 そろそろと、エアリスもあとを追った。思いがけない休憩を挟んだからか、彼女の身体は心なしか軽かった。
「あのね、ちょっとだけ元気になったから。バギー、楽だね。お尻、痛くないし。これ、いいかも、気に入ったかも」
「それはよかった。私としても助かる」
 ルーファウスが腕を差し伸べた。意味深長な笑み方をしている。
「私を誘ったからには、夜通し楽しませてくれるのだろう、エアリス。スタミナは大事だ。こんなところで消耗するのは、勿体ない」
「分かってる」
 エアリスは彼の手を取った。少しの迷いもなかった。
 花香る小道には、かつての細道すら残っていない。廃墟と、ところどころ腰高まで伸びた草のなか、ルーファウスは迷うことなく進む。ひときわ高い断崖を目指す。その向こうに、ゲインズブールの家がある。
 隠し通路――少女のエアリスがタークスを何度も撒いた、あれだ――の手前に差しかかったところで、ルーファウスが足を止めた。
「ああ、もうすぐ日が落ちるな。来い、エアリス」
 あたりを見まわしたあと、彼は転車台を指差した。桁長がゆうに一〇メートルはありそうなそれは、廃列車置場から吹き飛んできたらしい。地面に深々と突き刺さっている。斜めにだ。エアリスはそれを傾ききったシーソーのようだと思った。
「前々から、目をつけていた。物見台にちょうどいい」
 半ばほどまで登ったところで、いっきに視界が開けた。真赤だった。
「すごい」
 第一声は、掠れていた。エアリスはゆるゆると首を振る。
 二人の眼前には、ミッドガルに暮れる太陽があった。とても大きく、半円の輪郭もくっきりとしている。さらに彼女が驚いたのは、スカイラインだ。六番街と七番街をつないでいた外縁の囲壁が、すっかりなくなっているからだろう。それはスラムにいては見ることの叶わないものの一つだった。
 エアリスはうっとりと吐息をつく。そして気づく。伍番街から、こうして太陽と地面が接するところを臨むのは、これが初めてのことなのだと。
 独りでに足が前にでる。二人の身体が離れた。手掌に冷気が沁みるけれど、エアリスはそれにかまけていられなかった。
「エアリス。こんなところで、走るな」
「だいじょうぶ。転ばないってば」
 エアリスは転車台の手摺に掴まり、身を乗りだす。すごい、と今度は歓声を上げた。
「前はね、お昼すぎなら、太陽見られたんだよ。ほら、六番街、プレートないから。でもね、夕日、沈むところは無理」
「だろうな」
「プレートの隙間からね、せいぜい日が射すくらい。赤いカーテンみたいって、思ってた。それだって、すごくきれいだったんだよ。だけど、だけどね、ルーファウス、こんなに」
 エアリスは西の空に集中した。ルーファウスが彼女のとなりに並ぶ。不安定な斜面で、大きな手を彼女の尻の上にそえている。
「一つの場所で異なる景色が二つになる、だったか。ずいぶんと見晴らしがよくなった。無粋なものが、ものの見事に取っ払われたおかげだな」
 何やら意味深長に聞こえるのは、ルーファウスが囲壁の施主を思いだしているからだろうか。だとしたら、とエアリスは考える。無粋というのは、彼の父親と、そしてほかでもないルーファウス自身への痛烈な皮肉に違いなかった。
 それがただの自嘲なら、エアリスは止める。けれど、ルーファウスの皮肉は、自身への非難だった。何の益もない嘲りではなく、過失を正しく理解し、咎めることのできる彼だから、次は間違わない。エアリスはそう確信している。
 何よりも。彼女はこっそりと笑う。囲壁が無粋とは、言い得て妙だとエアリスも思ったのだ。ミッドガルのうちにある人工美とそとに広がる自然美、それらが調和するビューポイントを長いあいだ隠してしまっていたのだから。
 勿論、囲壁にエアリスは感謝をしている。それがなければ、スラムは毎日が嵐だったに違いないのだから。
 何せプレート下部は、上部のようなアーバンデザインとは無縁だった。そして鋼鉄にふたをされている。風の逃げ道がないのだから、ビル風よりも性質が悪い。真横から入りこみ放題の風が、街中を吹き迷い、荒び、粗末な家屋など横ざまに打ち払ってしまうことだろう。ひょっとして人の住める場所ではなくなっていたのかもしれなかった。
 エアリスはぞくっとした。
 スラムが存在しなければ、彼女は今もなお神羅ビルに住んでいただろう。六五階の薬品臭に満ちたあのフロアだ。
 とたん、生母の注射痕がフラッシュバックした。まずい兆候だと思ったものの、エアリスはすでに過去に囚われてしまった。
 注射、いや。
 骨のような両腕だけではなかった。手の甲にも、鎖骨のまわりにすらも、イファルナの瘢痕は日に日に増えるばかりだった。
 注射、いや、いや。
 エアリスの記憶の奥底で、小さなエアリスが下唇を噛み締めている。両目のふちに大きな涙を湛えたまま、泣くものか、と。それをこぼせば、イファルナが美しく笑うからだ。
「あらら、この子ったら。心配はいらないのよ。これはね、元気になるお注射だから」
 小さなエアリスは生母に嘘をつかせたくはなかった。イファルナがくちびるを優美にゆがめたところで、ひび割れが目立つばかりだった。けれど、何度エアリスが泣くことをがまんしようとも、こらえきれずに生母にすがりついたところで、注射の痕が減ることはなかったのだ。
 注射、いや、いや、いや。
 イファルナの変色した肌がちらつく。エアリスは口のなかが干上がっていく気がした。だというのに固唾は溜まる。飲み下そうにも、舌が動かない。注射痕を思いだすたび、こんな風にしてエアリスの双肩は小刻みにふるえだす。けれど、彼女はいまだに止め方が分からないでいる。どうしよう、どうしたらいい。
 そのときだった。
「冷えてきたのか。帰るか」
 ルーファウスがいつもの調子で言った。エアリスは思わずぽかんとした。ただそれだけのことで、過去の不穏から現在へと、彼女はいとも簡単に戻ることができたのだから。
「寒く、ないよ」
「それならいいが」
「ルーファウスがいるから」
「私で暖を取る怖いもの知らずは、お前くらいのものだな」
 すごいのはね、あなたのほうだから。
 心のなかで呟きながら、エアリスはもうふるえていない指先を見やった。それから顔を上げる。
「壁の向こうに、こんな景色あったなんて。もうずっとずっと前からだなんて。知らなかったの、ちょっと勿体ない気もするけど。だけど」
 右目のすみに映るのは、零番街だ。生母が苦しんだ場所から顔を背けようと、彼女が逡巡したのは、まばたき三回分ほどのあいだだった。エアリスは神羅ビルを見据える。
 彼女自身に起こるはずだった、もう一つの過去を顧みる。
 もしも囲壁がなければ。
 プレート下部に集落がなければ。
 生母は逃亡を諦めたはずだ。何せイファルナには土地勘がなかった。ギルは勿論、知己もない。ミッドガルからいちばん近い街も、その行路もまるで分らないまま、一か八かの賭けにでるわけにはいかなかっただろう。衰弱した生母以上に、無力な子供を連れていたからだ。
 エアリスは暗澹とする。
 スラムがあったからこそ、エアリスは生き延びることができた。そうでなければ、神羅ビルから脱走したところで、母子そろって荒野で野垂れ死んでいたのかもしれなかった。
 母子はあのまま神羅ビルに身を置くよりほかに、生きるすべを持たなかったのだ。
 それは生母と同じように、エアリスも被験者になっていたということだ。注射痕だらけの。
 研究目的のうちの一つが、セトラの有性生殖だった。エアリスの性徴が発現すれば、宝条は嬉々としたことだろう。彼女は成年になる日を待たずに、何か得体の知れないものの母親になっていたのかもしれなかった。
 エアリスは、もう一人のエアリスを思う。
 そのころには研究員に抗う気力も失せていただろうか。
 ううん、とエアリスは力なく首を振った。
 ラボラトリーのそとを何一つ知らない彼女には、『抗拒』というものを学ぶすべがない。わざわざ暴れ方を教えてくれる神羅スタッフが、いるはずもない。それどころか、自身の扱われ方に疑問を持つことも、諦めることですら、もう一人のエアリスは知らないままにいたのだろう。
 セトラと研究員はよく似た姿かたちをしているけれど、別のいきものなのだ。
 セトラは研究員以外――実験体居住区で毎晩のように奇声を上げている誰かや、サンプル試験室ですれ違う異形――と、同じいきものなのだ。
 白衣の『人間』の知的好奇心を満たすために、エアリスは人外のまま、セトラの個体を増やし続けていたのかもしれなかった。
 けれど、ここに、ルーファウスのとなりにたどり着いたエアリスは違う。
「ね、ルーファウス」
 ルーファウスにめでられたことで、エアリスは自身の女の性を知った。とてもいとおしい身体だった。
 性を利用されるという、もしもを考えるだけで彼女は眉をひそめる。やがて気づく。恐怖と嫌悪。こんな風にしてまっとうな気持ちをいだけるのは、スラムに落ち延び、エアリスが人のなかで人として暮らしたからだ。
 たくさんの人から、心をもらったからだった。
 風防どころの恩恵ではなかったのだ、ミッドガルの囲壁は。
「だけど、わたしには大切な壁だったよ、すごく」
 エアリスは細く、長い息をついた。ルーファウスが腰を撫でた。宥めるような手つきだというのに、とても重い。エアリスは泣きそうになる。
 幸せというのは、何てずっしりと肌に食いこむのだろうかと。
「壁がか。スラムの連中には『日当たりが悪い』だとか、『換気が悪い』だとか、不評だったらしいぞ」
「それはそうなんだけど。下水の施設、すごく臭かったんだから」
「仕方がない。もとからの都市設計だ。ミッドガルの下層はな、上に置きたくないものをよせるためにある。そんなところに住む、お前たちが悪い」
「うわ、でた。とんちきお金持ちの暴言。ひどい」
「文句、いや、陳情なら都市開発部門か、さもなくば広聴課に言えよ。当時のな」
 ルーファウスがくつくつと咽喉を鳴らしている。それを背中で感じながら、エアリスも笑った。
「でもね、わたしがここにいるの、ひょっとしたら、あの壁のおかげかもしれないんだよ」
「おかげ、だと」
「そう。今ね、わたしの歴史をゆるがす大発見、したとこなの」
「また、お前は。話が大きく飛躍したな。わけが分からん」
「でしょ」
「話す気はないというわけか」
「ルーファウスったら、わたしのこと分かってる」
「いいのか」
「ありがとう。今はね、聞いてくれなくて、いいの。ほら、絶景見るのに、忙しいから」
 ね、とエアリスが小首を傾げる。ルーファウスは思案顔をしたものの、まあいい、と吐息交じりに言った。
「ミッドガルのてっぺんには、いつもこの光景があった。壁があろがなかろうが関係ない。地平線まで見渡せた。そのはずだ」
 エアリスは頷く。はずだ、と言うからには、彼は七〇階の――四方を一望できる――特権を放棄していたということだろう。当時の神羅ビルには、壮大なパノラマよりもほかにルーファウスが専心するものがあったからだ。アンビションだ。
 変な風に真直ぐな心をしているから、歩き方までもがゴールに向けて一直線だったらしい。エアリスの苦笑は、すぐに微笑へと変わった。以前のようなむだのない歩き方を、ルーファウスはもうしていない。
 行き先を目指すことも、脇見や迂路も、彼は道行のすべてを楽しんでいる。
 とくに今日の、この寄道は素晴らしかった。何せ二人の初めてを、感動を、二人で分ちあえるのだから。
「わたし、ルーファウスの初めて、またもらっちゃったね」
「いくらでもくれてやる」
 穏やかな声がして、エアリスは振り仰ぐ。目を丸くした。小さな太陽が、二つあった。
「式日を今日に決めてよかったな。先週なら、土砂降りだった」
「エヴァンの都合とか、あなたの都合とか、いろいろあって延びちゃったけど。本当、よかった」
「巡り巡って、というのは、私はやはり気に入らない。だがな、エアリス」
 彼の長息を、エアリスは額で受けた。前髪が乱れるが、気にしてなどいられなかった。
「ごく稀に、一生のうちに二、三度くらいなら、あってもいいのかもしれない」
 ルーファウスが微笑している。強い陽光のなかで、彼の瞳孔はきゅっとすぼまっている。淡い色の虹彩に濃い赤色が混じって、エアリスのまだ見たことのない眸をしていた。
「きれい」
「ああ、そうだな」
 ルーファウスはスラムの太陽を見ている。エアリスは目笑する。
「うん、きれい。夕日、三つも見られるなんてね。わたし、すごくラッキー」
「三つ」
 何でもない、と首を振りながら、エアリスは両腕を彼の腰にからめた。
 ルーファウスの手が動く。彼女の腰から腕を撫で上げて、肩を掴む。エアリスは彼の腕のなかに、すっぽりと収まった。錆と蔦のはびこる手摺にすがるよりも、ずっと安全な場所だった。
「ありがとう、ルーファウス。こんなの、まさかだよ。スラムで夕方の太陽のかたち、見てるなんて、すごく不思議」
「景色も、新しい思い出とやらもだ。二倍とはかぎらない。現に、今がそうだろう。なあ、エアリス。私たちはここで、何をしていると思う」
 何って、とエアリスは小さな二つの太陽から、大きなそれへと顔を向けた。
「そうだ。お前とこうして、西の空を眺めているだけだ。ただ、それだけだ。なのに、勝手に増えていく。景色だけではないぞ」
 くすくすと、ルーファウスは珍しい笑い方をした。
「私はな、エアリス。たかが夕日で私を驚かせた、お前のそのとんでもない奇才を忘れない。きれいなものを見るお前の顔を、私は忘れられない。私は」
 エアリスは右頬で彼の胸にふれる。心音を聞きながら、続きを待つ。ルーファウスはただ微笑するだけだった。
 やがて、さて、と彼が言った。
「北と東、南からは、何が見つかるだろうな」
「二倍で、よかったのに、十分なのに」
「二倍程度で満足するなよ」
「いいのかな」
「何もしなくとも増えるのだから、私たちにはどうしようもないだろう。捨てるか、拾うかは、私たち次第だがな」
「わたし、は」
「私はほしい。すべてだ」
 ああ、この人は。滲みそうになる涙を、まばたきで散らす。エアリスはただただ頷く。
「見ろ。沈みきるぞ」
「きれい」
「ああ、とても。何もかも」
 ゆらゆらと、真紅のコロナでスカイラインをゆらしながら。
 翌暁までのいっときの別れを、太陽は二人に告げたのだった。
 その上縁が、ミッドガルの外縁に隠れる一瞬までを見届けたところで、エアリスは呻いた。それはほとんど嗚咽だった。
 日没の続きに、再び彼女の見たことのない光景が広がり始めたのだ。
 薄暮の星だった。
 赤色、橙色、金色、紫色、そして夜色のグラデーションが、神羅ビルの上空にまで広がっている。
 東の新都では、地上に星が輝きだすころあいだろう。大通りの街灯。行き交う車両のヘッドライトやリフレクター。アパートメントハウスにも、オフィスビルにもだ。いくつもいくつも、いのちのいとなみの数だけ、賑々しくなる。
 エアリスはエッジ市内の夜をまだ知らなかったけれど、想像するのは容易だった。それらはもともと西の廃都にあったものだからだ。目の当たりにすれば、彼女は感動するだろう。人々の逞しさを褒め称えたくもなるに違いない。
 けれど、今はただ、二人をはぐくんだ街の空に夢中だった。何せ、高くそびえる神羅ビルを取り囲んでいるのは、本物の星なのだから。
「見て、ルーファウス。ほら」
 余光のなか、星のまたたきはまだ弱々しい。だけど、とエアリスは思う。大事なのは光度ではない。このいっときを誰と共有するかなのだ。エアリスはとなりを見上げる。息をのむ。
 意図した悪童の顔とも、寝顔の無邪気とも違う。
 ルーファウスが子供の顔をしていた。
「ミッドガルにも、そうだ、星はあるのだった。忘れていた」
 ルーファウスのアルバムを、彼女は心のなかで繰る。すぐに同じ顔を見つけた。彼がまだ生家で望遠鏡を覗いていたころのページだ。丸い頬が紅潮して、とてもあいらしかった。
「おかしいね。わたしに星座のこと、いろいろ教えてくれたの、ルーファウスなのにね」
「あれはただの学殖だ。私が忘れたのは」
「小さなルーファウス君の、夢、だね」
「八八の星座か」
 コスモキャニオンの天文学連合は、全天の星座を八八と定めている。それらすべてを実視観測することに、ルーファウスは熱中していた。そして、もう一つ。
「八九つ目を見つけるのだと、躍起になっていたな」
 エアリスは眸で頷く。静かに鼻を啜る。
「忘れていたよ。ああ、そうだ。私は本当に星が好きな子供だった。私は」
「うん。知ってる」
 毎晩のように夜空を仰いでいた、ルーファウス。
 ミッドガルで満天にいちばん近いところを探す、ルーファウス。
 パルマーにねだって深夜の神羅ビルにしのびこんだ、ルーファウス。
 そして。
 夢といっしょに、望遠鏡と星座図を手放してしまった、小さなルーファウス。
「『御曹司の大冒険』だな。なあ、エアリス。あれは私がいくつのころだったか、確か」
 本来ならプレパラトリースクールに通う年ごろだった。エアリスがそっと年齢を言えば、ルーファウスは、はは、と白い歯を見せた。
「夢を見かぎるには、早すぎるだろう。ばかな子供だ」
 ルーファウスが天体観測をやめたのは、エグゼクティブフロアにこっそり立ち入ったことが父親の耳に入ったからだった。「ここに来るには、お前はまだ早い」と叱られたらしかった。
 そうして。
 取り巻きとともに仕事へと戻る父親を見送りながら、彼は考えたのだ。早く大人になるのだと。父親を囲む一団の、その中心に立つにはそれ相応の実力がいる。
 身体を鍛えれば、何にでも勝てる。知性を磨けば、賢くなれる。
 それらを信じて、ルーファウスは成長という名の階段を駆け上がった。一段飛ばしの二段上りで。てっぺんにいる父親に並び立ち、「お前はできる子だ」を手に入れるために。
 エアリスは困ったように首を傾ける。父親に認められたいという自敬は、何度となく傷つけられていくうちに『神羅社長』というポスト、それそのものに挿げ変わってしまったからだ。
 同じことを考えていたのか、ルーファウスも寸秒だけ顰笑した。
「本当に、ばかな子供だ。そう急かなくても、よかったものを」
 星好きの子供は、飛ばした階段に余計な荷物――――を置き捨てていった。熱中していたことすら忘れて、大人のルーファウスにはうんちくだけが残ったらしかった。
「ばかって、言わない。ルーファウスは、小っちゃいころからルーファウスだって、わたし、思うよ。すごく、がんばりやさん」
「それは認める」
 ルーファウスがわざとらしく誇り顔をつくるのは、彼女の「もう」とふくれるのを待っているからだ。
「がんばる方向、たまに間違うけど」
 エアリスは彼の望む通りに、脇腹を小突いた。言ってくれるな、とルーファウスが軽く首を竦めた。
「だって、ルーファウス、せっかちなんだもの。好きなもの、好きなままで、よかったのにね。目指したいことのために、好きなこと、諦めなくたっていいのにね」
 ルーファウスがつっと顎を上げた。零番街の真上の星を睨んでいる。
「ゆっくり大人になりながらなら、『八九つ目の星座を発見した、神羅社長』になれたかも、なのにね」
 ぎゅっと、音がしたのではないかと思うほど、ルーファウスが目を瞑った。『思い出不信』を克服しつつある彼になら、分かるはずだ。
「そうだな。あれは親父なりの」
 父親の「ここに来るには、お前はまだ早い」は、「早く大人になれ」ではない。「大人になってから、来い」、そして「待っている」なのだと。
「それにしても、もう少し気の利いた言いまわしというものがあるだろう。あんな言い方で、分かるか。ばかめ」 
 ルーファウスの舌がかろやかにまわりだす。
「金はだすが、口をださないところが、また親父らしい。チューター連中も、パブリックスクールもな、どれだけギルを積んだのか今なら想定がつく。だがな、あのボンボンだぞ。連中、一人一人にプライスタグでも貼っておけばよかったものを、くそ親父」
 ルーファウスがエアリスを見下ろす。ひどい口振りとは裏腹に、彼は晴れやかな顔つきをしていた。
「『父さん、勉強する機会をくれてありがとう』と、しおらしく育ったかもしれないぞ」
「どうかな」
「何だ。親父の肩を持つのか」
「ううん。本当にあなたたちって、似た者親子だって、呆れてるとこ」
 冷え始めた風が二人の前髪をもてあそぶ。小指でそれを払って、エアリスはからかうような笑みを消した。
「本当、変なとこ、不器用なんだから。星見たいって、お父さんにお願いできたらよかったのにって。お父さんだって、しのびこんで何するつもりだったのって、聞いてくれたらよかったのにって」
 エアリスは彼から父子の話を聞くたびに思う。二人には、たった一言が足りていない。いつもそうだった。
 ルーファウスが一言願いでれば、彼が星座の豊かな知識を持っていることを、父親は知ったはずだ。「お前はできる子だ」と褒めたのかもしれない。ルーファウスは父親の一言で満たされたに違いなかった。小さなルーファウスは、天体観測をのびのびと続けたことだろう。ともすれば父親といっしょにだ。
 そうして子供だけが持ち得る特別の時間を、彼はただ謳歌すればよかったのに。
「そういうの、子供でいさせてくれるのって、大人にしかできないことだから。ルーファウスはね、お父さんのそういうとこ、下手っぴなとこ、真似しちゃだめだよ」
 エアリスはそう結末づけた。ルーファウスは黙ったままだった。
 エアリスが過去を『たられば』にして顧みるのは、すぎた日々を嘆くためではない。後悔や間違いを正しく把握していれば、次は過たないからだ。
 何かを失えば、次は手放さないように。
 何かがほしかったのなら、次こそ手に入れられるように。
 変えられない過去を見直すことで、備えることができるだろう。それは少女のエアリスが身につけた処世術だった。失うものの多い人生だったけれど、だからといって足りないと不平を並べずにすんだのは、そのおかげなのかもしれなかった。
 星から一人取り残されて、自身の過去から目を背けて、自縄自縛に陥ってみて。
 そして、ルーファウスと暮らすようになって。
 エアリスは彼女の処世術がほとんど正しかったことを知った。ルーファウスにも教えたいと思ったところで、小さく笑う。
 彼もそれをすでに知っている。
「子供なんてものは、どれほどさかしくても子供だな」
 静かな息遣いに、エアリスは耳を澄ます。
「いくら知識をつめこんだところで、ただの頭でっかちだ。あのとき、うまく親父の気を引いていれば、ミッドガルでいちばん高い観測場所くらいは確保できただろうに。だが、エアリス、私にはできなかった。親父の一言で怯んだ。星座のうんちくという材料を持っていながら、プレゼンをする余裕すらなかったからな」
「プレゼンって。もう、お仕事じゃないんだから」
「似たようなものだろう。要は知識をどう活かすかだ。有効に利用するにも、だが私はまるで経験不足だった。ここぞという交渉の場に立つ前に、私にはすべきことがあった。分かるか、エアリス」
「場数を踏むこと、でしょ。本番前の練習、大事だもの。だけどね、小さなルーファウスの相手って、お父さんだよ」
「そうだ。親父だ」
 ルーファウスにいちばん近しい肉親だった。二人は顔を見交わす。と、誰に聞かれるわけでもないというのに、声をひそめて笑った。
「プレゼンも、練習も本番も、ないよ。あなたはね、ただのお喋り、がんばればよかったの」
「ただの、か。そうやって覚えていくのだろうな、本来は」
「大人のなり方ってやつね」
 つぶれた七〇階へと、ルーファウスは一瞥を投げた。
「子供が世慣れするには、それ相応の環境がいる。ああ、時間もな、必要だ。キャリアの豊かなやつが補ってやれば、効率はよかっただろうに。親父は」
 エアリスが相槌を打つものの、しかしルーファウスは続きをのみこんだ。
 経験も経歴も年齢も、ルーファウスと彼の父親では人生の厚みがまるで違った。今ですら、半分にも追いついていない。それだけの厚みがあったからこそ、薄っぺらな子供の、いくつもの反抗にも父親は動じなかったのだろう。
 ルーファウスは父親の鷹揚を「叱咤か黙殺」と言うが、エアリスはそうと思ってはいない。
 彼は神羅の名におもねる人々に囲まれて成長しなければならなかった。ともすれば放任ともとれる父親の接し方は、ルーファウスの独自性をはぐくみたかったのかもしれない。担がれるだけの、すかすかな大人にならないようにだ。
 独力で考えることと、行動に移すこと。
 単一事業企業から、プレジデント神羅は一代でコングロマリットを形成した。それもライフストリームという未知に手をつけ、基幹産業に据えた辣腕家だった。
 ルーファウスの父親の野心が、エアリスの両親を死にいたらしめたことは、悲しみの一点のまま、かたちを変えることはないだろう。それとは別に、エアリスはすでに肯定的な気持ちをもいだいている。お義父さんはすごい人ね、と。
 ルーファウスを通じて、エアリスが経営にわずかばかり携わっているからだった。だからこそ、彼女は理解していた。神羅を統べるうえで欠かしてはならないものを、父親ほど知っている人はいない。
 独力で考えることとも、行動に移すことも、そのうちの二つだ。父親は後継者にこそ与えたかったに違いない。
 エアリスはルーファウスの父親の愛情を、今となっては少しも疑ってはいない。『御曹司の大冒険』を聞けば聞くほど、よく分かる。挫けないルーファウスは、父親にとってどれほど誇らかだっただろう。だけど、と彼女はせつなくまばたきをする。
 父親のその冷徹な取捨があだとなった。
 何かを頼ることを、誰かに気をゆるめることを、ルーファウスには学ぶすべがなかったのだから。
 巨大企業を統轄するには、不要なものなのかもしれない。けれどルーファウスは経営者としてだけ生きているわけではないのだ。
 現に今、孤高の神羅社長は、ひとたび自宅に戻れば悪戯好きのかわいらしい夫になる。そして甘えることも上手になった。そんな彼を見るたび、エアリスは痛感している。ときには他者の力を借りることも必要なのだと。
 それは決して弱さではない。
 甘えるということは――彼好みの言い方をすれば――相手の力量を測り、任せ、どれだけの成果を得られるか、即座に分析できる賢さがあるということだ。賢哲は、ルーファウスの望んだ強さのはずだった。
 エアリスの頬がおのずとゆるむ。たとえば昼食のあとだ。ルーファウスは彼女の腿の上で、とても賢かった。
 エアリスの太ももの柔らかい部分を枕にし、二〇分経ったら起こせと言う。子守歌をねだったり、髪を梳かせたり。そうして午睡から覚めたルーファウスは、すっきりとした顔をしているのだった。
 こんな風にして、近ごろのルーファウスは彼を取り巻く人々からも助力を得るようになった。勿論、膝枕をしろということではない。会社の立て直しだ。
 ルーファウスがじかに仕事を任せるということは、相手の力量を把握し、こなせると疑わないからだった。タークスや秘書、役員も腹心も。経営者に任用されれば、彼らだって満更でもないはずだろう。双方は信用でつながる。ルーファウスを中心にして、どんどん輪が広がっていくたびに、エアリスの胸が躍った。輪は、そのまま新生神羅カンパニーの基盤になるからだ。きっと強固になるに違いなかった。
 それだけではない。
 ルーファウスが神羅社長でも、エアリスの恋人でもない顔をするときがある。
 エヴァンやジャットと話す彼は――ときどき品行の悪い――お兄さんの顔をしている。彼らとは反対に、ジュエラーや寮母といったプロフェッショナルの前では、ルーファウスは若年を隠しきれないようだった。造船業のマダムは――エアリスは少しばかり複雑なのだが――また特別らしい。
 いずれにも共通しているのは、彼が緊張をといてもいい相手だということだ。彼らのような人が増えるたび、ルーファウスの人生が豊かになる。エアリスはますます嬉しくなった。
 その一方で、胸を刺す痛みもある。今、ルーファウスが笑っているのは、一人でがんばり続けた小さなルーファウスのおかげなのだから。
 せめて「ありがとう」を伝えたかったけれど、それは叶わない。代わりにエアリスは大きなルーファウスを抱きよせた。
 細身とはいえ、彼女に比べればルーファウスの胴はずっしりとしている。しがみついているような恰好だったが、エアリスはかまわなかった。
「やっぱり、わたしはね、ルーファウスの味方。だって、お父さんとのお喋りだよ。プレゼンなんて言わせちゃうお父さん、ううん、お義父さんのこと、わたし、お説教したい気分」
 小さなルーファウスはがんばる方向を間違えたが、それを正せなかった父親もうまくはなかった。エアリスはそう思っている。
「さすがだな、頼もしい妻だ。見ものだっただろうに。残念だ」
「本当、残念。せっかくお父さんから、会いたがってくれてたのにね、ずっと」
「社を挙げて、熱烈にな」
「ごめんね、知らん顔し続けちゃって」
「誘えばほいほいと乗ってくる女なら、そのへんにごまんといる。お前がつまらない女でないから、親父は困っていたぞ」
 いくつかの冗談口を交わしたあと、二人は押し黙った。上空が夕闇に占められていく。零番街はもう間もなく濃紫色にのみこまれるだろう。
「もう、できないんだよ、お説教。分かってる。分かってるけど、わたし、やっぱり」
 悔しいな、とエアリスは呟いた。
「仕方がない。だが、エアリス」
 ふと、エアリスは重みを感じた。ルーファウスが頬を彼女の頭頂に押し当てている。
「五分でいい。あのとき、親父には足を止めてほしかった」
 ルーファウスの声は尖ってはいない。おどおどと、ふるえてもいなかった。
「私に話をするチャンスをよこしてほしかった。私は」
 時折、言葉につまるのは、思い出の小箱をごそごそとさぐっているからだ。奥底に、小さなルーファウスが隠した心がある。
「私は。エアリス、私は」
 エアリスは返事の代わりに、腕のなかの彼ごと小さなルーファウスをも抱き締める。長い、本当に長い吐息をついてから、ルーファウスはおもむろに身体を起こした。エアリスのつむじには、彼の湿った息が残ったままだった。
 そうして。
「叱られるより、無視をされるほうが、恐ろしかった。親父のまわりはできる大人だらけだ。私は、ちっぽけだった。そのまま、いない者にされてしまう気がしたからだ」
 ルーファウスが隠し続けた柔い心を、そっとすくい上げ、エアリスに見せたのだった
 助力を請わないルーファウスと、多力でありながら子供を諭す易しい言葉だけを持たなかった父親。言葉が足りないばかりにかけ違えた父子の関係は、惨憺たる結末を迎えた。
 ルーファウスが念願の同じ場所にたどり着いたものの、父親はすでにいない。
 一生をついやしたところで、ルーファウスは父親を追い抜くどころか、並び立つことすらできない。
 小さなルーファウスが、焦って一人で大人になろうとしたばかりにだ。
「ばかな子供を止めるのは、そうだな、親父の役目だった。だというのに、あれは何だ。下手っぴ、にもほどがあるだろう」
 そう続けてから、ああ、とルーファウスは小さく笑った。
「詮ないことを言った。だがな、エアリス」
 エアリスの左肩を掴む手に、彼は力をこめた。
「エアリス。『何するつもりだったの』、か。私は今のお前の言葉が、ほしかったよ。そうだ。あのときの私は、確かにほしかった。たった一言でよかったんだ」
 骨に食いこむそれを、エアリスは右手でつつみこむ。
「得られなかったことも、変えられない。分かっている。だが、それでいい」
 彼女がさするたび、ルーファウスの手のひらは柔らかさを取り戻していく。
「一言だ。たったの一言が持つ影響力を、今、私は思い知った。十分な成果だよ」
 ルーファウスもまた、過去が変わらないことを知っている。
 そして、変えられない過去を直視できる人だった。
 過去を糧にして、ルーファウスはこの先、同じ失敗を繰り返さないに違いない。
「ああ、そうだ。一つ訂正しておく。あのときの『がんばる方向』を、私は間違えてはいない」
 え、とエアリスは顔を上げた。
「今、ここでこうしてお前と星を眺めるには、私が早く大人にならなければと焦る必要があったからな」
 そうだろう、とルーファウスが横目を使った。くちびるは穏やかな弧を描いたままだ。エアリスは深く、ゆっくりと頷いた。
 黄昏どきも終わろうとしている。空は濃紫一色だった。ビロードにばらまいたシークインのように、星の一つ一つがいよいよ際立ち始める。
 それらはルーファウスが置き捨てた、夢だった。数一〇年前と変わらないままにある。
 ああ、これだ。エアリスはいいことを思いついた。
「がんばって三三歳になったルーファウス君に、一つ、提案があります」
 ルーファウスのこの首の傾げ方は、興味を示している証だ。エアリスは上体を捩る。青い眸と向きあって言いたかった。
「せっかくだから、ね、ルーファウス。夢の続き、叶えよう」
 夢、と彼がこぼした。ルーファウスにまだその気があるのなら、念望を果たすのに決して遅いということはない。
「続きか」
「そう、『ルーファウス君の星座図完全制覇』だよ」
「いいな」
「今度はゆっくりね」
「ゆっくりも何も、エアリス。私はこう見えて、すでに大人なのだが」
「大人のなかにも段階、あるでしょ。ルーファウス、お爺ちゃんになるまで、ゆっくり、ゆっくりね」
 ルーファウスは目を瞠った。転車台に風が吹き抜ける。金髪がさらさらと目元をこするが、まるで気にならないらしかった。
「エアリス」
 ね、とエアリスが念押しをする。
 星だけではない。とても忙しい神羅社長でいながら、小さなルーファウスが諦めたいくつもの夢――興味や関心ごと――を叶えるには、たくさんの時間がいる。
 彼はまだほとんどしわのない顔をしている。それが誰だか分らないくらいにくしゃくしゃになるまで、エアリスはルーファウスに長く生きてほしかった。
 二人は互いから目が逸らせない。
 エアリスは彼女の真心が伝わるように、ひたすらに。
 ルーファウスはもの言う彼女の眸に、心の耳を澄ませながら。
 彼の眉がせつないかたちにひそめらていく。ああ、と低く呻いた。この先、ルーファウスが全天の星を知るとき、彼のとなりにエアリスはいないのかもしれない。
 ルーファウスの嘆きを、しかしエアリスは聞こえないふりをした。
「なあ、エアリス」
 やがて、ルーファウスは微笑した。さびしそうなそれが、エアリスの心をちくちくと痛めつけた。
「お前は本当にゆっくりが好きだな」
「誰かさんのせい、だから」
「そうなのか。さっぱり思い当たる節がない。なあ、教えてくれ」
 ルーファウスが話を変えようとしているようだ。エアリスもそれに倣う。ふるえそうなくちびるを、彼女は「分かってるくせに」と尖らせて見せた。
「私もだよ。ゆっくりも、そう悪くはないのだと知った。提案をのむことも、そうだな、やぶさかではないのだが」
「ね、ルーファウス、いい案でしょ」
「分かった。叶える。必ずだ。だが、当面は急ぐぞ」
 今度はエアリスが目を見開くばんだった。
「八八をお前と制覇することが、『大人のルーファウス君』の夢だからな」
 ルーファウスがしたり顔をした。彼の手は再びエアリスの背中のくびれたところに落ち着いた。
「いい案だろう、なあ、エアリス」
 エアリスは息をのむ。彼は話題をすり替えたいわけではなかったらしい。悲痛から逃げようともしていない。ルーファウスはただ、今このときを楽しむほうへとシフトしたのだ。
「そんな夢、いつの間に」
「今だ」
 ああ、この人は、また。
「すごいよね、ルーファウス。切り替えるの、いつも早いんだから」
「遅いことなら、誰でもできるからな」
 エアリスは彼の胸に額を伏せる。きっと泣きだす寸前の子供のような顔をしている。何度も何度も頷いたので、彼女の前髪はシェルジャケットにこすれてくちゃくちゃだった。
 二人の前途から、ルーファウスはかたときも目を逸らせてはいなかった。
 未来というのは、何も一〇年、三〇年、遠い行末のことばかりを指すのではない。たとえ一〇分のちでも、未知の領域だ。彼はそんな手を伸ばせば届くだろう未来こそ、確実に掴み取ろうとしている。
 エアリスも同じ生き方をしてきたから、分かる。いっときいっときを、ルーファウスは大切にできる人だった。
 そして。
「エアリス、顔を上げないか。星がだいぶ出揃ってきたぞ、ほら」
 エアリスとこまかな時間を積み重ねていくことを、ルーファウスは選んでいる。彼はそれをアピールすることも、いつも巧みだった。
「うん。見るよ」
 今だって、とエアリスは胸がいっぱいになる。
「見るに、決まってる」
 腰にそえられたままの手は、とんとんと、あやすように優しい。だというのに、彼女が身じろぎをすれば、長い腕をしなやかに巻きつけてくるのだから、エアリスはのがれることができない。
「わが家の天体観測ポイントには、まるでおよばないな」
「ヒーリンと比べたら、だめだよ。うちの星、いちばんすごいんだから」
「まったくだな。だが、エアリス。ヒーリンの空にはない三座が、ここにはあるはずだ」
 ルーファウスがぶつぶつと呟きだした。数字だ。何かの座標らしかった。きっと頭のなかの星座図と照らしあわせているのだろう。
 冷徹の目を走らせることは、よくある。けれど彼はあたりをせわしなく眺めまわしている。しかも金髪をふわふわとゆらしながらだった。こんなことをするルーファウスを、エアリスはあまり見かけたことがなかった。
「エアリス、思いだしたぞ。壱番街からだと見えない星座が、サウスミッドガルにあるはずだ。今の季節なら、二座だ」
「じゃあ、ここからなら見られるね」
「望遠鏡がほしいところだな」
「また、ジャッドに、お手紙書くの」
「洗濯機よりは驚かないだろう。お前に見せてやりたい。ただの星ではないからな。星雲だ。喜べよ。私のありがたい講釈つきだぞ。いや」
 ややしばらく、彼は逡巡していた。こんなときのルーファウスには声をかけない。エアリスはただ待てばいい。ふん、とルーファウスが諦めの鼻息をつくことをだ。
「白状する。天体のことなら、パルマーのほうが詳しい」
「もしかして、星の先生って、あの人なの。うんちくも、受け売りだったりして」
 ばれたか、とルーファウスが微苦笑している。
「言っておくが、半分は独学だからな」
「半分だって、すごいよ。だって、ルーファウスのお話、いつもどきどきするもの。とくにね、星座にされちゃった神様とか英雄さんたちのやつ、わたし、大好き」
 彼の腕のなかで、エアリスは身体ごと向きを変える。正面から、拍手を送った。
「まったく、お前は。ほとほとノンフィクションが好きらしい。有意義な話なら、ほかにしているというのにな」
「天文学っていうやつでしょ。あれはね、いまいちぴんとこないの」
「ああ、そうだった。お前にとっては子守歌だったか。数学と物理のかたまりのようなものだからな」
 ルーファウスが口角を吊り上げた。エアリスは鼻白む。
 講釈の途中で、彼が星の軌道計算に集中しだすことがある。それまで淡々とした口調に熱がこもり、眸は明るくなる。それこそ恒星のようにだ。そうして小さなルーファウスが垣間見えるとき、エアリスは話そっちのけでかわいらしい顔に見入ってしまうのだった。
 だだし、とエアリスは眉尻を下げた。それも長く続くと、今度は彼の声が心地よくなる。ルーファウスは子守歌と笑うが、あながち間違ってもいないのだった。
「そうだけど、それだけじゃないもの」
 星の配置と神話とを絡めた説話文学そのものも、興趣がある。それ以上に彼女が心惹かれるのは、つながりだった。
 大昔の人々が、星と星とを線で結んで、何かの形象――生物や静物――に見立てる。そうして長い夜の慰みごとにした。
 少しあとの時代になると、今度は形象をもとにして物語が紡がれる。文字という血潮をみなぎらせて、生物は神や英雄といういのちを得た。
 さらに後世になるにつれて、神話の登場人物はさまざまにかたちを変えていくのだ。精緻な彫刻へ、美々しい絵画へ、そして喜歌劇や文芸映画へと。
 エアリスは鎖骨をなぞった。少し前まで、ここにも神話があったのだ。ウェディングジュエリーとして、彼女が借り受けたネックレスのことだ。巨大なセンターストーンは、『星乙女』の女神の名を冠していた。
 数千年前のちょっとした遊びが、途方もない時間と多くの人々の創意を経て、ルーファウスからエアリスへと伝わった。二人の結婚式をも花やかに飾ったのだ。
 つながった、とエアリスは思った。
 今を楽しむことをやめなかった人々と、今を楽しもうとしている彼女とが、しっかりと。
 この先も、人々の飽くなき好奇心がたくさんの点をつくりだし、点を享受した人々が後世へと伝えていくのだろう。そうして連綿と伸び続ける――人らしい生き方という――線に、エアリスはとけこめた気がしたのだった。
 セトラとして死に、セトラとして星に残った彼女が、今になって。
「ルーファウス、あのね」
 拍手はまばらになり、やがてエアリスは両手を祈りのかたちに組んだ。彼女のくせだった。それをルーファウスが見つめている。
 セトラであるというだけで、彼女が迫害をこうむることは多かった。ルーファウスに言わせれば「神羅製の手枷足枷のついた二二年だ」らしい。エアリスは失笑しつつも、思い当たる節がいくつかあった。この街でエアリスの心は自由だった。少なくとも彼女はそのつもりでいた。が、身体はそうではなかったのだ。制約だらけの箱庭暮らしでは、経験や知識を積むにもリミットがある。
 それに、とエアリスは薄く笑う。
 枷をとき、箱庭を飛びだしたところで、彼女には知見を広げる時間にすらかぎりがあった。エアリスの生涯が短かったからだ。死にいたるまでの一連の行動をルーファウスは「蛮勇だ」と非難するが、エアリスもそれを否むことができなかった。
 だというのにエアリスは今、二二歳の続きをすごしている。ただの人として。
 あまつさえ、彼女の知識欲を満たしてくれるルーファウスがいる。
 人らしいいとなみを、彼は次々と教えてくれる。
「ありがとう」
 ルーファウスへの感謝はつきないのだった。
「何だ。またお前は、唐突だな」
「神話だって、意義、すごくあるんだから。わたしにはね、ちゃんとあるの」
「神話なあ。お前の童話よりひどい。あれは荒唐無稽にもほどがあるだろう。連中、下半身がゆるいだけの阿呆ばかりだからな。さすがに『プレジデントボンボン』でも引くぞ」
 エアリスは吹きだした。彼の辛辣な批評も、じつは楽しみのうちの一つだった。
 一歩、二歩と、ルーファウスが前にでる。転車台の手摺を掴む。と、身を乗りだした。
「ヒーリンに帰ったら、あいつを呼んで星見酒でもするか」
 エアリスはぽかんとした。ルーファウスが照れくさそうな顔をしたので、彼女の目はさらに丸くなる。
 いいの、と聞けば、彼は肩を竦めた。
「少しばかり、悔しいがな。面白い話が聞けるぞ」
「やった。嬉しい。わたし、おつまみ、いっぱいつくるね」
「なあ、エアリス」
「ローファット、でしょ。お酒はね、ウィスキーかラムだね。パルマーのぶんはどうしようかな。うん、念には念を入れて、マルベリーリーフティーで割ろう」
「完璧だ」
 でしょ。そう言いたいところだったが、できなかった。エアリスは慌ててくちびるを引き結んだものの、今度こそ嗚咽をこらえられない気がした。
 嬉々として、ルーファウスが星屑を仰いだからだ。
 子供のころ踏み損ねた夢のきざはしを、大人の彼が一段ずつ、踏みしめながら上ろうとしている。
「エアリス。何てことだ」
 額に散らかる髪を、ルーファウスは掻き上げた。多弁のはずの口が、二の句を探してぱくぱくしている。
「私が、まさかミッドガルの星を眺めることになるとは」
「里帰り、来た甲斐、あったね」
「ああ」
「本当に、何てきれい。美しい、がぴったり」
「美しいな」
 エアリスは彼の二の腕へと、頬を押しつける。シェルジャケットにこっそりと涙を吸わせてしまおうとしたところで、長く、節の大きな親指に拭われた。
「お前の星は、いつも塩っぱい」
 自身の指を口に含んでから、ルーファウスはかろやかに笑った。そんなの舐めないの、とたしなめるそばから涙があふれる。
 エアリスは忘れない。二人をはぐくんだ街の星々を、ルーファウスの指先でぬれて光る星を。
「忘れられない思い出だな、これは。お前に鼻水をつけられたこともだ」
 もう、と睨もうとして、エアリスはやめた。ルーファウスの眼差は、思いのほか真摯だった。だからエアリスも応える。彼のゆるがない気持ちに。
「ね、ルーファウス。面白くないことあったとき、あの『ルーファウス神羅』に鼻水つけたすごい人のこと、思いだしてね。笑ってね」
 思い出をつくっていくことを、エアリスは二度とためらわないだろう。いくつかの悲しみのために、ほかのすべてをがまんするなど勿体ないことだ。
 何よりも。
「もっと、もっともっと、ほしいよ」
 喜びも怒りも、哀しみも楽しいことも。
 思い出は、今を十全に堪能してこそ、つくりだされる結果だ。
 一日、一時間、一〇分。
 エアリスの生きた軌跡を、生きている今を、二人の思い出を。
 たとえわずか先の未来のことだとしても、こんな風にして幾重にも重ねていけば、二人のそれぞれの人生はより濃密になるに違いない。
「人って、欲張りだね。本当、どうしようもない」
「何だ、知らなかったのか。欲をとことんまで突きつめようとするいきものはな、人間だけだ。星を一つ括りにして名前をつけたのも、そうだろう」
「いい欲張りも、あるんだね」
「私も、いい欲張りだぞ」
 何が、と聞くことを彼女はしなかった。ルーファウスの声は、ビロードの夜の空だった。ぬれたようなつやがある。眸も同じだった。
「サンクチュアリで夜が待っているだろう。忘れられない夜だ」
 ルーファウスがゆっくりと踵を返した。数多の星を背にして、左手を差し伸べている。
「私はな、それがほしくてほしくてたまらない、エアリス」
 エアリスはためらわない。手のひらを重ね、五指を絡める。向かう先は、深い紫色につつまれた園庭だ。二人の聖域だった。
 勾配を下りきったところで、わたしも、と彼女がはにかむ。


■END■
(聖域Ⅲ)

20230423