祭子
2023-01-27 21:01:57
20641文字
Public FF7/R×A/TLKG/SS
 

■RUFUS■

∠[ν]-εγλ001?/?/?
今日はルーファウスの本当の誕生日です。赤の意味を問われたのも明かすのもエアリスただ一人です。
※Privatter掲載テキスト(20230123初出)

■RUFUS■
∠[ν]-εγλ0011/?/?


「名前は決めてある」
 妻がきょとんとするとき、いつも小首を傾げる。ああ、この女は、こんな些細な仕種まで。小鳥のようにあいらしい。
 この時間帯、いちばんに日当たりがいいのは、妻のサロンだ。ドアが開くなり、私は言った。妻が嬉しそうに微笑み、腹を撫でた。優美な手つきをしている。
「子供の名前だ。聞いてくれるか」
 臨月のそれへと、私は一瞥を投げる。腹に乗ったままの左手は、か細い。ウェディングリングに嵌めた、妻の眸と同じ色の石がより際立つほどにだ。私は、しかし、と眉をしかめる。
 妻の身体はとても薄かったはずだ。初めて抱擁したときの驚きを、私は忘れていない。これほどまでに変わり果てるものなのか。ふくらんでいくたびに、正直なところ、私はびくびくしていたのだった。
 さらに私は朝から落ち着かなかった。緊張は今、極点に達している。ああ、どうしたものか。吐きそうだ。
「子供の名前だよ」
 この日、私が神羅の後継にと選んだ男児が生まれる。
「私たちの子供だ。名前だ。決めたぞ。なあ、聞くだろう」
 それだけではない。子供を迎えて、私は私の、私だけの家族の核を初めて成す。ああ、どうしよう。心臓を、口から吐きだしそうだ。
 ミッドガル構想のときから、私の家族の住まいは壱番街と決めていた。零番は私のものだが、壱番は子供にやる。そのつもりだった。すでに竣工し、東棟は子供部屋として何もかもが万全だ。
 ただ、一〇箇月近くを費やしたというのに、私の心だけがいまだこの有様だ。身ごもってからというものの、妻は幾度となく体調をくずした。花車な妻が、彼女の血を引く子供が、分娩に耐えられるのか。私の頑健な血は、少しくらい子供の役に立つのだろうか。
 情けないことに、私はもうずっとこの調子だった。
「お聞かせくださいませ、あなた」
 私は大きく頷いてから、フロアへと踏み入る。
 両開ドアは明るい色調の無垢材で、妻のイニシャルをモノグラムにしたレリーフが見事だ。生家から連れてきた使用人が数人、その脇に控えている。護衛は通常の倍はいるだろう。加えて二人の医師が、今朝から妻につきっきりだった。連中は私を認めるや否や、立っていようが、座っていようが、何をしていようが、正しい姿勢で一礼をする。私がいちいち気に留めることはない。連中は、私にしてみれば代り映えのしない風景のようなものだった。
 大きな半円の窓辺へと、足早に向かう。私の不行儀な靴音を吸い取るのは、厚手の絨毯だ。ファーニチャーは木材の曲線と寄木細工で設えている。ファブリックはどれも蔓草の這うような複雑な柄をしていて、色取りは金色と淡彩だった。このフロアは、私にはいささか甘ったるすぎる。しかし、これでいい。これがいい。私はカブリオールレッグのカウチソファーを見下ろした。
 花飾に見勝る妻が、背あてにもたれることなく、ころころと笑っている。この女には曲線がよく似あうのだ。
「何だ。何がおかしい」
「名前、名前と、同じことを何度も仰るものですから。お顔だって、青うございますよ。わたくしより、ずっと」
「それはそうだろう。君は今にも破裂しそうな腹をしている」
「『破裂しそうな腹』、をしているのは、あなたではありませんのに」
「だからだ。私には破裂しそうな腹の感覚が分からない。さっぱりな」
「ご安心なさって、あなた。今からぺしゃんこになります。坊やだって、『でたい、でたい』って、元気に騒いでいるのですもの。きっと、つつがなく産まれます」
「怖くはなかったのか」
「何のことでしょう」
「腹のなかに、自分とは違ういきものがいるのだぞ。もう、ずっとだ」
 恐々と聞けば、妻はまた小鳥の仕種をした。それから両手の指先だけで口元をおおった。
「まあ、本当。仰る通りだわ」
 妻の話し方は、こせついたところがない。そう言えば聞こえがいいかもしれない。しかし私はせっかちだ。妻がのろくさいと思う。その上、こんな風に間の抜けた返事をする。多々あるのだ。私はそのたびに苛立ったり、呆れたりと忙しい。
「違ういきものだなんて、一度も思ったことがございませんでしたから。違う、というのは、少しよそよそしい感じがいたしますでしょう。ですから、違う、とは違うのです」
「間怠いな。何が言いたい」
 棘立つ私にも、妻は笑み顔をくずさない。あの古くさい家で育った気風なのだろうか。優然と腹をさすっている。
「別のいきもの、かしら」
「坊やとわたくしは、あなたのお言葉で申し上げると、『別のいきもの』だわ。とても一人は生きられないいきものでしょう、坊やは。わたくしのお腹が大きくなるのは、坊やが一人前になる準備をしている証ですもの」
「嬉しかったわ、とても」
「不安ごとはございました。あなたもご存じでしょうけれど、本当にたくさん。厭いてしまうほど。それでも、怖くはなかったのです」
「親元を離れて、気づいたことがございます。ミッドガルの眠らない活気を知って。雄健と、少しもじっとしていらっしゃらないあなたを見ていて。ほら、ここに集まってくださっている方々も、そう。これまでたくさんの方々のおかげで、わたくしはようやく半人分のいきものでいられたのだって」
「初めて悔しいと思ったの、わたくし」
「坊やを授かって、わたくしは、わたくしとは別のいきもの、とても大切ないのちを、わたくしの身体で守ることができました。力がみなぎる感じがいたしました」
「これが自信というものなのでしょうか。ええ、きっと、そうなのだわ」
「あなたと坊やが、わたくしに大きな力を与えてくださったの」
「坊やが産まれれば、坊やのいのちは坊やだけのもの。坊やの人生も、もう坊やだけのものなのですから」
「これからこそ、『別のいきもの』として、わたくしたちは生きていくのですから。坊やの人生が豊かになるように、しゃんとしたお手本になりたいと思うのです」
「いただいた自信を役立てることが叶いましたら、そのときこそ、わたくしも一人前になれると思うのです」
「ありがとうございます、あなた」
 ぼうっとした女かと思えば、私では考えつかないことを言う。今度は私がきょとんとするばんだった。しばらくして、私は大声で笑った。
 いったいいつからなのだろう。ペースもテンポもまるでちぐはぐだというのに、私は妻から目が離せなくなっている。
「君は案外と頼もしいのだな」
 妻が手招きをした。私はとなりに腰かける。スプリングが沈みすぎないよう、そろそろとだ。
「神羅のご一族に嫁いだのですもの。わたくしも娘のままではいられませんでしょう」
 なるほど、妻の言う通りだ。
 旧公家というステータスと、令嬢の髪と眸の色味。是非ともほしいと、半ば強引に漕ぎ着けた婚姻だった。令嬢はずいぶんと若く、そして浮世離れしていた。
 自宅にわざわざ公国領の建築様式を取り入れたのは、私の力を妻の生家へ誇示したかったからにほかならない。三つの庭はさらに奮発した。地上三〇〇メートルの庭園なんてものは、壱番街以外のどこにもないに決まっている。成上がりのくそ力を食らえ、だ。
 私の利己心に、妻は何も含むところがないのだろうか。あったところで、文句の垂れ方など知らないのかもしれない。そもそもだ。私はこの政略結婚に、妻の思惑というものを感じたことがないのだった。
 いや、違うな。
 一度だけ。
 鋼鉄の新興都市、灰白色の空ばかりの日々、朝の小園と小鳥のさえずりが慰みなのだと、一度だけもらしたことがあった。妻の不満とも言えない不満は、それきりだった。
 人形じみた女だと思っていた。旧態依然とした家恩に与るだけの、我のない女だと。
 今もまだ浮世離れしている。私をたびたび困らせるところは、出会った当時のままだ。
 それでも妻は、確かに婚姻前の令嬢とは違って見えた。荒々しい変遷を経て、すべてに打ち勝ち、今もなお激動のただなかにいる私には、妻の変化があまりにも悠長にすぎたのだ。だから、気がつかなかった。
 茫然と妻を眺める。私が手に入れた女は、蝶だったのか。
「総帥の妻なのです」
 これは羽化だ。
「坊やの母親ですもの」
 慌てて翅を広げようとして、破れたり、妙なかたちになったりすると困る。ゆっくいでいい。ゆっくりがいい。このまま妻のペースで変態を遂げるといいのだ。
 名前を呼ばれて、私はわれに返る。まばたきを繰り返す。
「お産の紐をとく前に、そろそろ教えてくださってもよろしいのではなくて。名前を呼んで、坊やを励ましてあげなくてはなりませんもの」
「は」
「ふふ。あなたのお顔、『チョコボが豆鉄砲を食らった』というのかしら」
「くだらないイディオムを君に教えたのは、どこのどいつだ。いや、そんなことはどうでもいい。おい、君が子供を応援するのか。君が苦しんでいる最中にか」
「そうなの。きっと痛くて、とても苦しいのでしょう。正気でいられるかしら。どうなのかしら。少し困っているのです、わたくし」
「君は本当に」
「ですから、あなたはわたくしの名前を呼んではくださらないかしら。手を握って、坊やが産まれるまで、わたくしを力づけてくださると、嬉しいのですけれど」
 私は面食らった。もうどこにもあのつまらない女はないなかった。
 妻は着実に母親の、そして神羅の女の翅を広げている。この先、子供を胸に抱き、私に並び立つことを覚えて、鱗粉の輝かしい蝶になるのだろう。
「分かった」
 儲けものだ。素晴らしい家柄と、好みの髪と眸をした人形を手に入れたと思っていたら、いい女までついてきた。
 そう思えたなら、どれほどに楽だっただろうか。
 私は項垂れそうになる。近ごろになって、妻の手を見るたびに私は不安に苛まれている。私の手は、かつては工業油に、今は業にまみれている。ほっそりと、真白な手とは似ても似つきやしないのだ。妻は、私のもとに置いていい女だったのだろうか。
 私のカルマは私だけのものだ。
 善いことも悪いことも、さんざんにやってきた。これからもやる。やり続ける。いずれ私は、私のやったことへの禍福のむくいを受けるだろう。それはいい。
 ただ、私にとっての禍を考えたとき、カルマは私自身を狙わない。世間の悪意や怨嗟、それこそテロリズムなどという阿呆な暴力に、この私が屈するわけがないと分かっているからだ。私がダメージを受けるのは、今まさにかたちを成そうとしている私の弱点だった。
 家族だ。
 私は顔を上げる。何もないところをきつく睨みつける。
 家族には、私が完璧な温室を用意してやる。翅を広げた妻が、妻らしくのんびりと放蝶できるように。子供には、そうだな、知識と体術という餌を潤沢に与えようか。それを糧に頑丈な糸を吐き、繭をつくり、羽化を待てばいいのだ。ああ、子供の翅は、いったいどんな模様になるのだろう。
「いかがなさいましたの、あなた」
 今、私の頭のなかの温室に、美々しい蝶が二匹、飛んでいる。子供にまで、「どうなさいましたか、お父様」とくそ丁寧に呼びかけられるところを想像して、私はうんざりした。
「なあ、もう少しフランクに話せないのか。子供が真似すると困る。家のなかが堅苦しいのは、私はいやだぞ」
「そうはおっしゃいますけれど、これはわたくしの。いいえ、そうですわね。でしたら、あなたがわたくしに教えてくださいませ」
 突きでた腹をかかえながらも、やはり妻は榻背にもたれない。微笑みを湛えながらだ。幼少からしかるべき教育を受けたのだと瞭然の、品格のある所作だった。
「いいだろう。それからもう一つ、教えてやる。笑い方だ。家のなかでは、歯を見せて笑え」
「まあ。何てことを仰るの」
「君の歯は白い。見せないでいるのは勿体ないぞ」
「お待ちくださいませ、あなた。そのようなところをお褒めいただいたのは、初めてでございます。どうしてかしら、とても恥ずかしいわ」
 私が大笑すれば、妻の薄い色の眸がおろおろとさまよう。なぜ笑われたのか分からないらしい。それがまた私の笑いを誘うというのに、この女ときたら。
 このどうにもちぐはぐな感じは、慣れてくるとあれだな。
 なかなかどうして、楽しいではないか。
「私はこの通り、がさつな男だ。君の品のある笑い方が、子供には必要になるときがくる。子供に教えてやれ。ただし、言葉遣いはほどほどにしろ」
「ですって、坊や。お父様の鷹揚なところも、きちんと教わるのですよ」
「お父様だと。やめろ、やめろ。それが堅苦しいというのだ」
「あなたはお父君のことを、何とお呼びになっていらしたの」
 不意に顔を覗きこまれて、息をのんだ。妻が私の知らない少女の顔をしている。好奇心を押し殺しているところを見るに、昔は案外とお転婆だったのかもしれないな。
「私か。父さんだとか、親父だな」
「坊やにもそう呼んでもらいましょう。決まりですわね。わたくしは、ええと」
「母さんだ」
「すてき。あいらしい響きがいたします。坊や」
 少女の顔のまま、はしゃいでいる。母親の手は、わが子の上から少しも離れない。
「ルーファウスだ。ルーファウスにする」
「赤」
 ややしばらく間を置いたあと、妻がもらしたのは一語きりだった。そうだ、と私も短く言い切る。強くだ。
「ずいぶんと古い言葉ですのね。それも『赤』だなんて」
 妻の口調に不思議そうなニュアンスが含まれるのも、もっともだった。
 私も妻も金髪碧眼だ。肌の色も透けるように薄いに違いない。双方の血縁のほとんどもそうだった。妻は世が世なら美姫ともてはやされたことだろう。それから私は己の頬を一撫でしてみる。
 ああ、いやだ。いやなことを思いだしてしまった。
 自社の前身のころは、油や煤だらけの顔だった。汚れの似あわない色男だと、何度なじられたことか。そして、この顔にぴったりな名前をつけられたものだから、私はファーストネームを呼ばれることがきらいなのだ。
「金髪碧眼の優形では、舐められる。だから強い色を一つ、持たせてやらなければな」
 当時を思いだして、私は鼻息荒く言った。妻は口元を閉じたまま、器用に、ふふ、と吹きだしている。長年染みついた所作だ。すぐにはどうにもならないらしい。
「優しい方」
 妻が私の手を取ると、腹に当てた。何度ふれても慣れない。思わず引っこませかけたとたん、妻の両手が私の上におおいかかった。柔いというのに、逆らえない力だった。
 ちょうどそのときだった。両開きドアが重厚な音を立て開いた。「旦那様、産室のお支度が整いました」と執事が私に告げると、脇に控えた。いよいよか。
 私は妻子に向き直る。私は私の手のひらに集中する。ゆっくりと腹を撫でる。 
「ルーファウス」
 名は体を表すという。
「なあ、ルーファウス」
 強く、はげしい人間であれ。
 マグマのような、濃い熱情を持て。
「気楽にぷかぷか浮いていられるのも、これまでだ。覚悟しろよ。私も、世のなかも相当に厳しいからな」
 そのほうが人生は楽しい。
「今日はね、あなたの初めてのお誕生日よ」
 妻の手と、妻と子供の体温に挟まれる。あたたかい。
 ああ、これはまずい。非常にまずいな。
 親ばかと笑われるだろうから、誰にも言わないでおく。一生だ。
「ルーファウス、ルーファウス。そうね、ラフ、いいえ、ルーファと呼びましょう」
 この家に、庭をあと二つ増やそう。一つは東棟の前に。朝日の清々しさを、お前も知っておくといい。
 零番街も、いずれはお前にやる。そのための嫡子だ。ただし、弱いやつにはやらん。相当の重荷だからな。
 いらなければ、のんびり暮らせ。
 ほしければ、賢く、強く育てよ。
 その前に。
「お父様から、いいえ、父さんから、すてきなお名前を、お誕生の贈物をいただいたわね」
 ルーファウス。
 ルーファウス神羅。
 無事に生まれてくることを、祈る。
「ルーファ。何て、幸せな坊や」


「ルーファ。うわあ、意外だね」
 妻がきょとんとするとき、翠眼と、その目尻が垂れて見える。ああ、この女は、こんな些細な仕種まで。狸のようにあいらしい。
 言えば、脇腹をつねられることは分かっている。不本意だ。褒めているというのに、妻にはまるで伝わらない。
「本当にあったんだ、ニックネーム」
 私が黙っていると、エアリスはくすくすと笑いだした。愛称を聞かれてこたえてやれば、この仕打ちか。私はむすっとした。
「どういう意味だ。何がおかしい」
「おかしいっていうか、吃驚」
「お前から聞いておいて、何だ」
「だって。そういうの、ニックネーム、ない人だと思ってたから」
「ないのではない。呼ばせないだけだ」
「はいはい」
 休日の朝だ。いつもであればベッドでごろごろしながら、午前の予定を立てているはずだった。なぜこんな話になったのか。原因はこれだ。ナイトテーブルにある。いつだったか、エアリスにやった、私のアルバムだった。
「エアリス。お前の返事はどうにも当てにならん」
 一時間ほど前のことだ。
 週末は、神羅社長を翌朝という時間の束縛から自由にする。夜のあいだをかけて、私たちのすべてをつなげるからだろう。何度もだ。起床時間になってもエアリスが目覚めないのは仕方がない。
 こんな日のアーリーモーニングティーは、私が淹れる。
 寝ぐせ頭とガウンのまま、まず私がキッチンですることといえば、ティーウェア選びだ。給茶の支度をし、ベッドルームに戻ったところで、ブラインドを全開にする。ふんだんに取り入れた朝日と、そしていい香りでエアリスを起こす。ここでもまた、私はじっくりと手間を費やして妻を歓喜へと導くのだ。いつからか、二人の決まりごとになっていた。
 だが、ドアを開けてみれば、珍しいことにエアリスがすでに起きていた。アルバムを膝に乗せてだ。肌がまとっているのは、気怠さではない。くしゃくしゃのナイティーだ。私がベッドから下りたときに踏んで、滑って、危うく転びかけたやつではなかったか。片方の肩紐がちぎれかかっているのは、白状するまでもないが、私の『おいた』がすぎたからだな。鼻歌交じりで「おはよう」とは、おやおや、元気なことだ。もう手加減はいらないらしい。
 まあ、いい。なぜ。今日にかぎって、なぜ。
 エアリスは一人で目を覚まし、そして寝起きからこんなものを持ちだしたのか。
 それも私には理由が分かっていた。
「ハッピーバースデー、ルーファウス」
 私が生まれた日だからだ。
 あのでたらめな日ではなく、この星に私が生まれた真実の日だった。
 ベッドの上にトレイを置く。エアリスはちょうど飲みごろの香りよりも、ティーウェアを喜んだ。白磁器に金色と淡紫色の縁取り、絵付はかれんなバイオレットだ。私の誕生を記念して、母方が用達の窯元につくらせ、ばら撒いたという逸品だった。私の妻はそれを知っているからだろう。
 当時、この一式を受け取った連中は浮かれたに違いない。何せ神羅総帥と旧家の姫、この先さらにときめくに違いない若い夫妻の。ああ、これ以上は余談にすぎるな。
 ともかくだ。窓のそとが白みきってもまだ、私たちはヘッドボードにもたれ、よりそい、のんびりと茶を啜っていた。エアリスがアルバムを繰る。いくつかの写真を指差す。私はそのたびに記憶をたどる。朝の静寂を破らないよう、私は小声で話す。エアリスは眸だけで驚き、そしてくちびるだけで笑ったのだった。
 休日だから、気がゆるんだのだろうか。いや、まさか。それとも、あれか。いとおしむ女のとなりでは、気の引き締め方など忘れてしまうものなのだろうか。私は、私の生まれた日に、生まれたばかりの私の写真と向きあった。あまつさえ笑っている。
 こんな珍事に見舞われるのだから、人生というのはわけが分からない。
「ね、その超レアなニックネーム、呼べるの、誰」
「両親と、悪友くらいのものだ」
 私は首を捻る。ここは「くらいのものだった」と言うべきだったか。
 両親は死に、学友は今では部下だからだ。愛称で呼ぶ人間はいない。いや、と私はくつくつと笑った。七〇代に差しかかろうという婦人の顔がちらつく。
「違うな。あの人は、寮母は今でもそう呼ぶ。困った人だ」
「具合、あんまりよくないんでしょ。お見舞い、どうしよっか」
「考えておく」
「ね、ルーファウス。時間は」
「有限だ。だがな、エアリス。お前はあの人の、本当の恐ろしさをまだ分かっていない」
 ボーディングスクール時代、寮母は預かった子弟を一貫して『子供』として扱った。私のこともだ。家柄や学力どころか、迎合も賄賂までもがあの人の前では無力だった。
 一四歳で転学するまで、ルールらしいルールに縛られたことのなかった私は、他者の敷いたルールというものがもの珍しかった。それと同時に、わざわざルールに従ってみせたり、ルールの裏をかいたりすることが面白いとも思っていた。私は、すでにあのころから『ルーファウス神羅』で、子供なりに稀有なことが大好きだったのだ。
 だが、どうしてだか、私にも掻いくぐれないルールがいくつかあった。たとえば、門限だ。私はよくそれを破ったのだが、ばれないように確保しておいたはずの帰り道で待っていたのは、鬼婆だった。
 寮母の頭のなかには、寄宿舎の見取図だけではない。建築図面のすべてがインプットされていたのかもしれないな。
「あの人との面会に漕ぎ着けるにはな、エアリス、いろいろと根まわしがいる。アポなしで行ってみろ。『今日はお約束をちょうだいしていませんよ』と、三〇をすぎた男の尻をぶつに決まっている。ベルトでだぞ」
 私は大げさに肩を竦めて見せる。
「『私の時間は、あなたの勝手に使っていいものではないの、ルーファ』、『あなたの時間は、紳士然として世の安寧に捧げるのですよ、ルーファ』、『お約束ごとの取りつけ方からおさらいしなければならないなんて、嘆かわしいこと、ルーファ』、『その前に、さあ、あなたのベルトをお貸しなさいな、ルーファ』、『ルーファ、ルーファ、ルーファ』だ」
「『紳士淑女を育てることが、私のお仕事なの』、『お仕事は天職だわ』、『あなたたちこそ、私の生き甲斐なの』でしょ。いいな、やりたいこと、ちゃんとやり通すの。恰好いい人だね」
 寮母の口振りを私が真似れば、今度はエアリスが口癖をそらんじた。それから二人で笑った。
「ぶたれたくないなら、ほら」
「伺い立ての書状から用意しなければならないな。ああ、堅苦しい。古くさい」
 だが、と笑声の引いたところで、私は吐息をつく。
「寮母の時代とは違う。紳士淑女のたしなみなんてものは、当世では役に立たないだろうとばかにしていた、あのころはな。案外と、そうでもなかった」
「だよね。スラムでもね、皆、あなたのこと褒めてたよ。すかした優男だって」
「それは褒めていない。侮りと妬みだ」
「あと、羨ましかったのも、あるかも」
「分かっているなら、褒め直せ」
 私は肘で抗議をすることにした。柔い身体を突っつけば、くすぐったい、とエアリスが腰をくねらせた。のがすものか。私はくびれた部分を引きよせた。エアリスの頬のぬくもりが、胸板からじわじわと染み入る。ああ、快い。
「わたしね、手紙書くの好きなんだけど」
 知っている。
「ルーファウス、ほら、便箋の選び方のアドバイス、くれたでしょ。小父様ね、いつも褒めてくれるんだよ」
 私がジュエラーに妻との文通を依頼して、もうどれくらいになるのか。集配はポストマンならぬ、ポストチョコボに任せている。
 人間とチョコボ種の共生が始まったのは、歴史の教科書の最初のほうだったはずだ。動力車が台頭しだした近年を経てもなお、メテオショックより以前から、民間では後者が重用されていることくらい、私でも知っている。チョコボ種は帰巣本能と自衛力がすぐれている。しかもだ。ブリード次第では、あいつらは行路を選ばないからな。なるほど便利な運搬役だった。
 あの大型鳥が食用肉のシェアをそれほど占めていないのは、軽車両としてのエコロジカルニッチを獲得しているからなのだろう。
 ああ、なるほど。共生というより、これは使役関係ではないか。あるものは己のいいように利用する。一方的にな。人間の厚かましさというのは、原始の時代から存在するのだ。私は半ば呆れた。そして私もまた、鉄面皮な人間だった。
 ポストチョコボは、まだまだ市場開拓の余地があるな。面白そうだ。
 まず、現状では貴重品を託すことが難しい。仕方がない。通常、ポストチョコボは単騎だ。自衛力があるといっても、鳥は鳥だ。遠距離攻撃にはめっぽう弱い。だからといって人が騎鳥すれば、それだけ人件費がかさむからな。個々の農場規模の労働力と資金力とでは、なかなかチョコボ種の護衛確保にまで手がまわらないだろう。だから、荷物を狙う強盗はあとを絶たない。昔からの問題だった。
 私は首を捻ってみる。ポストオフィス同様、損害が発生した場合に備えて、一定の賠償額を設けるというやり方もある。だがこれもまた、個人経営では厳しい。相応の組織化が必要だろう。
 チョコボ種自体の強化改良は、私は反対だ。従来のあのほとんど自然交配ならまだしも、いのちに人為の力は用いない。私のポリシーだ。たがえるつもりは微塵もない。
 さて、どうしたものか。
 ポストマンには車両を配備しなければならないが、ポストチョコボは燃料に地下資源を使わないからな。くそったれの星に優しい私としては、諦めるわけにはいかないのだ。
 チョコボ種なんてものには縁も興味もなかった私だが、メテオショック以降は見方が変わった。さらに言えば、エアリスに出会ってからだ。
 ああ、面白い。楽しいな。
 しばらくはチョコボ種の生体とじかにふれながら、考えてみようか。
 私がポストチョコボにと用立てたのは、純白と漆黒の二羽だ。私とエアリスで、それぞれに名前をつけた。あの独特の鳴声が後庭から聞こえると、エアリスは何をしていても手を止めて、窓辺に駆けよる。私はエアリスのかろやかな足取りを見るのが好きだ。
 それから、彼女はどうするのだったか。ああ、そうだ。じっと私を見る。「郵便、受け取ってきて。ね、早く」と、真緑色の虹彩の動きだけで、この私を意のままに使うのだ。
 まったく。顎一つで操ることのできるエヴァンを、ばかにできなくなってきたぞ。それとも何か。神羅の血は一途を通りこして、パートナーに頭が上がらなくなってしまうものなのだろうか。
「『奥様のお手紙は、書簡箋とインクで時節まで楽しめますね。ヒーリンにご招待いただいた気分になります』だって。文じゃないところからも、気持ち伝わるの、嬉しかった」
 私にしなだれながら、エアリスは顔だけを上向けた。眸が近い。小さな鼻先も近い。得意げに吊り上がる口角もだ。
「あと、あなた、この間もグリーティングカード、送ったよね。また吃驚してたよ、小父様。『神羅様は気障なことをなさるのですね。わざわざ、私のためにこれを』、だって」
 私も満更ではなかった。
 ジュエラーは洒落者で、「私のための『これ』」というのは、何もしたためたメッセージだけではないのだと気づいているらしいな。たとえば便箋なら、私は紙料の漉き具合を、用途や性別、そして送る相手とどうなりたいかで変える。たった一枚の紙切れで相手を一喜一憂させるすべは、寮母の教育の賜物だった。そして、ここからは私が得た書状の使い方なのだが、不要な人間をふるいにかけるにも、ちょうどいい。
 一通目で私の意図を汲めないようなら、二通目は届かない。
 おそらくジュエラーも、私と似たりよったりの学習環境に恵まれたのだろう。有識と、それに天職が重なったあの男と話していると、私は飽きない。だから、たかがグリーティングカードとはいえ、滅多とないペンを執る気にもなれるというものだ。
 あの目利きとは、少しでも早くともに仕事をしたいと思っている。楽しみだな、とても。
「それにね、ルーファウス、字、すごくきれいでしょ。意外だけど」
「エアリス。お前は、近ごろ一言多いな」
「ごめん、つい。夫がそういう人だから、知らないうちにね、真似しちゃってるみたい」
 薄茶色のつむじに、私は顎先を押しつける。痛いと騒いでいるが、知ったことではない。
「あのね、ペンの持ち方とか、書いてるときの姿勢にもね、見入っちゃうの。すごく丁寧なんだもの、あなた」
「何だ、エアリス。今度は、いつもは大雑把なくせにね、とでも言うつもりか」
 エアリスは慌てて首を振った。私の胸のなかでこすれて、細い髪がみるみるふくらんでいく。くせのあるそれが、やがて私の腕からこぼれて、シーツの上にまで広がった。ゆるやかなせせらぎを見ているようだった。いいな。髪ですら、角がないのだ、この女は。
 なるほど、そうか。私は案外とまろいものが好きなのかもしれない。ほら、狸も目玉がころんと丸いだろう。
「ちょっと、どきっとしちゃう。見蕩れちゃう。書いてるとこ、ずっと見てたいなって、思うくらいだよ」
 私も見蕩れている。心も身体も、どこもかしこも曲線でできたエアリス、お前を。
「私も、見ている」
 柔らかなお前だけを。いつも、今も。なあ、エアリス。
「うわあ、何、その顔。ルーファウスったら、かわいい」
「知っている」
 晴天の朝は、だめだな。
 透明な光が私の素直を余さず照らしてしまう。
 神羅に入社してからは、書状のたぐいはほとんど秘書が用意するものになった。私が直筆のそれを用意することは、そもそも手書きで何かをしたためるということからして、今では月に数回程度だろう。ただし、家のなかでなら、話は別だった。
 エアリスが感心しているのは、義母のレシピノートのことだろう。その続きを、私は日課のように書き入れている。材料の配分、調理時間まで、きっかりとだ。私のうっかりな妻のためだというのは、そうだな、言うまでもなかったか。
「ね、催促、してもいいかな。ううん、するね」
 私は小さく笑った。この好奇にまたたく翠眼を前にして、何をだ、と聞くのは野暮だろう。
「書いてやろうか」
「やった。言ってみるものだね」
「準備がいる。そうだな」
 特別な便箋とインク、ああ、ニブも新調しようか。筆跡は完璧だ。親父の雇ったチューターに、珍しく習字にうるさいやつが一人いたからな。寮母にも書きぶりだけは叱られたことがない。肝心の手紙の内容は、ここに、私のなかにある。特別の気持ちだ。
 だが、困ったぞ。私は『愛』という文言を禁じられているのだった。どうしたものかと首を捻りかけたところで、私は吹きだしそうになった。
 ああ、そうだった。私にはまるで必要がなかったので、すっかり忘れていた。
 寮母に叩きこまれた紳士淑女のたしなみには、意中の相手へのアプローチというものまであったことをだ。堅物のようで、実のところあの人はそうではない。むしろ色恋こそ大いに楽しめと言われたものだ。人と人とのつながりの、苦楽と哀歓をしっかりと学べるのだから、と。
 寮母の気に入りのフレーズがクリアによみがえる。
「月がきれいですね、か」
 心のうちで呟いてみる。鼻で笑う。あの人らしい品のいいメタファーだ。エアリスもうっとりとしそうだが、どうにもな。私にはしっくりこない。何よりもだ。
 ラブレターだ。
 これは私の、生まれて初めての。
 他者の言いまわしを盗用して、私は妻を口説くつもりはない。
 要はあれだな。直接的な言葉は用いず、言葉遊びをしつつ、知性と愛をありったけつめこむといいのだろう。なるほど、だったら簡単だ。つまりは普段の私を綴ればいいわけだからな。
 私がエアリスへと向ける眼差、接し方、いつもの私たち。
 これなら愛という文言は不要だ。
 まさかだ。寮母の講話がこんなところで役に立つとは。だが、これで私は。
「尻を赤く腫らした甲斐も、あったらしい。なあ、エアリス。ポストチョコボを楽しみに待っていろ」
 ラブレターというものを、私はしたためることができる。
 何せ慣れないことをするのだ。下手くそでも許すだろう、この女は。ああ、どうだろう。気障だと笑うのかもな。それとも何だ。素直すぎ、と真赤な顔で私の二の腕をはたくのだろうか。いずれにしてもだ。
 読み終えたあとのエアリスの顔つきは、ただ一つだ。私はそれをありありと思い浮かべることができる。
「黴が生えているのかと思うほど、コンサーバティブなばばあだったがな。優等生でいてよかった」
「いらないこと言うから、ひどい目に遭うんだよ。万年問題児の、ルーファウス君」
 いたいけな少年が辱めを受けていたことを、エアリスはすでに知っている。アルバムを開くたびに、聞かせてきたのだからな。だというのに、この女ときたら。毎回、決まって寮母の肩を持つ。
 私もそうだ。実のところ、私は寮母に一目置いている。あの人にはゆるがない信条があったからだ。
 体罰という、時代錯誤なやり方に賛否両論はあるだろう。無論、鞭ふるう手に私情が絡めば、それはただの暴力だ。だが寮母は違った。叱りはするものの、怒りはしない。そして子供たちの誰の目にも、ジャッジのベースラインは明らかだった。ルールを守るか、守らないかだ。
 為すべきを為さなければ、それ相応の制裁が下る。
 善因楽果、悪因悪果。そうだ、因果応報というやつだな。
 子供たちのあいだで書斎を懲罰室と揶揄っていたことを、あの人は知っていただろうか。ああ、きっと。知っていたのだろう。何せ神出鬼没の鬼婆だった。
 それでも自身のスタイルを変えないというのは、ああ、今なら分かる、あれはすごいな。矜持だった。本物のだ。
 一〇代の子供たちでは、それだけの確たる『個』を持つには未熟すぎた。だから本物に憧憬をいだく。目の前にあれば近づこうとする。手に取ることができるのなら、自分のものにしたくなる。彼ら、彼女らは、寮母のもとで、当時のうちに因果応報を学んだことだろう。仮に悪い結果が伴うのだとしても、待っているのは、打たれたところで決してあとの残らない尻たたきだ。
 だが、私はそうではなかった。
 私にはすでにプライドがあった。私は私の能力を信じていた。違った。矜持と驕心を勘違いしていただけだった。愚かしいことに、長いあいだな。学べる機会をみすみすのがした私は、因果応報を大人になって知った。
 テロリストと結託するという悪因と、四年の幽閉という悪果でだ。
 誰もが皆、わが身を優先する。為すべきを誤った私を、神羅の副社長を、恐ろしい顔をして叱りつけるような、そんな優しい人間はいなかったのだ。
「もっと鞭打たれておくべきだったか」
 思わずもらした声は、笑みを含んでいた。すぐに緑色の眸も笑った。
 私があの人を少なからず慕っていることを、エアリスはすでに見抜いている。だから、エアリスも寮母に悪感情をいだいてはいない。
「どうかな。お尻、ぶたれたところで、ルーファウスはルーファウスだもの。変わらないよ」
「まあな」
「だけど、そういう人、あなたのそばにいてくれてよかった。神羅のボンボン、ちゃんと叱ってくれる人」
 エアリスの腰から脇下までを撫で上げる。そっとだ。あばらのあたりまで下した手で、私は薄い身体を引きよせた。今は神羅社長を叱る、お前がいる。
「叱ってもらわないと、叱られるってどんなことか、分からないでしょ。大事だよ。ね、ルーファウス、後悔しないほう、選んでね」
 私は頷く。会うか、会わないかの二択のことだ。
 私の選択は前者だ。たとえ鞭打たれるのだとしても、私は神羅家の家長だからな。家訓に準ずる。『やらずに後悔するな、やって後悔しろ』だ。寮母が天職をまっとうした証を、見せてやろうか。
 にやりとしかけたとたん、ふとエアリスの視線に気がついた。じろじろと、まさに品定めをしているところだった。
「あ、でも。ルーファウス、えせ紳士だから。あの人、がっかりしちゃうかも」
「おい、エアリス。誰が、えせ紳士だ」
「ごめん、ごめんね。冗談だよ。きっと、『あなたはよくやっています』って、頬っぺたにキスして、ぎゅっとハグ、してくれるね。だって、世界再建、だよ」
「だといいが。言えないことも、裏でさんざんやっている」
「やってるね。やってますねえ」
「やっている。やりまくっているな」
「ほら、そこらへんは、ルーファウス、ごまかすの上手でしょ」
「何だ。お前は叱ってはくれないのか」
「叱るけど、それはね、ケースバイケース。あと、叱れない重大な問題、一つあるの」
 何だ、と私は眉の動きで続きを催促する。エアリスが小首を傾げた。眸は私の肩より低い位置にあるから、おのずと上目遣いになる。なるほど、これは。
「わたしのね、善いことと悪いことの天秤、ちょっとおかしいから。あの人みたいにきちっとは測れないの」
 エアリスが悪戯を仕かける前の顔をしている。私は小さなくちびるに見入る。
「善いことのための悪いことなら、善いほうにぐいっと傾いちゃう」
「悪い女だな」
「神羅の女、だから」
「エアリス。お前はえせ紳士にぴったりの天秤だな」
 私は一頻り笑ったあと、神妙に頷いた。
 たとえ尻を打たれたところで、子供たちが寮母を敬遠することはなかった。為すべきを為せば、寮母は手放しに褒めてくれるからだ。わざわざ一人一人に愛称をつけてまで。エアリスに話したキスとハグも、あれは冗談ではなかった。飴と鞭というやつだな。
 それから、と私は当時の寮生の顔ぶれを思いだす。早ければ、八歳から親元を離れて暮らしている。とくに私が目をかけたのは、プレップスクールから就学した子供たちばかりだった。人の上に立つ者として、しかるべき教育を受けるためだ。
 生家にはそれ以上の教育環境があったから、私が編入したのは親元を恋しがるような年をとうにすぎていた。だが、そうだ、まいったな。先週のコレル魔晄炉の検分に、私は手間取った。結局、二日の外泊予定が一日延びてしまったのだ。私はエアリスの感触を確かめる。
 このあたたかなかたまりがない日の夜は、さびしい。
 人恋しいという気持ちを思いだした今なら、私にも分かる。
 子供たちにとって、寮母が惜しげもなく振る舞う飴は美味かったのだろう。いくつもいくつもほしくなるほどにな。
「ね、妻は。呼んだら、だめかな」
 私は面食らった。何を、と聞くまでもない。そして否と言う必要もなかった。
 私の二の腕に肩を擦りよせて、エアリスが返事を待っている。好きに呼べばいいものを。厚かましいようでいて、実のところそうではない。私の過去へと、エアリスは勝手に踏みこまない。思い出は、私の弱く柔な部分だった。そんなものを長らく持て余していたことがばからしくなるほどだ。
 そうだ、エアリス。
 お前の夫の『思い出不信克服』作戦とやらは、とうに完遂している。
 だから私は妻に、いいぞ、と言った。
 多分、私はまた微笑を浮かべているのだろう。近ごろは目尻にしわが増える一方だ。だが、いい。いい、かまわない。
「ルーファ」
 淡い色のくちびるが動く。Rufe、と。feのところは、ずいぶんとゆっくりだな。どこかで見たことがある。ああ、そうか。
「ルーファ、ルーファ」
 蕾がちょうど開くところだな、これは。澄み声だ。だというのに、不思議だ。花蜜のように、エアリスの声は私の耳にしっとりと染む。
「ルーファ、ルーファ、ルーファ」
 呼ぶたびに、しかしエアリスは首を傾げていく。しまいには、ううん、と唸ってしまった。何だ、その顔は。
「ルーファウス」
 大きく頷いて、上向いたエアリスは、また表情が違っていた。納得できない、から、納得した、へと。
 疲れないのだろうか、エアリスは。ころころと変わるということは、感情そのもが落ち着いていないということだろう。私にも最近は覚えがある。心のおもむくままに、というときの、あの目まぐるしさにはまだ慣れない。だが、そうだな。いやな気分ではないと、私ですら思うのだ。
 疲れないのだろうな、エアリスは。こんなにも、嬉しそうな顔をしている。
「わたし、やっぱりこっちがいい。ルーファウス」
「なぜ」
「ルーファウス、ルーファウス。うん、ほら、完璧」
 分からないな。この女は、理解できたかと思えば、すぐに私の理解の範疇を飛びだしていく。さっぱりお手上げだ。だから追いかけて、捉まえて、また彼女を悟るところからやり直しだ。その繰り返しだった。
 楽しい。
 ああ、そうだ。エアリスのとなりには、いつも私の知らない何かがある。楽しいのだ、私は。もうずっと。
「一文字だって、欠かしたくないの、あなたの名前」
 スプリングが軋めく。私のなかから身体を起こして、エアリスが向き直った。
「『ルーファウス』って、すごく完成されてるって感じ、する。余韻まで、きれい。それにね」
 私の大腿に両手を置くとすぐに、エアリスがぐっと眸を近づけた。真丸の緑色に、二人の私が映る。
「ね、前にね、『RUFUS』の意味、教えてくれたでしょ」
 こんな風にして真直ぐないきものを前にすると、私は決まってまばたきのやり方すら忘れてしまうのだ。
「赤、だね」
 そうだ。 
「どのへんが赤色なのかなって、不思議だったんだけど。だけど」
 ある。赤色は、私のなかに。
「お父さんからのプレゼント、なんでしょ。ちゃんと呼んでくれる人、一人くらい、いなくちゃ」
 熱いな。
「ね、ルーファウス」
 熱くて、たまらない。
 熱いのは、きっとこの名前のせいだ。
「そうだな。さすがに寮母も呼び捨てにはしない。誰も呼ばない。私を叱咤するより、さらに難しいことだからな」
 私は軽く首を振る。今更だ。感慨はない。そんなことよりも、前髪が小鼻にかかって痒い。細い指がそれをつまんで、私の耳にかけた。お前はタイミングがいいな、エアリス。
「もう、お前だけだ」
「今日はね、いつもより、いっぱい呼ぶから」
「同じだけ、私も呼び返そう、エアリス」
「名前、大事だものね」
 ぺちっと腿をはたいてから、エアリスがベッドを下りる。私もゆっくりと身体を起こす。ベッドのすみに、かろうじて引っかかっている彼女のガウンを手繰った。
「そろそろ、起きよう。プレゼント、間にあわなくなっちゃう」
「あれか。日が変わるまでに、私を一〇回笑わせるというやつだな」
「そう。全部プレゼントできたら、赤の意味、教えてくれる約束だよ」
 『RUFUS』の意味は、調べればすぐに分かる。だが、『RUFUS』にこめた意味は、父母と、私だけの。そうだな、お前風に言えば、「神羅さんちの人しか知らないこと」だ。
 それを知りたいだなど、エアリス、まったくお前は。
 ああ、エアリス。お前は何というバースデープランナーだ。そうやって簡単に法外な報酬を請求する。私に交渉の余地もなく、頷かせるのだ。
「だったら、さっさと始めないか」
 なぜなら、エアリス。お前が「神羅さんちの人」だからな。お前は知っていい。お前には教えよう。
 無論、報酬を支払うのは私だ。クライアントとして、じっくりと楽しむことにする。
 この一日を。
 一分一秒を。
 私の誕生日を。
「さて、お前のプランニングでは、このあとの予定はどうなっている」
「まずは、えっと。シャワーでしょ。で、ここからが、本番」
 エアリスは伸びをした。私は朝のそれを見るのが好きだ。
「着替えから始めたいんだけど。ね、ルーファウス。今日のドレスコードのことで、相談、あるの」
 陽光を透過するエアリスは、何よりも生き生きとしたいきものだ。
 細い両腕がふるふるとふるえている。産毛は淡い。ナイティーの下のしなやかな曲線が、すべてあらわになる。大地の色をした髪は、亜麻を紡いだ糸の色に縁取られていて、まるでエアリス自身が発光しているようだった。
 ああ、この女は、後ろ姿までもが清々しい。いいな、これもいい。そばにいるだけで、気持ちがいい人間というものを、私はお前で知ったよ。
「エアリス。お前はきれいだな」
 口の動きだけで、私は言った。声をだせば、エアリスは振り返る。いつものように「それって、何とかの欲目、それとも、何とかは盲目」とからかうのだろう。私もまたいつものように、エアリスの戯れに乗る。返事なら幾通りも用意できる。だがな、今はだめだ。
 エアリスの後頭部には、私と違って緊張感という目がない。私がどれほど間抜けな顔をしていようが、彼女に気づかれることはないだろう。この快い空間に、私は一人、ゆっくりとひたっていられる。
「美しい、本当に」
 そのはずだったのに、今日にかぎって長くは続かなかった。残念だ。私のひとときをぶち壊したのは、ほかでもない幸福の提供者だった。
 エアリスがさらに、ううん、と力んだところで、ぷつ、と肩紐がちぎれた。
「うひゃあ」
 色気もへったくれもない悲鳴だ。私はぽかんとし、そしてすぐさま吹きだした。大声でだ。
「笑わないで、犯人」
「いや、だが、エアリス。ひっ。お前、それは」
「ほら、ちゃんと息継ぎ、して。じゃなくて、これ、わたしのお気に入りなのに。ひどい。ルーファウス、責任取って、繕って」
「妻の頼みでも、さすがに裁縫はしない」
「じゃあ、噛みぐせ、直そう」
「それもいやだ。私に噛みぐせをつけたのは、お前だぞ」
「え、そうだっけ」
「忘れたのか。お前が最初に、噛んで、と言ったのだろう」
「違うよ、あれは。だって、傷痕だけのつもりだったから。あっちもこっちも、ほかのはね、ルーファウスの趣味かと思ってた。服までなんて。そっか、やっぱり」
「おい」
「変態」
「変態に応えるお前も、変態だな」
「どうしよう、わたし、もう否定できない」
「待て、笑わせるな。息ができない。これはな、噛むという、その『範囲』の認識の相違というやつだ。お前は狭義、私は広義だ。私はな、なるべく何ごとも広い視野で捉えたい性質なのだが。最初から狭めてしまえば、見えるものも見えない。ああ、エアリス。それが障ったのなら、申し訳ない」
「また、ねちねち。申し訳ない成分、三パーセントもないよね、それ」
 ベッドの上で笑い転げる私を、エアリスが睨んでいる。めくれ落ちそうな薄布を、まろい乳房ごと押さえながらだ。
「ルーファウスったら、もう。いいけど。早速、プレゼント一つ目、受け取ってもらえたみたいだし」
 息を整えてから、私もようやくベッドから抜けでる。ガウンを広げる。エアリスを後ろから抱きこむようにして、濃灰色のシルクを羽織らせた。ぷっ。肩紐が一本ない。
 薄い肩に額を伏せる。笑う。苦しい。まずいな。この調子で、私の肺は一日持つのだろうか。
「よし、これでプレゼント二つ目、達成。今のところ、順調だね。ほら、行こう」
 エアリスは私を払い除ける。それから前身頃を整えた。目つきがまだ刺々しい。
「相談も何も、プランナーはお前だろう。服なんてものは、好きにすればいい。ただし、今夜のナイティーは、丈夫なやつにしておけよ」
「そうだね、鎧でも着ようかな。じゃなくて。だめ。いっしょに選ぼう、ルーファウス」
「なぜだ。価値観の強要でかまわないぞ」
 私がいつぞやの会話を思いだしながらにやりとすれば、エアリスもようやく相好をくずした。
「楽しいことは共用するって、言ったでしょ。サプライズ、もうできないし。だったら、プランナーといたしましては、クライアントさんといっしょに考えたいの、楽しいこと」
 エアリスが私の手首を掴む。引張る。私は柔い力に逆らえたことがない。
「わたしもね、楽しみたいの」
「報酬を支払うのは、クライアントだ。私だぞ」
「わたしが喜ぶと、あなたも喜んでくれる。だからね、いいの」
 エアリスがかろやかに振り返った。確信に満ちた、強い女の顔をしていた。
 私は満足をした。本物の自信は、矜持や信条と同様、私のもっとも価値があると思うもののうちの一つだった。エアリスの自信は、私の愛慕が正しく伝わっている証左だからな。
 私の愛を疑わない。
 私の愛に怯まない。
 お前の自信を、私は貴ぶ。
「これもプランの一環です。あなたと相談しながら、一日かけて、お祝いするから。ね、こうやって」
 エアリスはうんと背伸びをした。それでも背丈の足りないぶんは、私が屈めばいい。耳朶に、福音の息が当たった。
「ハッピーバースデー」
 ああ、耳から蕩けてしまいそうだ。違うな。私の目元も口元もだ。だらしなく蕩けきってしまう前に、くっと歯を食い縛る。
「起き抜けから、お前はいったい何度言えば気がすむ」
「だって」
 エアリスがまだルージュを塗る前のくちびるを、尖らせている。食べたい。薄い色の花びらが、赤く肉厚の花びらになるまで、食んでやろうか。
 伸ばしかけた手が、動かない。私を止めたのは、エアリスのわずかも逸れない眼差だった。
「日が変わるまで、今日は言うよ。伝えられなくなったら、困るから。言えるうちに、言いまくっちゃう。あなたの一〇〇歳の誕生日のぶんまで、だよ。ハッピーバースデー、ルーファウスって」
「もう一度」
「ハッピーバースデー、ルーファウス」
 何てことだ。
 私は親父に感謝をしたくなる。
 私の生まれた日を、親父が暗証番号の初期設定に使ったことに。世間に公開していた誕生日と、そのでたらめの日が来るたびに催される祝いごとを、そつなくこなした私にもだ。ありがとう、と言ってやろうか。
「エアリス、もう一度だ」
 すべてはこの日のためだった。
 最愛に祝われるためだった。
 そうに違いない。
 ああ、エアリス。
 私たちの秘密の庭で、私たちの澄んだ泉で。
 お前の秘密のたくらみを聞いてからというものの、ずっと。
 私はこの日が待ち遠しかったよ。
「やった。もう三つ目。『RUFUS』の意味まで、あと七つだね。どきどきしてきた」
 赤。
「背中、こちょこちょ、しちゃおうかな」
「おい。反則はノーカウントだからな。それから」
 濃い熱情の色だ。
「支払いは、日が変わるときだ。私を満足させてくれ、エアリス」
「任せて。よし、気合こめて、もう一回、だね」
 なあ、親父。
 親父のつけた名前のせいなのだろうか。
 私の心臓は、いつも熱い。
「ハッピーバースデー、ルーファウス」
 私の人生は楽しい。とても。


■END■
(赤)

20230123