祭子
2022-12-05 21:00:23
39597文字
Public FF7/R×A/TLKG
 

■SANCTUARY Ⅱ■

∠[ν]-εγλ0010/10
式を終えた神羅夫妻が妻の実家に向かいます。エアリスは瓦礫の街で一人すごした日々を回顧します。
※Privatter掲載テキスト(20221202初出)

■SANCTUARY Ⅱ■
∠[ν]-εγλ0010/10
EVENING ON THE FIRST DAY


 伍番街スラムの支柱を降りたところで、花嫁は義弟を見送った。
 夕日はずいぶんと傾いているようだ。ようだ、というのは、プレートに遮られていて一行からは太陽が見えないからだ。それでも光は自由だった。かたちのない橙色が、プレートの隙間という隙間からあふれている。
「だいじょうぶかな、あの子」
 ブーツの紐を結び直しながら、エアリスは眉をひそめた。
 あたたかな色あいをした帰り道だというのに、ダークスターと連れ立つエヴァンの足取りは覚束なかった。きっと三〇〇メートルの階段のせいに違いない。エアリスの膝もいまだにがくがくしている。それとも、と彼女はくすくすと笑った。エヴァンがしきりと振り返っている。頼もしいナイト――勝気なキングと言ったほうが正しいのかもしれない――を欠かした帰り道が心許ないのか、それとももう一方のナイトそのものが恐ろしいのか。つまずくたびにダースクターに首根っこを咥えられては、か細い悲鳴を上げていた。
「だけど、うん。だいぶなかよくなったよね、あの子たち」
 何度目になるのか、エアリスは「ありがとう」と叫んだ。手を振った。やがて建築群の残骸に邪魔をされて、彼女の大切な家族が見えなくなるまで。ずっと。
「ルーファウスもね、ありがとう。約束、守ってくれて」
 ルーファウスは今日の里帰りを楽しみにしていた。彼のことだ、旧神羅ビルをそば近くで見たかったはずだし、実際にやり通すつもりでいたに違いない。けれど断念した。エヴァンを早々に安全地帯までのがすためだった。
 勿論、夫が義弟を結婚式に招待してくれたことに、エアリスは心から感謝をしている。それと同じくらいの懸念もいだいていた。エヴァンは非戦闘員だ。行きも帰りもダークスターが彼に随伴するとはいえ、用心するにこしたことはない。回避できるリスクのうちの一つが、ミッドガルの日没だった。
「エヴァン、明るいうちに帰れそう」 
 ルーファウスは、エアリスが彼の手にゆだねたいのちへの責任を重んじてくれたのだ。
「気はすんだか」
 花婿の大きな手が花嫁の腰骨にそえられた。エアリスはルーファウスに身体を預けた。ほっとした。
 婚礼という、彼女の人生でいちばん花やぐいっときを終えたばかりだ。それもルーファウスとエアリス、二人がそれぞれの葛藤を経て、ようやく叶った儀式だった。正直なところ、立っていることすらままならないものの、いまだ収まらない感動と高揚のおかげで、彼女は何とか踏ん張っていられる。
 それでも。
 エアリスは彼の肩口にこめかみをこすりつける。ルーファウスの手のひらに力がこもる。こうして迎え入れてくれる腕があるのだから、エアリスは遠慮をしない。
「こっちだ。こいつの向こう側まで行く」
 ルーファウスが支柱を見上げた。ミッドガルのいたるところにオフロードビークルの格納庫がある。機械塔昇降口の裏側にも備えているのだという。闖入者から隠すためなのだろう。道行はいよいよ険しくなる。彼に手を引かれながら、エアリスは瓦礫の迷路へと踏み入れた。
「さて、今日は何に乗ろうか、エアリス」
 バギー、シェルプ、ミニジープ、とルーファウスが挙げていく。どのような地形だろうと対応できるよう、移動手段はもれなく揃っている。利用するのは、大抵が――防災チャンネル更新のための――災害対策部門、もしくはタークスだった。後者にはもう一つ対外秘の任務がある。セーフハウスに物資を運ぶことで、このときばかりはオフロードビークルの利用者が一組増える。
 セーフハウス、いや、妻の実家へと向かう神羅夫妻だ。
 初回の滞在を、ルーファウスは「原始の生活だな」と皮肉りつつも、楽しんだらしい。それはもう存分に。
 あの夏めく夕方以降、彼はとくに身に迫る危難がなくても、しばしばゲインズブールの家を使うようになった。新都営造にかかわる建材不足、その解消の端緒を開いてから、連盟の発足でにわかに慌ただしくなる九月初旬まで――タークスいわく、『社長の気まぐれ』は――続いた。
 エアリスは嬉しかった。
 彼女をはぐくんでくれた街へと、再び通えることも。この場所で大切な人と笑いあえることも。とても。
 自ら提案したこととはいえ、当初、彼女は恐ろしかったのだ。伍番街の日々が、いとおしすぎたから。
 一年近く前、地上でエアリスの居場所といえば、誰かの記憶のなかだけだった。かたちのないもののはずだった。それがいったい何の因果なのだろう。教会堂の扉口に立つ彼女は、生体だった。
 セトラの能力が揮えないでいるのだと気づいたのは、すぐのことだった。
 風の独り言も、草花の内緒話も、エアリスの耳内にだけ届く声は、何一つとして聞こえなくなっていた。普通の人って、すごく静かな世界にいるのね。エアリスは半ば感心したくらいだ。困ったのは、堂内に戻ったときのことだ。彼女からあらゆるコミュニケーション能力が欠けていたのだ。これでは、ただ生きているだけではないか。わずかに怯んだものの、じっとしていても埒が明かない。エアリスは市街地へと向かうことにした。
 街並みはひどかった。土砂や鉄くずにうもれていても、においが変わっていようとも、しかし彼女がホームタウンを見紛うことはない。過去のかけらは、いたるところに転がっていた。母親や近所の人たちのとの日常も。初恋や、二度目の恋の予兆も。即かず離れず、街角にひそんでいたタークスですらも。懐かしい。エアリスは心細いとは思わなかった。身一つで放りだされた彼女に、思い出を残してくれた人々のおかげだった。
 この場所で、取り分けエアリスを力づけてくれたのが、スラムの人々の生様だ。昔も、そして今も、彼らは逞しい。思い出いっぱいの街を失くしたところでめげたりはしないのだ。まだまだ厳しい情勢の続くなかでも、新しい生活の場と、笑顔とを取り戻しつつある。
 皆みたいに、わたしだって。
 スラムの女、舐めないでよね。
 エアリスは彼女が生きた身体を与えられた理由を考えた。さっぱりお手上げだった。ただ、これが特異なのだということは分かる。もしも。隕石や悪病、それらに続く禍がどこかにひそんでいるのだとしたら。エアリスに課せられた役目は、これもまた想像にかたくないだろう。
 イレギュラーにはイレギュラー、三つ目の謎の厄介ごとにはセトラの謎の思念体だ。
 エアリスは誰に聞かせるでもなくそう言って、笑った。二度あることは三度あると言うけれど、三度目なんてものに復興の邪魔をされては困るのだ。がんばろう、と彼女は気合を入れた。
 けれど星は何の意図も示さない。厄介な何かの正体どころか、その気配すらも掴めない。セトラが次に取るべき行動は、だからいつまで経っても定まらない。それでもエアリスは諦めなかった。
 ミッドガルの南東に興ったという街。行ってみようか。
 エアリスはそう思ったものの、彼女の心身は常人と変わらない。歩けば疲れるし、腹も空く。そうなると気持ちも萎える。
 さいわいなことに、ゲインズブールの庭には食べられるものが自生していた。けれどそれらを煮炊きする燃料にはかぎりがあるのだ。ギルなら自室に少しばかりの貯えがあるものの、困ったことに、街にでたところで思念体には現金を使う手立てがなかった。たとえ誰の目に映らないのだとしても、泥棒はしない。エアリスはそう決めていた。
 良心と道徳は、母親から教わった大事だ。彼女のかなめなのだ。それを損なうようなことはできないというのが、第一にあった。だけど、とエアリスは思う。
 人の定めたルールに従うことで、人のコミュニティーとつながっていたい。そんな気持ちも、あったのかもしれない。
 もう一つ、実際的な問題として、エアリスは不調をかかえていた。二年ぶりの生身はずしりとしていて、なかなかしっくりとこないのだ。徒歩で、さらには土地勘もないところへ行くのは気後れがした。
 このコンディションでできることに、エアリスは頭を悩ませた。
 結局、情報が集まりそうな場所といえば、教会堂のほかになかった。伍番街外縁から新都には、臨時のチョコボキャリッジが運行していた。星痕症候群の治療やそのつきそいで、日中はごった返していた。泉を取り囲む人々に耳を傾け、目ぼしいそれを得られないままに自宅で休む。いったい何日繰り返しただろうか。
 ある日から、作業着姿の一団が堂内に出入りするようになった。水辺にたむろし、見たことのない器具で何かを採取している。水が土か、まったく別のものか。彼女には判別つかなかったが、さして問題はない。大事なのは、泉水に、その成分に着目しているということだ。ライフストリームにかかわりがある団体なら、これは彼女にとってまたとない好機になる。エアリスは嬉々として話しかけた。返事があるはずもなかった。
 容器の回収に勤しむ作業員と、人々の回復に沸く歓声のなか、エアリスに突きつけられたのは無力と独りぼっちだ。
 まだまだがんばれる。そうでしょ、とエアリスは自身を励ます。気持ちとは裏腹に、教会堂と自宅を行き来する足取りは、次第に鈍くなるばかりだった。
 星と、セトラ。
 このまま、エアリスが何もできないセトラのままでいれば。
 星は、人々は。
 母親や友人たちは、いったいどうなってしまうのだろうか。
 まるで先の見通しの立たないなか、暗い何かが彼女を苛んでいく。じわじわと。ベッドにもぐりこみ、ブランケットをかぶったところで、寒い。さびしさにおののく心を、あたためるものがほしかった。母親、孤児院の子供やスタッフ、薬草のことを教えてくれた先生、たくさんの人々。楽しければ笑い、いやなことには悲しんだり怒ったり。あのころそのままに、伍番街の思い出はいつもあざやかだった。賑やかだった。だというのに。思い出を搔き集め、すがったところで、どうしてだかエアリスを慰めてくれる回数は減っていった。
 ついには、ぞっとすることが起こった。
 人々の喜怒哀楽が、憂苦にあえぐ顔ばかりに取って代わっていくのだ。エアリスの憂心と焦心が、彼女を急かすために見せたまぼろしだった。そうと気づいたところで、安心はできなかった。できるはずもなかった。
 ひっ、とエアリスはふるえ上がった。
 セトラの、エアリスの失敗で、幻影が現実になり得る。
 さて、どうする。いまだ静黙をつらぬく星に、そう言われている気がした。
 がんばろう。まだまだがんばれる。がんばらなきゃ。自ら言い聞かせるものの、孤独が彼女の気力を削いでいく。だからエアリスは思い出に支えてほしかった。地上には、思い出のその先につながる今がある。人々の生活がある。守るのだと、強い意気地を持ちたかった。
 なのに、とエアリスはとうとう打ちひしいだ。
 生前の記憶は、思念体に残された『エアリス・ゲインズブール』のかけらだ。いとおしい人々との、いとおしい日々。一つ、また一つと、思いだすたびに嘆きのまぼろしでおおわれていく。エアリスが欠けていく。とてもではないが耐えられないことだった。
 そうして彼女は痛感した。
「思い出は、人を苦しめ、人を縛りつけるもの」
 なのだと。
 思い出は、もうエアリスを元気づけてはくれない。違う、ときつく首を振る。ねじけた心で思い出をゆがめているのは、ほかでもない彼女自身だ。分かっていても、エアリスにはどうしようもなかった。
 新しい街の名前を彼女が知ったのは、このころだった。今度こそ、行ってみようか。エアリスは気持ちを奮い起こそうとした。その日、彼女がベッドからでることはついぞなかった。
 エアリスは憔悴しきっていた。それでも身体は動くのだから、五感が鈍っていはいないのだから、じっとしていてはいけない。
 一二月はすでに下旬へと差しかかっていたいた。やすらぎの街道とはよく言ったものだ。六番プレート崩落以降、外縁付近はとくに日当たりがいい。肌で感じる外気は乾燥していて、空が高い。
 街道を歩きながら、彼女は教会堂を眺めた。すかっと見えるはずの双塔が、四つもある。エアリスは気づけばその場にしゃがみこんでいた。涙の止め方を、すっかり忘れてしまっていた。すごく得意だったのにな、と彼女はまた両手で顔をおおった。
 その日のことだった。
 エアリスに手を差し伸べたのは、よく知りもしない――けれど、名前だけは有名な――男だ。
 ヒーリンへと向かう車中、エアリスは彼女自身を説き伏せた。これでよかったのだと。エアリスは星の意図を汲まなければならない。しゃんとするために、まずは彼女を弱らせるものから遠ざかるのだ。いとおしいものとはまったく縁のないところだと、なおのこといい。
 ルーファウスが大切な記憶を『がらくた入れ』と言ったように、エアリスもそうして思い出の扉に鍵をかけたのだった。
 だというのに、とエアリスはくすくす笑う。指を絡め直して、ルーファウスの体温を分けてもらう。
 いとおしい日々の代わりに、ヒーリンで彼女が手に入れたのは、また別のいとおしい日々だった。
 すると不思議なことが起こった。ルーファウスの潜伏場所選定中、彼女が真先に思いついたのは、ゲインズブールの家だったのだ。かちり、とかろやかな音が聞こえた。錠前が床に落ちている。扉の隙間から、閉じこめていたものが転がりでた。びくびくと、エアリスはいくつかを拾い上げた。
 吃驚した。
「ね、ルーファウス、これ」
 気がつけば、エアリスはルーファウスに見せていた。在りし日のままの、思い出のかけらをだ。
「ほら、ここ。床、へこんでるでしょ。わたしがね、お鍋落としたときのだよ。もう、何、その顔。あのときのお母さんと、同じ顔」
「カーテン、新調するとき、揉めたんだけど。わたし、RPS弱いの知ってるでしょ。そうなの、これはね、お母さんの好きな柄。意外と乙女チックなの」
「うわ、すごい蔦。パンプキンの種、毎年、ちゃんと根づいてるのね。これでつくってくれるお母さんのミートパイ、最高なんだよ」
 あの日、あのときの母親が、エアリスが、二人揃ってちゃんといた。
「ルーファウス、あのね、聞いて」
 ルーファウスが――時折茶化しながらも――穏やかな様子で頷いていたから、きっとエアリスは傷心の顔をしていなかったに違いない。あちらこちにら残る日常を指差す彼女に、ルーファウスも何かを察してくれたのだろうか。「今週末に行くか」だとか、「時間が空いた。行くぞ」と誘われるたび、鍵はすっかり用をなさなくなっていた。
 そうして。
 エアリスは次の滞在をうきうきと待つだけではいられなくなったのだ。現に、挙式後の宿泊先にゲインズブールの家をとねだったのは、彼女だ。
 つながる五指に、エアリスは視線を向ける。長い腕をたどって、広い肩幅を見上げる。襟足がさらさらとゆれていた。ルーファウスのおかげなのだと、彼女は目を細める。
 思い出の本来の役目を、彼が教えてくれたから。
 ヒーリンで、ルーファウスは思念体を『個』として扱った。そのもっともなところが生活の基盤であり、会話だった。少しばかり――どころか、とても――贅沢な神羅スタイルの暮らしぶりに馴染みつつ、毎日、笑って怒って、顔つきをころころと変える。ときには悲哀と歓喜に振りまわされる。朝に化粧をしながら、昨日の夕食を振り返れば、それはすでに過日なのだ。
 こうして彼女は過去をつくり続ける。生前と同じ、一つ一つがエアリスの生きた軌跡になる。
 ああ、とエアリスはつくづくと思い知った。
 過ぎた日が、思い出が、エアリスのいのちそのものなのだと。
 現在に生きるエアリスが、過去に閉じこめたエアリス。一度は目を逸らせたけれど、今、ここにいる彼女を構成しているのは、二度と手に入らない日々のできごとなのだ。いっときの悲嘆の情動に、『エアリス・ゲインズブール』を損なわせてはならない。
 いとおしい人といくつも重ねるいとおしい日常が、教えてくれたことだった。
 階段のように積み重なったコンクリート塊を上る。途中、エアリスはまた彼を見つめた。
 瓦礫のなかに思い出を見つけるたび語るものだから、ルーファウスのなかには彼女がこの街に置き去りにしたはずの『エアリス・ゲインズブール』がつまっている。それだけではない。
 二二年の生様を、ルーファウスは「聞く」と言った。『半分セトラの大冒険』を丸ごと受け止めてくれたのだ。
 何てすてきな人。エアリスは夫の真直ぐな背中に、ただときめく。
「ひゃあ」
 段差を踏みはずしたエアリスを、すかさずルーファウスが引き上げる。ありがとう、はずいぶんとかすれていた。彼には驚悸の声に聞こえたらしく、大仰に溜息をついている。
「お前は私の足元を見ていろ。私の靴跡をたどれ」
「もうちょっと、歩幅、狭くして」
「普段の五分の四から三にしている。しかもだ、歩調はお前の大好きな『ゆっくり』だからな」
「五分のって。こまかいなあ。もっときりのいい数字、うん、二分の一にしよう」
「なあ、エアリス」
「ストップ。あのね、問題、足の長さだけじゃないから。筋肉のつき方っていう、やむを得なくて、いかんともしがたくて、どうにもうめられない差、あるの」
 ルーファウスがふと振り返った。空いた手をみぞおちに当て、会釈をしている。
「それはそれは、マダム。わたくしめの気がまわらないばかりに、申訳ないことをした。エスコートに専念するとしよう」
 気取った微笑に、口先を尖らせて見せれば、彼は相好をくずした。そうなると彼女も拗ね顔のままではいられない。
「もう、ルーファウスったら」
 ここでこうして、エアリスは笑うことができる。大口を開けて、以前と同じようにだ。嬉しかった。
 勿論、喜ばしいのは自身のことだけではない。
 ゲインズブールの家を、ルーファウスは神羅家の団欒の場と決めていた。
 神羅家というのは、そのまま神羅姓を持つ者という意味だ。ルーファウス、エアリス、そしてダークスター以外に、今のところいない。
 人の目――警護――はおろか、機器の目――警備――ですら据え置くことを許さなかったのは、けれどそれらが家族の時間の邪魔になるという理由ではない。現に、彼はどこにいても第三者の目をはばかることなくすごしていた。
 セキュリティーは、もとよりルーファウスの生活を邪魔しない。
 エアリスが知ったのは、ヒーリンで居候となってすぐのことだ。それらは生まれながらに『ルーファウス神羅』の人生の一部で、確かにルーファウスを取り巻いているというのに、存在はしないも同然なのだという。バスルームやラバトリー事情をたずねれば、「気にならないな」とけろっとしているものだから、エアリスはひっくり返りそうになった。勿論、彼女は慌てた。切々と訴えもした。レンズに睨まれながらはだかになるなど、とてもではないが彼女には耐えられないことなのだと。
「妙なことを言う。思念体が気にかけることではないだろう」
 見える見えないの問題ではないのだ。エアリスがさらにそう言い募るものの、彼には理解ができないらしい。冷ややかな一瞥を投げたあと、ルーファウスは思案顔になった。ややして彼は口端をゆがめた。
「だが、そうだな。私にハウスメートがいることは、伏せておきたい」
 翌日にはプライベートフロアからカメラやレコーダーのたぐいを撤去をした。
 当時、エアリスは彼のあの薄笑いの意味が分からなかった。が、稀有がルーファウスの好奇心をくすぐることを、彼女はすでに痛感している。エアリスという秘密をかかえることで、彼は退屈をしのぎたかったのだろう。
 もう一つある。誰の、何の目にも映らない環境が、彼にしてみればもの珍しかったに違いない。ルーファウスのこの先の人生、表舞台に返り咲けばなおのこと、縁遠くなる生活だった。
 楽しめるものは楽しめるうちに楽しんでおく。彼らしいスタンスに、エアリスは親近感を覚えたのだった。
 それでもヒーリンは神羅カンパニーの本社所在地だ。自宅階下が社長室ということもあって、警護の気配は絶えることがない。建物自体の警備は窓硝子一枚にいたるまで増強されている。それらすべてを排除したゲインズブールの家には、彼の大好きな『もの珍しいこと』がまだまだたくさんある。
 たとえば一家団欒、そして『のびのび』だ。
 ヒーリンのプライベートフロアにも安閑とすごす時間は、勿論ある。けれどそれは彼の休日や、終業してからのいっときのことだ。あくる朝になれば、エグゼクティブフロアへと向かう背中がすでに、きりっとした神羅社長になっている。ゲインズブールの家は違った。誰とも会わない日が数日と続くのだ。滅多とないどころか、彼にしてみれば初めてのことらしかった。
 ルーファウスの『のびのび』は、ときどき拍車がかかって『だらだら』になる。とてもではないが映像には残せない。大丈夫なの、とエアリスが言ったところで、彼はやはり肩を竦めるだけだった。
「カメラがどうした。何を見られたところで、『また社長の奇行が始まった』ですむ。ただ、お前のくだらない羞恥心を、機械の無粋な目から守ってやらなくてはならなかったからな。それにだ、エアリス」
 名前を呼んで、わざとらしく口を噤むとき。次に続くのは、愛をしのばせた言葉か、揶揄だ。エアリスは呆れる。この場合、どう考えても後者に違いなかった。
「何せくそ暑い家だ。シャワーが使えないのでは、お前が困るだろう。寝具が汗染むのは、私も困る。いや、待て。汗くさい女と眠ったことなど、今までになかったな。ふむ、これはこれで痛」
 つねられた脇腹をさすりながらも、彼は浮足立っていた。困った人ね、とエアリスは微笑む。警護や警備といったガードのない状況を、いちばん楽しみにしていたのはルーファウス当人なのだ。
 だけど、とエアリスの思いだし笑いがさらに深くなる。声をもらさないようこらえた。彼女もまた、興味を引くことがあれば、放ってはおけない性質だった。そしてエアリスのとなりには、未知のかたまりのような人がいる。
 ゲインズブールの家で、家族がつどうという、ただそれだけのことで。
 訪れる回数を、安閑の日を重ねるごとに、ルーファウスの新しい一面が増えていく。驚いたのは彼女ばかりではなかった。
「私は私を知りつくしているはずだった。だというのに、何だこれは」
 目を丸め、ときには目を細めながら、ルーファウスは未知のルーファウスを迎え入れていく。
「お前が来てからというものの、私の自己認識はくずれっ放しだ。まだいるぞ。私のなかに、私の知らない変な男が、大勢な」
 エアリスは嬉しかった。
 それらはきっと、彼の三三年の人生で得られなかった、あるいは邪魔だと深層に追いやらざるを得なかったもの。エアリスのなかに長く閉じこめておいた『怒り』が、欠かしてはならない彼女のかけらだったように。ルーファウスの大事な一部なのだった。
 いとおしい人を感情豊かにするゲインズブールの家に、エアリスは感謝をした。
 神羅夫妻の自由のしわよせを受けたのは、タークスだった。ゲインズブールの家は、彼らの思い描くセーフハウスにはほど遠いに違いなかった。そうと分かっていても、譲れないことがある。エアリスは気合を入れ直す。『のびのび』というルーファウスの珍事を、この先も守り通さなければならなかった。 
 ごめんね、と心のなかで呟いてから、エアリスは小首を傾げた。好奇心が疼く。
 ルーファウスとタークスのつながり。
 近いのに遠い、遠いのに近い、不思議な関係をしている。
 ヒーリンで暮らすようになって、エアリスは雇用関係の一歩先、主従というものを見知る機会に恵まれた。エグゼクティブフロア、紫檀のデスクを介して向かいあう双方。そのあいだという、部外者では立ち入ることのできない位置から。
 スラムにいたころは、ぜったいに近よりたくない場所のはずだった。それが今となっては、神羅社長のアームレストがエアリスの指定席なのだから、人の好悪というのは経験次第で何とでもなるものらしい。当時の彼女が知ればどう思うだろう。エアリスはおのずから微笑んだ。こんな風にして好きなほうへと変わるのなら、「こういうのも、ありだね」と喜ぶに違いなかった。
 エアリスは幹部や管理職の顔を覚えながら、彼らの挙動を興味津々と眺めた。
「私の話を覚えているか、エアリス。右から二番目のあいつだ」
 ルーファウスがこっそりと教えてくれなければ、『御曹司の大冒険』にでてきた悪童と、目の前の幹部が同一人物なのだと到底結びつかなかっただろう。ルーファウスの元学友たちですら、神羅社長には慇懃な接し方をしている。だというのに、タークスのほとんどが雇用主に馴れ馴れしい口の利き方をする。ルーファウスは注意どころか、気にすらしていなかった。
 友達なの。
 そう聞こうとして、やめた。近しい距離にありながら、互いのプライベートタイムに干渉しているところを、エアリスは見たことがなかったからだ。
 スタッフが退室したあと、ルーファウスはアームレストを見上げた。
「そう難しく考えるな。就労先の経営者のプライベートが知りたいなど、いったいどんなもの好きだ。いや、いっそ、阿呆だぞ。ああ、そうだった、思い出した。旧神羅の社内は阿呆だらけだったな」
 口調はゆっくりだった。抑揚もいつもと変わらない品がある。
「興味を持つべきは、そんなものよりまず経営理念と、それを実現する手腕だろう」
 けれど、彼の顔つきは嫌悪もあわらだ。ぺっと、唾を吐きかけそうですらある。
 いやなことがあっても、普段ならおくびにもださないルーファウスだったが、近ごろは様子が違う。ドアが閉まり、人気がなくなると、彼の素直が顔をだす。今、エアリスの目下にいるのは、少年の部分が剥きだしのルーファウスだった。
 エアリスは、あらあら、と思った。若いころにアンダーグラウンドを満喫しすぎたせいか、ときどきルーファウスは行儀がよろしくない。とても。
「うわさ好きも詮索にうつつを抜かすのもけっこうだ。事実を確かめようもないというのに、虚構で騒いで空しくはならないのか、いささか不思議には思うがな」
 動くことをやめないくちびるを、エアリスは見澄ます。
「私の顔に見惚れるのは、これはどうにも仕方がない。目の前に一幅の名画があれば鑑賞するだろう。同じだ。ああ、ものほしそうに眺めることもだな。ぎりぎり、許そう。連中の一方的なものだからだ。だが色目を使うやつらは、だめだ、目も当てられない。私の反応を待つなど、これ以上のむだな時間の使い方はそうそうないぞ」
 エアリスは頷かざるを得なかった。言い方に多少問題はあるものの、彼の言分はもっともだったからだ。
「虚像に惚れたところで、実像は遠いところにいるというのにな。そうは思わないか、エアリス」
 わたしを睨まれましても。
 ふくれて見せながらも、エアリスは彼の眼差を受け取める。ルーファウスを見つめ返す。正しくは、二つの青い眸のなかの彼女自身をだ。虚像に近づき、実像を愛したエアリスがいた。
 近くて遠い、遠くて近い、厳しい人。エアリスはそう思う。
 ルーファウスに近づくためには、まず彼の視界にとどまらなければならない。だというのに、そもそも彼の目を奪うことからして難しい。とても。ルーファウスの人生は、当時からすでに波乱に富んでいて、並大抵のことでは彼の心に細波一つ立たせることができないからだ。
 何かしら、ルーファウスの印象に残るようなきっかけが必要だった。それも度胆を抜くようなものでなければ、彼は遠い人のままなのだ。
 たとえば、エアリスのように。
 わがことながら、ほかの誰にも真似できない出会い方だった。エアリスは失笑しそうになる。
 ルーファウスの眸が映すのは、今でこそ『エアリス・ゲインズブール』だ。けれど、彼が最初に関心を向けたのは『セトラ』の、それも『思念体』だった。
 エアリスの特異な血筋と、彼女の看過できない状態。
 稀有ないきものであり、神羅にかかわる厄介ごとだ。
 何よりも、エアリスはルーファウスの好む、とびきりの珍事だったから。
 だからこそ、ルーファウスは彼女を無視することができなかったのだろう。彼から手を差し伸べるほどにだ。エアリスは首を捻る。ケースとして挙げるには、さすがに極端だったかもしれない、と。
 天性を持ち得なければ、実力とそれをさらに補う努力なら、あるいは。
 神羅傘下の労働者でいるからこそ、きっかけをつくりだすことはできるはずだった。動因を、業績と言い換えてもいいかもしれない。それはきっと難しいことだろうけど、大きな結果を生みだすことができたなら、神羅社長の目にも留まるに違いなかった。
 だけど、とエアリスは吐息をつく。大抵の人にはそれほどの野心がない。
 社内で生ルーファウス神羅を見かけたらラッキー、彼の面白おかしな話題で盛り上がる。そんな風に息抜きをしてから、次の仕事に取りかかる。たいそうなこころざしはないけれど、一つ上のポストくらいは狙いたい。
 会社を滞りなく動かしているのは、一般も総合も専門も、こまかく分担された職務をこなしている人々だ。それはルーファウスには決してできないことだった。
 目の保養になるくらいいいじゃない。
 心のなかで、エアリスはもらした。そのはずが、どうやら当人にまで伝わってしまったらしい。
「まあ、いい。連中にも役目はある。そんなものが日々の労働の糧になるのならと放っておいたが。くれてやるねたらな、いくらでもあったしな」
 それこそ星の数ほど、ときゅっと肩をすぼめたルーファウスを、エアリスは空笑った。
 ルーファウスが旧本社に勤務していた期間は、短かったはずだ。それでも話題の中心に上るのだから、有名人は大変だ。彼が人目をはばかる気にならないのは、なるほど、こんなところでもよく分かる。
 エアリスが、有名税っていうやつ、と聞けば、ルーファウスは彼女の尻をつねった。
「新生神羅にも湧くのだろうな。ああいった連中は」
 福利厚生だよ。
 エアリスが首を傾げたところで、ルーファウスは少しだけ笑った。けれど、眉のあいだのしわは深いままだ。
「なあ、エアリス。会社の仕組のことだが、お前にももう分かるだろう。社の運営には多くの部品がいる。ねじやコイルだ。日々の業務の一端を担っていれば、それ以上は望まない。望みようもないからな。いくらでも替えの利く消耗品のままでいい」
 エアリスは、うん、とは言えなかった。勿論、否定の意味ではない。かつての規模にはほど遠いものの、彼女は『神羅電気動力株式会社』をここで、毎日見ている。これが今もなお彼のスタンスなのだということは、いやというほどに分かっている。
 頷けなかったのは、社内の好奇の目がルーファウスの不機嫌の理由にはならないことも、彼女は知っていたからだ。
 残念なことに、小さなねじやコイルのまま、神羅社長の求める力を持たない社員に、ルーファウスはこの先も無関心なのだろう。だから、彼たち、彼女たちでは、ルーファウスの機嫌を損ねることすらできない。
 なのにこの剣呑ぶりはいったいどういうことなのか。エアリスは少し考えて、やがて納得した。
 ルーファウスが気にかけるのは、歯車だ。ねじやコイルの正確性は、それらをまとめる歯車の働きを見れば瞭然だからだ。そして、もう一つ。エアリスが指摘すれば、彼は頷いた。
「そうだ。私の選んだ歯車が阿呆では、困る」
 なるほど、ルーファウスの嫌悪は、彼自身の見る目のなさに向くらしい。
 『副社長の大冒険』の――焦燥に駆られ、先見性を欠いて、一人血気に逸ったすえの――大失敗。彼はそれを二度と繰り返さないと言った。だからルーファウスは当時の彼に足りなかったものを、今、集めているところなのだ。
 ルーファウスのほしがるものとは、高精度の歯車であり、さらに言葉を変えれば信用に足る人たちのことだ。
 エアリスはほっとした。今、それに足る陣容は着実に増えている。勿論、タークスもその一員だった。あるときから彼女の前に現れなくなった顔馴染みも、ほとんどが戻ってきている。
 だいじょうぶ、見る目、あるよ。順調だね。
 エアリスが彼の肩を撫でたところで、ルーファウスは鼻息をついた。両肩から、ようやくだらんと力が抜けた。
「どれほどリッチで、見目が素晴らしくよかろうが。話題性にこと欠かなくともだ、公私ともにな。会社がつぶれたらおしまいだぞ」
 見目ねえ。
「タークスはな、私の色香に惑わされないところが気に入っている」
 色香ねえ。
 彼女が白ければ、ルーファウスはふつと不機嫌を収める。と、ゆっくりと微笑んだ。これ見よがしにだった。
「私も近場で妥協するほど困っていない。昔も、そして今もだ。ここは自社だぞ。こんなくそ狭い世界で、私が満足できるはずもないだろう」
 完璧な微笑のかたちのくちびるに、それとは正反対の冷ややかな眼差に。いったいどれほどの男女が惑わされたのだろう。口唇をつまみ上げたい気持ちを抑えながら、エアリスはなるほどと思った。これは見惚れるだけ時間のむだだ。
「私を満たせるのは、遠い、とてもではないが手の届かない広い世界だ。星の体内から現れた女だけだな。なあ、エアリス」
 はいはい、とあしらってから、エアリスは彼のくれたヒントをもとに考える。
 会社がつぶれたら、おしまい。
 おしまいにならないようにするには、さて。
 エアリスは閃く。タークスが重視するのは、ルーファウス個人ではない。神羅社長の経営手腕で、つまるところは神羅カンパニーの存続らしかった。
 だとすれば、ルーファウスは今、そのかなめとなるピースにほかならない。たとえ当人に興味がなくとも、彼らにしてみれば離れるわけにはいかないのだろう。
 とは言え、タークスも人間だ。やはり俗なところがある。ルーファウスのことで、彼らがたわいないお喋りをするというのは、ままあることだった。けれど、トピックは彼らの間近にいる雇用主ではない。やはり、『ルーファウス神羅』という娯楽だった。
 そのフルネームを挙げれば、社内どころか、ミッドガルで暮らしたことがある人なら、ああ、と微苦笑するだろう。『ルーファウス神羅』の『公私ともにこと欠かない』あれこれは、公開されたばかりの映画で盛り上がることと同じくらい、ありふれた話題だった。今なお興行の続く『社長の奇行』も、タークスにしてみればポップコーンムービーでしかないらしい。
「そもそもだ。私自身には興味がないだろう、あいつらは。だから、いい。眼福は、話題もか。福利厚生らしいからな。それくらいは提供してやる。なあ、エアリス」
 ずっと、エアリスは勿体ないと思っていた。提供されれば視聴するものの、その制作過程には興味を持たない彼らのことを。
 ルーファウスは「不即不離だな」と言った。「だが、これがいい」とも続けた。今のやり取りとつなぎあわせたところで、エアリスはようやく合点が行った。
 彼の「これがいい」の範疇を逸脱すれば、いったいどうなるというのか。
 下まわれば、気の利かない無能者と切り捨てられる。エアリスもすでに何度か目の当たりにしている。さらに悪いのは、上まわることなのかもしれない。幸いルーファウスは彼にはべる人選に慎重だったから、今のところ本社に出入りするのは「これがいい」人たちばかりだ。けれど、タークスは以前のルーファウスを知っている。御曹司であり、副社長をだ。過干渉の末路を、タークスならそのタブーを理解しているに違いなかった。
 エアリスは首を傾げた。こんなに怖くて危なくて、そして面倒くさい人のところで、彼らはいったい何を目指すというのだろう。
 勿論、彼女にはタークスの真意など、さっぱりだ。だけど、と彼ら一人一人の顔を思い浮かべる。自ずと笑みがこぼれた。
 たった一つだけ、エアリスにも分かることがある。
 タークスが為すと決めたのなら、タークスは為すための尽力を怠らないということだ。心強いとエアリスは思った。
 ぞんざいなようで丁寧なタークスの仕事ぶりなら、一〇数年に渡って見てきた。何せ当事者はエアリスだ。あの悪徳はびこるミッドガルで、セトラが無事だったことが彼らのすぐれた遂行能力の証明になるだろう。子供一人を監視するため、たとえば法に背かなければならないこともあったはずだ。けれど法令の定めた善悪よりも、タークスはタークスならではの善悪を優先する。為すべきことのために一貫したそれは、矜持と呼び変えてもいい。
 この仕事の流儀を、エアリスはほかに知っている。ルーファウスだ。
 タークスは今、ルーファウスと同等の矜持をもって、彼らの為したいことに臨んでいる。
 そのためになくてはならないのが、『神羅カンパニー』なのだとすれば、タークスが彼を選ばざるを得なかったことも頷ける。神羅という、いまだ強い影響力を統御するには、相応の力がいるからだ。それには神羅姓を使うことが手っ取り早い。そして、姓を継ぐために育てられた『ルーファウス神羅』は生きている。
 ルーファウスは本物のプライドをこそ貴ぶ人だった。そして驚いたことに、神羅カンパニー存続のため、ルーファウスはタークスに互いが互いのパーツであることを許している。
 似た者同士の、困った人たちだ。エアリスはいよいよ声にだして笑いそうになるのをこらえた。半分は嬉笑だった。
 友達なの、と聞く気はもう少しも起こらない。同じ場所へ向かう道は平行のまま、この先も親しく交わることはないのだろう。それでもエアリスは喜びを抑えきれなかった。このどうにも偏屈な人を、即かず離れず助けれくれる人々がいる。なるほど『不即不離』というのは、ルーファウスとタークスにぴったりだ。
 いずれはかたちが変わったり、下手をすると失うかもしれない交誼――愛情や友情――よりも、ずっと。エアリスには確かなつながり方のように思えた。
 パブリックタイムとなると、だからタークスのプライドが黙ってはいない。
 神羅社長のガード――ディフェンスとエスコート――は、タークスの管轄だった。現本社兼居宅を始めとした施設警備や防犯対策は、ルーファウスの『死亡』から『病気療養中』、そして『病気静養中』への変遷にあわせて、彼らが定期的に見直しをしている。当人を交えたブリーフィングはほとんどがタークスの報告で終わるばかりだった。
 ルーファウスから「気のすむようにしろ」を引きだすことは、至難だ。信用の証にほかならないからだ。けれど、可の声に恩情が含まれるところを、エアリスは聞いたことがなかった。そのたびに、ああ、と実感する。彼女の優しい夫は、紛れもなく神羅の頂点にいる人なのだと。
 だが、ゲインズブールの家のこととなると、ルーファウスの表情筋はわずかばかり動く。
「あれはな、私のサンクチュアリだ」
 一言目には、うっとりと。
「いっさいの手を入れるな」
 次に厳しく、そう告げた。
 プライベートに口をだすなと戒められれば、タークスは従う。だがタークスが介入しないのは私人の時間だ。公人が滞在するにふさわしい場所を用意することは、放棄しかねる職務らしかった。
 伍番街の一角は天然の要塞だ。タークスもその慧眼ですでに確認をしている。加えてミッドガルには『モンスター注意報』と『ライフストリーム濃度予報』がある。とは言え、『ルーファウス神羅の存命不定』というセキュリティーを失いつつある今、彼らにしてみれば懸念を残したままにはしておけなかったのだろう。
 案外と真面目だったのだと、エアリスは感心していた。教会にポルノ雑誌を持ちこんだり、雑談しながら身廊の草取りをしていた彼らの顔つきとはまるで違う。なるほど、これは鬼の形相だ。エアリスは納得をした。
 仕事の鬼は、幾度となくセーフハウスガード強化のためのブリーフィングを設けた。そして守られることは神羅社長の仕事だったから、ルーファウスも臨席する。けれど彼を首肯させることは、タークスでも難しいようだった。
 家屋の改装は却下。
 目張り代わりの鎧戸をつけるどころか、蹴りの一発で開く玄関も、指で弾けば割れそうな窓もそのままだ。
 敷地の掘削も却下。
 地下シェルター導入そのものには不承しなかったものの、問題は設置場所だった。家屋地下は勿論、緑豊かな敷地内を掘り返すことに、ルーファウスは頑として頷かなかった。
 GPS内臓マイクロチップ・インプラントすらも却下。
 ルーファウスの言分は、「私の玉の肌を傷つけるつもりか」だった。あのときのタークスを、エアリスはスラムの『古代種』の前でも見たことがあった。何度もだ。力で押さえつけることのできる相手に、それだけはふるってはならないのだと、やきもきしているときの顔つきだった。
 終始、ルーファウスの表情は薄氷のようだった。が、エアリスにはそれの下にある本心が透けて見えた。呆れた。彼らとの折衝を楽しんでいる風なところが、ルーファウスにはあったからだ。ただし、一人遊びにも気がすめば、きちんと役職に徹する。『神羅社長』の重要さを、当人ほど理解している人はいない。
 彼はいくつかの意見を採択した。シェルターと食料貯蔵庫の設置、そして通信回線の強化だ。
 タークスはシェルターを諦めきれなかったらしい。ゲインズブールの家の裏手はちょっとした高台だった。その下はというと入り組んだ壕になっている。幼いエアリスは、危ないからとエルミナに立ち入りを禁止されていた。ローティーンをすぎると、それはタークスを撒くための秘密の通路になった。瓦礫まみれの今となっては家屋に通じる一本道で、タークスにしてみれば神羅社長の非常口のようなものだ。その脇の深壕に、これ幸いとタークスがシェルターを埋めこんだのだった。
「あいつら、逞しいな」
 呆れるルーファウスにこそ、エアリスは開いた口がふさがらなかった。タークスを振りまわす元凶は、逞しいを通りこしてふてぶてしい。
 もう一つ、ルーファウスが可と言ったのが、カーテンだ。鎧戸代わりには役不足なものの、三重の遮光のそれはなくてはならないものだった。廃都の黒い夜に、神羅家の団欒のともしびは目立ちすぎるのだ。
 ゲインズブールの家から、かつての家人の生活痕が一つ消えたものの、エアリスがさびしく思うことはなかった。それどころか新しいカーテンを前にして、あのタークスが顔いっぱいに疑問符を浮かべるものだから、彼女は吹きだしてしまったくらいだ。ぴりぴりしているエグゼクティブフロアで、一人、弾けるように。ルーファウス自ら選んだ生地は、エルミナ好みの柄だった。
 それから、とエアリスは心のなかで指折り数える。前庭の草刈を忘れてはいけない。
 あれは二度目の滞在、庭でハーブを摘んでいたときのことだ。ルーファウスが夏の虫に刺されて、片頬をぱんぱんに腫れ上がらせたことがあった。エアリスはあのときほど慌てて薬草を選ったことはい。解毒処置をし、ことなきを得たものの、炎症は長引いた。
 神羅社長の丸い顔を揶揄ったのは、秘書だけだ。タークスは害毒がなかったことに安堵し、すぐさま是正策を講じた。治療マテリアの強化と、ダークスターの再訓練だった。
 ついでにシェルターには――ルーファウスが見上げるほどの――ステンレス製保管庫が設けられた。医療器具と滅菌装置、いろいろなアンプルのつまった冷蔵庫、ほかにもエアリスでは用途の分からないものが並んでいる。いちばん目立つところにあるのはポイズンリムーバーだ。本格的な庫内に交じる、安価なアウトドア用品。それはタークスなりのジョークだったのかもしれない。大きな救急箱だね、と指差せば、ルーファウスはすっかりへそを曲げてしまったのだった。
 タークスのおかげで安全を手に入れたものの、エアリスはシェルターを使いたくないと思っている。せっかくの救急箱も、役立つのは虫刺されの薬くらいだろう。
 この先、この場所で、反神羅組織や凶暴なモンスターの気配を一度でも感じれば、エアリスがルーファウスを止める。
 実家には、もう帰らないから。
 そう言って、エアリスはゲインズブールの家と決別する。
 タークスもさすがに黙ってはいないだろう。メテオショック事変のさなか、カームで次代のかなめを見失ったという負目が、彼らにはあるのだ。そもそもの話、周囲が気を揉まなくても、ルーファウスはルーファウスのいのちを優先する。同じくらい、エアリスのことを考えてくれるのだろう。彼女の夫は優しい人だから。
 この人は、と広い背中を見つめる。日差しは傾き、眩しくもないというのに、エアリスの双眸はひとりでに細められる。急勾配でもぶれない体幹が、切ないほどに彼らしかった。
 セーフハウスが本来の役目を果たさなくなったとき、ルーファウスはあの家を封鎖するに違いない。迷うことなく。エアリスの思い出の家が、汚い暴力で蹂躙される前に。
 エアリスはルーファウスの真心に応えたかった。
 だから、ルーファウスの何よりも好む稀有を、エアリスは提供し続ける。ゲインズブールの家で適うそれが、『家族水入らず』というものだ。ガードを排除した環境というのは、彼女にとっても好都合だった。
 それにしても、とエアリスは嬉笑する。家族のぬくもりは、ルーファウスにしてみれば少しばかり暑すぎたのだろうか。彼は常に身にまとう緊張をすっかり剥いでしまった。あれほどにだらしのないルーファウスを、彼女はヒーリンの自宅ですら見たことがない。ルーファウス自身も「誰だ、こいつは。だらしのない」と面白がるほどだった。いいことだ。エアリスはそう思っている。
 律々しく。涼やかに。
 神経の研ぎ澄まされたルーファウスというのは、いかにもルーファウスという感じがする。彼にとってもいちばん落ち着く在り方なのだろう。そうなのだとしてもだ。いい加減ゆるめ方というものを、ルーファウスは覚えなければいけない。
 足元など気にしていられない。エアリスはルーファウスの後ろ姿から目が離せない。
 気を張る日々が続くのだろう。延々と。それをつらいとも思わないままに。エアリスはアルバムのなかのあいらしいルーファウスを思う。辛苦を麻痺させるすべを、彼はいたいけなころに身につけてしまっているから。
 幼い彼の処世術を思うと、エアリスは悲しくなる。けれど、緊張は、今となっては彼をルーファウスたらしめるためのアクセントだ。欠かしてはならない刺激だった。すべてを取り除くわけにはいかないのだ。
 分かっていても、エアリスの眉は曇る。いくら太く紡いだ糸でも、絶えず張力をかけ続ければ、ぷちぷちと、縒った繊維はほつれていく。同じように、ルーファウスの――呆れるほどに――図太い神経は、彼がこのまま自らのエマージェンシーコールに気づくすべを知らなければ、じわじわとすり切れていってしまう気がした。
 ルーファウスは『神羅社長の大冒険』という、苛烈な生き方を選んでいる。いかにも彼らしいとエアリスは思っている。だからこそ、彼女には分かるのだ。こころざしの半ばで終幕を向かえることになれば、彼はどれほど後悔するだろう。苦しむことだろう。エアリスはルーファウスの在り方の邪魔をするものは許さない。
 ルーファウスが大団円のうちに冒険譚の幕を下ろすためには、健やかでなければならないのだ。身体も、そして心こそ。ルーファウスの屈託のない笑顔を見ていると、エアリスはつくづくと思う。彼もやはり生身の人間で、心の休息が必要なのだと。エアリスは、今、その手伝いに忙しかった。
 だから、今だけは。ほかのどこにもない稀有を、彼には存分に謳歌してほしい。そうして、のびのび、だらだらしながら、ルーファウスがこれと納得する心の緩急のやり方――いわゆる、オンオフのスイッチ――を身につけてほしいのだ。
 たまにはエアリスが先生になって、教えてあげなければいけない。
 バランスというものは、何においても大事なことなのだと。
 がんばることも、だらだらすることも、どうにも極端すぎる彼女のいとおしい人に。
 エアリスは目笑する。兆しは見えている。ルーファウスの怠惰な姿を見るたびに、彼女は実感をしている。
「エアリス。ずいぶんと楽しそうだが。車種は決まったかのかと聞いている」
 赤味を増した金髪がゆれた。ルーファウスがちょうど振り返るところだった。律儀に足を止めている。エアリスの頬がいっきにゆるんだ。
「変な顔をしているな、エアリス、どうした」
「何でもないよ。だから、変な顔は言い直して」
 彼はややしばらく考えこんでから、口端を吊り上げた。
「にやけた顔をしているな、エアリス、どうした」
「それじゃ、変な顔と、あんまり変わらない。それにね、ルーファウスのほうが、にやにやしてるから」
 はは、と軽く笑ったものの、ルーファウスはすぐに鼻息をついた。つないだ指を離さないままでいる。
「お前が黙りこんでいるときは、大抵が食気に気を取られているか、さもなくば憂いているからだろう。どうした」
「半分、正解。お腹空いてないし、悩んでなくたって、黙ることあるんだから。ちょっと、考えこんじゃっただけ。そうそう、乗物の話、だよね」
「なあ、エアリス」
「うん」
「私が聞いておくべき話か、それは」
 エアリスは目蓋をしばたたく。勿論、夕食の献立ではない。乗物の話とも違うだろう。彼の人の悪い顔つきは、すでに真摯なそれへと変わっている。
「だいじょうぶ。今のところ、順調だから」
 エアリスの不安を汲もうとしているルーファウスに、彼女はますます破顔した。ならいい、と言って、ルーファウスは歩きだした。
「乗物、どうしようかな」
 いくつか思い浮かべながら、エアリスはわずかに俯く。それらは本来、ルーファウスの仕事に必要ないものなのだと知っていた。ルーファウスには労をかけずに目的地へと着ける手段があるのだから。
 それこそあっという間に、そして安全に。
 ルーファウスが大事にしているその二つを、彼はゲインズブールの家へと向かうときばかりは顧みない。ほかでもない、エアリスへの気遣いだった。エアリスの心のなかで、後ろめたい気持ちと、喜びのそれとが綯い交ぜになる。
 神羅社長のディフェンスには、勿論、乗物も含まれている。
 だというのに、ルーファウスは護衛はおろか、護送すら拒んでいる。これもまた、タークスにとっては頭の痛い問題に違いなかった。
 ことのきばかりはブリーフィングが長引いた。ヒーリンからはいずれの場所に向かうにも遠い。言わずもがな、ミッドガルもだ。さらにはミッドガル外縁からセームルームまで、護衛がガードドック一頭きりではと、タークスが難色を示したからだ。
 今のところ空の乗物は神羅が独占している。空域は、だから神羅社長に襲いかかるだろうリスクを避けることのできる一本道だった。送迎くらいはヘリコプターを、と珍しく意見するタークス主任に、しかしルーファウスは耳を貸さなかった。「エスコートならディーで十分だ」だとか、「私用だぞ。しかもおしのびだ。目立つわけにはいかない」だとか、のらりくらりとかわすばかりだった。
 もう一つあった、とエアリスは小さく笑う。
「私にはな、ドライブ好きのガーディアンがついている。たまには遠乗りに連れだしてやらなければな。退屈に飽いて、逃げられでもしたらどうしてくる」
 ルーファウスはそう言った。勿論、その場にいたタークスは揃ってぽかんとした。
 実際のところ、仕事を伴う移動なら彼はショーファーカーを使う。さらにはヘリコプターを多用した。航空機のなかでも、大がかりな滑走路がいらなくて、離着陸に手間もかからないからだ。所要時間の短縮は、ルーファウスが大事とする彼自身の時間をむだにしなくてすむ。セーフハウス滞在中ですら、日中のルーファウスはいつもの通りに執務をこなしている。いくら通信環境が向上したといえども、そもそも仕事をするのならヒーリンのオフィスにまさるところはない。時間は有限、それをよくよく叩きこまれているタークスには、ルーファウスの言動がちぐはぐに映ったことだろう。
 どのあたりが「私用だ」で、なぜ平常のルーファウスらしく時間効率を重視しないのか。
 そして。
 主が私用を楯に話をするとき、決まって愉快そうな微笑を浮かべるものだから、タークスが不気味がるのも仕方がないだろう。そうして結局は、「また、社長の気まぐれか」で片づけられてしまうことが、エアリスにはもの悲しかった。
 ルーファウスが情愛のこやまやかな人なのだと、誰も知らない。
 ルーファウスの私用の外出とは、エアリスを伴う『おでかけ』のことを指す。
 地上を走る乗物なら、大抵はルーファウスがステアリングを握る。エアリスの定位置は助手席だ。やむを得ずタークスがドライバーを務めるときでも、彼女は後部座席へと乗りこむことができた。ヒーリンに初めて来た日のようにだ。
 教会からの帰り道、エヴァンにはこっそりと「義姉さんって、乗物酔いがひどいのか」と聞かれたが、そうではない。エアリスは加速度病とは無縁で、チャンスがあれば何でも乗ってみたいと思っている。『したいことリスト』の乗りたいもの欄にもずいぶんと取消線が増えた。けれど、空の乗物はほかのそれらとは勝手が違う。
 与圧しないヘリコプターは、キャビン内の騒音がひどいのだという。ルーファウスが『おでかけ』にそれを使わないのは、搭乗するにしかるべき一式を装備できない彼女のためだった。
「ね、ルーファウス」
 エアリスは思わず支柱を振り仰いだ。ルーファウスには不要だったはずの、とんでもない階段だ。ヘリコプターという楽な手段を選択肢から捨てたことも、文句も言わず昇降する姿もまた、ルーファウスの目に見える愛のかたちだった。
「ありがとう、ルーファウス」
 ルーファウスが顔だけをエアリスに向けた。
「唐突だな。どうした」
「いろいろ、あるの。お礼、今、言いたいから、言っとくね」
「そうか」
「うん、そうなの」
 そうか、とルーファウスは繰り返した。閉じた口には微笑を残している。
「何だ」
「何も」
 ああ、好きだな。きれいだから。この顔が、とても。
 エアリスは溜息をもらした。それは多分に甘美を含んでいる。
「だから、何だ」
「だから、何でもないってば」
 ルーファウスの顔を見るたびに、彼女は思う。美しい顔ときれいなそれとは、まるで別ものなのだと。
 前者なら、たとえばレセプションルームのルーファウスがそれに適うだろう。
 冬の泉、波動のない水面。ほとんど薄い氷におおわれている。泉の中央に咲くのは、一本立の花だ。時折、恍惚とする香りを振り撒くのだけれど、誰の手も届かない。決して。
 とてもルーファウスらしい顔つきだ。これこそ彼が長年をかけて選った見せ方なのだから、しっくりとくるのも当然だろう。世間が見惚れていたのも、冬の泉の顔だった。
 けれど、エアリスが好む顔は、整った造作は勿論のこと、パーツや色味ですらない。それらは彼女にしてみれば、ただの骨のかたちであり、表皮と粘膜の色だった。
 エアリスが惹かれてやまないルーファウスは、風が吹いたときにこそ表れる。
 情動という、予期せぬ風を受けて細波が立つと、きらきら、ちらちら、ルーファウスの水上は輝きだす。花もゆれる。ときに小躍りするようにゆらゆらと、ときに花びらがちぎれそうなほどはげしくだ。
 喜でも怒でも何だっていい。生き生きと、ルーファウスが彼の感じたままをあらわにした顔こそ、エアリスは美々しいと思っている。今を豊かに生きている、彼の証だ。
 それをほかに知る人がいないことが、エアリスには少しばかり残念だった。知れ渡ったところで、人によって美的感覚は違うのだから、同意は得られないのかもしれない。それでも、とエアリスはにやける。遠くない未来、ルーファウスが公衆の面前でわははと笑ったときの、人々の驚きよう。そのあとで、いったいどれだけの人がルーファウスをかわいらしいと感じるのだろうか。ルーファウスのうんざりする様子まで想像するだけで、エアリスは何だかとても楽しくなった。
「あなたって、本当に」
 水面に、春風でもそよいだのだろうか。今はただ、眸も、薄づきなくちびるも、もの柔らかな弧を描いている。エアリスが彼女の好きな顔を眺めていると、ルーファウスが軽く眉を上げた。
「なあ、エアリス。私がいい男だというのは分かっている」
「へ」
「だがな、その顔はまずい。やめておけ」
 エアリスは思わず頬を引き締める。そんなにひどく蕩けていただろうか。
 聞き返そうとしたそのとたん、ルーファウスは片腕で彼女の腰をすくい上げるようにして、瓦礫を飛び降りた。段差は彼の背丈ほどもあった。突然のできごとに、ひゃあ、と悲鳴をだせば、今度こそルーファウスは声を立てて笑った。
「そうだ。今はまだこの顔がいい。狸が落とし穴に嵌まったときの顔だ」
「狸って、落とし穴って。ルーファウス、見たことあるの」
「あるぞ。今だ」
 穏やかな人かと思えば、悪戯と意地悪の好きな人だった。抗議するより先に、エアリスもつられて朗笑した。
「ね、乗物、決めたよ。ルーファウスが好きなの、乗ろう。ほら、いつものあれ」
「トレールバイクか」
 通常、二人が立ちよるのは、伍番魔晄炉にほど近いミッドガル外縁の倉庫だった。旧プラントエリアまで徒歩では、さすがに遠すぎる。私物といえばルーファウスがハンドガンやナイフを携帯するくらいで、ほとんど手ぶらの二人だ。身軽さを活かせるトレールバイクを、彼はとくに好んでいた。
 エアリスは、それに、と考える。
 エヴァンに預けたトラベールケースは、うんと軽くなっているはずだ。ダークスターが合流するまで、ルーファウスはポールスターといくつかの銃器で有事を退けなければならない。緊張感はあれど、それすらも面白がるのがエアリスの夫だった。とは言え、ルーファウスはここでもきちんとわきまえていた。『ルーファウス神羅』の持つ、いのちの重要さを。スピードのでるトレールバイクは、応戦よりも逃去を優先しなければならない場合に不可欠なのだった。
 もう一つ、彼がそれ以外を選ばないだろう理由に、エアリスは心当たりがある。
 遊びだ。
 当初、彼女が気にしていた移動時間のむだも、ルーファウスは浪費のまま終わらせなかったのだ。
「だって、わたしんち行くの、二箇月ぶりだよ」
 そうだな、とルーファウスは曖昧にこたえる。どうしたのだろう。エアリスは首を捻った。
 伍番街スラムは、今では彼の自由の庭だった。
 山奥で暮らしていても、荒廃した街を訪れるときにも、ルーファウスは往々にして遊び心を忘れていない。この場合、二輪車両や、それを使った移動そのものが娯楽になる。本来なら自ら運転する必要がないというのは、贅沢な立場に違いない。だが恵まれすぎた環境が、かえって彼の好奇心を満たさないこともある。
 炉内の通路を疾駆し、教会堂横から道なりに走る。それからステーション通りを抜けたほうが目的地へと早く着く。だがルーファウスには気に入りの行路がある。ライフストリームの奔流で地形の変わった――さらに険しさを増した――ボトルナットヒルズやスチールマウンテンへと迂回することだった。「これはひどい。メテオショックコースと名づけよう」だとか、「悪童のころを思いだす」だとか。シニカルに言いながらも、ダークスターといっしょに凹凸を跳ねまわる彼は、少年のように屈託なかった。
 エアリスはといえば、ルーファウスのドライビングテクニックがかかえる問題が、何も四輪車両にかぎったことではないのだと痛感するばかりだった。高く飛んだところで浮遊感に叫び、着地をすれば尻を痛める。せわしく蛇行するたびに、身体ごとぶんぶんと振りまわされた。風を切る心地よさを覚えることも、彼女には困難だった。
 それでも彼が歓呼すれば、エアリスは嬉しかった。
 駿馬のようなバイクを乗りこなす姿も、エアリスは嬉しかった。
 ルーファウスはいまだ痩躯の域をでていない。だというのに、暴れるハンドルバーを御せるだけの力強さを、すでに取り戻している。それを彼女に分かりやすく教えるのが――必死にしがみついたところでびくともしない――彼の背中だった。
 さらには、とエアリスの頬が火照る。
 日に日に、少しずつ。ルーファウスの肉の厚みと重さは増していく。彼に組み敷かれるたび、エアリスは否応なく全身でそれらを知る。嬉しさにあえいでばかりいる。
 エアリスはみぞおちから下腹部までを、ゆっくと撫で下ろした。この身体は、もう七日も彼の体重につぶされていない。
「何だ、エアリス。やはり腹が減ったのだろう」
 え、とわれに返ったところで、エアリスはうろたえた。
「減ってないってば。あの、違うの。ううん、やっぱり違わない。お腹、空いたな。うん、きっとぺこぺこ。そういうことにしておこうっと」
 珍しく早口になる彼女を、ルーファウスがじっと見ている。
「ならば、さっさと向かったほうがよさそうだな」
「急ぐの」
「急がなくていいのか」
「急いだら、家に着いちゃうじゃない」
「急がなくとも、着くぞ。そもそもだ。今晩、ゲインズブールの家に泊まると言いだしたのは、エアリス、お前だろう」
 はたと、エアリスは口を閉ざす。それから頷く。
「気が変わったのなら、エッジへ引き返すこともやぶさかではないが。私は」
「ね、ルーファウス。わたし、あの家がいいの。今日だけは、どうしても」
 エアリスはふと視線を落とす。やけにじくじくする下腹部から、慌てて目を逸らす。この日を望んだのは、ほかでもない彼女だった。
 二人が心身ともに許しあうようになって、ようやく訪れる実家だった。ルーファウスの仕事も落ち着いたところだ。気分転換に使うことも、これからまた増えるだろう。メディカルハーブのリサーチャーも、神羅社長秘書としてのサポートも、勿論、家族ですごすひとときも、ヒーリンの自宅と変わらない日常がゲインズブールの家にも揃っている。ただ、あの家にはずっと欠けていたものがあった。キスとセックスだ。
 それもすぐに満たされる。くちびるや肌をあわせ、こすりつけ、その先の二人だけが行けるめくるめく世界は、ベッドだけではないのだと、ルーファウスがエアリスに教えてくれた。きっとゲインズブールの家にもある。ルーファウスはそれを楽しむに違いない。だったら、とエアリスは決めたのだ。
 初めては、忘れられない日がいい。そして、忘れられないことをするためのきっかけがほしかった。エアリスにとってそれは、結婚式日以外に考えられなかった。
 プロポーズも入籍も、二度目のプロポーズと指輪の交換、そして初夜までも。特別は、すべてヒーリンのできごとだった。いとおしいわが家での思い出だ。エアリスに不満は何もない。それでも。ゲインズブールの家にも、特別な日の思い出がほしかったのだ。
 何て贅沢になってしまったのだろう。どうしてこんなに欲張りなのだろう。エアリスは困ったように微笑する。だけど。
「うん。やっぱり、早く行きたいよ、ルーファウス」
 今日という日に、エアリスをはぐくんだ家で、彼女のパートナーとともにすごす。初めてのキスとセックスをする夜が、この先に待っている。身体はすでに、新しい思い出をつくりたくてそわそわしだしている。心も、勿論。ルーファウスの体重と湿った体温を、エアリスは恋しく思っている。
 それはきっと、この七日間がいつにも増して、穏やかだったからにほかならない。
 式日を間近に控えてからというものの、ルーファウスは出張を避け、本社での執務に専念していた。帰りの遅くなる日は続いたけれど、終業すれば、あとはプライベートを充実させた。
 散歩が先か、夕食が先か。ルーファウスは相変わらず日々のルーチンですら順序を決めたがらない。自衛のためなのだから、エアリスにはどうにもできないことだった。けれど、彼女はできたての料理を振る舞いたかった。テーブルに並ぶ――何の変哲もない――家庭料理を、彼は名前すら初耳だと言った。熱々の煮汁に、「熱いな」と当たり前のことを驚いたルーファウスが忘れられなかったから。
 彼のやり方を尊重しつつ、エアリスも我を立てる。それを叶えるのが、神羅社長の午後の小休憩だった。
 電話でも対面でも、「ね、今日は、どっち先にする」とトップシークレットをたずねれば、ルーファウスはためらうことなくこたえた。気ままか、無作為か。エアリスにはでたらめに見えたルーチンにも、彼にしてみれば譲れない理由があるらしかった。
 散歩が先ならば、夕食の支度は仕上げの寸前で止めておけばいい。その場合、散歩のあとにエアリスの予定を捻じこむ。食卓の完成を二人で楽しむのだ。彼女にも利があるのだから、ルーファウスのルーチンに振りまわされることはなかった。
 就寝まで、それぞれ好きなように時間をすごすこともある。が、二人揃っているのだから、どちらからともなく二人でできることを持ちかけた。
 ルーファウスが教鞭を執るのも、大抵がこのときだった。ボードゲームも実はその一環だったらしい。地道な分析力と、ここぞというときの決断力が伸びるのだという。なるほどと感心しつつも、エアリスはそんな風に堅苦しく対局をしていない。彼も同じだろう。一手打ってはたわいないことを話し、ルーファウスの一手を待つあいだにエアリスのお喋りも弾む。笑う。勝てばキスを与えられ、負けてもキスを贈る。やわやわと、口元の輪郭をなぞっているうちに、それは――勝敗の関係ない――上唇と下唇の戯れに変わるのだった。
 楽しみながら思考力を鍛えてくれるのだから、ルーファウスはとてもすぐれた先生だ。
 一昨晩は経済現象を学んだ。このときばかりは笑ってもいられない。エアリスが「難しい、休憩」と音を上げれば、経済学の先生はピアノの講師へとバトンタッチをする。黒革張りのベンチに並び、エアリスは講師の手本にうっとりと耳を傾ける。眸は鍵盤に釘づけだ。ルーファウスの運指が好きだった。長いそれらが、節の一つ一つまでもが、彼の意のままに動いている。ピアノを使ったリハビリテーションは、どうやら順調のようでほっとした。ただし、とエアリスはげんなりする。彼女が手のポジションを間違えると、たちまちに叱声が飛んでくるのだ。ルーファウス先生はやはり恐ろしい。
 二つだけ、いつもと違ったのは、早々にベッドへ入るということだった。
 ルーファウスは『半分セトラの大冒険』をこと細かに聞きたがり、彼女はそれに応えた。よかったと思った。一人旅の軌跡を思いだしながら、同じ道をたどる彼女の足は、何度も竦んだ。舌が強張り、声はでない。代わりに涙があふれる夜もあった。
 ルーファウスの落ち着いた相槌と、力強い両腕がなければ、とてもではないが話しきることができなかっただろう。
「それは過去だ。終わったことだ。ほら、エアリス、ここだ。お前はここにいる。私のとなりに戻って来い」
 ルーファウスは二本の腕でエアリスを囲うと、そう言った。何度もエアリスの名前を呼んだ。しー、しー、と耳元で繰り返されるたび、こめかみに口づけられるごとに、エアリスは正気づくことができた。泣き疲れても、そのまま眠りに就くことのできるベッドは、冒険譚の終焉を語り終えるのにちょうどいい場所だった。
 この一週間は、エアリスのそばから彼のぬくもりが欠ける日はなかった。けれど、ルーファウスの体温はいつも乾いていた。
 もう七日も、エアリスはルーファウスとつながっていない。
 さらさらの肌が彼女のそれと重なって、しめり気を帯びていく。ぬれた凹凸が嵌まりこむときの息苦しさを思いだしかけたところで、エアリスはへそのしたに手を当てた。子宮へと続くルートが熟んでいる。ルーファウスを迎え入れたくて、待ち遠しいときの熱だった。
 何て正直な身体なのだろう。恥ずかしさより、呆れがまさる。けれど、嘘をつくことのできないエアリスを、彼女はいとおしいと思うのだった。
 くすくすと、珍しい笑い方が聞こえる。エアリスは顔を上げた。
「相当、飢えているらしい」
「そうなの。食べたくて、仕方ないの」
 あなたを、という続きはぐっとこらえる。ルーファウスが何かを言いたそうにしている。小首を傾げて待ってみたものの、結局、彼の口からもれたのは吐息だけだった。
「分かった。急ぐ。だが、トレールバイクはやめておく。ほかに面白いマシンがあるといいのだが」
「やった」
「何がだ」
「あなたが選ぶ面白いって、それって、ぜったい面白いことだもの。すごく楽しみ」
 エアリスは思わず万歳をした。離れた手をつなぎ直しながら、「せわしい女だな」とルーファウスが首を竦めている。
「こんな足場が悪いところで、跳ねるな。転ぶぞ。まったくお前は。元気があり余っているようで、何よりだ」
「嫌味っぽい。だけど、今ならね、気にならないよ」
「嫌味ではないのだが」
「どうだか」
 口先を尖らせながらも、エアリスは機嫌よくこたえた。
 彼女もまた、チャンスをのがすことをよしとしない性質だった。早く着こうが、遅れて着こうが、行先は一つだ。その道中を楽しまないでいるのは、勿体ない。
 それに、とエアリスは微笑む。「馬と同じだ。そうだな、お前にはチョコボにたとえたほうが分かりやすいか」と、騎乗疾駆のこつを教わってからは、彼女も車上でのバランスの取り方を覚えた。すると不思議だ。悪路になればなるほど爽快感は増した。興奮のあまりハンズアップをしては、ルーファウスから冷静を奪うこともままある。そのあとに待つのは、叱声と皮肉だが、エアリスが懲りることはなかった。
 たとえルーファウスが何を選んでも、きっとどのような乗物でも、エアリスは夢中になるだろう。安心の背中に掴まっていられるのだから、何も恐ろしいことはなかった。
「この先だ」
 格納庫はオイルとタイヤのにおいに満ちていた。エアリスはきょろきょろする。
 自宅ほどの庫内は、伍番魔晄炉のそれと同じつくりをしていた。入口付近には二輪車両がずらりと並んでいる。機動性重視なのだろう、プレート上部にあった大型車は見当たらなかった。
「何だ、あれは。一台おかしなやつが交じっているぞ」
 ルーファウスの足がおのずとトレールバイクに向いた。ひざまずいてまで、しげしげと眺めている。
「ああ、ワイドレシオか、いいな。見ろ、エアリス。メインフレームがアルミだ。これは高く飛べるぞ。お前の大好きなエアタイムが、楽しみ放題だ。エンジンは何を積んでいる。ほう、ちびのわりに頑強なやつだな。トルク八〇〇〇は叩きだすはずだ。こんな改造をするのは、おそらくルードだろう。そうは思わないか」
 ルーファウスがチェーンらしき部分の、よく分からないところに指を突っこんだ。さらにはエアリスが聞いたこともない単語を一頻り連ねてから、「しかし、すごいことになっているな。見ないのか」と言った。
 指先の代わりに、エアリスが見つめるのは輝く横顔だった。仕方のない人だと微笑む。いったいどのようなやんちゃを繰り返して、スピードデーモンになったのか。察しもつくというものだ。
「見ても、多分、わたしにはさっぱりです」
 エアリスは再度あたりを見まわす。車体はどれもどろどろだった。彼女に分かるのは、この一台だけが丹念に磨き上げられていることと、これほどまめまめしいスタッフはルードのほかにいないということだけだ。ああ、違う。それから、とエアリスは小首を傾げる。
「わたし、ルーファウス、見てるほうが楽しい。あなた、これ、気に入ったんだね」
 ルーファウスはこたえない。けれど。
 いとおしい街で、いとおしい男の目尻のしわは深まるばかりだった。幸せだな、とエアリスの頬まで蕩けた。
「ね、今日は、どのコースで遊ぶの」
 エアリスは、よし、と内心で気合を入れる。腕を飾るミネルバを見る。『メテオショックコース』も、直線をひたすらにぶっ飛ばす『シスター・レイコース』もいいだろう。ぐにゃぐにゃと、いちばん遠まわりの『ライフストリームコース』でもかまわない。万が一、モンスターとエンカウントしようものなら、今度こそエアリスが彼のとなりに並び立つ。何としてでもルーファウスの身体を庇護するのだ。
 身体といちどきに、エアリスには守れるものがある。ルーファウスの心だ。
 伍番街スラムが、エアリスをエアリスらしく育ててくれた。一方で、ルーファウスにはまるで縁のなかった場所だ。その街は今、ルーファウスがのびのびできる数少ない場所になっている。
 つながるはずのなかった点を、二人で結んで線にした。
 そうして一つになった二人の世界でなら、彼は素直のやり方を思いだせるらしい。
 気に入りのマシンを選んで、跨って。エンジンを吹かして、回転数をがんがんに上げて。ジャンプしてホップして、ついでにざざっと恰好よくターンも決めて。ときどき失敗もする。スリップするたびに、冷汗で脇をぬらす。慣れない悲鳴をだして、それ以上に大きな声で笑って、ルーファウスはすっきりするのだった。
 そうして彼の気のすむまで、遊興に耽ってくれればいい。
「せっかくだから、ガマガマ沼まで、行っちゃおうか」
「ガマガマ。何だ、それは」
「未開発地域。うちからね、正反対のところにあるの。あなたにまだ、案内してなかったよね」
 エアリスは後ろ手を組む。金髪へと顔を近づけながら言った。しかしルーファウスは首を振っている。
「残念だな、エアリス。今日は寄道をしない。ローラーコースターもな、なしだ」
 ルーファウスがすっくと立つ。と、エアリスの肩を小突いた。強い気持ちとは裏腹に、全身の筋肉が呆気なく弱音を吐いた。よろめく彼女を、ルーファウスは抱き留めた。
「あれ」
「強がりめ。お前を振り落とすわけにはいかないだろう。こいつで行く」
 ルーファウスが選んだのはクアッドバイクだった。タイヤは分厚い。着地面積が広いぶん、凸凹道でも安定して走れるだろう。エアリスの知っているバギーよりもうんと小型だが、タンデムならできそうだった。
「エアリス。お前は私の前に乗れ」
 ルーファウスはフロントポケットやリアボックスをあさっている。ゴーグルをエアリスに押しつけてから、急げよ、とつけ加えた。
「ルーファウス、前、ちゃんと見えるの。わたし、邪魔にならないかな。ね、だいじょうぶ」
「不測の事態が起こるより、ましだ」
「モンスターなら、任せて。わたしが」
「モンスターより恐ろしいイレギュラーがいるだろう、ここに、ほら」
 ルーファウスがエアリスの鼻頭をぴんと弾く。それから、くちびるをにやりとゆがめた。ゴーグルの玉虫色に隠れた水色も、きっと笑っているに違いなかった。
「私の目の届くところに置いておかなければ、何をしでかすか分からないからな、お前は。ああ、そうだ。エアリス。前だけを見ておけ。エキサイトするのはかまわないが、間違ってもハンズアップはするなよ。私のパピーのような心臓が、いい加減持たない」
「どこらへんが、そんなに弱々しいのかな。ディーより頑丈そう。剛毛だって、生えてるよね、きっと。なのに、もう」
 いささかむっとしながら、シートを跨ぐ。とたん、おお、とエアリスは歓声を上げた。クッションは幅広で、尻の座りが格段にいい。
 それ以上に素晴らしいハイバックシートとシートベルトがある。
「楽ちんだね、これ。ね、ルーファウス、ありがとう」
 言わずもがな、彼の胸と長い手足だ。ルーファウスがハンドルグリップを握れば、それらすべてがあたたかく、力強く、エアリスの背中にフィットする。
「また、礼か。お前はすぐに礼を言う。大したことはしていない。それに」
 ルーファウスがエンジンを吹かす。六六〇キュービックセンチメートルが唸る。え、と振り返ろうとしたところで、エアリスは早速ルーファウスに叱られた。
「動くな、エアリス」
「ごめん。でもね、聞こえなかったから。ね、何て言ったの」
「すぐに分かる」
「今、聞きたい」
「今、お前が聞くべきは、私の忠告だろう」
「聞いてたってば、ちゃんと。安全運転、第一。ルーファウスの顔は見ちゃだめ、万歳もがまん、でしょ。だけど、そっと、きょろきょろは、いいよね」
「お前には耳がないのか。それとも理解する頭がないのか」
「頭なら、ほら」
 ごちん。エアリスは後頭部を彼の鎖骨にぶつける。ルーファウスが軽く咳きこんだ。
「ちゃんとあるでしょ」
「私の妻は、頭蓋骨まで凶器なことを忘れていた。まったく。どうにも利かん気だな」
「わたしの夫はね、本当、本当に本当、皮肉ってばっかり」
「ああ言えば、こう言う女だな、お前は」
「こう言えば、ああ言う人ね、あなたも」
 ルーファウスは根負けしたらしい。くつくつと、彼の含笑がエアリスのそこかしまで響いている。こそばゆくて、彼女も笑った。
「言いあいはここまでにしないか、エアリス。あの場所に、私は諍いを持ちこむ気はない」
 ルーファウスの声音は、ずいぶんと和いでいた。きっと眸も同じに違いない。エアリスは手を伸ばす。
「サンクチュアリだからな」
 ハンドルグリップを握る大きな手を、少しのあいだつつみこむ。それからエアリスはハンドルバーに掴まった。いい子だ、とルーファウスが彼女の耳裏に口づけている。くすぐったさに、やはり身をよじりそうになるものの、ぐっとこらえた。
「わたしたちだけの、場所、だね」
 頷きかけたエアリスは、はっとした。耳のふちで、生ぬるい何かがうごめいている。ルーファウスのくちびるだった。
「そうだ。だから、素直な男が現れるのもやぶさかではない。こんな風にな。ここは私が折れよう。正直に言う」
「待って、待って。何でそんなとこで、喋るの。ね、ルーファウス。や」
 肩を竦めながら、エアリスは言った。耳からしのびこんだバリトンが、首筋、背骨を伝って下腹部をふるわせる。それはもう、笑いだしたくなるようなむずむずではない。
 ルーファウスがエアリスに教えた、馴染みの快味だった。
「半分は私のためだ。できるかぎりスタミナを温存しておけよ。そう言った」
 さらに彼女をうずかせるのは、ルーファウスの手だ。一〇本の指が、彼女の手首を、二の腕を、そして脇のくぼみをなぞっている。エアリスは思わず腕の付根を締めた。けれどルーファウスは知っているのだ。脇窩のいちばん奥まった部分を引掻けば、エアリスからすべての力が抜けることを。
「ルーファウス、ね、待って」
 待たない、とルーファウスの指が言う。爪先がエアリスのあばらへと下りていく。ふれるかふれないかの力で、すべるように。と、腰骨のあたりでゆるゆると円を描きだした。
「なあ、腹を空かせたエアリス。私を食いたいのだろう、お前は。私を食うにはな、持久力がいるぞ。しかもアニバーサリーディナーだ」
 再度、彼を止めようとしかけた口を、エアリスはきつく閉ざした。そうしなければ、乱れた吐息がこぼれてしまう。うろたえるエアリスを余所にして、彼女の耳朶をくすぐる声調は止まらない。
「取って置きを用意している。私もお前を食べたい。ああ、エアリス。ディナータイムだけでは時間が足りないかもしれないぞ。何せ、七日ぶりの馳走だからな」
 いやな予感がして、そろそろと振り返る。綽然とからかわれるのだと想像していた彼女は、拍子抜けした。目元が偏光レンズにさえぎられたところで、エアリスは彼のくちびるの角度を見れば分かるのだ。
「朝まで食べ続けようか、互いをだ。なあ、エアリス」
 ルーファウスはもの柔らかな顔つきをしていた。
「この日が、私は待ち遠しかった。里帰りも挙式も、今日という日に『妻の実家』とやらですごすことも、すべてだ」
 ああ、この人は。
 わたしと同じ気持ちで、ここにいる。
 嬉しい。
 舞い上がりかけたエアリスだが、すんでのところで思いとどまった。くるりと身体の向きを変える。横乗りの体勢で、彼女はルーファウスの口をふさいだ。この先を言わせてはいけない。
「だめ、待ってってば、ルーファウス」
 ルーファウスは頭を振り、彼女の手を払い落とす。
「なぜだ」
「だって、今のって、もしかしなくても、お誘いでしょ」
「何だ、気に入らなかったのか。手間のかかる女だな。セックスするかと聞けば、ロマンチックじゃない、だとか、ムードないね、だとか、お前はむくれるだろう」
「むくれてるわけじゃ、ないよ」
「どうだろうな。ほら、この顔だ。いつもこの顔をする、お前は」
 つんと突きだしたくちびるを、ルーファウスがつまんだ。エアリスの途方に暮れた顔が、彼には拗ねたように見えるのかもしれなかった。
 違うのに、とエアリスは言いたかった。これは照れ隠しと、そしてもう一つ。あの素晴らしいロストバージンの夜から、すでに二箇月近くが経つというのに。セックスのタイミングを、エアリスがルーファウスへ任せきりにしていることへの落胆だ。彼女自身の不甲斐ない部分にあぐねているのだった。
 ルーファウスはがまんをしない。彼が性欲を満たしたいときには、そうと分かるよう言った。
 性に自由な彼は、本当はもっとたくさんの誘引の仕方を知っているのだろう。駆け引きですら、愉楽のツールとして利用してきたに違いない。それこそ、相手を高ぶらせるような艶言も、ノンバーバルコミュニケーションをも自在に操って。現に後者なら、ルーファウスはときどきエアリスに使う。視線で、あるいは五指のすべらかな動きだけで、彼女をそそることができるのだ。
 それでもルーファウスはエアリスの耳に聞かせることを優先した。セックスという、目的もあらわな一言は、彼女のためだった。
 ルーファウスのストレートな言いまわしには、彼の心遣いがひそんでいる。「気兼ねをするな」だとか「やりたいようにやれ」だとか、エアリスの羞恥や遠慮を取り除こうとしてくれている。
 選択肢が「する、しない」の二択に絞られているところも、明瞭だ。彼女にはありがたかった。気分が高ぶれば、エアリスは頷くか、ふるえるキスで応えればいい。そうすれば彼女のまだ臆病な欲愛の扉を、ルーファウスが開けてくれるのだ。つつがなく。
「だって」
 エアリスはゴーグルをはずす。と、顔を上げた。まだレンズの奥にある青色もまた、彼女の緑色からわずかも逸れていないはずだった。
 口先にふれたままの親指と人差指を、エアリスは両手のなかに収める。そっと。
「だって、ルーファウスったら、いつもはっきり言うでしょ」
 羨ましかったの。
 心も身体も、性愛の喜びを拒まない、あなたを。
 自分に嘘なんてつかない、ルーファウスのこと、すごく。
 続きを、エアリスは心のなかで呟いた。
 エアリスも、本当はがまんをしたくはなかった。汗と汗を、肌と肌とを重ねる機会。それがあとどれほど残っているのか、彼女には分からない。だから一度だってのがしたくはないというのに。ゆっくりね、とルーファウスを宥めながら、彼の優しいペースに焦っているのは、実はエアリスのほうなのかもしれない。
 いとおしい人の体温にふれて、ふれられて。
 めくるめく焦熱に逆らえなくなったとき。
 エアリスのなかでルーファウスをつつみこみたいと思うことがある。なのに、とルーファウスの手の甲を撫でる。
 ね、しよう。
 あなたとしたいの。
 たったそれだけのフレーズを、エアリスからは口にすることができないでいる。ルーファウスのように、なまめいたアトモスフェアをかもすことは、さらに難しかった。
 結局、エアリスの情欲を、こうして彼に察させてしまうのだ。
 ずるいよね、わたし。
 せつなくまばたきを繰り返す。彼女の両手のなかのルーファウスが、びくっとふるえた。
「明け透けじゃないお誘い、久しぶりだったから。ちょっと吃驚」
 エアリスは彼の長い指に、自身のそれを絡めた。ルーファウスは止めない。おずおずと胸元へと引きよせる。彼はやはりされるがままだった。二つの手の体温があわさって、同じ温度になる。こんな風にして、ためらう必要もなく。指と同じように、心と同じように、互いの生殖器をつなげられたらいいのに。エアリスはそう思わずにはいられなかった。
 しょげかけたエアリスを、だめ、とエアリスが叱る。
 思うだけでは、何もかたちにすることはできない。
「分かってるよ、そんなこと」
 エアリスは短く息を吐く。セックスのタイミングを、彼にゆだねることは楽だった。ルーファウスの気遣いに甘えることも、今となっては大好きだ。けれど、この性愛が彼女由来のものであることを、ルーファウスとつながりたいのだという意思を、エアリスからきちんと彼に伝えたかった。
 今があるうちに。
 星に課せられた不自由のなか、エアリスらしい生活が成り立っているのは、ルーファウスの資産と数々の手配りのおかげだった。彼女が厚意に返せるものといえば、エアリス自身のほかにない。そのほとんどが、彼のまだ知らない経験だった。
 エアリスが誘えば、ルーファウスは喜ぶ。
 エアリスからアイランドキッチンに誘って、ルーファウスが調理よりもまず、数々のキッチンツールの形状へと興味を示したように。
 エアリスからシークレットガーデンに誘って、ルーファウスが虫やハーブを手に取り、それらのいのちの持つ役割を覚えたように。
 エアリスからピクニックに誘って、ルーファウスが草葉のベッドに転がり、ゆれる木陰のカーテンのしたでの午睡を気に入ったように。
 エアリスが誘えば、ルーファウスは新しい経験を喜ぶのだ。
 同じように。
 エアリスがセックスに誘えば、ルーファウスは喜んでくれるに違いない。妻からの初めてのそれに驚き、しどろもどろの彼女の様子を面白がりながら。
 経験は、やがてルーファウスの思い出になるのだろう。いつか彼が結婚式の夜を顧みるとき。となりにエアリスがいなくとも。「あれは拙かった、不器用な女だった」と、彼のなかで笑い話になっているといい。そして「だが、私は確かに愛されていた」と、エアリスの真心を彼が貴んでくれるといい。
 エアリスは爪先に力を入れる。同等の力で、ルーファウスが節の大きな指をからめてくる。
 もしも、心痛の思い出として残るのだとしても、ルーファウスが悲哀に囚われないですむように。この制約のなかで考えつくすべての経験を、エアリスは彼に提供するつもりでいる。たくさんの楽しい思い出に、悲しみの一つや二つ、簡単に紛れてしまうようにだ。
 何よりも。喜びも怒りも、悲しいことも楽しいことも。思い出は、今を十分に堪能してこそ、つくりだされる結果だのだから。エアリスの今は、今を懸命に生きるためにある。
 だからエアリスはこの式日を待っていた。挙式後という、彼女にとって特別な一夜をきっかけにするのだ。そうすればエアリスの邪魔をする怯弱を払い除けて、彼を誘うことができる気がした。なのに。
 エアリスは困る。羞恥心を抑えつけたところで、肝心のエアリスらしいやり方が思いつかないでいる。
 再びエアリスが溜息をつく。珍しく深いそれに、ルーファウスは首を少し傾げた。
「こんなときに嫌味とはな、エアリス。私がロマンチックの下手なことを、お前は知っているだろう」
 だが、とルーファウスが何やら含み笑っている。
「何でもない、こともないが。まあ、いい」
 明日を楽しみにしておけ、と彼が口を閉ざしてしまえば、エアリスにできることは一つだ。ルーファウスがたくらみを明かすタイミングを待つだけだった。
「さて、花嫁のご機嫌を取ろうか、エアリス」
「だから、拗ねてないってば。それにね、わたしのこと、誘わないで」
 汗ばみそうな手からか、エアリスはそっと彼を解放する。ルーファウスのゴーグルを掴む。と、額にまで押し上げた。
「おい。今更、何を言いだす気だ、エアリス」
 細面を蛍光灯が照らす。ルーファウスが目をしかめた。
「あのね、今日はだめ」
「分からないな。お前も昨晩ははりきっていただろう。ランジェリーがどうだとか」
「わたし、はりきってなんて。ううん、そう、はりきってたんだけど」
「フライングで、私を食おうともしたな」
「あれは、誤解です。食べるつもなんて、これっぽっちもなかったから。ちょっと、美味しそうに見えただけだもの」
「だけ、でなくて、私は美味いぞ」
「知らない、ばか」
「間怠いな」
 まだ眩しいのか、機嫌を損ねたのか、ルーファウスが渋い顔のままでいる。尻ごみしかけたところで、エアリスは気合を入れ直す。
「楽しみにしてたの、正確にはね、その、初夜だけじゃありませんけど。結婚式の日にわたしの家ですごすこと、だから。だけど、そう。あなたの言う通り、そういうことも含みます」
「結局、ゲインズブールの家でセックスをしたいということには、変わらない。違うのか」
「ああ、もう、違いません。ルーファウスったら、やっぱり、露骨すぎ」
「なあ、エアリス」
 ルーファウスは鼻息をついた。長い腕をするりと彼女の腰にそえる。
「忘れられない夜にしたいのだろう、エアリス。私もだ」
 エアリスは目を丸くした。それからすぐにルーファウスへと見惚れた。
「特別の思い出がほしい。あの家でのだぞ」
 何て、素直な人。
 見習わなくっちゃ。
 自分にも、そしてわたしも嘘をつかない、この真直ぐな人のことを。
「だからこそ、だよ」
 なるほど、エアリスのやり方が分からなければ、まずは基本に立ち返ればいい。学ぶところから始めるのだ。歩くことも、話すことも。学科目も薬草の知識も。まわりの手助けや知恵を授かって覚えてきたことばかりではないか。そうでしょ、とエアリスは自身に言い聞かせる。
 ヒーリンで暮らし始めてからも、エアリスは自身の不識や関心事を満たしてきた。知らないこと、知りたいことをそのまま放っておける性質ではなかったから。さいわいなことに、エアリスのとなりにいるのは知識のかたまりのような人だった。そして。
 エアリスはまばたきを繰り返す。今更ながらに気づく。
 ルーファウスは彼女にとって、ただ一人きりのセックスパートナーだ。
 エアリスを煽情することが、いつも、とても上手な人だった。情欲をそそり起こすやり方を、彼女はルーファウスから学べばいい。
 ビギナーが手本にするには格差がありすぎるけれどと、エアリスは心のなかで笑う。
「ね、ルーファウス」
 緊張と消極性を掻き分けて、ようやくじっとしていられない性分の彼女が顔をのぞかせる。しゃんと背筋を伸ばしたエアリスを、ルーファウスが見ている。
「わたしの家行こうって誘ったの、わたしだもの。夜のことも、ちゃんとわたしからお誘いしたいから。だから、お願い」
 エアリスは碧眼を見つめた。一心にそうした。
「ルーファウスはね、何も言わないで」
 ルーファウスの喉骨が大きく上下した。
「だけど、せっかくの結婚式の夜だよ。もうちょっとね、こう、あとで思いだしたときに『ロマンチックだったね』って、うっとりできるようなのが、よかったんだけど。わたし、まだどうしたらいいのか、分からなくて」
 エアリスはいったん口を噤む。ルーファウスは目を見開いたまま、動かない。
「上手に誘えなくて、ごめんね」
 開け放たれたままの出入口から、風が吹きこむ。頬をかすめたそれは、いよいよ冷え始めている。日没は近い。
「気づいていないのか」
 ややして、ルーファウスがまいったといった風に首を振った。
「お前はうまいよ」
 何を、とはさすがに問わない。恥ずかしい熱が、じりじりと、彼女の顔中に帯びていく。
「本当に」
「本当だ」
「ルーファウスったら、てっきりわたしが、その、あなたとしたいの汲んでくれて。それでつきあってくれてたんだって、思ってた」
 瞬間、ルーファウスが派手に吹きだした。エアリスは呆気に取られた。一頻り笑って気がすんだのか、今度は「なるほど」と顎をさすっている。
「これが 世に言う『義務と義理』というやつか。なあ、エアリス。私たちは新婚だぞ。セックスを使ったコミュニケーションがわずらわしくなるには、まだ早いだろう」
 ルーファウスは冗談口を叩く。それがまた面白かったらしく、彼はけたけたと肩をゆらし始めた。軽風で顔を冷やしながらも、エアリスはきょとんとしたままだ。
「だって、そんな雰囲気じゃなくても、あなた、いつも元気になるから。すごいなあって、ちょっと感心してたの」
「私は飽きるほど、まだお前を抱いていないぞ。満足するまで、お前に抱かれてもいない」
「あれで、まだ、なの。底なしって、やっぱり本当なの」
「待て、エアリス。私は気持ちのいいことは好きだ。だがな、つきあいや戯れ程度では、さすがに立たせる気にはならない。そもそもの話、お前はまた誤解をしているだろう」
「何のこと」
 そう聞いたのが、間違いだった。エアリスはすぐにしまったと思ったものの、ルーファウスのまわり始めた舌は止まらなかった。
「無尽蔵にあるわけではないからな。私の性欲も、スペル」
 ルーファウスが、まふ、と呼気をこもらせた。どうにもざっくばらんにすぎるくちびるを、エアリスが慌ててふさいだからだ。
「ね、どのへんが、そそったのかな。教えて。今後の参考にするから、ほら」
 彼女にとって、これは願ってもないヒント、ともすればこたえそのものになる。いたって真剣に、エアリスは彼の碧眼を見澄ました。そういうところもだ、とルーファウスが呆れている。
「も。も、って」
「いい加減にしないか。それとも何か。底なしに底があるのかないのか、実のところ私も知らない。なあ、エアリス。お前が確かめてみるか。ここで、今だ」
「それはね、ほら、知らないままのほうがいいと思うの。もう、けち」
「うるさい。さっさとゴーグルを着けろ」
 言いながら、ルーファウスは彼女の両脇を掴み上げる。と、ひょいと前向きに座らせた。エアリスは、ううん、と唸る。これから甘美な一夜が始まるはずだったのに、彼女は出端をしくじった気がしている。
 エアリスは広い胸にもたれる。ゴーグルのバンドを指先に引っかけて、くるくるとまわす。ああ、もう。彼女はそう独り言ちた。
「ルーファウスと、するの、すごく難しいね」
「どこがだ」
 ハンドルグリップを握ろうとして、ルーファウスが上半身を屈める。いささか乱暴にだ。彼のいきおいに押しだされて、エアリスは否応なしにハンドルバーへと掴まった。
「ま、いっか」
「いいのか」
 エアリスは頷く。
「わたしのお誘いのやり方はね、もうちょっと考える時間、いるから。だから、今、できるところから。まずは、ルーファウス先生のお手本通りにするね。あなたのストレートな言い方、真似、してみるから」
「真似。私のか」
「そう。これから二人でしたいこと、すぱっと言います」
「聞こう」
 エアリスの背中に、つやのいい低音がじかに響いた。ルーファウスがおおいかぶさってきたからだ。夕方の風はすでに用をなさない。羞恥の熱は、顔どころか彼女の身体中にまでこもっている。
「家、着いたらね、最高のディナーつくって、食べて。小さいお風呂に、二人でぎゅうぎゅうづめに入ろう。今日のこと、たくさんお話しながらだよ。それから」
「それから」
 きっとのこの火照りは、彼にも伝わっている。エアリスは恥ずかしかったが、何をどう足掻いたところで平気ではいられないのだ。だから。
「それから、何をする、エアリス」
 エアリスはルーファウスを見上げる。大切なことは、そっぽうを向いたままで言いたくはなかった。
「それから、それから」
 エアリスは彼が首を垂れるのを待つ。耳元で、エッチしよう、と囁けば、ルーファウスが屈託なく笑った。
「頼む、エアリス。忘れられない夜にしてくれ。私のサンクチュアリでだ」
「忘れられない夜にしよう。わたしたちのサンクチュアリで、だよ」
 ほっと息をつく。と、ようやくエアリスも微笑むことができた。
「ね、ルーファウス」
 甘い情緒には、ましてあでやかな色香にはほど遠い。けれど、こんな風にして正直な心を届けるやり方は、案外とエアリスらしいのではないか。人差指一本分の先にある、青い眸、その目元。エアリスは初めてのお誘いに及第点を与えることにした。
 ルーファウスの深い笑いじわに、エアリスの笑みがいちだんと深くなる。


■END■
(聖域Ⅱ)

20221202