祭子
2022-09-27 19:14:57
39740文字
Public FF7/R×A/TLKG
 

■ADDITIVE COLOR MIXING■

∠[ν]-εγλ0010/10
忘らるる都の惨劇を見たルーファウスは滅入ります。医者も薬も役立たずのマリッジブルーです。
※Privatter掲載テキスト(20220922初出)

■ADDITIVE COLOR MIXING■
∠[ν]-εγλ0010/10


 焼き上がったばかりのシフォンケーキは、まるでエアリスだ。
 熱く、柔らかく、ルーファウスのなかで蕩ける。一口ごとに彼へ甘美を教える。
 結局、冷めるのを待たずして妻の力作は半分になった。明日のティータイムには別の口取も用意しなければならないだろう。
 このまま、雨が上がるといい。彼はそう願った。


 ルーファウスがその日の残務を片づけ終えたのは、就業時間を三〇分すぎたころだった。
 迎えに来た秘書とタークスを、ルーファウスは怪訝に見まわした。ホテルのキャンセルなどすっかり失念していた。それを彼はただ一言、「自宅に戻る」と告げるなり、何ごともなかったかのように踵を返したのだった。
「お帰りなさい」
 エアリスが出迎えた。エプロンと髪留めのリボンが宙に波打つ。ルーファウスを差し置いて、ダークスターが彼女に飛びついた。愛犬なりに謝意をつくしたいのだ。何せエッジですごす緊張の一晩を免れたのは、主のつがいのおかげなのだから。
「ただいまのキス、今日はディーなの」
 頬を舐められて、エアリスはくすぐったそうに身体をよじった。スニーカーだから滑り止めが利いているのだろう。今日は尻もちをつかずにすんでいる。そのあと続いた朗笑に、ルーファウスは目を細めた。
「お疲れ様。顔色、まだ悪いね。取り敢えず座ろう、ほら」
「着替えが先だ」
「休むの、先」
 ね、とエアリスが彼の手首を掴んだ。ルーファウスはダイニングルームへと連れていかれる。非力だというのに、振りほどくことができない。
 やれやれとつき従う彼の目の前にあるのは、無論エアリスの後ろ姿だ。オープンバックのワンピースを着ている。尻下までおおう髪は、丁寧に編みこんだアップスタイルだった。くだんの傷痕を隠すものが何もない。不意によみがえるのは、いとおしい女の黒々と開いた瞳孔だ。ルーファウスは息をつめる。
 いくつも重なる歯形、その中央にあるのは消しきれない神羅の業だった。
「今日はね、お酒、だめだよ。寝酒も。代わりに、お茶淹れるから。スペアミント、摘んできたの。いっぱい」
「おい、この天気だぞ。そとにでたのか」
「だって。ドライだけより、フレッシュ混ぜたほうがさっぱりするもの。雨、ここまでひどくなかったし」
 歩きながら、二人は申しあわせたように右奥へと目をやった。五枚の大窓が並んでいる。
 西峰にとどまっていた積乱雲は、一六時をすぎたころにはすでにヒーリン上空を黒々とおおいつくしていた。窓掛のたぐいのない高窓からは、屋根を叩きつける雨の様子がうかがえる。次に大窓を見る。雷鳴もいよいよ近い。ブラインドが全開であれば、一枚硝子にひび入れたような放電路が一望できたことだろう。
 前ぶれはなかった。ばりばりと雷がわめいた。窓外がかっと閃き、家屋がゆれた。
 すごい、とエアリスは感嘆した。さすが自然とは不可分な星の申し子だ。そう思いかけたルーファウスは、違うな、と首を振る。セトラでなくとも、これしきのことなら彼女は動じない。
 彼女の眸が好奇にきらめいたのは、しかし一瞬のことだった。状況を察して、すぐに気持ちを切り替えたようだ。
「今の近いね。サンダガ、ううん、サンダラくらい。『ラ』なら、まだ、だいじょうぶだよね。落ちないといいけど。だって」
 エアリスが心優しい女の顔をしている。スラットの隙間からふもとへと目を凝らしていた。ルーファウスはおのずと目笑する。
 ルーファウスが惚れたエアリスの一面が、この胆力の据わり具合だった。臆しないということは、言い換えれば順応性にすぐれているということだ。
 たとえば今日のような荒天でも、適応能力の優劣をふるいにかけることはできる。そうして網目から落ちた人々を、彼は蔑んでいた。
 まずルーファウスが啞然とするのは、嵐のなか、やたらと落ち着かない人々だった。突然の轟音に驚くところまでなら、彼にも理解はできる。だが悲鳴を上げ続けたところで、咆雷のほうからうるさがって逃げるわけでもなし。立ち竦んだところで、暴風が気を利かせて凪ぐわけでもなし。それが子供のすることならいたし方がないだろう。現にルーファウスにも覚えがある。
 嵐の夜にしのび泣く幼少のころがあった。
 生家にいたころ、別棟に居室群をかまえていた彼には、一人で両親のもとへと向かうだけの勇気がなかった。さりとて使用人や護衛を使えば、父親は部屋へと入れてくれるものの、妙な顔をする。父親は小さな身体を抱き上げるたびに「また重くなったな」と笑った。それが彼には「こんなに大きくなったのに、雷ごときが怖いのか」と言われているようで、悔しかった。ルーファウスにとって、それは恐怖よりも不本意なことだ。一人で耐え、幾度もそうして、彼はただ怯えるだけの無益な時間をすごすことをやめられたのだった。
 だというのに、連中ときたらどうだ。いつまで経っても恐怖の殻にこもっている。
 ルーファウスの目に止まるくらいなのだから、それなりのステータスがあるか、遊ぶにこと足りる器量であったはずだ。さらにはれっきとした成人だ。彼にはとてもではないが信じられないことだった。
 克己心のまるで皆無な連中に、ルーファウスは知性を感じたことがない。
 なぜなら、そうして自らの時間を止めていては、刻一刻と変わるまわりの状況が把握できないからだ。彼と同時に同一世界を見ることができない連中には、一瞥を投げる手間すらもむだに終わる。
 ルーファウスが『劣』としてふるい落とした人々。それらに向ける侮蔑など、だから実際はいっときもなかった。
 二度、三度と、雷鳴が轟く。
「うわ、今のは『ラ』と『ガ』のあいだくらい。ね、ルーファウス、これって」
 ルーファウスはしなやかなものを好んでいる。そしてエアリスはしなやかそのものだ。
 彼女がじっと見つめているのは、山麓であって、実はそうではない。付近一帯にこのあと――今すぐかもしれない――生じるだろう問題を懸念している。停電だ。ルーファウスと同じ目線から、同じ問題が見えているのだ。
 だからなのだろう。エアリスがルーファウスのストレッサーにはならないのは。
「久しぶりの大荒れだが、気に病むほどのことではないぞ、エアリス」
 ルーファウスには妻の心配が手に取るように分かる。それを取り除くべく、彼は口を開いた。
「お前の言うところの『ガ』並みか。余程の落雷でなければ停電はしない」
 このあたりの岩棚一帯は、もとは神羅黎明期の避暑地だ。古いとはいえ――気象状況の変わりやすい――山を拓くのだから避雷設備は整っている。その上、複雑でない装置だった。数一〇年ものあいだメンテナンスされていなかったとは思えないほど、十全に稼働している。
 ルーファウスが開拓したふもとも同様だ。主だった大型施設には、避雷だけでなくあらかじめ非常用電源設置を導入している。とくに製薬工場の電源障害対策は念入りだった。品質や製造管理に支障をだしてはいけない。
「よかった。お薬つくってるの、今、すごく大事な段階だよね。電気止まっちゃったら、困るもの。ね、ルーファウス」
「諦めろ。さすがに民家一戸一戸となれば、あとは各人がどうにかすべきだ」
「勿論、それは分かってる。だけど、山のお天気、こんなに怒りんぼだったなんて、知らなかったから」
 エアリスはルーファウスをちらと見上げた。町を興した責任者としての、彼の是非を問うパートナーの眸をしていた。
「郊外にも避雷設備があるからな、大事にはいたらないだろう。まあ、あれだ。万が一のときにはランプで一晩しのいでもらおうか」
「キャンプみたい」
「娯楽の提供もできるな」
「手抜かり、ないね。さすが社長さん。ね、停電ごっこ、しよう」
 ごっこ、と鸚鵡返しに問えば、エアリスは頷いた。
「だって、うち、停電しないでしょ。ここだけは、ぜったい」
「しないな」
「神羅の心臓、守らなきゃだものね」
 エアリスは階下を指差した。父親はいずれの不動産にもセーフルームを備えていた。言わずもがな、この別荘の地下にもある。
「心臓か」
 ルーファウスが小さく笑う。なるほど、言い得て妙だと彼は思った。セーフルームの一角を占めているのは、コントロールセンターとサーバーブースだった。これから大切に育てるべき、新生神羅のまだ幼い心臓にほかならない。
 ミッドガル壊滅ののち、ルーファウスはまず旧本社中枢システムの再構築を目指した。でき上ったそれは、継ぎ接ぎだらけの、最低限のシステムだった。難航したのは設置場所である。新社屋の竣工まで、彼はそれを手の届くところへ置いておきたかった。候補に挙がったのはジュノンだ。が、遠い。そしてルーファウスには静養が必要で、ヒーリンを離れることがどうにも困難だった。
 身を隠しつつ、心臓をも守ることのできるこの建物は、だから彼とっては好都合だったのだ。父親のスケプティックを小胆だと嘲笑していたルーファウスだったが、今となっては周到であると認めざるを得ない。
「そもそもだ。親父がリッチにすごすために建てた別荘だぞ。そのあたり、あいつが手を抜くはずがないだろう」
「だよね、やっぱり。じゃあ、停電ごっこしかないよね。あなたが元気になったら、しよう。次の雨の日、ね、決まり」
 停電ごっこというからには、日が落ちたあとのことなのだろう。いったいどのような遊戯が繰り広げられるのか。皆目見当もつかない彼は、ただ夜雨を待つしかない。
 ルーファウスは半ば呆れ、半ば感心した。
「お前は、つくづく逞しいな」
「どうして」
「天気を楽しんでいる。晴天のピクニックなら、そうだな、あれはなかなかに気分がいい。だが、悪天だぞ。しかも停電とはな」
「ちょっとだけ、懐かしくなって。停電はね、本当は慣れてるの。スラム、そういうとこ不安定だったもの。電車、通るたびに、電灯、ぱかぱかするし。雷ひどいとてきめん、スラム真暗」
「これはこれは。魔晄事業サービスの一部がご利用いただけない状況が発生しておりましたこと、下層地区の皆様には深謝申し上げる次第でございます。現在、安定した供給を目指し、新たな電力開発の」
 神羅社長がかしこまったところで、エアリスが笑ってさえぎった。
「いいえ、社長さん。どうぞ、お気になさらないで。おかげで大きくなってからもね、怖いふりして、お母さんに抱きつけたから」
「お前という女は」
「あれ、ルーファウス。羨ましいのかな。きゃあって悲鳴上げて、抱きついてほしかったの」
「まさか。そんな阿呆に用はない」
 ルーファウスは忌々しげに言った。彼を掴む手にぎゅっと力がこもったのは、エアリスの抗議なのだろう。
「ひどい。わたしだって、昔は怖かったんだから、雷。プレートの下ってね、音、三倍くらいに大きくなるんだよ。すごく、すごく、響いたんだから」
「だが、今は何ともないのだろう。楽しみ方も見つけている。お前のそういうところが、いい。とてもいい」
 エアリスは黙ったまままばたきを繰り返している。彼が言外に含めた愛をさぐるときの、彼女の仕種だ。ややしてエアリスは、ありがとう、とはにかんだ。
 気概がないのは、ダークスターだった。真丸の目玉が、心なしかひしゃげて見える。長い耳と短い尾はぺったりと倒れていた。
「ディー、お前もこのしたたかな女を、少しは見習え」
 自然現象の脅威に強いほうを、本能で嗅ぎ分けたのだろうか。愛犬がすりよったのは、主の長躯ではなく花車な肢体だった。
 ハンドラーのもとで不快刺激への耐性訓練は完了していたはずだった。歴代の改良型ガードハウンドも、コピー元のダークネイションもそうだったように、現に――銃火器や航空機の駆動音への――騒音感受性ならゼロに近い。己で駆使するマテリアの雷光なら気にも留めやしないというのに、不思議だった。
 いったい何が違うというのだろう。ルーファウスは冷ややかにダークスターを見下ろした。
「情けないな、お前は。ただの天気の気まぐれだ。たかが放電現象だろう」
 ダークスターは主を上目でうかがっている。気まずそうにも恨めしげにも見える。
「誰だって、苦手なものくらい、あるよね。それにね、この子、まだ甘えたいんだよ。ね、ディー」
 空いているほうの手で巨体を撫でながら、エアリスが言った。ダークスターがぴすぴすと鼻をひくつかせて、彼女の脇下にもぐりこもうとしている。見目はほとんど成体だ。しかも相当に厳つい。が、ルーファウスのために生を受けてようやく一九箇月、人間でいえばダークスターはいまだミドルティーンというころあいか。
 同じ年ごろ、ルーファウスはすでに家をで、独り立ちしていた。当時はそのつもりでいたが、無論、名門校の寮教育が誰の養育の賜物であるかなど考えるまでもない。そして両親の代わりに学友や教師、寮母――彼女はとても恐ろしかった――が彼の群れとなり、日々をよく遊び明かしたものだった。そのなかには――寮母以外の――いずれかに扮したタークスも紛れこんでいた。
 結局のところ『ルーファウス神羅』は、学徒として、有名人の子供として、やはり庇護されるべき弱者でしかなかったのだ。
 ルーファウスは鼻息をつく。エヴァンに言わせると、「ディーさんはぐうたら寝てるか、菓子食ってばっかりだな」だ。が、そうは見えていても、実際は気を張っている。ダークスターが本分を怠ることはなかった。ルーファウスは『神羅』という群れの長として、適宜、労を謝さねばならない。とくに愛犬は彼の『家族』というコアにいる。
「私をがっかりさせるな」
 仕方のないやつだ、と今度は宥めるように声をかけた。
「しばらく時間をやる。弱みがいのち取りにならないうちに、克服しろよ、ディー」
 ダークスターが触手をしならせた。それを見ていたエアリスの口元が綻んでいる。
「ルーファウスはね、ディー、見習って。『きゃあ、雷、怖い』って抱きついてくれたら、かわいいのに」
「犬以下に成り下がるつもりはない。それにな、エアリス。私は恐怖云々関係なくお前に抱きつくぞ」
「もう、いいよ。セクハラ社長は、黙っててください」
「お前こそ、そろそろ苦手なものを明かせよ、エアリス」
「内緒。自分で探してみて」
 四度目の迅雷に、ルーファウスの頼もしいパートナーがスラットへと――好奇と懇篤の入り混じった――視線を戻した。
「お昼はね、コスモキャニオンだったよね」
「コスモキャニオン」
「そう。わたしね、雷聞くと、コスモキャニオン思いだすの」
 訝しむ声が気になったのか、エアリスはちらりとだけ彼を見た。
「ね、ルーファウス、覚えてる。ほら、スターレットの音楽。器楽って、いうんでしょ。ドラム、いっぱいあって、すごくリズミカルだったって話。ごろごろ、どどん、どんどん、て」
 ああ、とルーファウスは相槌を打つ。『半分セトラの物語』、コスモエリア高原での一幕だ。赤褐色の絹糸光沢をした侵食谷には、岩棚やくり貫いた壁面に拓かれた里がある。峡谷自体が高層アパートメントハウスのようなところだった。
 ルーファウスも学生時代に訪れたことがある。後学のためと称して、長期休暇のたびに学友たちと各地を遊びまわっていたときのことだ。コスモキャニオンもそのうちの一つで、一七歳の夏だった。いや、と彼は内心で首を捻る。その年の冬だったかもしれない。『スターレット』とは、里で唯一のパブリックハウスのことだ。が、エアリスから聞くまで、彼は店の名前を失念していた。
 ほかの青春のきらめきに霞んでしまうほど、若いルーファウスにとって退屈な場所だったのだから仕方がない。かの有名な聖火も、当然のことながらただの篝火だ。星命学の発祥地だが、少年にはまるで興味のない話だった。
 それでも五感――聴覚と触覚――が覚えていたことがあった。音楽だ。
 辺鄙なところだが、決して静寂というわけではなかった。毎夜のように奏でられる郷土舞踊は、旋律楽器より打楽器が目立っていた。
「どん、どどんど、どん、どどん」
 ルーファウスが思わず口ずさむベースに、エアリスがソプラノでメロディーを乗せた。掴んだままの彼の手を、リズムにあわせて振りながら。
「これこれ。わたしも聞いたよ。コスモの夜にぴったり、だよね。あのね、『星降る峡谷』っていう曲なんだって。きれい。どんな曲なのかなって、タイトルだけで聞いてみたくなっちゃうね」
「単純だな、お前は。私が訪れた当時は、曲名なんてものはついていなかった。ただの伝承古楽だ」
「そうなの」
「これがどういうことか分かるか、エアリス」
「うん。わたし、凄腕のコンサルの先生、いるから。でもね、何だかなあ」
 ルーファウスは頭にコスモエリアの地図を広げる。
 コスモキャニオン付近のエリア中央は、古くから宝飾用向きではない貴石採掘と、それを工芸品にした地場産業で細々と生計を立てていた。いくつもある横穴がその名残だ。だが北東の山脈から高品質のダイヤモンドが見つかってからというものの、先住民の大半がコスモキャニオンを離れたことは当然といえる。東西に横断する――海水混じりの――大河も幸いしたのだろう。交易に利便のいいエリア北部一帯は、すぐにダイヤモンド産地として栄えた。俗に言う『コスモ・ダイヤモンドラッシュ』で、二〇〇年ほどの前のことだった。
 あとに残ったのはラッシュに乗れなかった人々の後裔と、星命学者くらいのものだ。
 ルーファウスはそれを世界史で知り、そして自身の結婚指輪のために再度学び直した。世界有数の無色透明を候補からははずしたものの、しかし一片の悔いもない。ルーファウスの胸元とエアリスの薬指で光るグリーンダイヤモンドに、彼はこの上ないほどの満足を覚えている。
「地場産のさびれた集落だからな、仕方がない」
 それでも荒野のなかの安息地ともなれば、人の往来は絶えないだろう。音楽といえども利用しない手はない。
「大方、景観を切り売りしたいがためのアピールではないのか。金を落とす観光客が必要だ」
「ルーファウスったら、言い方」
「降るというのも、大げさだろう。標高が高いのだから、星が鮮明に見えるのは当たり前だからな」
 ふん、とルーファウスは鼻から声をだす。
 高度が上がるにつれて気圧は低くなる。星を減光する空気の層が、ふもとより単に薄いだけのことだ。ほかにも要因はあるが、それらの条件が重なるヒーリンをたとえにだせば、エアリスは「なるほど、さすが博士」と感心した。くすくすと笑っているのは、彼の饒舌がいたいけなく聞こえたからなのかもしれなかった。
「それでもね、一回でも本物見たら、きっと皆、『ぴったりな曲名』って思うんじゃないかな」
「私はそうは思わなかった」
「へそ曲がりの誰かさん以外、そう思うはず。わたしはね、すてきだなって、聞いてたよ。広場にいても、どこからともなく聞こえてくるの。どんどんって。ね、お昼の雷といっしょ」
 ルーファウスはわずかに笑う。酒場に併設された宿ではなく、彼は天文台付近の――富裕層向けの――コテージでそれを聞いた。打楽器の皮膜を叩く低音、そとへともれる喧騒は、なるほど少し遠い雷に似ている。
 こんな風にして、『半分セトラ』は些細な発見を慈しんできたのだろう。いくつも。短い旅のなかだけではない。彼女がミッドガルで繰り広げた冒険の数々を、彼はすでに聞きおよんでいる。
 エアリスらしい。
 一つ聞くたびそう思えたのは、『半分セトラの大冒険』を傾聴するより前から『続・半分セトラの大冒険』が始まっていて、ルーファウスは彼女の冒険をそば近くで見てきたからだ。そして今も見ている。世間でいうところの、ただの日常として。
 だが大事小事はさして重要ではなかった。エアリスのものの捉え方、それそのものをルーファウスは貴んでいる。
「あれって、パブのなかで聞くと、身体の芯まで響くでしょ。今の雷みたいに。不思議。だけど、ちょっと気持ちいいよね」
 ドラムが肌をふるわせる触感を、ルーファウスも思いだした。
「音楽ってね、身体でも聞けるんだって、初めて知ったの。吃驚しちゃった」
「低いピッチの振動は、振幅が大きいからな。体感しやすい」
「じゃあ、雷は。雷もいっしょなの」
「雷の音波は疎密波だ。打楽器の、取り分け膜鳴とは」
「ね、待って。疎密波って、何」
 それは、と言いかけたルーファウスははたと思いとどまる。なぜ彼は今、空気振動のうんちくを傾けているのだろう。ことの始まりまでさかのぼったところで、彼は大仰に溜息をついた。
「エアリス、話を逸らすな。雨にぬれたのか」
「あら、ばれちゃった」
 エアリスは歩みを止めない。腰が左右にゆれるたび、背中にはいろいろな角度から照明が当たる。さらには雷光の明滅までもが加わる。傷痕に落ちこむ影がかたちを変えた。ルーファウスは息をつめる。
 碧眼には、それ自体がうごめくばけもののように映った。
「お前のことだ。またぬかるみに嵌まって転んだのだろう。そもそもだ。風邪をひくようなことをするな」
 エアリスは「また、ばれてる」と夫を軽くいなす。それから白状した。
「二回、転びました」
「何だと」
「三回目はね、こける前に踏ん張れたよ。足、トレーニング効果、でてきたのかな」
「お前の腿はな、ふくらはぎもだ。まだまだだ。そんなことより、エアリス」
「分かってる。無茶はしてないよ、だいじょうぶ。お尻までどろどろ、びしょびしょで冷えちゃったけど、すぐお風呂入ったから。今、具合悪いのは、心配なのはね、あなただよ」
 死角をいいことに、ルーファウスは顔中をゆがめた。妻に嘘のつけない彼の、ただ一本の電話がエアリスを悪天のなかへと差し向けたのか。
 薄暗い山道、泥濘に足を取られながらハーブの群生地へと急ぐ後ろ姿を、ルーファウスはありありと思い浮かべることができる。時折、空を引き裂く雷光に「きれい」と見惚れては、「いけない、いけない」と香草を選っていたに違いない。よく似た無柄の葉のなかから健胃整腸作用のあるそれを。雨が泥水を跳ね散らかし、屈みこむエアリスをまだらに汚したことだろう。
「吐いちゃうなんて、本当、どうしたの。ルーファウスのことだし、お薬、飲んでないんでしょ。せめて休憩中なら、よかったのに」
「なぜだ」
「ジャッド、秘書じゃないときだったら、ルーファウスの口こじ開けて、お薬、突っこんでくれるから。きっと」
「あいつならやりかねないな。だが私は飲まない。薬はきらいだ」
 もう、と彼女のくちびるはつんと上向いていることだろう。そうに違いないというのに、ルーファウスの耳へと届くのは、穏やかな声音ばかりだった。
「子供みたいなこと言う夫には、やっぱりしっかり者の妻、ついてなくちゃだね」
 ばけものがさらに活気づく。エアリスの何気ない配慮をたらふく食らって。だめだ、とルーファウスは思った。
 これは、だめだ。直感だった。
「マダム神羅のスペシャルブレンド、用意するから。水分、いっぱい取ってね」
 まるでリボンをほどくように、するっと。
 エアリスの慈心が、彼をルーファウスたらしめる理性、その箍をはずした。
「ね、ルーファウス」
 彼女のぬくもりがない側の腕で、乱暴にエアリスの腰をさらう。二人のつながっていた部分が離れる。リビングとダイニングの境目で立ち止まる。ルーファウスは薄い背中を抱き竦めた。
「あれ、わたしがぎゅってするんじゃ、なかったっけ」
 エアリスがからかうように含笑した。二つのふくらみがつぶれるほど、さらに深く掻きいだく。彼の腕の下にも刺傷がある。
「エアリス。私は間違っていないと言ってくれ」
 情動が奔出する。止まらない。止められなかった。
「私の選択は正しい。私の道は正しい。なあ、エアリス、そうだろう。そうだと言ってくれ」
 気づけば、ルーファウスはそう口走っていた。
 直後、エアリスが彼をいきおいよく見上げた。驚いたのは彼女だけではない、ルーファウスこそ絶句した。二人はまじまじと見つめあう。ばくばく、どくどく。彼の全身がどうしてだかうるさい。
 間違っていない、とは何だ。
 言ってくれ、とは何だ。
 ルーファウスがだらしなく口を開く。まばたきを忘れる。舌も目も乾いていく。
 彼の言葉が声を伴うとき、それは誰に聞かれたところで支障のないものでなければならない。だからルーファウスは思考をまず脳内で言語化する。会話と並行して、口を動かしながらもつねに考え続ける。ふともらした一言が、まわりまわってルーファウスの搦手にならないようにだ。修養の一環として身につけた、それはすでに彼の習性だった。部下やエヴァンにまで、ルーファウスはさんざん注意してきたはずだった。だというのに。
 深慮や熟思どころか、彼は考えることすら放棄した。「言ってくれ」などと、他力本願な内容にも、ただただ唖然とするばかりだった。
「それって、わたしが言って、ルーファウス、納得できるの」
 胸を押しつぶしたままでいる彼の上腕に、エアリスは一〇本の指をかけた。
「しないな。できるわけがない」
「でしょ。だけど、甘えてくれて、嬉しいから。言うね」
 ルーファウスの腕のさすり、強張りをとく。と、フレアスカートをかろやかにひるがえす。翠眼はすでに落ち着きを取り戻していた。
「ね、ルーファウス。あなた、間違ってない。あなたが自分で考えて、あなたの思うようにやってるなら、それは間違いじゃないよ」
 エアリスは彼の真正面に立った。ルーファウスは動くことができない。やはり体中が何かを打ち鳴らしている。それが心音なのだと、彼はようやく気づいた。
「だけどね、もし、もしもだよ。間違ったほう選んじゃっても、つまずいてもね、気にしない気にしない。ルーファウス、転んだって、ちゃんと起き上がれる人だもの」
「そうだな。もう何度転んだことか、分からないくらいだ」
「うん。だから、ルーファウスはだいじょうぶ」
 エアリスが微笑んでいる。眼差は瑞々しい。いつものように。明日もそうであれば。ただそれだけのことが、ルーファウスにしてみればどれほどの価値を持つことか。
 彼女の虹彩を見るたび、眸を貴石にたとえる連中をルーファウスはあわれに思う。浅慮だ。
 真正の輝きとは、いのちと、それのもたらす熱情をみなぎらせているものだ。彼がエアリスへと向ける双眸は、さらにきらめいているに違いない。名立たる宝石がただの石くれと化すほどに。
「エアリス」
「うん」
「エアリス」
「うん、何」
 ああ、とルーファウスは嘆く。
 エアリスの死に顔と、再び息吹いたいのち。生死。相容れない二つを一度に突きつけられて、ルーファウスの理性はぐちゃぐちゃになった。彼の弱音がとめどなくもれだす。
「大丈夫ではないよ。私は取り返しのつかないことをした」
 お前を愛し、お前に愛された。
 ルーファウスの片恋であれば、どれほど楽だったか。捨てるか、もしくは忘れるか。どちらもできないようなら、心底に沈めておけばすんだ話だった。傷つき続けた子供のころのように。だが、と彼はエアリスを見る。
 すでに交歓した愛だった。
 その片方を、エアリスは大事にかかえている。取り上げることができそうにない。
 もう一方は、とルーファウスは睫毛を半分伏せる。眸の先にあるのはエアリスの乳房だ。胸と背、一対の死の証ができたその一部始終を、彼の両眼で確かめたばかりだ。その上でなお、気持ちは変わらなかった。ルーファウスは一対の愛から身を引く気にはなれなかったのだ。
 ルーファウスはあえいだ。彼は道を誤った。この先、道なりに進めばとんでもない間違いを犯す。
「今更、気がついたところで、私は」
 二人して、ただ奪う者へと成り下がる。
「私は」
 冒険譚は『結』に差しかかっている。先んじてその終幕を見た。ルーファウスは彼女の人生をほとんど知った。
 エアリスの一度目の生は、与える者で、奪われる者だった。
 ルーファウスという与える者を得て、彼女は二度目の生でようやく与えられる者になった。
 のろのろと顔を上げれば、憂いのない妻がいる。
 このまま。死が二人を分かつとき、エアリスは満ち満ちていなければならない。セトラの使命も、一個人の望みも。今度こそすべてを叶えた『ただのセトラの女』の幸福だ。
 あのピクニックの日、長老の木の下で、ルーファウスには決めたことがある。道行の先にある大穴などふさいでしまうくらいの、余りある幸せを積み重ねていくのだと。喪失という負を正に、より高次の状態へと変える、そのための策を模索するのだ。そうして実際に力をつくしているさなかだった。
 ハードディスクドライブの入手は、妙案のはずだった。
 これがあれば『半分セトラの大冒険』を視覚から補完できるのだ。冒険譚への理解がより深まるだけではない。水の祭壇でのできごとを語るとき、エアリスが己の死と一人きりで対峙せずともいいように、ルーファウスが同じものを見る。ふるえる肩を彼の手で支えることができる。彼女の話を聞き終え、二二年をつまびらかに知り、星の意図をさぐるのだ。エアリスに悲しい「嬉しい」を言わせずにすむように。
 その上で『続・半分セトラの大冒険』のエンディング――永遠の喪失――が、今度こそ拍手喝采のうちに幕を引くための最善を考えるはずだった。日々をすごすなかで、大小さまざまの幸せを重ねながら。
 だが視聴のさなか、慮外の石くれにルーファウスはつまずいた。小石の名は、本物の死だ。
 ルーファウスはそれを侮っていた。最愛の死ごと『半分セトラの大冒険』を受け止めて、『続・半分セトラの大冒険』に備えるはずだった。だというのに、喪失の大穴にたどり着くより前に彼は転んだ。道の中途にできたくぼみへと、すっかり嵌まりこんでしまったのだ。弱りきったルーファウスは暗いところでうずくまっている。
 いずれいたる二度目どころか、彼は一度目という過去ですら受容できないのだ。
 こんなはずではなかったのに。
 死というのは、恐ろしいほどに賢智だった。ルーファウスの不知をことごとく教示する。そして容赦がない。今もまたそうだった。「まわりを見てごらん」とそれが囁く。
「なあ、エアリス。私には」
 首を巡らせるたび、ルーファウスの視界で自宅がゆれる。
 リビングにはのんびりと読書をし、時間をかけてセックスをするソファーやカウチがある。ハイカウンターでは、三日にわたる盤上の戦いを繰り広げているところだった。ピアノは朝からいろいろな曲を歌っている。ダイニングやキッチン、南側に伸びる廊下まで、彼の目の届く範囲を見まわす。狭い空間に、幸せが、何気ない日常が散らばっている。扉という扉、窓という窓を開ければさらに増えるに違いなかった。
 エアリスを見れば、彼女は小首を傾げた。言いあぐねる夫を急かすことはしない。ルーファウスの口唇が悲喜にゆがむ。また一つ増えた。もう数えきれない。
 ルーファウスの慈しむ日々――たとえ小さなかけらの一つですら――が、エアリスを悲しませるものへと変わることが許せなかった。にもかかわらず彼には。
「改めることができないだろう」
 死が言う。「どれもすべて失われるものだよ」と。さらに続ける。「奪いあうだけに終わるのだろうね」とも。死に悪意はなかった。なぜなら。
「私の選択がもたらした、これが現実だ」
 ルーファウスはエアリスから幸福を奪う者になる、再び。
 そして。
 エアリスをルーファウスの幸福を奪う者へと、堕落させるのだ。
「間違ってしまったな」
 奪われるより、奪うことをいやがる女だ。ルーファウスが傷つくことに傷つく、優しいいきものなのだ。エアリスはどれほど嘆くだろう。
 ルーファウスは右手を横髪にくぐらせる。握り締める。ぶちぶちと毛の抜ける触感がした。
「右手、下ろして、ほら。はげちゃうよ」
「お前は大げさだ。これしきのことで、はげてたまるか」
 ルーファウスは眉間に悲しみのしわを刻んだ。ネクタイのノットに荒々しく指を突っこむ。
 どれだけ幸福で埋め立てたとしても、死がまた穴をうがつ。幸せを根こそぎ掻きだしてしまう。そうして底に残るのは、喪失の悲哀、痛苦、未練に違いない。このままでは『悲しい「嬉しい」』ですらも言わせてやれない。
 そうと分かっていても、ルーファウスは間違いを犯す。
 死に何を諭されたところで、二人歩むこの道から彼ははずれることができない。
「何ともならないのかな、今からでも」
「ならない」
「応援、頼める人は」
「いない」
「もしかして、八方ふさがりってやつ」
「かもしれないな」
 ルーファウスはあえぐように言った。結び目を中途半端な位置にぶら下げたまま、ネクタイを握り締める。
「だというのに、おかしな話だ。私は私のやったことを誤りだと思いたくない。認められない。これはな、エアリス、間違いであってはならないことだからだ」
 神羅社長がセトラを愛することを、愛されることを。
 ルーファウスがエアリスを愛することを、愛されることを。
 二人がはぐくんだ愛情を。
 重ねた、そしてこれからも重ね続ける日々を。
 何一つ間違いにしたくはないというのに。
 だが、いったいどうすれば、エアリスは、ルーファウスは、二人は。『続・半分セトラの大冒険』にふさわしいエンディングを迎えることができるのだろうか。
「どうすればいい」
 ルーファウスは幾度も己に問いかける。不意にこたえが見つかった。それは彼を再び震駭させた。
 もう少し、あと少し。叶うなら、この先も。
 喪失の穴をすみまで照らす、まばゆい光。やめてくれ、とルーファウスは目を逸らせようとした。失敗した。間違いを正すための解決策は、こたえは一つだ。時間だった。
 ルーファウスは未来がほしかった。
 エアリスと二人、肩を並べて歩く道がいる。
 エッジの大通りのような、エリアをつなぐ幹線道路のようなもの。己の意思で、己の思うがまま、どこまでも敷き続けられるそれがほしかった。
 きつく両眼を瞑る。幾度間違っても、幾度でもやり直せるだけの時間がルーファウスには必要なのだ。だが彼はそれを勝ち取るすべを持たない。星とセトラの神秘を前にして、金も、権力も、頭脳も、まるで無力だ。ルーファウスの武器では、いまだ勝負を仕かけることすら叶わないでいる。
「吃驚。ぐるぐるしてるね、ルーファウス」
 ううん、とエアリスが唸った。
「あのね、ルーファウス。ルーファウスはね、自分でやらなかったことに後悔するタイプ、でしょ」
 狼狽しながらも、彼は頷く。この女は、本当にルーファウスをよく見ている。
「つくづく思うのだが。なあ、エアリス。お前の目には、私が透けて見えているのか」
「やだ、何、言ってるの。そんなこと、できるわけないよ。ルーファウス、透け透けになっちゃっても、見えるのなんて内臓とか筋肉とか、そんなのだよ」
「気色の悪いことを言うなよ」
「想像させるようなこと、言わないで」
 エアリスは後方に一歩退くと、彼の額を突っついた。しわは伸びない。ややしばらく考えこんでから、彼女は後ろ手を組んだ。
「分からないことのほうが、いっぱいある。今だって、そう。ルーファウス、たくさん考えなきゃいけないこと、あるでしょ。いつもいつも、何か考えっ放しなんだもの。どれに困ってるのかなんて、分からないよ。ほら、あれとか、それとか」
 小型航空機壱号から参号までの試作、山岳トンネル掘削中の落盤事故、浴室化粧品工場の経年劣化にともなう修繕。そしてミッドガルエッジの建設だ。いくつかを言い連ねながら、エアリスは眉尻を下げた。どれを取っても必要なのは、鉄鋼だった。
 慢性的な建材不足は、ノースコレルエリアとゴンガガエリアの製鉄所を再開させることで目処がついた。一部必要な鉄スクラップには、当面こと欠かないだろう。何せメテオショックのさい、ライフストリームの暴発でごみ屑になった魔晄炉はミッドガルだけではないのだ。地方の廃炉は、今まさに生きた鉄鋼へとかたちを変えているただなかにある。
 これもまた、旧神羅を次代に活かすための事業の一環だった。ルーファウスはおおむね満足していたが、本当はミッドガルこそ炉にくべたかった。しかし元来の都市設計の複雑さに加えて、厄災後は街のいたるところに崩落の危険性がひそんでいる。解体は困難だった。
 廃材が足りなければ、ルーファウスは彼が秘匿しているジュノン兵器庫をも開放するつもりでいる。武器屋は先代で廃業した。動力部分を除けば、装甲車両や戦闘機など彼には必要のないものなのだ。
 だが地方に残る溶鉱炉や転炉といった施設設備は、魔晄エネルギー定着以前のものだ。老朽化によるいくつかの問題をかかえている。何よりもルーファウスが鋼鉄の精錬に不可欠な――天然の――鉱物資源に手をつけたがらないことを、彼女はよくよく知っていた。
「だけど、資材とか部品とか、そういうのの調達じゃないよね。もっと深刻なこと、なんでしょ」
 エアリスは、だって、と続けた。
「ルーファウス、眠りのサイクル、おかしくなるくらいなんだもの」
 くんくんと、ルーファウスは鼻をひくつかせる。ここにはないはずのサフランが香った気がした。
「最近、上の空だったし、あなた。ボードゲーム、ほら、今日で四日目だよ。なかなか勝負つかないの、そのせいなのかな」
 睡眠不足を言い当てられた今朝の様子も、花香とともによみがえる。
「どれに困ってるか、分からないけど。悩んでることだけは、分かるから」
「分かるのか」
「どれだけいっしょにいると、思ってるの」
 悔しそうに、エアリスが口端を曲げている。
 神羅社長を悩ませるものは、挙げればきりがない。だからといって、どれも彼の熟眠を妨げる原因にはならないと、エアリスは察しているのだろう。なぜならば、案件の数だけ不眠に陥るようでは、ルーファウスは一睡もできないことになってしまう。そんな繊細さなど彼は持ちあわせていない。
 たとえばくだんの建材不足なら、ルーファウスは製鉄所に光明を見いだしている。各地のそれらへ力ぞえすることにしたからだ。主原料も、鉄鋼をつくりだすための動力も、天然資源だ。ライフストリームのように、結局は星の蓄えを借りることになる。が、新エネルギーの目途が立つまではいたし方がない。
 渋るルーファウスを後押ししたのは、エアリスだ。先月のことだった。
「そんなこと言ったって、今は借りなきゃどうにもならないよ。星にはね、あとで倍にして返すからとか何とか、うまいこと言って、借りちゃおう」
 状況が停滞していることも、ルーファウスの「やれ」の二文字でいっきに進捗することも、百も承知だった。だがその号令を言わせないでいるのが、彼の私人の部分だ。抗う立場にある公人もまた、あろうことか私人と結託している。だから動けない。ルーファウスはますます機嫌を損ねた。
「いい案、あるの。ね、聞いて」
 神羅社長の顔色をうかがいながら、エアリスが人差指を立てた。
「口約束、いやなら、契約書でも借用書でも、ルーファウスの気のすむやつ、ちゃんとつくろう。『甲、星。乙、神羅電気動力株式会社 代表取締役 ルーファウス神羅・ゲインズブール』だね。ね、どうかな」
 思わず吹きだしたルーファウスに、エアリスも笑いながら、しかし諭すように続けた。
「お仕事に好き嫌い持ちこむの、ルーファウスらしくないよ」
 ルーファウスはまいったと思った。彼の星嫌いは妻にすっかり露見している。私怨に囚われる彼に冷静を取り戻させるすべを、だからエアリスはまんまと見抜いていた。交渉や談判の場に立たせればいいのだと。
 「必ず返す」と、ルーファウスは本当に書類を用意した。二部だ。星の代理人にはエアリスを立てた。「甲が私だ、星には譲らん」「どっちでもいいけど」だとか、「これ、文書偽造かな」「細かいことは気にするな」だとか、二人でサインを交わした。ごっこ遊びのような契約終結だった。ルーファウスは、だが己に課した誓約を破る気はない。
 こんな風にして、たびたび。
 エアリスに、ルーファウスはそっと背中を押されるのだ。
 ルーファウスは清々しく一歩を踏みだすことができる。
 パートナーというものはどれも名ばかりで、主導権はルーファウスの手中にあることが常だった。誰にも奪えなかった。分かちあう気も、彼にはさらさらなかった。それが名称と実質ともにパートナーとなると違うらしい。
 エアリスにイニシアチブをひょいと取り上げられて、彼は己の手を広げる。大事なものがない。憤るどころか、軽くなった手のひらに驚いた。対等の存在の頼もしさを、ルーファウスは彼女の小さな手を見るたびにつくづく思い知るのだった。
 たちまちは前時代的なやり方に倣わなければならない。だが、ルーファウスは今となってはそれを許容しつつある。
 無論、天然資源の勝手な採掘を野放しにしてはならない。腹を括ったからには、早々にしかるべき体制を整えることにした。魔晄エネルギーの台頭により零細化が進んでいた鉱業は、ルーファウスの差し伸べる――資本提携の――手を、諸手を挙げて受け入れた。
 そしてもう一つ、死に体だった連盟の再発足だ。
 盟主探しは難航した。ルーファウスの頭を真先によぎったのは、WROだった。だが最終的に彼らへ担わせたいのは、公安だ。社会の秩序の維持には、武力も欠かせない。だからこそ、とルーファウスは目つきを鋭くする。軍事と資源は不干渉にしておかなければまずい。現在の局長は――くせはあるものの――星の行末を案じている。癒着の懸念はないだろう。だが後進が先進のこころざしを継承するという確証はないのだ。
 今はまだ、真っ新な礎づくりのただなかにいる。初手を間違えてはならない。ルーファウスはくちびるを噛む。後継問題。それは神羅も同様だった。
 連盟本部は、神羅への支持が高いジュノンに置いた。一部の反感は買ったものの、今の時勢、資金力と機動力に敵う企業団体はなかった。前者もさることながら、後者はまだしばらく神羅カンパニーの独擅場が続くだろう。機動――状況に応じた的確な対処――の第一は、スピードだ。まずは情報収集とその共有をしなければならない。加盟業者間の連絡に必要な通信媒体を、ルーファウスは提供することにした。なかには実際に談合の場を設けなければならないこともあるだろう。肝心の――海を、山を、空をもこえる――移動手段を備えているのも、神羅のほかにないのだった。
 だが、それらを差し置いても、加盟業者にとっていちばんの納得の理由は、連盟のトップに据えた人物に違いない。
 ロケットボードエリアに油田とベースロード発電所を持つ、旧家が出自の男だ。男の父親は、鉱業界隈で今なお幅を利かせている。そして男はルーファウスの腹心だった。パブリックスクール時代の学友が、神羅社長の手足としてようやく活きだしている。
 こうして神羅カンパニーは連盟の牽引役として、加盟業者や自治体の管理を預かることになった。多少の利権は得たものの、それほど旨味のある話ではない。だが、ルーファウスはこのままでいいと思っている。
 地下資源の埋蔵量や可採年数の計測、そして採掘実績。彼はそれらを常に正しく把握しておきたかった。この先、星から必要以上を巻き上げようとする連中が現れようものなら、ルーファウスは許さない。
 面倒ごとばかりでもなかった。炉頂圧発電だ。
 製鉄所の炉は言わずもがな高温だ。そこから生じる蒸気やガスは、エネルギー資源として回収が可能だった。工場内はおろか、周辺集落への電力供給も、これでしばらくは安定するだろう。
 無論、鉱物資源を借りっ放しというのはどうにも彼の性分にあわない。貸手が星というところが、とくに腹立たしかった。
 だからルーファウスはすでにその先を見据えている。古い炉の排熱から生じる余力エネルギーで、新しい炉の導入を視野に入れ始めたところだった。従来の――天然資源から精錬する――転炉と違い、電気炉の主原料は鉄スクラップだ。いくらでも用意ができる。
 ルーファウスはいつだってふてぶてしい。だから問題のなかにひそむはずの、苦悩の原因が見えないことに、エアリスはやきもきしているらしい。
「私の顔色を読むことが、どれほど難しいと思っている」
 彼の冴えない顔色は、タークスにすら気取られていないというのに。それもいたし方がないことだと、ルーファウスは吐息をついた。
 単純な男は、ルーファウスの妻の前にだけ現れる。
「わたしの自慢なの、それ。一〇〇パーセント、ううん、半分だって無理でもね。あなたのことなら、ほかの誰よりも知ってるって自信、あるよ」
 へへ、とエアリスは笑った。ルーファウス――のなかの、ただの男の部分――は、彼女の気遣いをとても喜ぶのだ。奥歯を噛み締める力が、おのずと抜けていく。
「だって、わたし、決めてるから。ルーファウスのこと、ちゃんと見ていようって。ここに来たころにね、決めたの。ね、ルーファウス」
 エアリスは胸の前で手を組み直した。
「手遅れだって、ルーファウスが言うくらいなんだもの。きっと大変なこと、なんでしょ」
「とても」
「だけど、問題、まだ解決してないんだよね」
「そうだ」
 エアリスが口を噤んだ。何かを考えている。静謐とは違う、頼もしいパートナーの顔をしていた。ややして、彼女はぱちんと手と打ち鳴らした。
「うん。じゃあ、次のチャンス、探そう」
「なぜそうなる。私は取り返しがつかないと言っただろう」
「聞いたよ。だけどね、『間違いであってはならないこと』なんでしょ」
 ルーファウスは曖昧に頷く。間違いの発端は、ジェノバに手をだした神羅の業だ。いくら悔いたところで、彼にはいかんともしがたい遠い昔のできごとだった。
 だが彼女を保護してからのそれは、ルーファウス自身が起こしたあやまちだ。エアリスへの愛を隠さなかったことから始まる。そうと気づいたところで身を引くどころか、さらにはエアリスとの相愛を手放さないことで過誤を重ねる始末だった。
「何とかしたいんでしょ、ルーファウス」
 彼のためを思い、エアリスがともに打開策をさぐろうとしている。ルーファウスは切なくまばたく。眼前で優美な弧を描くくちびるも、いずれはゆがむ日が来るのだろう。
 幸せを与え、与えられ、それを奪い、奪われる。
 「一人でがんばれない」と嘆いたエアリスに、この喪失が果たして耐えられるのだろうか。与奪に翻弄され、手ひどく傷つけたまま、二人別たれた道の先、彼の腕のなかから消えた女の涙をどうして拭えばいいというのか。
 ルーファウスは力なく首を振る。
「初手、だめだったかもしれないけど。だったら、すぐに二手、三手、考えなきゃ。問題って、生きてるもの。ぐずぐずしてるあいだに、終わっちゃったら、困るのはあなただよ」
「ぐずぐず、か」
「そんなことは初めて言われた、でしょ」
 そうだ、とルーファウスは吐息交じりに言った。行動や決断が必要なとき、彼がこれまで手間取ることを否としていたのは、それは。
「失敗より、何もできないまま終わるの、いちばんいやだから、でしょ」
 彼をよく知る妻が、ね、とルーファウスの眸を覗きこんでいる。
「このままじゃ、後悔するの、ルーファウスだよ。わたし、そんなあなた見るのは、いや」
「エアリス、私は取捨選択をしなければならない。常にだ。だがな、捨てたなかに正解があったらどうする」
「変なこと、言うのね。ね、ルーファウス、捨てたものって、どこにあるか知ってる」
「どこ、とは」
「過去だよ。そんなの、今になって正しかったかどうかなんて、分からないでしょ。どっちも間違いだったかもしれないし、どっちとも正解かもしれないんだよ」
 まったく彼女の言う通りだった。ルーファウスは自身の浅慮にようやく気づく。思わず片手で口元をおおう。
 彼の嵌まったくぼみはどうにも狭すぎた。眼前に迫る壁にぐるりと囲まれて、ルーファウスは――かつてない視野偏狭に――何も見えないでいたらしい。
「珍しいね、終わったこと、そんなにこだわるの。後悔、してほしくはないけど。だけど、後悔、なくすこともできないよ。だって、選べるの一つだけだもの。選ばなかったもう一つのほう、ずっと気になるの、仕方ない」
 一つだけ、とルーファウスは反芻する。
「これからも、そう。あなたにとって、すごく大事な選択なら、ずっと、いつもついてまわる。どっちが正しいかなって迷うなら、相談、乗るよ。お手伝いなら、わたし、何だってする。それでもね」
 エアリスが両手を伸ばす。彼の顎をすくい上げるようにそえた。
「自分で選ぶってことが、大事。ルーファウスらしくいて」
「選んで、私は間違えた」
「選んで、間違えたら、すっきりさっぱり後悔しよう」
「後悔をしてほしくないのではなかったのか」
「いやだけど、だって間違っちゃったら、しようがない」
「堂々巡りだな」
「違うよ。次、さっさと行こう」
「どこへ行けばいい」
「正解、見つけに。行こう、ルーファウス」
 ルーファウスは瞠目した。
「選んで。ね、ルーファウス。何回間違えても、挽回して」
 エアリスが頷く。はんなりとした、しかし芯のある口調だった。
「挽回か。簡単に言ってくれる」
「ごめん。言うだけなら、本当、簡単。だけどね、間違った道も、道は道だよ。行き止まりじゃない。正解につながる道、探そう」
 つながる道、とルーファウスは茫然と呟く。前を見る。まだ壁がある。上を見る。ルーファウスは両眼をすぼめた。太陽が中天にあるような明るいところで、エアリスがくぼみのふちから手を伸ばしていた。
「行きつくところまで行って、だめだったら、またそのとき考えよう。選ばなくて後悔するより、ずっとまし」
「まし、か」
 実際のエアリスは、彼よりずいぶんと背丈が低い。見下ろしているというのに、しかし見上げているような気持ちのまま、光のなかで笑むエアリスに見惚れる。ルーファウスもつられて目笑した。
「お前の持論は、いつもわけが分からない。だが、そうだな。今のは私のやり方にぴったりだ。『やらずに後悔するな、やって後悔しろ』だな。神羅家の家訓にでもしようか、エアリス」
「うん。それ、最高」
 エアリスは手のひらで彼の頬をこねくりまわした。血色の悪い顔に、彼女のぬくもりが染みていく。
「ぐずぐずのルーファウス、珍しいね。お仕事、どれで失敗したの」
「内緒だ」
「気になるなあ」
 エアリスがわざとらしく拗ね顔をしている。ルーファウスの皮膚をつまみながらだ。
「仮にだ。私が仕事で失態を演じたとして、エアリス、お前は嬉しいのか」
 頬を引張られることにも慣れた。ふがふがと、空気を含みつつ、ルーファウスは文句を垂れる。
「だって、わたしにしか言わないこと、見せてくれない顔、聞けたし見られたから。わたし、あなたのベストビューポイントにいるね。嬉しい。それにね」
「それに、何だ」
 エアリスは破願した。
「素直なルーファウス、やっぱりかわいい」
 悪戯な指を払い除ける。と、ルーファウスは両腕を彼女の頭に巻きつける。結った長髪がほつれる。さらに力をこめれば、今度は――胸板に口と鼻をふさがれた――エアリスがふがふがともがきだした。
「情けないだけだろう」
「あらあら、これ、相当まいってるみたい。あんまり引きずらないでね。マリッジブルーになっちゃったら、困るから」
 ぷは、とエアリスが顔だけを上向ける。白い手は彼の肩甲骨をさすっている。妻いわく、そのあたりにルーファウスの緊張が現れるらしい。よくよく正直な身体だ。呆れるよりほかなかった。
「手遅れかもしれないな」
「花婿さん、逃げないでね」
「どうだろう」
「ひどい」
 ルーファウスは目下のつむじに吹きだした。そのままくつくつと笑いだす。
「言いだしたのは、お前だ。先に逃げようとしたのもな」
「分かってる。けど、そこはちょっとがんばって、『君との挙式に不安なんてないさ』って、言ってほしかったな」
「お前はいったい誰と式を挙げるつもりだ」
 彼女の愛読書の一節に、彼の声が冷ややかになる。エアリスが身じろぐ。ルーファウスはゆるめた腕を彼女の腰骨に落ち着けた。
「ルーファウスのままの、ルーファウス」
 乱れた前髪の下にあるのは、一心な翠眼だ。ルーファウスは怯んだ。
「エアリス。お前はいいのか。腑抜けた男と、このまま挙式をしてもだ」
「どういうこと」
「取りやめてもいい」
 口をついてでたのは、思いもがけない言葉だった。エアリスの笑みが引く。彼女以上に狼狽しているのはルーファウス当人だった。なぜ、と碧眼がさまよう。
「本当に弱ってるのね、あなた。ね、だいじょうぶ。お仕事、すごく大変でも、ルーファウスがプライベートまでずるずる引きずるなんて、あんまりないよね。ううん、初めて見たかも」
 反対だ。私人のネガティブが公人にまで余波を広げているのだ。だがどちらにしろ同じことだと、ルーファウスは観念した。
 エアリスを前にして、公私の区別をつけることが彼にはもう困難だった。
 それでも公私の混同に省みるべき点はある。直近なら、くだんのハードディスクドライブだろう。本来なら通信機器でのやり取りですますこともできたのだ。だというのに、プライベートでタークスを大勢使い、パブリックな相手――WRO局長――を呼びだした。あまつさえ映像の視聴には執務時間をも費やす始末だった。
 エアリスただ一人のために。
「そうだな。初めてだ」
 お前のことだけを考えている。
 そう伝えれば、エアリスは何を思うのだろう。呆れるだろうか。疑うだろうか。それとも、彼女の幸せにまた幸せを重ねてしまうのだろうか。ルーファウスはくちびるを引き結ぶ。
 ふとエアリスの目つきが厳しくなる。
「あのね、ルーファウス。わたし、確かに書きました。『したいことリスト』に、『一度くらい結婚式してみたい』って。だけどね、誰とでもいいわけじゃない」
 静やかに、エアリスが怒っている。
「ルーファウスだから、嬉しかったのに」
 とたん、眉がこめかみよりから垂れ下がっていく。あとに残ったのはさびしげな顔だった。ルーファウスは途方に暮れた。 
「あなたも同じだって、思ってた。違うの。ルーファウスは後悔、するの」
「するかもしれない。お前と式を挙げたいからだ。エアリス、お前を私の妻にしたいからだ。お前が」
 生前に得られなかったすべてを、与えたかった。
 ルーファウスはエアリスを、ただ幸せにしたかった。
 挙式もその一つになるはずだったのだ。式場を探し、婚礼衣装を誂えた。一人きりとはいえ、エアリスを惜しみなく祝福するだろう列席者も呼んだ。そして、遅ればせながら婚約指輪だ。美々しい緑の貴石で、ルーファウスの心臓をかたち取って用意までしている。
 幸せあれと、彼が足掻けば足掻くほど、いずれは失ういとおしいものばかりが増えていく。
 式日となればいったいどれほどの幸福が手に入るのだろう。彼は幸せの予感に怯えた。ルーファウスですらこの有様だ。エアリスの嘆嗟を思えばいたたまれなかった
 だからルーファウスは咄嗟に判断を下したらしい。結婚式は正しい道につながらない選択なのだと。
「もう少し」
 もう少し、あと少し。叶うなら、この先も。
 エアリスと二人、つつがなくすごすための未来さえあれば。
 再びルーファウスは苦々しく顔を背ける。喪失からのがれるための、唯一の解決策から。だが時間では打開できないことにも、彼は気づいていた。時間は有限だ。そして手に入れるすべがない。己の手で処決できないなら、それを策と呼んではならない。ただの願望だ。
 叶えたければ、夢想の世界へと逃げこむよりほかにないだろう。だが彼はいつだって現実の住人だ。いっときの夢へのひたり方を、そんなむだな時間のすごし方など、ルーファウスが知るはずもなかった。
 さりとて目を逸らせることも困難だ。なぜならば、それが、かたわらに最愛のいる世界が、ただただまばゆいからにほかならない。
「ばかか、私は」
 光へと、焦がれて伸ばしかけた指を引きこめる。浅ましい。ルーファウスは己を叱咤する。
「ルーファウス」
 ルーファウスの背中を撫でていた両手が、ふと止まる。エアリスの体温は胸椎から肋骨へと移り、そして胸骨にそってだらしなく垂れるネクタイの上で落ち着いた。
「ね、ルーファウス。早く気づいて。わたし、わたしね」
 エアリスが小首を傾げた。薄桃色の蕾のくちびるが、ゆっくりと綻んでいく。
「もう、ずっと前から、あなたの妻だよ」
 ああ、とルーファウスが顔をくしゃくしゃにした。憂惧が安堵に変わる。たったの一言でだ。後悔すると彼は思った。
 この真直ぐな女に、白色をした特別のドレスを着せなければ。
 揃いのコートを羽織って、並び立たなければ。
 そうして。
 心をくれたエアリスに、ルーファウスの心を預ける。逆も真なりだ。
 ルーファウスが己以外に誓約する、またとない機会だった。式日をのがせば、彼の生涯から永遠に失われてしまうだろう。
「そうだな。エアリス、お前は私の妻だ。お前は」
 夢ではない。遠くにまたたく憧憬の光でもない。ルーファウスの光は、今、すぐそばにある。彼がふれられる確かな輪郭を持っているのだ。
 それを挙式の中止などというばかげたやり方で、みすみす光を欠かそうとしていた。
「ほら、神羅家家訓。決めたばっかりだよ」
 ルーファウスは思わず苦笑する。行きすぎた先ばかりに気を囚われて、眼前にある二者択一を彼はまた誤るところだった。
 ここぞというときに、ルーファウスは急いてしくじる。エアリスののんびりとした歩調は、彼の勇み足を相殺するのにちょうどいい。
「家長自ら、背くわけにはいかないな」
「うん。したいこと、しよう。だけどね、後悔はしないよ」
「なぜだ。お前はなぜそう言い切れる」
「ほら、ゲストルーム。ルーファウス、見てないから、分からないかもだけど。ドレス、きれいなの、すごく。映画でもお芝居でも、あんなすてきなの、見たことない」
 エアリスが微笑んだ。ほうっと、吐息とともに幸福をこぼしている。
「同じくらい、あなたのもね、すごいんだよ。トルソーだけに着せておくなんて、勿体ないって思うから。トルソーより、わたしたちのほうが似あうよ、きっと。それでも、ためらっちゃうなら。どうしようかな」
 そう言いざまに、えい、とエアリスがネクタイを引張った。ルーファウスは体勢をくずす。腰を折る。すぐ目の前に迫るのは、翠眼だ。悪戯な意が宿っていた。
「今度はわたしがプロポーズ、するね。どうかな」
「エアリス」
「何回も何回も、するよ。ルーファウスが『うるさい。分かった、式を挙げるから、もう黙れ』って降参するまで、言うよ」
 丸々と見開いた碧眼を、ルーファウスがゆっくりと細めていく。観念するも何もない。
「そうしてくれ」
 ルーファウスはすでにまいっている。妻の求婚に応える気でいる。
「ただし、一度でいい。これ以上ない、素晴らしいプロポーズをな」
「うん、分かった。じゃあね、明日まで、時間ちょうだい。取って置きのやつ、今から考えるから」
「何だ、エアリス。プロポーズをするというのは、気まぐれな思いつきだったのか」
「いいアイディアだって、言って。ルーファウスにね、結婚式のやる気、思いだしてもらいたくて。だって、結婚式、したいんだもの、わたし。ぜったい」
 後ろ手を組むと、エアリスは彼を見上げた。
「ごめんね、ゲストルーム、独り占めして。ね、ルーファウスも見てみたら。着たくなるよ」
 ルーファウスは断った。どうして、とエアリスがまばたきで問う。
「ここまでお預けを食らったのだぞ。せっかくだ、楽しみは式日まで伸ばしておくことにする」
 静かに、そして大きく、ルーファウスは息を吸いこんだ。同じ時間をかけて吐きだしたところで、ふと気づく。彼を取り囲んでいた低壁がない。
「あれ。プロポーズ、いらなくなっちゃったね」
「いる」
「はい」
「明日だからな」
「はいはい」
「助かった、エアリス」
 くぼみから自力で這い上がる方法は、結局見つからなかった。ルーファウスはエアリスの小さな手に掴まる。そうしてようやく道へと戻ることが叶った。これでは終幕に待ち受ける大穴をどうにかすることなど、できないのかもしれない。途中の障害でこのざまなのだから。
 とたん、腹が立つ。
 己の腑抜けぶりにだ。
 彼を転ばせた小石を睨む。こんな石ころごときに、と再び苛立てば、ルーファウスの負けん気がみなぎり始める。
「らしくなかったな」
「らしくないルーファウスも、ルーファウスだよ。わたし、いいと思うよ」
 エアリスが深く頷いた。妻の顔で、恋人の声で、彼女の男を見つめている。
「そういう日、あるよね。心、だめな日。同じこと考えてても、昨日はうきうきしてたのに、今日はうじうじ悩んじゃうの」
「ぐずぐずの次は、うじうじか。お前ならそれも分かるが。まさか、この私がか」
 ルーファウスは信じられないといった風に首を振る。思い返すのは、この数日のことと、そしてつい先程までデスク下にうずくまっていた男のことだ。確かにいた。腑抜けた男は、ここにまだいる。
 前髪を掻き上げながら、彼は嘆息をもらした。
「この私がか。この私がかって、言ったの。うわあ、ルーファウスっぽい。あなたにしか、言えないね」
 だけどね、とエアリスは彼の左胸を突っついた。
「自信満々な『この私がか』さんでも、あるよ、そういう日。だって、心、生きてる証拠だもの。きっと、いいことだよ」
 ルーファウスは彼女の手を掴む。と、自身の心臓に押し当てた。
「いいわけあるか。こんな日は、今まで一度もなかった。こんな、こんな。自分のこともままならないなど、どうかしている。お前のせいだ」
 エアリスは音がしそうなほど深いまばたきをした。幾度か繰り返した。そうして。
「だったら、わたし、責任取らなきゃだね。わたし、今日は元気な日だから。よりかかって、ね、ルーファウス」
 笑み方も、ルーファウスに向かって広げられる両腕も、まるで大輪の花が咲くようだ。ルーファウスは蜜吸いのように惹きつけられる。
「けっこう逞しいんだから、わたしの胸。ぺらぺらでもね」
「自分で言うなよ」
「言われる前に、言っておこうと思って。ちょっと、ほんのちょっとだけ控えめな胸、ルーファウス、好きみたいだし」
「私が気にするのは大小ではないと、何度言えば」
「待って。小、は言わないで」
「自覚はあるのか、痛。おい、私の足の上に何かある」
「わたしの足」
 エアリスが悪びれもせずに言った。
「自分で言うのは、いいの。ほかの人に言われても、気にならない。けどね、ルーファウスは、だめ。何でかな、すごくいや」
 そうかと思えば、エアリスは心許なさげな顔つきをする。夫の足を踏みつけたままというあたりが、どうにも彼の妻らしい。ルーファウスは小さく笑う。いかにして宥めるべきかを考える。
「私が好きなのはな、エアリスの感度のいい乳、痛」
 ヒールのない靴で助かったと思ったのもつかの間、エアリスの体重がさらに彼の爪先へと乗る。ルーファウスは疼痛をこらえた。
「それ以上も、言わない」
「何だ、せっかく慰めてやろうとだな」
「ルーファウス、フォローするの、ときどき下手っぴ」
「慣れていないのだから、仕方がないだろう」
「そんなこと、ないと思うけど」
 縫い目のないホールカットシューズに、スニーカーのソール跡がくっきりと残っている。ルーファウスはやれやれと肩を竦める。神羅社長の足元を見たタークスが――不法侵入者探しに――騒然とする前に、念入りに磨いておかなければならないだろう。
「あのね、ちょっと前のことなんだけど。がんばらなくていい日だって、あなた、言ってくれたことあったでしょ。ね、覚えてる」
 ルーファウスは頷く。彼を『うじうじ』と拘囚しているのが、ほかでもないあの日のピクニックだった。
「嬉しかった。すごく、すごく、楽になったの。マリッジブルーだったの、わたしのほうかもね」
 ルーファウスの仕種を真似て、エアリスが肩を竦めた。
「ルーファウスのおかげだよ。わたしの荷物、また半分持ってくれた。だから、ごはん、美味しく食べられるようになったし。ぐっすり眠れるようになったの。ルーファウスといるとね、わたし、楽ちん」
 ルーファウスのまばたきが止まる。
「楽になったところで、お前の問題は、根本は何も解決していないだろう」
「そうだけど。だけど、ちょっと冷静になれたよ。わたし、まだ星の願い、叶えてない。そのはず。だから、何もできてないうちから、星だって『はい、タイムアップです。撤収』って、いきなり強制送還しないと思うんだけど」
 どうかな、とエアリスは持論を展開する。ルーファウスは鼻息をつく。
 星は生命循環の機能維持システムだ。生と死を繰り返すだけの、シンプルなそれだった。星の創成から連々と稼働しているうちに、新たな機能もいくつかは増えたことだろう。ウェポンがいい例だった。星は、そうして必要なときに必要なプログラムを実行する。無益なモジュールが仕こんであるとは考えがたかった。
 ルーファウスは自説に確信めいたものを持っている。
 一〇代の少年のころ、見向きもしなかった星命学を今になって紐とけば、それはルーファウスの仮説とほとんど一致していた。コスモキャニオンで得たファレミス博士の論文からも、裏づけは取れている。
 エアリスは星の危機シグナルだ。
 ルーファウスは内心ぶすっとする。彼の妻を『機能』と表現することが、どうにもいやだった。ならば星命学になぞらえて、詩的な言句に挿げ替えてみようか。それこそ彼の敬遠してきた美しい詩篇や説話文学のようにだ。ルーファウスがそう思いかけたところで、さらに不機嫌になる。呼び方を変えたところで、いったい何になるというのか。
 いずれにせよ、星がわざわざセトラを遣わしたことには意図がある。それも星の有益となることだ。彼にしてみても、妻が忽然と消えないのであれば、それにこしたことはない。
 だが肝心の星の思惑が不明瞭なままだった。ルーファウスは少し呆れた。
「ものは考えようだな」
「いいほうに考えるの」
 楽観にすぎる。そう言いかけた口を、ルーファウスは閉ざす。彼はエアリスが楽観論者を装った現実主義者だと、すでに知っている。
 事態を好転させるすべが見つからず、足掻き、挫ける。傷つく。そうして膝をついてもなお、エアリスは現実をひしと見澄ますことをやめようとはしない。夢という、ありもしない世界へと逃避できないところが、悲しいかな、ルーファウスによく似ていた。
 ならばこれはきっと、エアリスの――ルーファウスが彼女らしいと感心している――ポジティブがもたらした「いいほう」に違いない。
「それで何か得られたのか」
 エアリスはただ微笑んでいる。
「星、相変わらずけちだから。何してほしいのか、さっぱり分からないけど。だから、がんばる気持ち、毎日、強かったり、弱かったり、変わっちゃうけど」
「それがつらいのだろう。違うのか」
 違わない、とエアリスはこたえた。悲しみにゆがむかと思われた彼女のくちびるは、しかし柔らかな半弧を描いたままだった。ルーファウスはほっとした。
「おかげで、分かったこと、あるよ。任務とか、システムとか、それだけだったら、わたしの心、いらないでしょ。ルーファウス風に言うとね、パーツに自我とか、モジュールの知能化とか。そういうの、タスク遂行ってやつには邪魔だよね」
「それはそうだが」
「割り当てられた役目だけ、こなしていればいいって。余計なこと、するなって。ほしいのは、人語を介するパーツだって」
 ルーファウスが閉口する。夫のとんだ人でなしぶりを、今さら驚く妻ではない。エアリスは小さな肩をおかしそうにゆらすだけだ。
「だけどね、あるの。ここに、ちゃんと」
 エアリスは心臓に左手を、その甲に右の手のひらを優しくかぶせた。
「わたしの心、生きてる証拠」
 慈しむように、彼女が己のいのちを撫でている。
「ルーファウスといっしょにいて、楽しかったり、つらかったり、いろいろあるけど」
「あるのか」
「あるよ。あなたは、ないの」
「ある。そうだな、いくつもありすぎて、正直な話、まいっている」
「ほら、生きてるね、ルーファウスの心。わたしもいっしょ」
 窓外がかっと真白になり、ややして雷鳴が轟いた。暗雲はわずかなりとも遠退き始めているようだ。次いで幾度か明滅を繰り返すものの、ルーファウスの双眸が映すのは、一対の翠眼だけだった。
「がんばれないって、思ったの。ピクニックの日。わたし、もうだめだって」
「エアリス」
 あの日の、静かに嘆くセトラがまざまざとよみがえる。ルーファウスは思わず手を伸ばした。
「わたし、何でセトラなのかな、いやだなって、思ったの。初めてだよ、あんなこと。自分でも、すごく吃驚した」
 細い右手に自身のそれを重ねる。彼女の心臓ごと掴むように、強くだ。ルーファウスの眉が悲愴にゆがむ。
 「がんばれない」は、韻だけを聞けばぼんやりとしている。幼稚だとも彼は思った。だがそれはセトラであることを否定する、決定的で強い一言にほかならない。エアリスのエゴだ。使命を課せられただけの存在に持たせてはならない、重大な誤謬だった。
 瞠目するルーファウスに、エアリスはゆっくりと頷いた。
「これってね、今のわたしが死ぬ前のわたしのままだって、証。星の都合のいいように、つくり替えられたわたしじゃないって、そういうことだもの。だって、がんばらないセトラなんて、星、いらないでしょ」
「おい、エアリス」
「『半分セトラの大冒険』のね、がんばったセトラ。『続・半分セトラの大冒険』のがんばれないセトラ、だけど、やっぱりがんばりたいセトラ。だけど、またがんばりたくなくなるかもしれない、セトラ。本当、もう、困っちゃう。だけどね」
 ルーファウスは汗ばむ手に力をこめる。
「全部、わたし。そうやって、ふらふらしても、少しずつ変わっても、わたしはわたし」
 気恥ずかしそうに、エアリスは睫毛を伏せた。
「これって、成長してるのかしてないのか、微妙なところだね」
「人間だからな、仕方がない。進化か退化か、結局のところ、どっちつかずのいきものだ」
「そういうこと言ってくれるの、ルーファウスだけだったよ。変な慰め方、だけど」
 ルーファウスにくるまれる自身の手を見、それから彼女はゆっくりと顔を上げた。
「がんばらなくてもいいって、言ってくれたのも、あなただけ。だから、やっと確信できた。それ、分かっただけで、十分」
 エアリスが花やかに笑っている。
「ルーファウスのとなりにいるのはね、わたしのままのわたし。こんな幸せなこと、ない」
 ルーファウスは愕然とする。冷汗は引かない。生死の輪廻を身をもって経験していない彼には、まるで思いいたらないことだった。
 エアリスは存在理由どころか、彼女自身を形成するその一つ一つにまで不安をいだいていたのか。自身の思考が、意志が、そして情動そのものが、地上へと顕現するにあたり星から付与されたものではないかと。
 ルーファウスは自身に置き換えてみる。『ルーファウス神羅』という器に、第三者――――が用意した中身をぶちこまれた何か。ただの擬いものができ上がった。それははなはだ厭わしく、不愉快なことだった。己のパーソナリティーそのものをくつがえす問題だった。
「なぜ黙っていた。大事なことだろう。何だ、お前にはまだまだ秘密が多いようだな」
 まったく、この女は。現生人類ではかかえることのできない難事を、エアリスはまだ一人で背負っている。ルーファウスは悔しかった。
「一遍に知っちゃったら、すぐ飽きるでしょ。それ、困る」
「知ったところで、お前に飽きることはないだろう。次から次へと何かしでかすからな」
「言い方」
「分かった。私はな、エアリス。お前を知りたい。だし惜しみはするなよ」
「本当はね、大冒険の、ほら、この前の続きで、言おうと思ってたところなの。ちょっと早まっちゃった」
「詳しく聞く」
「ルーファウス、やっぱり妻のこと甘やかすの、上手」
 だけど、とエアリスが再び彼の手を取った。今度は指を絡めて、歩きだす。
「今はね、わたしのばん。ぐずってる夫のこと、いっぱい甘やかすから」
「私はかわいらしい男だからな。そうする」
「うんうん。素直がいちばん、だね」
 エアリスの彼女らしい在り方に、彼は真率さの価値を知る。
 ルーファウスは微苦笑する。長いあいだ、正直を愚直と勘違いしていた。『ルーファウス神羅』の処世には邪魔なものだと軽視してきたのだ。だからなのだろう。彼の心のうちのパレットは、常時色数に乏しかった。
 エアリスは色彩豊かな絵具セットを持っていた。彼女を交えて絵筆をふるう日々のなか、まずルーファウスのパレットに絞りだされた絵具が、ほかでもない素直だった。彼の不直の絵具はそれとゆるやかに混じりあい、淡く変色した。
 ひねくれていない目でものごとを見る。ルーファウスは久方ぶりにそうした。
 素直というのは、ほかの絵具を調色するにもちょうどよかったらしい。
 まず顕在化したのが、ルーファウスの心の基礎――喜怒哀楽――だった。するとどうしたことか、彼のうちに曖昧模糊としてあった、あるいは不要だと見向きもしなかった情緒に、次々と名前がついていくのだ。
 たとえば嫉妬だ。エアリスに慈しまれた男たちを、ルーファウスは羨み、憎々しく思った。『哀』と『怒』が相俟って覚えたそれはさらに分化し、こまやかな情動を形成していく。エアリスの愛慕にくるまれた彼の悋気は、やがて『楽』と『喜』に変わった。安堵と優越という名前らしかった。
 そうして色の光を混ぜては、新たな色を得るものだから、ルーファウスのパレットはとりどりの色彩にあふれた。なかには調色に失敗したのか、持て余す色までもが揃っている。
 無論、彼がもとから持ちあわせていた絵具もまた、新色を加えてなおいっそうの精彩を放っている。
 真率とは、ルーファウスらしい在り方をも引き立てるものだった。取り分け今、ぎらぎらと目立っているのが、克己心だ。ルーファウスはそれを筆に含ませる。
「なあ、エアリス」
「うん、何」
 ルーファウスの視線に先には、強くつながれた五指がある。
 ここはまだ、二人の選んだ道半ばだ。たとえセトラの使命を果たす日が明日なのだとしても、ルーファウスはぎりぎりまで考え抜く。そもそもの話。
「エアリス。私はな、諦め方を知らない」
 ルーファウスの口端がおのずから吊り上がる。
「先程の問題のことだが、何としても再考する」
 エアリスを断念できないからこそ生じる苦しみならば、この先もルーファウスの道行きにまとわりついたまま、振り切ることはできないのだろう。痛苦は、彼の悟性や理性を鈍化する。いやな道連れだ。が、彼の初めて得た相愛がもたらした、これもまた愛恵のかたちだった。
「何せ、『この私』だからな」
 このいとおしい気持ちを間違いなどと思うことこそ、間違いだ。ルーファウスは二度とあやまたない。
「さすが、わたしの夫だね。偉そう。しぶとい。高慢ちき。恰好いい。図太いったら」
「私にぴったりの褒め言葉だ」
「でしょ」
 ぱしん、とエアリスが二の腕をはたいた。ルーファウスは軽く笑った。
「うん、その調子。明後日からまた、お仕事がんばろう」
 ダイニングチェアを引くと、エアリスは座るようにと彼を促した。だが、ルーファウスは首を振る。
「何だ、早々に二手、三手を打たなくていいのか。問題はいきものなのだろう」
「そのときは、またそのとき。がんばれない日は、とことんがんばらない日。英気、養うのも大事なお仕事です。ご飯、用意するね」
 ああ、とルーファウスは感激する。エアリスはやはり底が知れない。
 与えられる者かと思えば、与える者になる。
 奪われる女だと知りながら、それを怖じてもいるというのに、慈しむことをやめない女だった。
「ここ、おうちだよ。のんびりしよう」
 強いようでいて、弱い、されど強い。彼の妻はどちらも併せ持っている。
「そうだな」
 エアリスが強いときは、弱いルーファウスは甘えればいい。今日ばかりは妻にもたれかかっていようと彼は思った。
「お風呂、ゆっくりつかろう。バスボムはね、ラベンダーだね」
「今晩はシャワーでいい。さっさと寝支度をすませたら、あの冒険譚の続きを聞かせてくれ、エアリス」
 ルーファウスはまだエアリスの一度目の人生を、背負いきれていない。偵察機の映像になかった部分だ。
 エアリスの今日の気丈が――いつ現れるとも知れない――気弱を押さえつけているうちに、『半分セトラの大冒険』だ。ゴンガガから忘らるる都まで、彼女が何を見、何を知り、そして何を思ったのか。ルーファウスは冒険譚をすべて聞き取らなければならない。
 加えて、星とセトラの神秘のなかから、正解の示唆をさぐるのだ。ルーファウスの手持ちの武器が役に立たないなら、彼が忌むものですら利用する。これこそがルーファウスのやり方で、彼の在り方だった。
「だって。早く寝たほうが、いいんじゃないの」
「先が気になっている。あのあと、土地勘の皆無なお前が、どうして海を渡ったのだろうかとな」
「そうだね。わたしの初めての一人旅。あれは、苦労しましたねえ」
「そのあとのこともだ」
 ルーファウスは彼女の背中に腕をまわす。手のひらの真下、彼女の傷痕ごと素肌にふれる。
「痛かったか」
「あれ、まだ、腫れてるかな。痛くはないけど、生地、こすれるのよくないかなって。背中開いてるワンピース、こういうとき便利だね」
「背中に噛みつかれたとき、というのは、そもそも想定していないと思うのだが。デザイナーにはかわいそうなことをしたな、エアリス」
「そうなんだけど。誰のせい」
 じっとりと睨まれて、ルーファウスは目笑する。だがすぐさま真顔になった。
「この傷ができたときのことを聞いている」
 死、と口にするのは、今の彼にはやはり難しかった。ルーファウスのさまよう碧眼を、エアリスがじっと見つめている。あの静謐の翠眼で。
 息がしづらい。ルーファウスはジャケットをダイニングチェアへと放る。ネクタイを抜き取り、カラーのボタンを二つはずしたところで、胸は苦しいままだった。
「痛いって言うより、熱い、が近いかな」
 彼の手のなかでつぶれたネクタイを、エアリスはそっと取り上げた。
「ぐぐって、めりこんでくる、いやな感触だけ覚えてる。けど、そういうの感じる前に、もうね、意識は身体から離れてたと思う。ほとんど即死っていうやつ、かな」
「そく」
 エアリスはさらりと言った。ルーファウスは口をぱくぱくと動かすものの、しばらく二の句が継げなかった。
「そく、し。お前なあ、その言い方はよせ」
「聞いたの、ルーファウスでしょ。嘘、つかれたくないくせに。そんなことよりね」
「そんなことですむのか」
「だって、痛い記憶はね、あんまりないの。本当だよ。それだけはラッキーだったかも」
「ラッキー」
「そう、ラッキー」
 やはり何でもないことのように、エアリスは続けた。彼女の執心はネクタイにあるらしい。懸命にしわを伸ばしている。
「ルーファウスったら。乱暴に扱わないで」
「エアリス、なあ、ラッキーって、お前、おい」
「今日一日、社長さんをしゃきっと見せてくれたネクタイ、だよ」
「ネクタイなど、今はどうでも。いや」
 ルーファウスは面食らった。彼女のこまやかな配慮にようやく気づいたからだ。
 神羅社長はいつもベストを着用する。だからネクタイのかたちを知っているのは、クロゼットで身支度を整える神羅夫妻だけだ。今朝、エアリスが選んだカットタイは、秋の入口にふさわしいウールだった。そして。
 狼狽は、すぐさま歓喜へと変わる。ルーファウスの首まわりを終日色取ったそれは、淡紫色をしていた。
「もっと痛いこと、神羅の人にされてるし」
 ネクタイと格闘しながら、彼女はさらにとんでもないことを言ってのけた。ルーファウスの顔色が変わる。
「初耳だな。どこのどいつだ」
「ここの、こいつです。あれ、自覚なしですか」
 彼の鼻先を、エアリスがつまんだ。くちびるは珍しくコケティッシュに吊り上げている。
「あのね、わたしたちの、初めての夜。わたしにいちばん痛いことしたの、ルーファウスだよ」
 ルーファウスの口から、ああ、と間の抜けた声がもれた。
「ぐぐって、めりこんできたでしょ。ルーファウスも、わたしのなかに」
 ルーファウスの世界に咲いた、エアリスはただ一輪の花だった。それを手折った感触を、彼の下腹部がしっかりと覚えている。何とも言いがたい気持ちになる。ルーファウスは襟足を掻いた。
「そういうことは、そのときに言え。無理をさせる気はなかった」
「分かってる。だけど、言ったら、やめちゃってたでしょ、あなた。そんなの、いやだったから。それにね」
「それに、何だ」
 ルーファウスはわずかにかまえる。妻がネクタイの次に気にかけたのは、しかし夫ではなかった。ぞんざいに放られたままのジャケットだった。
「あなたのおちんちん、ほら、小さくならないって、今なら分かるから。どうせ痛いんだから、あのときがまんしておいてよかったって、思ってる」
 ジャケットをかたちよく榻背にかけ直す。その上にネクタイを重ねてから、彼女は振り向いた。にこりと小首を傾げながらだ。
「何て言種だ」
 開いた口がふさがらないまま、ルーファウスは瞠目する。口も目も乾ききる寸前になって、いっきに笑み声が弾けた。
 なかなか笑いやまないルーファウスに、エアリスがむくれた。
「ひどい。痛かったのに」
「悪い。いや、今のはお前が悪い。なあ、エアリス、本当にお前にはまいる」
「わたしだって、困っちゃう。ルーファウスの笑いのつぼ、本当、よく分からない」
 まだ笑い足りないところだが、ルーファウスはこらえる。彼をやりこめることのできる妻に敬意を払わなければならなかった。具体的には、エアリスの憂惧を知るところからだ。
「それだけは、と言うことは、ほかはラッキーではなかったということだな。いったい何があった」
「うん、まあ、いろいろ。最後の最後は、嬉しかったよ。前に言った通りね。だけど、正確に言うと嬉しいのは半分だけ。あとの半分は、怖かった」
 怖い、とルーファウスは睫毛を半分伏せる。眸の先にあるのはエアリスの乳房だ。
 エアリスは、嬉しかった、と確かに言った。胸と背、この一対の死の証ができたときのことをだ。それを聞いたとき、彼は次こそ悲しい「嬉しい」を言わせてはならないと思った。ルーファウスは、は、と短い息をつく。
 彼はエアリスの「嬉しかった」を信じたのだ。愚かだった。
「聞かせてくれ。それも『半分セトラの大冒険』なのだろう。私はな、エアリス。お前の話を聞く」
 ルーファウスはエアリスを見据える。あの晴天のピクニックのはかなさは、見当たらなかった。
 気丈なときだからこそ、過去の怖気とこうして正面から向きあえるのだろう。それでも万が一、妻が彼女の怯弱にのみこまれそうになったときには、夫がいる。エアリスには彼女を抱き締めることのできるルーファウスの腕がある。
「聞く」
 奥底にみなぎる何かが彼の怯懦を取っ払う。ルーファウスは苦笑する。素直というより、これは単純なだけではないだろうか。
「聞くぞ、すべてだ」
 ばかのように同じことを繰り返すルーファウスに、エアリスは何を思ったのだろか。ややしばらくして、彼女は穏やかに頷いた。
「もうすぐ終わるな。お前の冒険譚も」
「終わりだけど、終わりじゃないよ」
 意味ありげに、エアリスが上目を遣う。ルーファウスはっとする。『半分セトラの物語』には続編がある。
「わたしが話さなくたって、ルーファウス、全部知ってるけどね」
「それはそうだろう」
 言って、ルーファウスは肩を竦めた。『続・半分セトラの物語』はルーファウスとエアリスの物語でもある。しかも彼が敬遠していた恋愛物語をも含んでいるのだ。それだけではない。
「これはノンフィクションだからな。私の伝記とも言えるぞ」
「事実は小説よりも奇なり、だね。セトラの思念体と暮らすなんて、ほかじゃできない経験だよ」
「紆余曲折を経すぎだろう。まったくもって苦労ばかりだ」
「そのぶん、読み応え、たっぷりだね」
「そうだな。ベストセラー間違いなしだぞ」
 ルーファウスが肩をそびやかせば、エアリスはすかさずあいの手を入れる。さらに彼が冗談を続けて、そうして二人は同じタイミングで笑うのだった。
 この先も小さなくぼみがいくつもあるのだろう。それは突然に足元へと現れて、ルーファウスとエアリス、どちらか一方を、あるいは二人揃ってけつまずかせるのだ。
 ルーファウスはエアリスに平坦な道を歩ませてやりたかった。が、それはおそらく困難なことに違いない。
「原因が取り除けないからな」
 相愛。一人きりではふれることすら叶わない、奇妙なかたまりだ。ルーファウスがようやく得た、かけがえのないものだった。
「何。何のこと」
 何でもない、とルーファウスは穏やかに言った。
 一方が転べば、もう一方が手を差し伸べる。どちらかがどちらかを引き戻す。晴天のピクニックや、荒天の胃薬と淡い色のネクタイのように。二人して立ち上がれないこともあるかもしれない。そんなときは彼の妻の妙案に従えばいい。『がんばらない日』だ。
 エアリスが怪訝な顔をしている。くすくすと、ルーファウスにしては珍しい笑い方をしたからだろう。
「がんばらない、か。突拍子もないな。だが、エアリス」
 決してすぐれているとは言いがたい善後策だ。そして、彼には考えもおよばないやり方だった。それを――自尊のかたまりである男に――教訓感化できるエアリスが、無力のはずがないのだ。
「やはりお前は存外と頼りになる」
 エアリスは一人では生きていけない女だと、彼は思いこんでいた。ルーファウスの庇護なしではままならないのだと。違った。
「あれ、今、気づいたの。あのね、ルーファウス。時間は有限、でしょ」
 秋嵐の雷声がまた遠退いた。あとに残る降雨のせいか、フロアは仄暗いままだ。だというのにルーファウスは目を細める。腰に手を当て、人差指を突き立てるエアリスが眩しいのは、次に続く台詞に「遅い」という負がないのだと、彼がすでに知っているからだ。なぜならば。
「だから、ちょっとでも早く気づいてくれて、よかった。嬉しい」
 負を正に変えようとするエアリスだった。打ちひしぐことがあろうとも、顔を上げようとする健気さがあった。
 エアリスをかばい、守り、救ってやろうなどと、おこがましいにもほどがある。今日という『がんばれない日』に、ルーファウスは敢えなく膝をつき、苦しさにあえいでみて、まざまざと思い知った。そうやってルーファウスの驕心をも諫めることのできるエアリスが、やはり彼には誇らしいのだった。
「わたしもね、いっしょ。あなたのおかげで気づけたから。一人より二人って、楽だね」
「いや、エアリス。楽だけでもないぞ」
「それは、まあ、そうなんだけど。面白いことも、悲しいことも、何でもかんでも二人分、だものね。どうしよう」
 どうする、とルーファウスは問うてみる。彼女の出方に期待をよせる。すると。
「全部二倍でラッキーってことに、しておこう。ね、どうかな」
「またラッキーか」
「ワンパターンだって、ルーファウス、呆れちゃうかな」
「そうではない。二倍とは、強欲なことだな」
 ふいとエアリスが彼を見上げた。ふっくらとしたくちびるを閉じて、背筋を伸ばしている。ルーファウスは息をのむ。翠眼に囚われたまま、少しも動けない。
「ルーファウスのせいだよ」
 笑みを含みながら、彼女は小首を傾げた。ルーファウスが乱した結い髪、その後れ毛がはらりと垂れる。
「わたしのこと、あなたが欲張りにしたの。だから、責任取って、いろいろちょうだい。いいことも、いやなことも、全部だよ。でもね、独り占めしないから。ちゃんと分けっこ、しようね」
「ああ、エアリス。まったくお前ときたら」
 意表を突くことばかりを言っては、彼を驚かせる。胸を高鳴らせる。未知の道へと、新しい世界へといざなうこの女にこそ、ルーファウスは惚れたのだ。もう手放せない。
 たとえどのような凹凸のはげしい道行きだとしても、間違いではない。間違った道にはしない。いや、と彼もまた顔を上げる。前を見据える。
「仕方がない。私がいっさいの責任を取る。エアリス、お前もそうしろよ」
「任せて」
 ルーファウスとエアリス、二人で歩むこの道こそが正しい。ようやく確信した。
 満足のうちに、ルーファウスは夕食の席に着くことにした。その前に身支度だ。せっかくのミルク粥が負担なく腹に溜まるよう、スウェットパンツがいいだろう。ルーファウスはやれやれと思う。ストイックだったはずの心身が、どんどん楽境を覚えていく。
 ベッドルームへと彼が踵を返しかけたちょうどそのとき、何かのアラームが鳴った。コンベックオーブンだ。ルーファウスはあたりへと漂うリッチな香りに、ようやく気がついた。
「シフォンケーキ、焼いたの」
 エアリスはダイニングテーブルに放られたままのミトンを掴む。と、慌ててキッチンの最奥、壁に造りつけのオーブンのもとへと駆けた。
「明日、ルーファウス、お休みでしょ。嵐ね、夜中のうちにすぎるらしいから。バルコニーでお茶、どうかなって。でも、本当にやむのかな、これ」
「雨は上がる。嵐のあとは、大抵が上天気だ。明日は気持ちよくすごせるだろう」
「よかった。ルーファウス博士がそう言うなら、きっとそうなるね。シフォン、オイルなしでつくったから、胃もたれしないよ」
 ひらめくリボンにつられて、ルーファウス――のクロゼットへと向いた靴先――は彼女のあとを追いかけた。
「油分がなければ、ふくらまないのではなかったのか。差し障りはないのか」
「待って」
 庫内をじっと見つめていたエアリスが、よし、とドアを開けた。焼き上がりの最高のタイミングは、ふくらみきったところからわずかに萎む、その一瞬らしい。揚々と型を取りだすやいなや、かろやかにターンする。と、アイランドキッチンのワークトップに軽く落とす。真白な蒸気が逃げたところを見計らって――えい、というかけ声とともに――型をワインの空瓶に挿した。時折、彼女はとても手際がいい。
 いつもならあらかじめ粗熱を取る時間を考慮しているのだろう。デザートやティータイムに並ぶシフォンケーキは、食べごろだった。だから彼が逆さまに挿されたシフォン型の、その間抜けさにぽかんとする日が来ようとは、思いつきもしなかった。
「不恰好だな」
「美味しくなる、仕上げの秘訣だよ。わたしね、好きなものは失敗しないの」
 ルーファウスを振り返りながら、ミトンを取る。と、エアリスは思いきり胸を張った。
「なるほど。そうだった」
「オイルの代わりはね、メレンゲ。かちかちになるまでがんばったから。腕、ぱんぱん」
 明日は筋肉痛かも、とエアリスが眉尻を下げている。今日の『がんばれない日』を癒し、明日の『がんばらなくていい日』をただ穏やかにすごすための、エアリスの配慮だった。
 ルーファウスはおのずからか細い二の腕をさすった。彼女の優しさにふれて、何も言えない。
「ね、ルーファウス、いっしょに味見しよう」
「今か。冷まさなくていいのか」
「熱々焼きたてってね、ふかふかどころじゃないの。口のなかで蕩けるんだよ。ルーファウス、知らないでしょ」
「さすがだな。つまみ食いの常習犯でなければ、そんなことは分からないはずだ」
「だから、味見だってば。人聞きの悪い」
 パレットナイフを振りかざすいきおいで、エアリスが一瞥を投げてくる。そうかと思えば、続く妻の台詞は夫をいたわるものになる。
「夕ご飯のお茶のベースはね、クローブかシナモンカシア。スペアミントにあわせるの、どっちがいい。ううん、やっぱり、ラベンダーかな」
 指を折り曲げながら、エアリスが列挙した。ルーファウスは彼女から学んだ薬草知識を思いだす。どれも健胃を妨げずに吐気を止める作用がある。エアリスが最後に挙げたハーブには、強い鎮静効果もあったはずだ。が、胃の不快感は、鬱気までもが予期せぬ嵐とともに去りつつある。
「サフランを用意しているのではなかったのか」
「ルーファウス、気づいてくれたの」
 エアリスが喜色を浮かべる。ルーファウスはにやりと笑う。指折り途中の手ごと、彼は握りつぶした。すべて却下だ。
「サフランは明日のティータイムにだせ。お前にぴったりのドレスを、せっかく誂えたというのに」
「というのに、何」
 ルーファウスの独自の間の取り方に、彼女は何を言われるのかとかまえている。エアリスの下腹部を、彼は手のひら全部を使って撫でまわした。
「今晩はセージか、あとは何だったか、フェンネルシードだったか。どちらかにしておけよ」
「分かりました。いいから、それ以上言わないで」
「グローアウトしないようにな」
 不躾なルーファウスを払い落としたあと、エアリスはわざとらしく鼻にしわをよせる。ややもしないうちにこらえきれなくなったのか、破顔した。いったい何がそれほどまでに嬉しいのだろう。ルーファウスが目で問えば、あのね、と彼女は言った。
「ぽんぽん、ずけずけ、それだけ言えるなら、もう、だいじょうぶだね。あなたの皮肉、やっぱり健康のバロメーターってやつだよ。頭、すごくまわってる証拠だから」
 今度はルーファウスが顔を綻ばせるばんだった。悪舌を、彼の健やかさを推し量る指標にする。その発想力の持ち主に、ルーファウスが飽きるはずがないのだ。
「心外と言ったのは、取り消す。お前が正しい」
「でしょ。当てこするの、元気の印って、どうかとは思うけど。分かりやすいし、あなたらしいし、まあ、いっか」
「もっと聞かせてやろうか。私の気力の満ちた印だ」
「けっこうです。だけど、うん、顔色、よくなってきたよ。よかった」
 音もなく、パレットナイフを置く。と、エアリスはカウンターのへりに両手をついた。視線はゲストルームへと注がれている。
「もう、来週だものね」
 エアリスがうっとりと言った。となりに並んだルーファウスは、彼女の肩に散らかったままの後れ毛を揃えた。
「二人揃って、楽しい気分のまましたいもの、結婚式。ね、こういうの、有名なあれなのかな」
「あれ、とは」
「『健やかなるときも、病めるときも』っていうやつ」
 エアリスがルーファウスへと、ただ一輪の花を差し向ける。花の名は、笑顔だ。
「なるほど、そうだな」
「誓わなくても、もう、できてるね」
 ルーファウスは頷く。たとえそうなのだとしても。生涯で一度きり、婚姻の誓約の場でこそ、彼はそれを改めて誓う。ルーファウスと、そしてほかでもないエアリスにだ。
 だが式日までに、彼にはすべきことがある。たちまち今夜は、ベッドに語り部をはべらすのだ。膝枕というわけにはいかないだろう。語り部には特別の座席を用意しなければと、ルーファウスは頭をひねる。素晴らしい案は、すぐに浮かんだ。
 ヘッドボードにはルーファウスがもたれる。彼の大きく開いた足のあいだへと、エアリスを座らせるのだ。語り疲れたときには、彼の胸をクッションにしてもたれるといい。
 長い夜に備えるために、ルーファウスはまず帰宅から仕切り直すことにした。
「忘れていた。エアリス、今、帰った」
 ルーファウスはわずかに上半身を屈める。と、エアリスの柔いくちびるが彼の頬骨にふれた。
「お帰りなさい。お疲れ様、ルーファウス」
 彼の顎にそえられたのは、あたたかな妻の指先だった。嬉しかった。それと同時に悲しくもあった。
 二人のかたわらには不安と悲しみがつきまとう。終わりの知れぬまま、延々と。だが、それ以上の安寧がある。安息と優しさがいかなる痛苦をもやわらげることだろう。
 今日ほどそれをはっきりと理解できたことはない。するとどうだろう。彼の腹の虫が鳴きだした。ルーファウスは小さく笑う。たまにはつまみ食いにつきあうのも、いいかもしれない。
「なあ、エアリス」
 何、とエアリスは小首を傾げている。彼はその薄い肩をそっと抱きよせた。
「お前のとなりにいると、腹が減って仕方がない」
 ルーファウスの渾身の「I love you.」だった。エアリスはきょとんとしたあと、わたしも、とだけこたえた。


■END■
(加法混色)

20220922